マインドルの対戦パート作成
学園モノと言えばマインドルのペアバトル。
ペアバトルと言われても、何だかわかりにくいですね。
何がわかりにくいかと言えば、キャラの表示位置を躊躇なく重ねているという大胆かつ斬新なレイアウトのため、
「ペア」であることを理解するには、それなりの見識が要求されるという点です。さぁみんな、ついて来れるかい?
しかもこの赤い人、長髪の上にマントなんか羽織ってるもんだから余計に後ろが見えないじゃないですか。
右側がプレイヤーチーム。
主人公氏は立ち絵がないのでこうなります。「ペア」という言葉の先入観にとらわれない、これまた斬新な仕様。
この画面だけを見てペアバトルだと認識するのは難しいかもしれませんが、実際には文章がつきますので、
みなさまの日頃から鍛えているイマギナティオーンを発揮して、文脈から察していただければハッピーに存じます。
プレイヤーチーム側はまだしも、左側の敵チームの表示のデザインについては、この斬新さはキミたちには少し早すぎるかもしれませんので、
手番が交代するたびに位置を入れ替えるようにはしておきました。私は本当に慈悲深いですね。
↓
ちなみに、誰の番なのかもわかりにくくなってしまうので、「現在の手番」を表示するようにしました。
SFMLの四角形オブジェクトに文字を載っけただけという虚飾を廃した機能美の極致。
手抜きをしようなどというつもりはほんの少ししかありませんよ。
こちらは相手側が一人で、プレイヤー側だけペアバトルのパターン。
実際のプレイ感覚としては、相手側はペアだろうが単独だろうが、あんまり変わらないですね。
でもキャラごとに別々の設定のAIを持っているので、元気があれば棋風に特徴をつけることができる可能性にひらかれております。希望の明日へ。
で、自分の側が「ペア」になっていることのプレイ感覚はどうなのかと言う話ですが、
一言で言うと、例のアレです。なかなか面白いですよこれは!!
なにしろ、思い通りに指し進められないというのが、意外なほどドキドキです。
自分が前進させた駒を、次のターンでパートナーに元の位置に戻されたり。お気に召さなかったのね。
パートナーのAIが強い設定の場合と弱い設定の場合で、それぞれ別の味わいがありますね。
強い設定にしたパートナーに「詰み手順が見えたぞ!」みたいなことを言われて、でも全然わからなかったり。
間違えたら申し訳ないなぁ、と思いながら指す緊張感。
弱い設定にしたパートナーがヘボい手を指しまくるのも味わい深い。いかにしてフォローをしていくか?
「おいおい、そっちに行くのかよ〜」などと画面の前で言い始めたら、そこはもう現実と虚構の境を超えたワンダーランド。
さぁ、キミは無事に帰って来ることができるか?!
はい、そんなわけでペアバトルのモードが実装されましたとさ。
こんなに楽しいモードをもうすぐプレイできるようになるなんて、あなた方は本当にラッキーですね。
あっ、そういえば投了ボタンをつけておかないとマズイのかな。
すっかり忘れてました。
なければないでいいんじゃないですか? どうしても、ってときはウィンドウを閉じればいいじゃない。
とは言うものの、それも少々アバンギャルド過ぎて世間の理解を得られないかもしれませんので、
元気が余ってるときを見計らって追加するかもしれません。
さしあたりは、これにて特殊モードの機能は実装できたのかな? どうもそうらしいですよ。よかったのう皆の衆。
「次の一手問題」のシーンがあるんですけど、どうしようかな。選択肢モードの一種ということで、多分イケるでしょう。
じゃあ、あとはもう、どんどんスクリプトに落とし込んでいくのみですね。わき目もふらず突っ走ろう。投了ボタンのことも忘れて突っ走ろう。
何か他になかったかな。何か忘れている大事なことがあるような気がしてなりません。
たとえば前世で生き別れになった恋人の生まれ変わりを探すこととか、エンディングのムービー的なものを用意することとか、AIの改善のこととか。
AIのことは結構心配してたんですよ。恋人の生まれ変わりの行方と同じぐらいには。
ですが今まで作業をしてきた感触によると、今のままでも充分イケますね。
