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◆◆ したこと:(2024-12-10) ◆◆

        前回ここに何を書いたんでしたっけ?
        これまでの活動の振り返りをしつつ、今はYouTubeの方に注力してます、みたいなことを書いてましたね。
        
        で、その後なんやかんやあって、そのチャンネルでの活動も円満に終了。
        その時点で一度ここに報告を書いておこうかと思ったような気もするんですが、
        思っただけだったようです。

        で、その後何をしていたのかと言えば、
        次なるチャンネルの開設に向けて準備をしていたのでした。
        別に隠れていたわけではなく、Misskey.ioに別アカを作って進捗報告などを随時上げておりました。
        このサイトのトップページにもリンクを載せてあるので私の大ファンの皆さんは当然チェック済みですよね?
        
        で、準備として動画を20本作り終えて、あとは実際に開設して投稿していくばかり、
        ということなので一度ここを更新しておこうかな、というところで現時点です。今ココ。
        いやぁ長い道のりでした。長井道典さんもびっくりですよ。誰だ?
        
        現状報告としてはそんなところです。
        常に私の動向をチェックしている私の大ファンにとっては新しい話はなかったですね?
        はい、ではそういうことで、またお会いしましょう。
        
        ……という感じで終わりにするという世界線もあったのかもしれませんが、
        短文投稿サイトが席巻する世間に逆行してこその個人ホムペ。
        長文を書け長文を。独自ドメイン勢の心意気を見せてやれ!(関係ない)
        
        まずは例のYouTubeチャンネルでの活動を終了した話。
        終了を決めた直接の理由は扱っているテーマに対してYouTube側から制限がかかったからですが、
        それを機に「長く続けていくこと」ではなく「言いたいことを言い切って終わりにする」に方針を転換。
        思いのたけを発信し尽して、私としては心残りのない形で円満に終わることができました。
        みなさんありがとうございました。
        
        なのでそのテーマに関してここで付け加えて何か申し上げるのも野暮というものではありますが、
        敢えて言うと、やはり「自殺」ということに対して、人々の「真面目さ」が足りないなとは感じますね。
        
        この世を否定したいわけでしょう?
        それってどういうことなのか?
        
        たとえば将棋で言うと、自殺は「投了」ということになるか?
        だけど投了っていうのも将棋のルールで定められた行為の1つなわけですよ。
        「将棋をやらされてること」に疑問があって、そんな世界を否定したい。
        そう言いつつ、結局、将棋のルールの内側で用意されている手を選ぶ。
        これじゃあ「手のひらの上」あるいは「思うツボ」なんじゃない?
        だから結局、「負けた」「逃げた」ことになっちゃうわけですよ。将棋を基準として。
        そんなのは嫌じゃないですか?もちろん嫌でしょう。
        
        あるいはそれが嫌だからこそ「死後は無」という世界観を期待するのかもしれない。
        形はどうあれ、ともかく死にさえすれば「消滅」なのである、と。
        「消滅」なのであるから、この世側のルールも関係ない、と。
        
        しかし「死後が無」なのかどうかなんて誰にも分からない。
        分からないから不安が消えない。
        不安が消えないから実行もできない。かと言って「生きたい」わけでもない。
        大体このへんで堂々巡りなのではないか。
        
        >分からないから不安が消えない。
        
        この「不安」の正体は何か?
        「自殺」に関係なく死後のことについては誰しも不安に決まってはいるわけですが、
        「自殺」の場合に限定して言えば、
        不安の源泉は「この世を否定」したいのに、結局、否定し切れずにいること、なのではないか。
        結局「将棋を続けちゃってる」わけです(投了という形で)。
        「この世を否定」したいのに、世間的な意味での「自殺」概念に留まる限り、この世から出られていない。
        
        「自殺=この世の一部」だから、
        「この世を否定」するのなら「自殺」も否定しないといけない。
        
        では「自殺」ということで本当のところ何を望んでいたのか?
        
        さて、ここまで考えを進めてくると「自殺」という言葉の意味が崩れてくる。
        従いまして話を整理するために
        
        ・世間的な意味での「自殺」
        ・真の意味での「自殺」
        
        に分けて考えたい。
        
        世間的な意味での「自殺」とは将棋で言う「投了」のことです。
        「真の意味での」と、ここでラベリングしたのが、「(自殺したい)私」が「本当に望んでいること」という意味です。
        
        望んでいることは何か、と言えば、もちろん人によって異なるでしょうから、
        「もう投了しかない!」と思っていたら運良く思いがけず飛車と角を大量にゲットしてヒャッハー!
        みたいな場合もあるでしょうし、それはそれでいいんですけども、
        それはやっぱり「ほーらねwwwwww本当は生きたいんでしょ?(ニチャア)」ってやつですよね。
        もちろんそれはそれで全然いいんですけどもね。
        
