マインドルの対戦パート作成
学園モノと言えばマインドルのある日常。
前回までで特殊モードへの対応が完了し、あとは本文で指定されている通りに対戦パートをスクリプトに落とし込んでいくのみ。
というわけで早速、キャラ1ルートの対戦パートがすべて完了しましたよ。
おっ、まじですか。一瞬たりとも立ち止まらない。高速邁進。電光石火。まさにハイペース!
と見せかけて、キャラ1ルートは対戦イベントが7件と少なめ。
つまり日割計算すれば、対戦イベント一件ごとに丸一日かかってしまっていることになります。
これが果たしてハイペースの名に値すると言えるでしょうか? ぐぬぬ……おのれ日割計算め!
仕様は固まってるわけですから、あとは単純作業。
当初の予定では「実装するぞ」と念じさえすればたちまちドロンッ! と出来上がるハズだったのに。
いくら念じてもドロンッ! とならないなんて、一体どうなっているのでしょう? 何者かの不穏な気配を感じずにはいられません。
そんな感じで微妙にモタついてはおりますが、確実に進んではおりますよ。
ここまで来れば、急ぐ必要はないのだから無理せずにマイペースで……と言いたいところですが、そういうわけにはイキません。
なぜなら一日遅れるということは、あなた方がマインドルのない日常を過ごさねばならない日々が一日伸びてしまうということです。
本当は私だって少しは休みたい。
しかし、ここまで来たからこそ、ここで立ち止まるわけにはいかない。
これというのもあなた方を愛するからこそ。私は本当に慈悲深いですね。
日々はするべきことに溢れているようにも見えますが、結局、この作業を進めることをおいて他にするべきことなどあるはずもありません。
一日も早くあなた方のお手元にお届けできるよう、ガンバッテまいりますよ。
それにしても先週に引き続き「空気」です。
先週どころか悠久の昔から引き続いており、今後も延々と引き続いていくものと思われます。見通しは暗い。
たとえどんなに「正しい」と思われることでも、「空気」に合致しないことは受け入れられない。
特に、「現時点で誰もやっていないこと」は、それをするというような「空気」が存在せず、したがって受け入れられる余地もない。
世間にはさまざまな社会問題があり、
今日もそれぞれの現場でそれぞれの人々がそれぞれの信じる「正しさ」に立脚してそれぞれにそれぞれの日常を生きていることでしょう。
が、個々の問題に個々に取り組んでも同じことの繰り返しにしかならず、
根本的には世の中の仕組みの側を変えないことにはドウニモナラナイ。
そういうことってあるはずです。
具体例をあげた方がいいのかもしれませんが、
具体例をあげると、個別の問題の個別の「しがらみ」に引きずられて、自由にモノが言えなくなってしまいます。
それに、これは個別の問題ではない。もっと根本的なことです。
> が、個々の問題に個々に取り組んでも同じことの繰り返しにしかならず、
> 根本的には世の中の仕組みの側を変えないことにはドウニモナラナイ。
> そういうことってあるはずです。
現状の仕組みの中で個別の問題に個別に対処しようとしても、
それは結局、
現状の仕組みの中で個別の問題を別の問題へとスライドさせて組み替えているに過ぎず、その場しのぎの対処以上のものにはなり得ない。
誰かが勝てば誰かが負ける。現時点で「負け」ている人を「勝て」るようにしたところで、
別の誰かが代わりに「負け」るようになるだけです。
そういう仕組み自体を変えない限り、いつまでも誰かが苦しみ続ける。
「負け」の側に割り振られた人だけが苦しいわけではない。
現時点で「勝って」いる人も、全体の仕組みが変わらない限り、いつでも「負け」に転落する可能性がある。
「負け」を押し付け合う椅子取りゲームが加熱するに至り、いよいよ苦しみが遍く一切に及ぼされることとなる。悪の普廻向が始まる。
結局、仕組み自体を変えないことにはドウニモナラナイ。
個々別々のケースの個々別々の現場にいる個々別々の人々に向けての、
「こうすればいい」「ああするべき」「そんなことをしてはいけない」「そんなんだからダメなんだ」
などという「親切な」アドバイスは、椅子取りゲームを加熱させるものでしかない。
しかし「仕組みを変える」という話は、いつだって抵抗にあう。
現状で得をしている側が妨害するから、というのも事実に反している。
なぜなら、現状で損をしていて仕組みが変わった方が得をするはずの人々までもが、こぞって抵抗に参加するからです。
どうやら、つまり、それは「空気」に反することであるらしい。
仕組みを変えなければドウニモナラナイということは反論の余地のない事実であり、
その前提で「じゃあ、こうしてはどうか、ああしてはどうか」という提案はいくらでも可能です。
しかしそうした提案の内容自体がどんなに筋の通ったものであっても、
「現状はそうなっていない」以上、それは「空気」に反することであり、受け入れられる余地がない。
そもそも、提案の内容以前に、そうした「仕組みを変える」提案をするということ自体が「現状はそうではない」のであり、
すなわち「空気」に反しているのであり、受け入れられる余地がない。道は入り口から閉ざされている。
内側に広がる迷路は巧妙に閉じており、その中を歩く者にさまざまな景色を見せつつ、出口はどこにもない。
現状、ドウショウモナイ仕組みになっている、とする。
それに対し、「仕組みを変えてこうすればいい」という提案がある、とする。
それ自体を見れば、どう考えても良好な案であるような、そのような案である、とする。
それを人々に伝えれば間違いなく賛同が集まるであろうと思われる、魅力的で希望に満ちた提案。
提案はすぐにでも実行に移され、間もなく仕組みは変わり、問題は解決するであろう。未来は明るい。と、思われる、とする。
しかし実際はそうはならない。強力な抵抗にあい、明るく見えていた未来は途端に闇に閉ざされる。
まず、気付かなければならない事実がある。
今までずっと「そう」だった、ということです。
今までずっと「その仕組み」の中で人々が生きていた。
今までずっと「それ」を変えようということを誰も言い出さなかった。
だからこそ、現状「ご覧のとおり」となっている。
言い出した人ぐらいはいたのかもしれませんが、実行に移されることはなかった。
だからこそ、現状「ご覧のとおり」となっている。
その「変えよう」という提案の内容は問題ではない。
内容自体を見れば、それ自体はどう考えても良好な案なのでした。
現状に問題意識を持って、「こうではなく、どうだったらいいか?」ということを少しでも考えれば、
誰だって必然的に同じ結論になるであろう至極当然のアイデア。斬新でもなんでもない。
にもかかわらず、誰一人それを言い出さなかった。誰一人それを実行に移さなかった。
だからこそ、現状「ご覧のとおり」となっている。
この事実!
