マインドルの対戦パート作成
学園モノと言えばチュートリアル。
よーし、できたできた。できたったらできたぜ!
すでにできてたやつのキャラとセリフ回しを差し替えるだけ、と見せかけて、
度重なる仕様変更の影響でスクリプトにバグが出まくってました。
でも私は天才プログラマーなので楽勝です。いやぁ天才プログラマーって本当に便利ですね。
どの人にチュートリアルを担当してもらうかは三日三晩滝に打たれて悩みました。
素直に1stヒロイン氏かなという心づもりだったのですけども、
ルートの内容が、あんまり「マインドル」を推奨するようなストーリーというわけではない。
というわけで、敢えて序盤には登場しない人に担当していただくことにしました。
チュートリアル専用キャラと見せかけるフェイント。
もっとさっさと片付くと思ってたのに、なんやかんやと時間がかかってしまう。
お馴染みの同じ道ではありますけども。
今にも死にそうですが、確実に前進はしておりますよ。
さて、次は何をしようかな?
あ、一つ、かなり心配だったのが、BGM素材の配布元の先生のサイトが消滅してたらどうしましょう、という件。
何しろ、ここまでくるのに年単位で時間が流れてしまっておりますからね。
失礼ながら一般論としてはそういう可能性もなくはない話。
これまでは精神的に疲れるので敢えて考えないようにして突っ走って参りましたが、
そろそろご挨拶回りを含めて確認しなければなりません。
最悪、BGM素材を全部差し替える覚悟をしつつ、ドキドキしながら配布サイトにアクセス。
結論を言うと、サイトはご健在であらせられました。よかったよかった。
ただ、私が「マインドル」の作業を始めた頃よりも、かなりの人気サイトになっていて、
同じBGMを使った動画やゲームが世間にたくさん存在するようになっている模様。
「あっ、このBGM、○○と同じやつだ〜」率がかなり高くなっていると予想されます。このやろ〜。
素材を使わせてもらう以上、受け入れざるを得ないことではありますけれど。
さらに言えばそもそも「あっ、このキャラ、コミPo!だ〜」ですから、
今更何をという感じでもありますね。ぎゃふん。
一つだけ私にとってラッキーかもしれないのは、
エンディングのBGMとして使わせてもらう予定の曲が現在はサイトに掲載されていないことです。
「公開停止=使用禁止」だったら死ぬほど残念だなぁ、と思っていたのですが、
サーバーの容量の都合で公開曲数を削っているらしく、
ダウンロード済みのものに関しては使用可能という記述があった。やったぜ。
エンディングは曲の長さに合わせて作る必要があるので、
そういう意味でも、使用可能なことが確認できたのは一安心です。
じゃあ次の作業はエンディングかな?
うーん。それは難易度が高い感じなのでラスボス扱いかな……。
先にプロローグを片付けてしまってはどうか?
それからUIも整えないとイケないのでしたね。意外と面倒な作業な予感がいたします。
あっ、その前に自殺も忘れてはイケませんね。こっちを先に片付けるべきでしょうか。
やりたいことがたくさんあって目移りしてしまいます。どこから手をつけようかな? ワクワク。
ところでBGM素材の件ですが、
一昔前はBGM素材の用途と言えば大体、個人製作ゲームかホームページのBGMでしたが、
最近は動画のBGMという用途が増えてきているのですね。
そういえば最近はブラウザでアクセスした途端にBGMが流れるようなページ、めっきり見なくなりましたね。
それ以前に「個人サイト」なるもの自体、めっきり見なくなってしまいました。
そうした変化の「理由」ということを語ろうとすれば、それなりにイロイロと言えてしまうのでしょうけれど、
これも「空気感」の一種かなという気がいたします。「ハヤリ・スタリ」というか。
ブログでもBGMを流しちゃうお調子者さんがいらしても不思議じゃないと思うのですが、遭遇することはほぼない。
あっ、そうか。HTMLタグが使えないからかな。機能的に。
そういうのが「流行ってる」ということであれば、ブログの機能としてサポートされてそうなものですが、
多分そういうのはそもそも機能として、ない、のでしょうね。
こうなっては自分のサイト(ブログ)で「よーし、BGM鳴らしちゃうゾ!」という発想自体が出てこないのではないか?
ならば、かつて、そんな発想は一体どこから出てきていたのか?
多分ですけど、当時はおそらく、初歩的なHTMLの解説本などに、
「少しムズカシイ応用テクニック」のような位置づけで、BGMを鳴らすためのタグが紹介されてたんですよ。多分。
すると、そういう入門書を読んで「よーし、ガンバッてBGM鳴らしちゃうゾ〜!」ってなことにもなりますよね。
良くも悪くも「型」にハマる。それがブログでありSNSであるということかもしれません。
そもそも機能的自体で言えば「Webサイト>ブログ>SNS」のはずなのに、
一部を不自由にして「こういうふうに使いなさい」というものが増えて「ネットが発達した」ことになる。
それでなくとも、その時代の「ハヤリ・スタリ」に規程もされる。
自由なようで、さほど自由でもない。いつだってトナールの内側か。
自由を削って不自由の型をつくる。
というより、「いかにして自由から逃走するか?」ということが常に世間の目的であるようにも思われます。
世間はいつだって「仕方ない」ものです。
「仕方ない」ものとして作り出され、「仕方ない」ものとして存在し、「仕方ない」ものとして継続するのが世間です。
無限の自由の中に作り出した有限な不自由の島。
いつだって「私にはカンケーない」ものが求められている。
いつだって「私はどうするか」という「選択の主体」こそが「私」であるはずなのに。
なるほど。無限の自由へ漕ぎ出すには不屈の闘士が必要というわけだ。
それにしても、なぜ、そもそも、意識などというものを持ってしまっているのでしょう?
そもそも、その、根本のところが、納得できません。
何も存在しなければよかったのに。
悲しいなぁ。悲しすぎる。
死んだ後、意識はどうなるのでしょう?
ならば、どうして、わざわざ、苦しまなければならなかったんですか?
本当のところ、一体全体、このすべては、何なんですか?
それにしてもドウショウモナイ。
せめて、幸せを願うことができれば、とは思います。
と思った次の瞬間、この世の礎石である「仕方ないデショーガー!」は
「人の不幸を願う」というものでもあるということを思い出すのでした。
やっぱりドウショウモナイ。
ああ。
仕方あるかないかなんて議論に参戦したくはないな。
だって「それ以前」じゃないですか。
一体そもそも何をしているのか。
とりあえず言うだけ言っておこう。
今日もあなたが幸せでありますように〜。
|