> 見出すものとしての他人。
さて、その上で……。
この話には続きがあるはず。ここで終わることはできない。
一歩間違うと、ひどく身勝手なアプリケーションになってしまう、という、バランス感覚が要求される面に関しては、
それは、また、個別のテクニカルな話として、あると思うのですが、
もっと、根本的なところ。
・全ての他人を見出すことはできない
・これは「私 → あなた」方向の取り組み
> ・全ての他人を見出すことはできない
これは、個別のテクニカルな話、ということ、(で、しか、ない)のかな?
どこかで切り捨てざるを得ない、ですよね。実際。
> ・これは「私 → あなた」方向の取り組み
私は、そのような仕方で、あなたを認識できるかもしれない。
その一方で、
あなたは、私を、認識できるのか?
矢印の向きを逆にするのは、そもそも、文脈が違う?
そうは言っても、双方向にしないと、意味がない気がする。
つまり、人に、わかってもらう、ということ?
それがないと、どうなのかな、一方的な観察者、になってしまわない?
それも結局、バランス感覚の問題?
どのような仕方で、認識の交換? が、可能なものか?
> なぜなら、私が、あなたを見出す(見つける)のだから。
つまり、好き、ってことですよね、これって。え、ちがうの? あんまり違わない気がするー。
好きなんてウソですよ。
キライに決まってる。腹が立って、怒りが収まらない。
おまえを殺しちゃいけない理由に納得できない。
殺されるのはイヤ? だったら、そこにあなたがいるって、私に証明して見せてよ!
その上で、やっぱりコロすー。ぎゃー。
|