キャラごとに戦法というかスタイルの差をつけたいと思ってたんですけど、ぶっちゃけ、わかんないと思うんですよ。
簡単なのでもいいかな? 最初の数手だけ必ず一定の手を指す、とか。
手軽に実現できそうな案を何か思いついたらそのとき考えるとして、今は本文に出てくる対戦イベントを全部実装してしまうのを先としたい。
なんなら、リリースした後に、自殺するまでのスケジュールの合間をぬってバージョンアップの一環としてヤレばいいじゃない。うむ。
ともかく今は体裁を整えて「完成」と言い張れるようにすることを目指そう。おぬしもワルよのぅ。
ところで話は変わって、「空気」の話。
それが実際のところ何なのか、というのは甚だ不明ながら、それでいて「空気」という言葉があるということからも、
何かそういうものが存在するようだ、という共通認識はあるようです。
それにしても、うまい比喩ですね。「空気」という表現。
誰が最初に言い出した、というのは調べればもしかすると特定の有名人の誰それが記録にある中では最初、
みたいなことは言えるのかもしれませんが、実際のところはむしろ、
誰からともなく言うようになって定着した、ということなような気がします。まさに「空気」のように。
目には見えないけれど、どこに行っても確実に存在していて、私たちを一様に包み込んでおり、逃げ場はなく、依存せざるを得ない。
「空気」に逆らって生きるのは、まさに「息苦しい」ことです。
結局のところ、この「空気」ということを抜きにして、この世の仕組みを理解することはできないような気がいたします。
外面的には人間がそれぞれバラバラに存在していて、たまたま近い距離に集まっていて、人が集まるから(暗黙的な)ルールもできて……
というようなことであるように見えたりもしますが、むしろ話は逆なのかもしれない。
まず「空気」ありき。
個人が先にあって、その上に世間が覆い被さっている、というののではなく、
まず「空気」が先立っていて、その個別の虚像として、それぞれの人体が浮かび上がっている。
「本当はそんなはずはない」とは思うのですが、
それぐらいの心づもりで向き合わないと、迷路に迷い込んで抜け出せなくなってしまう。
何しろ、目の前に「独立して思考する主体が存在している」という前提は、いつだって裏切られるのです。
「空気」の中では、「理性的に考えて正しいこと」が正しいのではなく、
「空気」に一致していることが「正しい」ことになる。
「空気」に一致しないことは、いくら「理性的に考えればそれが正しいはず」のことでも「間違った」ことになる。
「理性的に考えれば明らかにおかしい」はずのことが慣行としてまかり通っており、
しかし、いくら噛んで含めて言葉を選んで人に話しても、どうしても話が通じない。
それどころか大多数の人たちから寄ってたかって批難される。
そして「理性的に考えれば明らかにおかしい」慣行が、相変わらず続いてしまう。
そういうことってあるはずです。
「空気」は単に外面的な行動を縛るだけではなく、おそらくは思考の内容までも規程してしまう。
おそらくは、そうした「空気」を代弁する人々にしても、わりと本気でそう思って、そのようにしている。
で、こういう場合、言論の力を信じる立場からは、
みんな心の奥底ではわかっているのだけど周囲の目を気にして本音を出せずにいるんだ → 根気よく真実を語ればいつか伝わるはずだ、
というような信念があることと思いますが、
それがかなりの高頻度で裏切られる、というのが実際のところではなかったか。現実を虚心坦懐に見れば認めざるを得ないものがある。
「たしかに私も個人的にはその通りだとは思うし、残念だとは思っているけど、でも仕方なく……」
と、実は多くの人が心の中では思っている……
と、期待したいところではありますが、おそらく実際には、そうではない。
「おかしな慣行」に従っているそのとき、嘘偽りなく、その通りに信じ込んでいる。
少なくとも「空気」通りの「おかしな慣行」を擁護しているまさにそのときは、そのように信じ込んでいる。
"意外と" それが実態なのではないのか?
