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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        > 見出すものとしての他人。
        
        さて、その上で……。
        この話には続きがあるはず。ここで終わることはできない。
        
        一歩間違うと、ひどく身勝手なアプリケーションになってしまう、という、バランス感覚が要求される面に関しては、
        それは、また、個別のテクニカルな話として、あると思うのですが、
        もっと、根本的なところ。
        
        ・全ての他人を見出すことはできない
        ・これは「私 → あなた」方向の取り組み
        
        
        > ・全ての他人を見出すことはできない
        
        これは、個別のテクニカルな話、ということ、(で、しか、ない)のかな?
        どこかで切り捨てざるを得ない、ですよね。実際。
        
        
        
        > ・これは「私 → あなた」方向の取り組み
        
        私は、そのような仕方で、あなたを認識できるかもしれない。
        その一方で、
        あなたは、私を、認識できるのか?
        
        矢印の向きを逆にするのは、そもそも、文脈が違う?
        
        そうは言っても、双方向にしないと、意味がない気がする。
        つまり、人に、わかってもらう、ということ?
        
        それがないと、どうなのかな、一方的な観察者、になってしまわない?
        それも結局、バランス感覚の問題?
        
        どのような仕方で、認識の交換? が、可能なものか?
        
        
        
        
        
        > なぜなら、私が、あなたを見出す(見つける)のだから。
        
        つまり、好き、ってことですよね、これって。え、ちがうの? あんまり違わない気がするー。
        
        好きなんてウソですよ。
        キライに決まってる。腹が立って、怒りが収まらない。
        おまえを殺しちゃいけない理由に納得できない。
        殺されるのはイヤ? だったら、そこにあなたがいるって、私に証明して見せてよ!
        
        その上で、やっぱりコロすー。ぎゃー。