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◆◆ したこと: ◆◆

        体裁を整えるための各要素を実装
        
        
        具体的には何をしたんでしたっけ?
        あんまり覚えてないのですが、まだ生きてる(多分)ことから逆算するに、
        自殺以外のことをイロイロしたらしいぞという推理が成立します。
        
        ・タイトル画面
        ・オープニングのイベント
        ・エンディングのイベント
        ・クレジットのエンドロール
        ・ラスダンに入る直前のイベント
        
        タイトル画面を作るには、「タイトルを決める」という大きな試練を乗り越えねばならないのでした。
        変えたくなったらいつでも変えれるのであり、今は作業を進めるのが最優先。
        そのように言い聞かせつつ、耳元に響く生々しい声に従って、このようにした次第。
        語尾に(仮)をつけておきたい気分ですが、
        今までの経験上、なんやかんやとこれで決定になってしまうという未来が予知されます。
        ロゴも適当ですが、この真っ黒な背景に、平面的な文字というのが、
        思いのほか「それっぽい」感じになってくれた気がする気がします。宇宙人さん、いい仕事しますね。
        
        ニューゲーム時のイベントで、どこまで説明すべきか?
        三億年ほど悩みましたが、敢えて詳しくは語らずに放置する方針としました。
        
        ちなみに、ここ最近、集中的にノベルゲームをプレイしているのですが、
        冒頭でイロイロと説明されても、どうせ、頭に入らないのですよね。
        読み進めているうちに、各キャラのイメージや、世界の様子が理解できてくる。
        
        というわけで、その他のNPCさん(未実装)の責任が重くなった気がしますよ?
        
        
        
        素材に関してはまだ未確定の部分もあるので、
        クレジットもそれに合わせて変更の可能性はあり。
        とは言え、いつまでも後回しにしてても「なんか全然作業が終わらない」感が残り続けるばかりなので
        ともかく現行の内容で、作るだけ作っておくことにした次第。
        
        気力があれば、もっと凝ったエンディングにしたいような気もしつつ、
        気力はない可能性が極めて高いのでありました。
        
        というか、これに関しても、最近ノベルゲームを集中的にプレイしている関係で、
        数々のエンディングを目撃している中、
        エンドロールはむしろ素朴な方が情感が出るかなと感じていたりもする次第。
        
        > 素材に関してはまだ未確定の部分もあるので、
        
        まだ未確定、って、馬から落ちて落馬してしまったかな?
        頭が頭痛。自分で自殺。
        
        
        
        ちなみにこれは正確にはラスダンではないのですけども、
        ここ以外にも今回イロイロ実装した中で、進捗映えしそうなのをチョイスしました。
        
        もう一つちなみに、これ、実は、
        フィールドマップ上の「塔」のシンボルに細かく階段を描き込む気力(ドットパワー)がなかったので、
        見た目のつじつまを合わせるために、
        ダンジョンマップに入った後に、イベントとして階段が出現することにした次第。
        結局、労力的にどっちが楽だったかは不明ですが、
        結果的にカッコE感じに多分なった気がするに違いありません。
        これも全て宇宙人の采配。やはり持つべきものは宇宙人ですね。
        
        
        てな感じで、「完成した!」と言い張れる状態を目指し、
        現状で埋めれる穴を埋めている次第。
        まだまだやらねばならぬことは大量に待ち構えております。
        手当たり次第に片付けていくしかない。
        次は何をしようかな? 死のうかな?
        手当たり次第に片付けていくしかない。
        それを真っ先に済ませてしまいたいのはヤマヤマながら、
        一番後回しにしないとイケないというのが地球の不便なトコロ。
        何とかならないものでしょうか。困ったものです。
        
        死ぬ前にしておくことは何があったかな?
        大きいところとしては2つか。
        
        モブ系NPC。
        ゲームバランス。
        
        ゲームバランスというか、主に「セッション」時の、
        「お相手キャラ」さんの挙動やパラメータですね。
        今のところ数値が全部デフォルト仕様なので、
        「それっぽく」は整えておく必要があるかな。
        
