考えないことの逆としての考えること。
何も考えずに行動することは、充分、可能なようです。
行動する前に考えない、行動した後に、自分が何をしたのかを、すぐに忘れる。
そのような、こと・人、は、決して珍しいことではないようです。ありふれている。
しかし、
この話は、視点の方向が、偏っています。
考える立場、から、考えない立場、へ、向けられた視点です。
ということは、
この視点から発せられる視線を逆に辿ることで、
考える、とはどういうことなのか、を見ることができるのではないでしょうか?
考える/考えない、は、単純な二極構造ではないように思います。
その間も前後もある。
たとえば、ある行動が、為された。
そのとき、そこに、どれだけの考えがあったか?
ある行動が、考えて行われた行動だったとする。
そのとき、それよりも、さらに考えて行動することも、ありえた。
それはきっと、無限に、「考える側」へ、遡ることができるはず。
つまり、究極の「考えて行動する人」から見れば、
地上の全ての人間は、考えが足りないままに行動していることになる。
人間は全員キ○ガイだ。
将棋のたとえ。
ある局面で、ある手を指したとする。
そのとき、どれだけ読みを入れていたか?
終盤で詰みを読みきった場合意外は、どこかで、考えることをやめているはず。
いつだって、多かれ少なかれ、考えが足りない。
> ということは、
> この視点から発せられる視線を逆に辿ることで、
> 考える、とはどういうことなのか、を見ることができるのではないでしょうか?
考えない行動と、考えた上での行動の違いは何でしょうか?
いや、考えることは考えないこととの二者択一ではなく、程度問題なのでした。
ではどういう言い方で問いを立てるのが適切でしょう?
考えないことについて。
考えない部分に何があったか? 何を「考えずに済ませた」か?
考えることについて。
考えずには済ませなかった、とはどういうことか?
意識して、選び取る、ということではないでしょうか?
自分の感覚や周囲の状況について、
こうすると、どうなる、そうなると、こうなる、
といったことを、どこまで、意識するか? 自覚するか?
その上で、選び取る。
考えることがそのようなものであるのはもちろんのこと、
考えないことも、実はそのようなものだったりしますか?
いつだって、多かれ少なかれ、考えが足りない。
考えても、考え切れない部分について、
意識して、切り捨てる。
それまた、別の話、ケースバイケースでしょうか。
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