そして、時流が変化した場合には「実は俺も前からそう思ってたんだよ〜」と、これまた嘘でもなんでもなく、しれっと言う。
決して見栄を張って言うのでなく、心の底からそう思って、そのように言う。
"意外と" それが実態なのではないのか?
こいういう実態に対して、「理性的に独立して思考する主体」という人間観を前提とした言論活動の、いかに無力であることでしょう。
ところで「空気」の「気」つながりで「気功」ってのがありますよね。
アヤシゲな自称武道家みたいな人が「気」の力、と称して手に触れずに弟子を投げ飛ばす、みたいな。
弟子の人が「先生」に向かって威勢よく飛びかかって、「先生」が軽く手をかざすと弟子の人が、これまた勢いよく後ろ向きにすっ飛んでいく。
傍から見るといかにもワザとらしくて滑稽にさえ見えますが、あれも多分、多分ですけど、やってる方は本気なんですよ。
騙そうなんていう悪意があって演技をするのなら、もっと上手なやり方がありそうなものです。
これも一種の「空気」なんじゃないでしょうか。
弟子と先生の「信頼関係」のようなものがあって、「先生が手をかざしたんだから、弟子たるもの、おとなしくすっ飛ぶべし」
などと明確に意識しているわけではないでしょうし、明確に意識しておらず、無意識レベルで「信じて」いるからこそ、
演技でもなんでもなく、「実際に」すっ飛ばざるを得ない。
そこにはそのような「気の流れが」があるのであり、それが見える人には見えていて、見えるからには逆らえない。
まさに「空気を読んで」いる。まさに「気」の力と言う他ありません。
波動拳をくらって「うわぁ〜」と言っているストリートファイターのみなさんは
「空気の読める」人たちってことですね。無敵技ですり抜けるなんて大人気ない!
こういう「気」の伝統というものが、東洋的な文化の中で現代まで伝わってきているというのは
なかなか興味深い気がいたします。おっと、「気」がしたとは、これまた。
多分、昔は、そういうのが「本当にあった」んですよ。
「ヘビに睨まれたカエルが身動きが取れなくなる」というような、野性的な感性と言えばいいでしょうか。
今以上に生々しい日常的な現実として、人間からは「気」が出ていて、その他の山川草木や森羅万象からも、何らかの「オーラ」が出ていて、
人々は何の疑いもなく、そういうものが「あるもの」という日常をリアルに生きていた。おそらくそういう時代があった。
しかし「理性的に独立して思考する主体」には、そのような「気」は見えません。
まさに「空気が読めない」ってやつです。
時代が現代に近付くにつれ、人々が個別に理性的に思考するようになり、「空気」は「見えにくい」ものにはなってきた。
それでも、依然として、なくなったわけではない。
むしろ「見えにくい」分、余計にその影響力が大きくなっているとも言える。
今でも「気」というものは間違いなく「ある」のですよ。
たとえば山道を歩いていて、しめ縄が張られた場所があったとして、その先に進む気になれるか?
私はちょっと、無理な気がします。頭では「別にどうってことないじゃん」と思いつつも、足が進まなくなりそうです。
これも要するに、アヤシゲな自称武道家の先生の手かざしと同じことなのでしょう。
結局、私も吹っ飛んじゃってるんですよ。レバー1回転で吸い込まれちゃってるんですよ。
> 外面的には人間がそれぞれバラバラに存在していて、たまたま近い距離に集まっていて、人が集まるから(暗黙的な)ルールもできて……
> というようなことであるように見えたりもしますが、むしろ話は逆なのかもしれない。
たとえば「経済学」では「合理的に利益を追求する経済人」のような架空のキャラクターを想定して、
そういう架空のキャラクターたちのふるまいとして、世間の動きを理論家しようぜ、ということだったりする(らしい)のですが、
これも結局、迷信ですよね。
そんな人間はいない。
しかしそう言って経済学者の先生たちをバカにもできません。
私だって「人間は独立して思考する存在だ」などという迷信を信じ込んでしまっている。
どうやら「空気」の力を無視するわけにはいかないようです。
なお、これは「人間は "空気" に影響されてしまいやすいものなのだ」というようなことですらない。
このように言う場合は、あくまでも実際には独立した個別の人間がいて、
その上で「空気」というなんらかの非理性的な影響力があるぞ、ということですが、
これでは依然として「人間とはそれぞれに独立して思考する存在だ」という迷信の親戚です。
そうではなく、むしろ「空気」の方が先立つ存在である、というふうに考えるぐらいで、ようやく釣り合いが取れるというところではないか?