        ただ、ぶっちゃけ、何と言うのかな、
        別に「おもしろいゲーム」である必要はあんまりないのですよね。
        「ゲームとしておもしろいかどうか」は、どうでもいい。
        え? どうでもいいの?
        どうでもいいは言い過ぎかな。
        もう少し言葉を選んで言えば、どうでもいい、ですね。
        
        どうでもは良くないとしても、目指すところはそこではない。
        最低限、プレイしていて「つらく」なければ、それでいい。
        
        そんなことより重大なのは、
        この「ゲーム」を、この世に存在させることの意味、を見失わないこと、です。
        いくら「おもしろく」ても、この世に存在させる意味がないなら、
        それは「意味がない」シロモノです。
        
        敢えて「意味」と言いました。
        一部の傾向として、
        「意味」というものを否定し、残った荒地で、感覚的な「おもしろさ」が「聖域化」される、
        という営みがあろうかと思います。
        その上で、敢えて「意味」です。
        ときには「無意味な快」が必要な場合もあるだろうということは認めつつ。
        
        ただ、例えば「これは深い意味のないただの娯楽なのだ」のように言う場合、
        文字通り本当の「虚無」を指していることはあまりない筈であり、
        それが「深い意味のない」ということになるのは、
        自己自身が身をひたしている文化・文明の中で
        相対的に「問いの訴追を免れる(だろうと当て込んでいる)」ということに過ぎないのであり、
        それが「深い意味のない娯楽」だ「ということになる(してもらえる)」こと自体、
        いつでも問いの俎上に乗り得るものだとは言っておきたい。
        
        その上で、敢えて「意味」です。
        私がいるということ。あなたがいるということ。
        無ではなく有であるということ。
        
        
        
        > 最低限、プレイしていて「つらく」なければ、それでいい。
        
        実際問題、それこそが難しかったりするかなぁ〜とは思いつつ……!
        
        
        
        
        さて。
        他に何かなかったかな。
        
        最近、個人制作のノベル系ゲームを集中的にプレイしてプレイ報告などを書いてます。
        理由の1つとしては、
        自分がノベルゲームを公開してるのに、
        今まであんまり他のノベルゲームのプレイ(拝読)報告を書いてこなかったな、
        という反省?のようなものがあったこと。
        
        ツイッター上の目に見えるリアクションとしては乏しい感じですが、
        自分が今まであまりノベル界隈とのつながりを作ってこなかったことの
        結果の1つなのだろうなとは思います。
        じゃあ何界隈とはつながりを作ってきたんだ? と言われると
        これまたギャフンと言わざるを得ないのではありますが。
        
        で、イロイロとプレイ(拝読)してみて、1つ改めて思ったのは、
        マイ○ドルの総プレイ時間60時間というのは、かなり「途方もない」ですね。
        1ルートでも完遂した人はエライ。
        
        
        > ツイッター上の目に見えるリアクションとしては乏しい感じですが、
        
        ↑とは言うものの、
        全体を見渡した感じ、ジャンルを問わず、ゲームのプレイ報告というもの自体が、
        リアクションは集まりにくい性質のものだな、とは思います。
        
        長年コツコツとプレイ報告を書き続けておられるアカウントをいくつか存じ上げておりますが、
        そういう先生であっても、少なくとも「ツイッターというプラットフォーム上での目に見える形」では、
        あんまり、こう「RT2ケタ!イイネ3ケタ!」みたいな感じにはなりにくい感じですね。
        