現状が「ご覧のとおり」であるという、その事実から読み取ることのできる、おそるべき現実。
問題を抱えた現状の仕組みの中で、日々「あーだ」「こーだ」言いながら、
誰一人、そうした仕組み自体を変えようということを言い出さなかった、ということ。
延々と同じことが続けられてきた。
言い出した人ぐらいはいたのかもしれない。
たとえば「おまえみたいなことを言うやつは今までに何人も見てきた」などと言う言説がマニュアルに載っているのはご存知のとおり。
しかし、仮にそうだとするなら、そうした案を聞いて、知っていながら、それでも! 同じことを延々と続けてきた、ということ。
この事実!
まずは、この、おそるべき事実に戦慄するところから始めねばならない。ガタガタブルブル。
この世がこのようであるという事実。
現状が「こう」いうものとして目の前に厳然と現前するという事実。
これらのダジャレにまずは戦慄せねばならない。もう春だというのに今年の寒さには震えが止まりません。ガタガタブルブル。
この世が「このよう」であるということを規程する何らかの力が存在している。
トナールの境界を規程する力の輪が存在している。
その力の輪が結合させている場所が、とどのつまり、我々が生きる、この世、なのでした。
無限の宇宙空間の一角の、「空気」が集まる重力場。
そここそが、とどのつまり、他でもない、我々の生きる、この世、なのでした。
この重力場に、この力の輪に、まずは戦慄しなければならない。
この、ドウショウモナサに、ともかく戦慄しなければならない。
これは決して、この世が存在していて、その中に人々がいて、たまたま今はそうなっている、
というのではなく、
そもそも、この世が存在しているという時点で、それはもう、「このよう」であるということなのではなかったか? なお、ダジャレです。
仮にそうした「力の輪」が存在しないとすれば、そもそも、この世が存在することもない、ということなのではなかったか? あ、ダジャレにならない。
だから、たとえば、その「力の輪」というものにかかり、
人々を「力の輪」の束縛から解放して自由をもたらして云々……などのように考えるとするならば、
その考えは根本的にオカド違いということになるでしょう。
なにしろ「力の輪」がなくなれば、この世そのものが消滅するハズだからです。
この世の存在に先立つものとして、そのような「力の輪」があった。
すなわち、「力の輪」によって結び合わせられて、この世がこのよう(ダジャレ)なものとして存在しているという時点で、
この世は、そもそものハジメから、このようであるというダジャレなのであり、
今後とも末永くこのようであるという、これまたやはりお馴染みの同じ道というダジャレ街道が無限に続くのみなのではなかったか。
「なのではなかったか」と言いました。
「こう」であることは、何か、そもそもの初めから、知っていたことであるような気がします。
いや、そうでもないかな。この感じはなんなのでしょう?
それにしても、そうとわかった上で、ではどうするのか?
この場所を放棄して宇宙へ旅立つのか、さもなくば、「力の輪」の中で生きていくのか。
問題は、ここで生きる以上、この「力の輪」の影響力から逃れられないということです。
そして、その「ドウショウモナサ」に戦慄せざるを得ない。ガタガタブルブル。
いわゆる「言論の力」を信じる立場からは、この「輪」を作っているのもまた、そこにいる人々の力である、ということになるでしょう。
が、果たして本当にそうなのか? まったくそうではない、ということではないにせよ、果たしてどの程度のものなのか?
「言論の力」と、この世の境界を規程する「力の輪」。
「正しいことを粘り強く訴え続ける」という程度のことで、このドウショウモナイ「力の輪」に、果たしてどこまで食い込めるものでしょう?
この「力の輪」は、実のところ、何かもっと、別のところに由来しているのではなかったか?
それが何なのか、というのは、実のところ、すでに知っていることなのではないかという気が、してしまったりもする。
そして、その魔術を使いこなす人間にもまた、心当たりがあるのではなかったか?
自分の手足のように、生まれ持った当たり前のものとして、そうした魔術を使いこなす人間に、心当たりがあるのではなかったか?
そして、そうした人間の目の奥に、いかなるものも読み取ることができない、ということもまた、周知のことなのではなかったか?
「目を覚ます」ことで忘れてしまうものがある。
そして、おそらくは、すべてを愛していたはず。
ここで一体何をしているのか?
さしあたり、何度でも言っていきましょう。
今日もあなたが幸せでありますように。
|