「導線」というのは他人を操ろうとする試みでしょうか?
ウェブサイトの構成や、お店の構成などで、よく「導線」ということが言われますよね。
「アクセシビリティ」という概念もありますが、
それとは、ちょっと、ちがうのですよね?
たとえば誰かが、目的を持って、あるウェブサイトにアクセスする。
そのウェブサイトが、その人が目的を達成しやすい構成になっていること。
これが「アクセシビリティ」ということでしょうか。
おそらく、文字通りの意味としては、そういう理解でいいですよね。多分。
ところが「導線」となると、意味が違ってくるのですね。
ウェブサイトの運営者が、訪問者に、どのようにサイト内を巡回して欲しいか?
訪問者に、ウェブサイトの運営者が望むような行動をとらせるための仕掛け。
それが「導線」ということのようです。
つまり、この両者は、主人公が、正反対なのですね。
一方では訪問者が主人公。もう一方では運営者が主人公。
「導線」には、邪悪な意志を感じます。
邪悪、は、言い過ぎですか?
他人を操ろうとする意志。
それの何が邪悪なのでしょう?
人間、が、疎外される感じ。
それを私は邪悪と呼びました。
「アクセシビリティ」
これは邪悪ではありません。
あなたには目的があるでしょう。意志があるでしょう。
私はあなたの意志を尊重します。
あなたの願いがより円滑に叶えられますように。
「導線」
考えるな。
こちらの想定通りに動け。
購入ボタンを押せ。値段を考えずに押せ。
ただ、運営者にも、願いがありますよね。
「このようにサイトを見て欲しい」という意図。制作に込めた意図。
それはまた別の話ですか?
> たとえば誰かが、目的を持って、あるウェブサイトにアクセスする。
実のところ、目的は、ないかもしれない。
ところが、ページを表示してみたら、なにやら気になるリンクがあるじゃないですか。
ぜひ押さねば!
目的が生じた。
ページにアクセスする以前は、なかった目的。
人はなぜ生きるのか?
案外、こういうことの集積だったりしますか?
それは望ましいことなのですか?
笑い話にふさわしいことなのですか?
自分の人生が「案外、こういうこと」の集積で、いい?
> ページにアクセスする以前は、なかった目的。
根源的に、願っていた・いる、ことは、何(だった)か?
「導線」という概念で他人を操ろうと画策すること。
それは、その運営者の本当の願いなのかどうか?
「導線」という概念でトラフィックを作り出す、という行為が、
何らかの価値あることとして語られている、ということ。
そのこともまた、1つの「導線」なのでしょうか?
意志はどこにある?
願いはどこにある?
> 購入ボタンを押せ。値段を考えずに押せ。
ものを売っているサイトで、
具体的な値段がどこに書かれているのか、なかなか見つからないことって、わりと頻繁にありません?
購入するかどうかを検討するための重要な情報なのに。
私はそのせいで、購入を諦めることが、しばしばあります。
だって、検討できないんですもん。
なので、私の感覚からすると、値段を最初にハッキリと提示していないのは、
客を減らすことになっているように思えるのです。
が、私以外の人は、どうなのでしょうね?
値段を最後の最後まで隠し通しておいた方が、購入する人の人数が多いということでしょうか。
値段を知った上で検討して購入する人間の数よりも、
値段から目を逸らして購入に踏み切る人間の数の方が多い?
商売は数の理屈ですから、結果的により儲かる方法に収斂していくはず。
ということは、やっぱり、そういうことなのでしょうか。どうなのでしょうか。
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