人に何かを言って、即答されたとしたら、そこには意識は、ない、んじゃないんかな?
意識があるとすると、なんであれ、即答、ということは、あり得ない気がするのですよ。
迷うこと こそが、意識の機能、と言えるような気がする。それは言いすぎ? どうでしょう。
全ての人間に、常に、その人固有の意識がある、という前提が、
とりたてて問われることもなく、無条件に信じられていると思うのですが、
おそらく、それこそが、大間違いというか、あんまり正確なことではない予感。
> とりたてて問われることもなく、無条件に
だから、あえて異議を差し挟むと、極端な議論になってしまうんじゃないかな?
「意識のない人間」というと、
生まれたときから死ぬまで、1カケラも意識がない人間を意味する、ということになってしまう。
あるいは、そもそも意識なんて幻想だ、そんなものは存在しないんだ、みたいな、極端な議論。
そうじゃなくて、
1人の人間の中に、あるときは意識があり、あるときは意識がない。
目が覚めている間、ずーっと、途切れることなく、意識がありつづけているのではなく。
で、思うに、
その「意識のない時間」は、もしかすると「従来一般的に信じられているよりは」長いのかもしれない。
そして意識がない状態でも、「従来一般的に信じられているよりは」、かなり、いろんなことができる。
歩くときに、いちいち足を交互に前に出すことを意識しないのと同じように、
話したり、複雑な社会生活をしているときでも、
「意外と」、意識がない、ということは、ある気がする。
そして、これは、おそらく、そんなに、無理のある仮定ではない。
むしろ、「全ての人間が、眠っているとき以外、常に絶え間なく意識がある」
という前提の方が、大いに、無理があるような気がする。
個人差はあるはずですが、人によっては、24時間の大部分を、意識なく生活している、
なんてことも、まんざら不可能なことでは、なかったり、する、の、かも。
あるいは、さっきあなたが会話をした相手が、あなたと会話している間、ずっと、意識がなかった。
そのぐらいのことは、実は、わりと、普通に、あること、なのかも。
そのぐらいのことが、あっても、そんなに、不思議じゃない。多分。
> 人に何かを言って、即答されたとしたら、そこには意識は、ない、んじゃないんかな?
> 意識があるとすると、なんであれ、即答、ということは、あり得ない気がするのですよ。
> 迷うこと こそが、意識の機能、と言えるような気がする。それは言いすぎ? どうでしょう。
意識があるときには、即答しないですよね? そうでもないですか?
そして、日常会話の大部分が、即答で構成されている。
さらに、
(意識なく)即答した後で、意識が生じて、自分が言ったことに気付いた(意識した)としても、
言ったことを、あえて、撤回する、ということは、多分、そんなに、ないですよね。
(意識なく)言ったことに、つじつまを合わせる形で、納得しようとする。
「別に間違ったことは言ってないはずだ」「みんなも同じようなことを言ってる」「誰からも反論されてない」
そういう納得の過程も、おそらく意識はされない。
で、意識があるかないか、と問われれば、ある、という答えしか返って、き得ない。
意識できるのは、意識している部分だけなわけで、
意識がなかった、ということに、意識が気付くことはできないから。
視野の外側を「見る」ことはできない。そこは暗闇ですらない。
うん、そうですね、なんというか、
「全ての人間が、眠っているとき以外、常に絶え間なく意識がある」
という前提に、違和感を持っていたのですが、
この違和感を、肯定しても、いい、ような気が、してきました。
明確に反論するわけじゃなく、
「そんなことは、ないんじゃないのかなぁ」と、普通に言える。言っていい。そんな気分。
いや、わざわざ言ったりはしないですが、
ちょっと、そのつもりで、この世のことを、考え直してみることは、できるんじゃないか?
「意識がない」なんていうと、極端な感じがするかもですけど、
そんな極端なことじゃなくて、わりと、普通のことなんですよ、多分。
それを、普通のこととして、
なんだろう、
「普通のこと」の中に含めて、みる。
ちょっとだけ違う種類のメガネ、をかけてみる。
歩きやすくなるかもしれない? ならないかもしれない?
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