実体は「空気」であり、個別の「人間」は幻想。
人間が個々別々に存在している「ように見える」かもしれませんが、あくまでも実体は「空気」の側にあり、
個々別々の「人間」は実体としての「空気」の個々別々の表れ方。マニフェステーション。あるいはインターフェイス。
こんな世界が現実だとすれば、実に不気味な話です。
こんなはずはない。これが「人の世として正しい」とも思えない。
しかし、「目の前に "独立して思考する人間" が存在している」と思っていると、いつだって足元をすくわれるんです。
じゃあこの世界には「人間」はいないのか?
いや、いる。いないわけではない。断じてない。確実にいる。
確実にいるんですよ。たとえばあなたとか。ほらね、いるじゃないですか!!!!!!!!!!!!!
そこにあなたがいるじゃないですか〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1111
はい、ビックリマークだっていつの間にか全角の1になってしまうというもの。
それぐらい確実で、なおかつ衝撃的な事実ということです。
そう。間違いなく「人間」はいる。
いつまでも「はどぉけん!」とか言われて、素直に「う〜ぁ〜」とか言ってる場合じゃない。
だからつまり、なんだかんだ言っても、人間を否定しては、「生きている意味がない」ってことです。
私がいる。あなたがいる。あの人がいる。その人がいる。ほらほら、いるじゃないですか。いるじゃないですか〜〜〜。
そしてあなた方の幸せを願う。生きてるってそういうことでしょう?
では、じゃあ「空気」とは何なのか?
「空気」が人間を殺す。みんな、吸っちゃダメだ! 今スグ息を止めるんだ! うぐぐ!
しかしもう遅い。誰もが腹一杯「空気」を吸い込み、人間は死に絶えてしまった。
そういう現実がある。
ここから出発するしかない。人間が死に絶えた廃墟の中、あなたを探す旅に出る。
それにしても「空気」ですよ。これは相当に重大なことですよ。
何かふわっとしたあいまいなもの、なんてもんじゃない。我々が生きている「この世」とは、とどのつまり「空気」のことです。
そう言えば宇宙には空気がないのでした。そう、地球とは我々が生きている世界のことなのでした。ようこそ、ここは空気の世界。
そこに確実にあって、我々を一様に包み込んでいる、目には見えないもの。
重大でありながら、しかし、つかみどころがない。
あるのか、ないのか?
あると言えばあるし、ないと言えばない。
いや違う。逆だ。
あると言えば「おまえの被害妄想だ。病院に行け」などとバカにされ、
ないと言えば「そんなんじゃ世間に通用しないぞ」などと説教される。
思い込みが具現化している、というよりも、逆の力が作用している。
こっちの方が厄介です。なぜかと言えば、自分の意志ではドウショウモナイからです。
「あるから気をつけよう」という呼びかけは不首尾に終わり、
「ないんだから気にしないでおこう」という心がけも潰される。
ドウショウモないデッドロック。
あなたを探す旅はどうやら前途多難のようですよ。
一体全体、本当に、この「空気」というやつは何なのでしょう?
ここをクリアしないことには、何をどうしたってドウショウモナイ。
いくら「正しい」ことを言っても、「空気」に反している限りドウショウモナイ。
いつの日か「時代が変わる」ことはあるのかもしれません。
しかしそれも結局、「空気の流れ」でしかないんじゃないですか?
そこは果たして人間が存在する世界であるか? 「実は俺も前からそう思ってたんだよ〜」とか、どの口で言ってんだ。このやろ〜。
「言論の力で根気よく訴え続けてきたから」というのも結果論でしかないような気がします。おっと「気」とは、これまた。
今はただ、あなたが幸せであってくれることを願うばかりです。
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