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◆◆ したこと: ◆◆

        マインドルのCG作成
        
        学園モノと言えば宇宙。
        
        
        
        船外に未確認浮遊物体を発見!
        
        
        拡大します!
        
        
        さらに拡大します!
        
        
        ああっ、あれは!?
        
        
        あ、どうも、こんにちは。
        
        
        遠いところまでようこそおいでくださいました。
        宇宙名物の地球でも見てってくださいよ。
        
        
        そんなわけで宇宙三昧の一週間でした。
        先般の宇宙にイッた気分になるお薬での経験が役立ったとか役立たなかったとか。
        
        さて、宇宙に行くなら欠かせないのが宇宙服。TPOをわきまえた常識人ならば当然の装いと言えましょう。
        昨今の宇宙時代を踏まえ、もちろんコミPo!学園にも学校指定のスクール宇宙服が用意されているハズ。
        と、自己暗示をかけて固く信じ込んでいたのですが、残念ながら私の妄想だったので、顔以外ほぼ手書きコースでした。
        
        
        
        宇宙服に見えますよね? はーい見えまーす。うむ。
        空気のない宇宙でさえ耳元の生々しい声は健在です。頼もしい限り。
        見るからにドシロウトの仕業という仕上がりですが、ドシロウトの仕業なのだから仕方がありません。不可能を可能にしたとはまさにこのこと。
        いつもながらスクリプトを書いた人は勝手なことばかり言ってますが、どうするつもりだったのでしょうね?
        なお、色は白地にグレーの模様、というわけではなく、影がついているつもりなのですが、もうどっちでもいいや。どっちでもいいのかよ。
        腹部の機械っぽいパーツは何なのかよくわかりません。闇雲に宇宙のドレスコードを遵守ってカンジなんだぜ。ヘンじゃないかしら? ドキドキ。
        ちなみに色を肌色に塗ると我が国の国技のプレイヤーのようになるので、ぜひ画像をコピペしてお試しくださいね。
        
        というわけで今週の成果は18枚。まさに天文学的数字。
        なぜかというと、上記をご覧のとおり、ほぼ同じ画像の拡大・縮小での使い回しが多かったからです。
        やはり宇宙ってヨイですね。もう地球に帰りたくないですよ。
        実質的には3枚ぐらいしか作業してないような気がします。
        が、ともかく宇宙服で力尽きました。ご承知のとおり私はエライので不可能を可能にしますが、いくらエラくても疲れないワケではないのです。
        そういえば名古屋方面では「疲れる」という意味で「エライ」と言うらしいですね。
        エライとは疲れることと見つけたり。名古屋方面の人はうまいこと言いますね。
        ちなみに私が住んでる日本海側の北陸エリアでは、ものを貰ったときなどに「ありがとう」という意味で「気の毒」と言います。
        「あらぁ〜あ、キノドクなぁ」という感じです。
        私宛にお金などをくれると生で聞けるかもしれませんので、ぜひお試しくださいね。お待ちしてまーす。
        宇宙の話をしてたハズなのに、このローカルっぷりは何だ。
        
        
        
        さて、あんまり気が滅入る話をしたくはないのですけども。
        さきほど窓の外を年末の火の用心っぽい拡声器車両が通っていきました。
        気が滅入ります。ひたすら気が滅入ります。
        
        「これ単独」について「だけ」で言うならば、年末の数日間の期間限定の「お祭り」みたいなものですから、
        どーしても我慢ならん、というわけではないのですけども。
        ただ、なんていうのか。
        
        「結局そんなことを、いまだに、やっちゃってる」
        
        ってことですよ。そこが気が滅入るところです。
        本当にドウショウモナイ。
        
        夜もそこそこ更けてきた時間に、大声で、ほとんど無意味なメッセージをわめいて、住宅街を巡回する。
        素朴に言って、どうかしてます。
        この点については、もう、あらためて言うまでもなく、さんざん語り尽くされていますので、敢えて繰り返す気にはなりません。
        問題はむしろ、「さんざん語り尽くされている」にもかかわらず、「結局、いまだに、やっちゃってる」という点にこそあります。
        この件だけに限ったことではありません。同じようなことが相変わらず続いている。
        
        「どうかしてる」ことを、大の大人が、何人も、雁首揃えて、いつまでも、繰り返し続けている。
        何一つ難しいことなどありません。単に「やらなきゃいい」だけのことです。が、「ド ウ シ テ モ !」そうはならない、という現実がある。
        本当に本当に本っ当〜〜に! ドウショウモナイ。
        