        自分自身の行動パターンを思い返してみても、
        自分が知ってる(やったことのある)ゲームについての言及なら「おっ」と思って
        思わずイイネなどしたくなったりすることもありますが、
        知らないゲームのことが言及されてても、「私には関係ないかな」という感覚が先に立つ。
        興味を抱いたとしても、自分がプレイしたことがないものについては
        イイネなど押す立場じゃないよな、と、気遅れを感じることも。
        プレイ報告を上げる立場としては、少なくとも私は、別に、
        「こいつ、やったことないのに適当に押してんじゃねぇのか?」
        などと思ったりはしないのですけどね。
        あ、でも特定のタグを定期巡回してるっぽい人はたまにお見かけしますね。
        それはそれで、その人なりのご活動なのでしょう。
        
        
        で、「ツイッターというプラットフォーム上での目に見える形」では、
        プレイ報告というもの自体が、そもそも、
        プラットフォームの性質上、「スルーされてるっぽく」なりがちな種類のものというか、
        基本的に「そういうもの」ではあるのでしょうね。
        
        逆に言うと、そういう、ツイッター的派手派手リアクション自体についても、
        「プラットフォーム上で、そういう現象が起きている」という事実面のみを
        冷静に捉える必要があるなと改めて思うところです。
        
        そうした現象について、
        「だから何なのか?」と言うと否定してるみたいなので
        「つまり何なのか?」と言った方がいいかな。
        
        ちなみに自殺界隈や「反」界隈でも、
        派手なリアクションを集めやすい言動と、そうではない言動というものはあり、
        ツイッター上の反応の派手さに対しては
        「ツイッターというプラットフォーム上で、多くの人がそれに反応を "示し" た」
        という事実を、曇らない目で見極める冷静さ、が必要だなと思うところです。
        どうしても「数字」の派手さ(or地味さ)には、気を取られてしまうのではありますが、
        それはTwitter社の策略ですね。
        
        「反応を "示し" た」人以外にも人は大勢おり、
        それら全てを含めて、地球のお友達です。
        
        なお、これは、いわゆる「他人の反応を気にする/気にしない」といった次元の話ではなく、
        現象として、事実として、派手な反応がある(ない)ということの、
        意味合い・文脈をどのように解釈するか、という話です。
        
        自分の発言に対してだけに限ったことではなく、
        TLを見ていて、
        「なるほど、こういう言葉には多くの人が "食いつく" のだな」
        「なるほど、こういう言葉は "敬遠" されるのだろうな」
        のように、得られる示唆があったりもします。
        
        
        > 「反応を "示し" た」人以外にも人は大勢おり、
        > それら全てを含めて、地球のお友達です。
        
        話は飛びますが、↑これを言うと、
        「選挙の投票に行かなかった人も国民」なのですよね。
        
        いつも投票に行っている自分からすると、
        選挙に興味を示さない人に対しては、それなりに思うところがあったりもするのですが、
        そういう人がいるという事実も含めて、「社会」なのですよね。
        誰もが、そこにいる、ということ自体で「一員」だ。
        
        
        
        あと何かなかったかな。
        せっかくなので、ツイッター側では言いにくいことを言っておこう。
        
        上述のとおり、プレイ報告は積極的に書かせていただいている次第ですが、
        かと言って、「作ること」が「良いこと」だ、
        という価値観を奨励するのは「罪深い」ことなのではないかな、という気がしています。
        
        投稿サイトやイベントなどでは
        「作品数の多さ」が「多い=良いこと」として喧伝されるのが常ですが、
        私には、むしろ、それは「業の深さ」のようにも見えてしまいます。
        
        そこで喧伝される「桁の多い数字」を見るたび、
        「げっそり」してしまう。「わくわく」感の真逆です。
        これはもう、ゲームが好きとか嫌いとか言う問題じゃないですね。
        ただシンプルに「多すぎる」と感じる。
        
        1人の人間には到底消化し切れない「圧倒的物量」がコンスタントに「生み出さ」れている。
        別に「1人」で見る必要などないわけですが、じゃあ誰が見るんだろう?
        などという揚げ足取りさえ、すでにどうでもいい。
        「物量」自体がシャレにならないレベルに既に突入しています。
        
        いつまで「新作」を「生み出し」続けるつもりなのか?
        それを「奨励する」ことの罪深さ。
        そこに「乗っかる」ことの悲しさ。
        
        なぜ「多い」ことが「良いこと」なのか?
        大量に集まったそれを「一体どうする」つもりなのか?
        1つ1つの製作物に込められた、比類なき精神エネルギー。
        大量に集まったそれらの、途方もない精神エネルギー。
        
        重い。あまりに重い。
        
        「派手さ」は確かにあるでしょう。
        しかし、これは果たして「良い」ことなのか?
        