        ただ、結局、将棋を続けてる限り、いつかは負ける。脳が衰えて弱くもなってくる。
        仮に勝ち続けられるとしても、自分が勝てばその分、別の誰かが負けてるということ。この世の苦しみの総量は減らない。
        弱肉強食、一切皆苦、生老病死、盛者必衰、諸行無常。
        そういう「この世」的な繰り返しがもうウンザリだなって思いがあったんじゃないんでしょうか?
        だから「死にたい=消えたい」わけですよね。
        
        この「消えたい」というのも、細かく限定して言えば、
        ウンザリするような苦しみの繰り返しの世界としての「この世」から消えたい、
        そういう世界とはもう関わりたくない、という意味ではないでしょうか。
        
        細かく限定せずに言えば「意識そのものの消滅」ということになるでしょうけれど、
        それは実のところ目的というよりは手段に近い。
        「自殺」が「消滅」の「手段」であるのと同様、
        「消滅」は「この世からの消滅」の手段と言えましょう。
        そもそも「自殺(肉体の生命停止)」で「消滅」できるのかどうかも不明なのであり、
        いつまでも「不安」が残る。
        
        そこで手段ではなく目的に立ち返ってみる。
        結局「何」を「消」したいのかと言えば「この世(を認識し、関わる自己意識)」だったはずです。
        必ずしも自己の全消滅を意味しない。
        
        ではさて本当の自分の望みは何だったのか?
        
        ここでいう「自分」というのは「この世」に肉体や名前を持って生存している自分のことではなく、
        この世に存在する以前の真の自己という意味です。
        
        念のためもう少し厳密に言うと、「この世に存在する以前の」の「以前」というのは
        時系列的な「過去」という意味ではなく、論理構造上の「以前」という意味です。
        (「過去生」という意味ではなく、物質次元を超越している自己、の意味)
        
        さて続けます。
        
        >・真の意味での「自殺」
        >「真の意味での」と、ここでラベリングしたのが、「(自殺したい)私」が「本当に望んでいること」という意味です。
        
        先に挙げた2種類の「自殺」のうち、「真の意味での自殺」とは、
        「この世」の縛りの中で歪められ見失われた「真の自己」の望みを思い出し、一致していくこと、と言い換えられる。
        
        ここまで来ると、この世で否定的なニュアンスをまとわされている「死」という言葉よりも、
        「目覚め」と言った方がしっくりきそうな気がしますね。
        真の自殺は真の自己の目覚めです。
        今まではこの世の制限の中で「眠って」いたわけです。
        そこに気付くこと。真の自己へ立ち返っていくこと。
        
        その上で、物理次元での肉体の生命停止を選ぶなら、それはそれですし、
        そうじゃないことを選ぶのだとしても、それはそれです。
        
        というわけで、ここまで来るとスピっぽくなってきますね。
        っぽくというか、そのものかな。
        ここでは「真の自己」というフレーズを使いましたが、
        スピ界隈でいうところの「ハイヤーセルフ」というやつです。
        
        ただ、世の中に流通している「スピ系」に無防備に足を踏み入れるのは、
        私からはあんまりオススメできないかな。
        ここでスピ批判を書き始めるとまた長くなるので控えめにしておきますが、
        スピ界隈には「思考=ネガティブ!=止めろ!」というドグマめいたものがある。
        
        それは一種の「悟りの奥義」みたいなものとは言えると思うけど、
        単なる「思考ギライ」には私はあんまり賛成できないな。
        
        贔屓目な言い方をすれば、「上級者コース」なんじゃないかなって気が私はします。
        たとえて言えば、自転車に乗ったことがない人に補助輪なしで走らせるような、と言ったらいいかな。
        あるいはキーボードを使ったことがない人に「絶対に手元を見るな!」と言って
        ブラインドタッチをさせるような、とでも言ったらいいか。
        
        自分なりに思考の経験値を積んだ上で、そこに囚われることなく、目に見えない領域に羽を広げていく……
        という段階を踏まずに、いきなりスピにハマッてしまうというのは、いかにも危なっかしい気がする。
        
        それで「ハイヤーセルフの声を聞けばまっすぐ走れる!間違えずに文章が打てる!」みたいな話になってくる。
        じゃあ一体どうすればハイヤーセルフの声が聞けるようになるんですか?みたいな話になってくる。
        それには有料のセミナーに参加してください。みたいな話になってくる。
        スピの全てが悪意にもとづくビジネスだ、とまで言うつもりはないですが、
        「考えちゃいけない」というドグマの中で、教祖に依存するような心理になってしまったりしませんか?
        