        
        もちろん今日も私は耳栓+イヤホンのホワイトノイズでガッチリとガードを固めて過ごしておりました。
        これで大抵の音は防げます。
        しかし、ああいう音は、それでも脳天に突き刺さってくる。
        単に物理的な音の大きさというよりも、「聴かせてやる!」という意志の強さを感じます。
        「何がなんでも聴かさずにはおかん!」という、強烈で圧倒的な意志を、まざまざと感じます。音というより、もはや霊力です。
        
        とは言っても、もちろん、そこに参加している人たちの一人一人には、そのような意志はないはずです。
        一人一人は、単に習慣としてお役目を淡々と遂行しているに過ぎないでしょう。
        平たく言えば「なんも考えてない」ってやつです。
        だから、一人一人に対して、個人として、差し向かいで話をしようとしても、会話が成立しません。
        「○○○なのでご理解ください」といった「集団としての意志を代行するセリフ」が出てくるか、
        あるいはせいぜい、「そんなこと言われたってナァ、オイ……ごにょごにょ」ってなもんです。
        こういう人(たち)と話をしようとしたときの底無しの虚しさには独特のものがあります。
        
        ではあの「何がなんでも聴かさずにはおかん!」という強力で圧倒的な意志は「誰の(何の)」意志なのか?
        ここから先に話を進めようとすると、もう、なんだか、オカルトになってしまうというか、
        はっきり言ってオカルトそのものなんですけど、「集団の背後にいる何らかの霊的存在」としか言いようがない「何か」です。
        
        できればオカルトの話はしたくないんですが、
        「理性的な話が通用せず」「不合理なことがまかり通っている」という「現実」がある以上、
        もはやオカルトは避けて通れない気がします。
        というより、「理性的な話が通用せず」「不合理なことがまかり通っている」というのは、まさにオカルトそのものです。それが「現実」です。
        
        いや、これが仮に個人の身の上にだけ発生しているのであれば、
        個人的に精神機能に何らかの問題がある、ということで「話が片付く」のかもしれません。
        しかし、大勢の大人を巻き込んで集団的に発生している。
        「まともな」説明が不可能なのですよ。
        え? 何ですって? キチガイは私の方ですって? このやろ〜。
        
        >「○○○なのでご理解ください」といった「集団としての意志を代行するセリフ」が出てくるか、
        
        これなんて、まるで「口寄せ」そのものです。
        
        そこにいる誰も、「自分の意志」で行動していない。これがオカルトでなくて何でしょう?
        集団的憑依現象です。
        憑依と言ってマズければ、「こっくりさん」とでも言っておきましょうか。
        完全に意志を乗っ取られてぶっ飛んでいるというのとは違うようですので、「憑依」というと少々大げさではあるかもしれません。
        実際のところ「こっくりさん」なのか何なのかは不明ですが、何らかの人外魔境の非物質的存在を想定せざるを得ません。
        
        だって、考えてもみてくださいよ。
        繰り返しになりますが、その場にいる誰も、「自分の意志」で「それをすべき」と判断しているのではなく、
        「なんか、しなきゃいけないことになってる(ような気がする)」というぐらいの、
        あやふやでありながら、それでいて拒否不能な、「いわく言い難い強制力」に導かれて、
        大の大人が、雁首揃えて、合理性のカケラもないことを「やっちゃって」るわけです。
        これが「憑き物」でなくて何でしょう?
        
        「憑き物」と言ってマズければ「カツオノエボシ現象」でもいいです。
        
        
        
        全体で一匹の個体のように見えますが、実際には複数の個虫が寄り集まっている。
        
        呼び方は何でもいいですが、要は、個人の意志を超えて、「集団」として「出現」する、何らかの「力」です。
        
        「騒音問題」に限ったことではありません。
        こうした「力」がこの世に存在すること自体は否定のしようがないことです。
        誰でも多かれ少なかれ、何らかの「力」の影響下から逃れられるものではないでしょう。
        そのこと自体が必ずしも悪いこととも限らないでしょう。
        
        ただ、問題は、

        「話が通じない」

        という点です。
        
        「これって、おかしいよね?」という、人間の個人の理性に訴える仕方で何をいくら言っても、
        そんなものは、こっくりさんには通じない。
        
        
        
        どのように「通じない」かと言えば、
        第一に、「こっくりさん儀式」に参加している個々の一人一人に言っても「おまえじゃ話にならん。店長を出せ」なのであり、
        第二に、「こっくりさん」自身は何しろ「人間ではない」のだから、人間のロジックが通じる道理がない。
        