        重い。あまりに重い。
        
        神社を一体いくつ建立すれば鎮魂できるのか。
        
        これを言うと、私も「生み出し」ている側なので、矛盾してしまうところではある。
        (だからこそ、「何の意味があるのか?」という問いが避けられない)
        (どんな答えを得ても「私だけが有意味であり、無罪である」ことにはならない)
        
        ここで私が繰り返すまでもなく、
        「多いこと」の弊害が存在することは否定できないでしょう。
        
        もちろん、「作るな」などと言える筈もない。
        かと言って「作ろう!」と手放しに言う気には、私は、なれないですね。
        
        ここでも「本人が好きでやってるなら」という「但し書き」が幅を効かせるわけですが、
        果たしてその「好き」の実体は如何なるものか、ということでもあり、
        また、本人の意図とは別に、
        「多さ」にプラス1されることの「意味」は如何なるものか、ということでもある。
        
        「楽しみましょう」の一言で、
        あらゆる「意味」が意識の埒外へ放逐される。
        批判は無力化され、「聖域化」が完了する。
        
        一体全体、何をやっているのか?
        問いのフィールド自体が、祭りの喧騒に掻き消される。
        「踊らにゃソン」とは如何なる損得勘定か。
        
        
        なお、「私の作品なんて大したことない」などという「謙虚さ」はここでは意味をなしません。
        「多さ」にプラス1されるという「事実」は厳然として、ある。
        全体の一員であるという「事実」の中で、
        一人の「自己」が「選択」したこと。
        それもまた「私なんて」という「謙虚さ」の中で「責任」を失い、
        あるいは「選ばれる」ことで「免除」されるものではあるのでしょうけれど。
        
        
        
        ただ、いくらこのような「懸念」を申し上げたとしても、
        これはもう、「なるべくして」、「こう」なっていることなのであり、
        ただ、事実を事実として、受け止めるしかないことではあるのでしょう。
        良いとか・悪いとか、誰に責任があるとか・ないとか、
        そういう次元の話ではない。
        地球の、この世の、歴史の1コマという他ない。
        
        その中で、私の意志は何を選ぶのか。あなたの意志は何を選ぶのか。
        
        
        「じゃあどうすればいいんだ」と単純な答えを求められると困るのですが、
        話としては、今に始まったことではなく、
        文字通り、地球の「人口爆発」と、本質は似たようなものだと言えば、
        その重みは、おわかりいただけるのではないでしょうか。
        
        「人がいる」
        
        純粋に愛おしく、根本的にドウシヨウモなく、根源的に哀しい。
        
        
        なお、どうか誤解しないで欲しいのですが、
        ゲームを作るのが悪いことだ、などと言うつもりはないのです。
        ただ、結果として、全体として、
        「ドウシヨウモナイ」レベルに突入しちゃってる、という事実は無視しようがない、という話です。
        
        作るのは「楽しい」ことだし、「苦労する」ことだし、
        作り出されたものは愛おしく、作り出す人も尊い。
        だからこそ、結果として、全体として、
        この「ドウシヨウモなさ」が、ドウシヨウモなく、哀しいわけです。
        
        
        
        
        さて、この世がいつまで続くかは分かりませんが……
        などという言葉が冗談じゃ済まなくなりつつある昨今ですが……
        
        私は私なりに、やれることをやり、祈れることを祈ろうと思います。
        今日もあなたが幸せでありますように。