        少しイジワルな言い方になってしまいますが、
        「私なんてどうせ頭悪いし…」みたいなコンプレックスを持っている人にとっては、
        「思考」をバッサリと全否定するスピ界隈の言説は「気持ちがいい」のかも。
        
        とは言え、それでメンタル的に健康を取り戻せるのなら、それはそれでいいのかな。
        自分なりに思考の経験値を積むというのもハードルの高さはあるし、
        「死にたい…死ねない…世の中…ムカツク…死にたい…死ねない…世の中…ムカツク…!」
        という具合にグルグルしてしまうぐらいなら、
        「思考=ネガティブ!=止める!」という「荒療治」が「効果的」だったりもするかも。
        何事も人によりけりですね。
        思考=ネガティブなのではなく、ネガティブな思考がネガティブなだけなんじゃないの?
        と、冷静に「考え」て、思考を使っていけばいいのではないかなと私としては思うところではあるのですが。
        	    
        
        などというのも「余計なお世話」というやつかなとは思う。
        他人の生き死にに口出しする筋合いはない。
        
        しかし、
        >「死にたい…死ねない…世の中…ムカツク…死にたい…死ねない…世の中…ムカツク…!」
        のようにグルグルしている人を見かけると、見かねると言うか、
        今ここに書いてきたような方向もあると思うんですが、どうですか?
        と言いたくなってしまう。
        私の悪い癖かもしれない。
        
        本人に直接言うほどの「お節介」をする気にはなれないですが、
        「自殺」ということに関し、世間の観念が固定されすぎてるようには思う。
        死に関してセンスが悪い世の中は、生に関してもセンスが悪い世の中なのであり、
        もうちょっと「死にやすい=生きやすい=存在しやすい」世の中になってくれたらいいなという思いもある。
        
        しかし「余計なお節介」をさらに超えて「世直し」につなげよう、
        などという方向に意識が向いてしまうのも、これまた私の悪い癖なのかもしれない。
        
        いわゆる「悪」……特に社会規模の巨悪……って、
        「この世で肉体的に生き長らえることこそが最優先、そのためならどんな犠牲も許される」
        というロジックで正当化されていることが多いような気がする(敢えて言語化すれば)。
        そのロジックが「当たり前」のように見えて「誰も反論できない」から、犠牲がまかり通っちゃう。
        曰く「苦しいのは仕方がないんだ」「苦しいのはみんな同じなんだ」とかなんとか。
        
        しかしそれもまた地球の人たちが「自分でそれを選んでいる」のなら、
        口出しする筋合いのことではないですね。
        
        こう言うと嫌味っぽく聞こえてしまうかもですが、
        「苦しい苦しいと言いつつ、実のところそういう世界を自分(たち)で選んでいる」のだとすれば、
        それはやっぱり他人が口出しする筋合いのものではないだろうと思うわけです。

        >「自殺」ということに関し、世間の観念が固定されすぎてるようには思う。
        >死に関してセンスが悪い世の中は、生に関してもセンスが悪い世の中なのであり、
        >もうちょっと「死にやすい=生きやすい=存在しやすい」世の中になってくれたらいいなという思いもある。
        ↑
        これだって、実際どうなのかはわかったものではないですね。
        「自殺を考える人に悪い人はいない」という思いが私の中にあるっぽいのですけども、
        猫を飼っている人が「猫を飼ってる人に悪い人はいない」と言うようなもので、
        自分に近い属性に対する贔屓目でしかないようにも思う。
        
        そして、そもそも「どう」なっていくのが「正解」なのか、なんてことも私には分からないのでした。
        人間とは何なのか? この宇宙は一体何なのか?
        偉そうに人に教えられるようなことなんて何もない。
        
        結局、私にできるのは、あなたがあなたなりの意味で「幸せ」でありますように、
        と祈ることだけなのでした。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        そんなところかな?
        最近ここをあんまり更新しなくなっちゃってるので、
        この機会に全部書き切っておかねば、という謎のプレッシャーを感じている。
        別に更新したければいつでも更新すればいいのである。
        
        そうだ、ゲ製。ゲ製の話をしよう。
        動画作りの方に時間を割き始めて以来、ゲ製の方はすっかりご無沙汰になってしまってます。
        作り中のゲームはお見せできる状態には程遠いんですが、
        たまにオンラインイベントの方に顔だけ出してたりはします。
        どこかで見かけたら「おっ、いるな」と思ってやってください。
        
        来年中には作りかけのやつを形にしたいな。
        動画をもっと軽いペースで量産できるようになるといいんですが、
        世の中のハイペース系YouTuber(?)の皆さんは一体どうやってるんだ???
        やはり宇宙は謎ばかりですね。
        
        ではまた。
        今日もあなたが幸せでありますように(何度言ってもよい)。