        ただ、「こっくりさん」に限って言えば、多少は「マシ」とは言えるかもしれません。
        どのように「マシ」かと言えば、
        第一に、その「霊的存在」の名前が「こっくりさん」であるということが判明しているという点で「マシ」であり、
        第二に、少なくとも自分たちの意志で今「こっくりさん」を呼んでいるということがわかっているという点で「マシ」であり、
        第三に、一応なりとも交信手段が確立されているという点で「マシ」と言えます。
        もちろん、あくまでも「マシ」の域を出ないのであり、そもそも人外魔境である点は変わりません。くわばらくわばら。
        
        
        おそらく、そのような人外魔境さんはこっくりさん以外にも大勢いらっしゃいます。
        拡声器騒音というのも、各種人外魔境さんたちの活動のごく一部に過ぎないでしょう。
        どのような存在が、何の目的で、そうしたことをしているのか? それは「わからない」としか言いようがありません。
        何しろ、繰り返しになりますが、人外魔境さんなのであり、「人間ではない」のです。わかりようがない。
        むしろ下手に「人間的な」理屈の範囲に押し込めて解釈しようとすると、泥沼になる。
        説明をつけてやり過ごすのではなく、まずは「なんかおかしい」ことが発生中である、と認める必要がある。
        え? なんですって? 「なんかおかしい」のは私の方ですって? おのれ〜。
        
        ただ、一つ共通していることとして、どうやら「集団に憑く」という性質があるらしいと見えるという点が挙げられます。
        これは別に「霊的なもの」を想定しなくても理解できることでしょう。
        よく言われることではありますが、人間は集団になると、個人では到底できないはずのことをやってのけるようになったりします。
        悪い面ばかりではなく、良い面もあるでしょう。
        力を合わせて、個人では不可能なことを可能にする、ということだってあるでしょう。
        ただ、それも「集団の力」ということの裏と表です。
        
        詳しい統計は忘れましたが、個人的な諍いによる殺人事件よりも、
        国や民族同士の戦争や紛争での死者の方がずっと多いそうです。
        個人では到底できないことが、集団の論理では実行できてしまう。
        さらに、よその国や異民族との戦いによる死傷者よりも、軍隊や警察が自国の国民を弾圧して被害を与えるケースの方がずっと多いそうです。
        集団が個人を殺す。
        実在する「個人」が、「国」や「民族」といった非実在のフィクションに殺される。
        
        それでも集団というものに対する(奇妙な)信頼感のようなものがあります。
        個人が権力を握ることは「独裁」として戒められます。
        個人でアイディアを考えるよりも、集団で議論する方が良いアイディアが出る、という「神話」があります。
        多数決で物事を決めることは「民主的」ということになっています。
        
        こうした「集団」に対する(無根拠な)信頼感を、
        「集団」に憑く霊的存在への「悪魔崇拝」と呼んだとしても、あながち言い過ぎではないかもしれません。
        え? なんですって? 私をキチガイと呼んだとしても、あながち言い過ぎではない、ですって? やかましいわ!
        
        「一人では何もできない」と言います。確かにその通り。
        しかし私もあなたも一人だ。その無力さの埋め合わせに人外魔境に頼る必要がどこにあるでしょう?
        あるのでしょう。きっと、あるのでしょう。
        
        しかし「集団」が「悪魔」である、という発想は、今の世の中ではあまり一般的ではないようです。
        「悪」というのは、もっぱら「個人」が犯すものであり、したがって「集団」が「個人」を「取り締まる」必要がある、
        というのが現代の支配的な発想のようです。
        「集団」の「悪魔的側面」があまり認知されていない、という現実がある。
        認知されていない「悪」は「やり放題」です。何しろ、誰もそれを「悪いこと」だとは思わないのですから。
        それどころか、むしろ積極的に「よいこと」「道徳的なこと」「大人らしいこと」「人格的なこと」として奨励される。
        一方、個人的な判断で行動することは「身勝手」「独善的」「空気が読めない」などと戒められる。
        「あくまで個人的な意見ですが……」と言ってみせることが、「へりくだり」の代名詞になる。
        
        現代では、「悪」と言えば、もっぱら「個人の悪」を指します。
        「個人」とは放っておくと何をしでかすかわからない「悪い」ものであり「管理・監視」して「取り締ま」って、
        そして「集団」に従うように「教育」する必要がある、ということになっている。
        個人が個人であることは否定され、集団に同化することが目指される。
        
