SFMLチュートリアルの翻訳。
済んだページ:
「ユーザー定義のストリーム」
「図形」
「頂点リストで好きな形の図形を作成」
「移動、回転、拡大」
「シェーダーで特殊効果」
「2Dカメラで視点を操作」
「録音」
「カスタムオーディオストリーム」
「立体音響:音を3Dっぽくする」
「HTTP で Webアクセス」
「FTP で ファイル転送」
こうして列挙してみると壮観だなぁ。
よくがんばった。よくがんばった。
エライなぁ。本当にエライなぁ。
これだけがんばれば、私のファンが全国にたくさんできますよね。全米が泣きますよね。
これで一応、機能のチュートリアルは訳し終えた。
後、残ってるのは、環境構築系のページ。
どうしようかな。
手元にない環境のは、動作確認できなくて訳しっぱなしになってしまいますね。
それに Windows以外の環境を使ってるような猛者は日本語訳がなくてもモリモリと獣道を邁進しますよね?
需要はあんまりないような気がする。
CMakeでソースからビルドする話は訳しておきたいな。
この手順でビルドしておかないと、VisualStudio で マルチスレッド(MT)でのビルドができない。
完成品を配布する段階になって、VisualStudio を入れてないパソコンでは起動できない例のアレになってしまう。
アレは悲しい。
なんだかね、あれって、ゲームを作るためのエディターで作ってる人には縁のないエラーなのですよね。
自分でがんばってプログラミングしてる人に特有の落とし穴。ひどい。
しかも作者本人のマシンでは動くから、本人には気付く機会が少ない。ますますひどい。
マイクロソフトの嫌がらせかな。きっとそうだ。絶対そうだ。間違いなくそうだ。
自分たちの支配体制を守るために、衆生が自力でアプリケーションを開発できないようにしてるんだ。コンチクショー!
じゃあ、むしろ Linux を推す意味で、Linuxでの環境構築のページを訳しておく?
それも悪くないですね。行動の意味づけとして。義憤に燃える感じで。
もうすぐ XP のサポートが終了するし、古めのマシンが全国的に使い道を失うことになるはず。
これを機に、もしかすると、旧 XP マシンを再利用しての Linux ブームが起きたりします?
> 自分でがんばってプログラミングしてる人に特有の落とし穴。ひどい。
ゲームを作るためのエディターを使ってる人は怠けてる、みたいな言い方をしてしまいましたね。
やっぱり、私の本音は、そこにあるのかも。
些細な言葉遣いの中に、思考回路の形状が滲み出てしまうのですね。
全国に約5億人いた私のファンのうち、1億人ぐらいが敵に回ってしまった。キーボードは災いの元。
なんだろう。
「ゲームを作る」って、一種の憧れで成立している活動だと思うのですよ。
憧れが憧れであり続けるためには、憧れが指向している価値、を下支えする地盤が磐石である必要がある。
みんなが「すごい」と思うようなゲームが世の中に存在していて、
「ゲームとはすごいものなのだ」という認識が共有される中で、
「あんなゲームを作りたい!」という憧れが醸造される。
プロのスポーツ選手、と同じような仕組みなのかな?
何であれ、スポーツそれ自体は、人工的なルール上での何らかの身体的な行為でしかない。
玉を蹴飛ばしたり、ひっぱたいたり、男同士で抱き合ったり。していること自体はそういうものでしかない。
それが「すごいことなのだ」という価値観が共有される中で、
多くの人がそこにエネルギーを投入する。
その全体的なエネルギーの流れが、さらにそのスポーツが「すごいものなのだ」という価値観を底上げする。
投機だ。
マネーの投機と同じだ。
なぜ、それに価値があるのか?
多くの人が欲しがっているから。
そういえば、昔、お金持ちになりたいと思って株の勉強を少ししてみたことがあるのですけど、
どうしても、どうしても、興味が持続しなくて、あきらめたことがあります。
どうしても、気持ちがついていかなかった。
それ自体にどう価値があるのか、という問いが置き去りにされて、投機的な価値を追い回す行為に、
耐えられなかったのだと思います。
もっと正確に言えば、実際のところは投機的な価値が目当てでしかないのに、
それ自体に価値があるかのように、あれこれとキレイな言葉で飾り立てることが、耐えられなかったのだと思います。
なんの話でしたっけ?
ゲーム作りの話だ。ゲームを作るためのエディターで作ることについて。
便利になるのは、いいことだと思うのです。
だけど、なんだろう? なんだろう?
特定のエディターが流行ると、世の中に大量の「作品」が溢れるようになる、
そういう現象が、見られますよね。
そういうのを見ると、そこに、一体、そもそも、どんな価値があったんでしたっけ?
と、宇宙空間に放り出された気分になってしまう。
そういったエディタ、の存在、それ自体、が、まず、価値を前提してますよね。
ゲームおよびゲーム制作に価値がある、という前提で、
だからこそ、それを支援するための道具、として存在している。
そこに乗っかって、価値を指向してしまうことの、危うさ。
いや、別に危うくは、全然、ないのかな。うん。多分、ないですね。
でもなんだろう? なんだろう?
そこにそのような価値があることの理由はどこにあるのか?
再帰してる。
なんでそんなエディタが存在しているのか?
多くの人が、ゲームを作ることに価値があると思っているから(需要)。
エディタが存在することで、より多くの人がゲームを作るようになる。
その「関わっている人の多さ」が、その価値をさらに下支えする。
多くの人がゲームを作ることに価値があると思うようになる。
そもそも、それ自体に、どう、価値がある(あった)のか、という問いが置き去りに、
なって、しま、わ、ないか?
なって、しまいかねない。
そして、多分、実際、かなり頻繁に、なっている。
それは、とても、怖いことだと思う。
なんで、どう、価値があるのか、が、わからない、疑問にすら思わない、
のに、価値に突き動かされてしまう。
私は、それは、怖いことだと思う。
どう怖いのか?
どう怖いんでしょう?
宇宙空間に放り出される方が、もっと怖いのではなくて?
何かとつながって、自分の位置を確認する。
だけど、その、つながっている何かも、やっぱり、宇宙空間に浮かんでいるに過ぎないのではなくて?
怖いのは、怖いことそれ自体か? 怖いのに怖いことを忘れることか?
そして話を戻して、
エディタを使わずにプログラミングをするなら、その問題は回避できるのか?
それはきっと、別の問題なんだろうな。
なんだか、やっぱり、こう考えてみると、トンチンカンですね。
> そういったエディタ、の存在、それ自体、が、まず、価値を前提してますよね。
あるいは、こういうことでしょうか?
ゲームを作るというのは、生産、であるはず。
ところが、エディタが提供されて、それを使うとき、それは消費行動になっている。
生産だったはずの行為が、消費になっている。
価値そのものが存在しないところに、新たな価値体系を構築するからこそ、
それは「生産」足り得た。
だけれども、価値体系が最初に与えられてしまうと、あとはもう、生産の余地がない。
「生産」を「創造」と言い換えた方が、しっくりくるかもしれませんね。
あんまりむやみに使いたい言葉ではないのですけれど。
そういうことかな? そういうことかな?
プログラミングそのものは、ライブラリを使うにしても、
必ずしもゲームを作るための道具というわけではないですからね。
たとえて言うなら、
四角形と言えば、辺が座標軸に平行な四角形だけが四角形じゃない、
という程度のことを忘れないでいられる余地は、手放したくないと思うのです。
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