見出すものとしての他人。
「他人」が本当に、ある(いる)のか、どうか?
そのように問うことを、やめてみる。
問いの立て方を変えてみる。
私はあなたを見出しているかどうか?
あなたが実際にそこにいるかどうか。それはもう、重要なことではない。
写真でもいい。写真すらなくていい。あなたがフィクションでもいい。
なぜなら、私が、あなたを見出す(見つける)のだから。
あなたが、どんな人なのかを考え続けながら。
日々、問いを止めない。
こんなとき、あなたならどう思うだろう? どう言うだろう?
どう感じ、どう判断し、どう振舞うか?
問いを止めない。決してごまかさない。
私は、あなたを知っているだろうか?
このような取り組みが続いているとき、その現場で、
あなた、は、そこに、いる、と、言い切っていいのではないか?
仏作って、魂入れる。
私は、仏に魂を入れている? 本当に?
この像を拝む人々を。毎日、どんな思いで、この像に向かって手を合わせるのだろう?
形だけ作って、あの人たちを騙しているのではないか?
他人の姿(実在)は、そこに、人、を見出す契機にはなる。
あくまでも、契機。
私は、この人を、知っているか?
この問いかけが、不断になされる限り、実在すら、不要。
この問いかけがなされないならば、心は無視されている。人は見出されていない。
人が実在していて、(だからこそ) 不断の問いかけが、行われている。
人が実在していて、(にも関わらず)不断の問いかけが、行われている。
人が実在していて、(だからこそ) 不断の問いかけが、行われていない。
人が実在していて、(にも関わらず)不断の問いかけが、行われていない。
人が実在しておらず、(だからこそ) 不断の問いかけが、行われている。
人が実在しておらず、(にも関わらず)不断の問いかけが、行われている。
人が実在しておらず、(だからこそ) 不断の問いかけが、行われていない。
人が実在しておらず、(にも関わらず)不断の問いかけが、行われていない。
重要なのは、不断の問いかけが行われているかどうか、であり、
実在すら、本質的ではない。
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