        もちろん個人が無条件に「善」である、などと言うつもりはありません。
        「個人の悪」、というものもあるでしょう。
        が、今は「そういう時代ではない」と言っておきます。
        
        現代において、真に恐るべき「悪」は「集団の悪」です。
        なぜ恐ろしいかと言えば、「悪」だとは認知されていないからです。
        「個人の悪」は既に充分すぎるほど「悪」として認知されています。
        「悪」であることが明るみに出て知れ渡っている。そんな「悪」は恐るるに足りません。
        「悪」だとは思われていないような「悪」こそが恐ろしい。
        現代では「集団の悪」は「悪」として認知されていないばかりか、むしろ「善」だとさえ思われていて、
        存分に、のびのびと、その威力を発揮しています。キャー怖い! くわばらくわばら。
        とりあえず、おっぱいでも揉んで落ち着きましょう。
        おっぱい「でも」とは聞き捨てならないな。ち、違うんだ! 俺はただ(以下略)
        先週に引き続きお盛んですね。
        何の話でしたっけ。悪がどうのこうの。
        そういえば昔、「あくの十字架」っていう怪談が流行ったことがありましたっけ。
        当時は私は世間のことを知らない純真無垢なお子様だったのであんまり気付かなかったんですが、
        実際、世の中のほとんどのお店は、開店時刻がだいたい十時かそこらなんですよね。
        まさに「開くの十時か〜」は現実だったというわけです。くわばらくわばら。
        
        こういう怪談って他にもいくつかありましたよね。
        私が覚えているのは他に「おおかみおとこ」「のろいの三輪車」「青い血」です。
        伝統文化の保存のためにも、この機会に書き留めておこうと思います。
        
        ・おおかみおとこ:
        強風の吹き荒れる日、長い髪の男が歩いていた。
        男は強風の中で長い髪を振り乱しながら、懐から何かを取り出した。鏡だ。そして櫛。
        鏡に映った自分の乱れた髪を見て男は言った。「おお、髪をとこ〜」
        
        ・のろいの三輪車:
        昼下がりの静まり返った住宅街。寂れた細い路地を、錆びついた三輪車に乗った小さな男の子が一人。
        薄暗い路地に、錆びついた三輪車の軋む音だけが静かに響く。
        そこへ、男の子の背後から、巨大なトラックが迫ってきた。
        細い路地の中へトラックはその巨体をねじ込むように入り、ゆっくりと男の子の背後に迫る。
        追い越せるような隙間などない。ゆっくりと執拗に迫るトラック。何も気付かないかのごとく無邪気に三輪車を軋ませる男の子。
        やがてトラックの運転手がつぶやいた。「のろいの〜、三輪車」
        
        ・青い血:
        ケーキを食べて「あ〜、おいちぃ」
        
        
        さて、何の話をしてたんでしたっけ?
        何か非常に重大な話をしていた気がします。
        頭脳明晰な私に限って、そんな大事な話を忘れるなどありえないこと。
        さては悪霊の仕業に違いありません。悪霊め!
        
        
        「騒音」それ自体は、「たかが騒音程度のこと」かもしれません。
        少なくとも直接体験していない人にとってはそうでしょう。
        が、これを「集団による悪」の一種として認識すると、見える景色が違ってきます。
        
        なぜなら、いわゆる社会問題のごときものは、たいていは何らかの形で「集団による悪」によるものだからです。
        根の部分に同じものがある。
        個人の判断ならば、いくらでも「もっと他にやりようがある」と思われるはずのことが、実際はそうはならない。
        「なんか、おかしい」ことが、「物分かりのいいロジック」で消極的・間接的に「承認」され、
        いつの間にか「当たり前」ということになり、大手を振って世間を席巻してしまう。
        具体的に「誰のせい」というわけでもなく、誰も望んでいないはずなのに、「仕方のないこと」とされ、世の中がどんどん住みにくいものになっていく。
        得体の知れない「集団」の論理が、有無を言わさず、個人の判断を封殺し、押し流し、ますます手に負えない濁流となる。
        
        それを「悪霊」などとオカルト的な仕方で呼ぶかどうかは、ある種の形式的なことに過ぎないと言えば過ぎないことです。
        おもしろおかしい怪談話で盛り上がりましょう、ということではありません。あ〜、おいちぃ。
        人間個人の理性とは相容れない「何か」が支配的なものとなってくる、その「現実」を、何らかの仕方で認知し、対処する必要がある。
        これはどこまでも「現実」の話です。開くの10時かぁ。
        
        この世界が、人間が幸せでいられる場所であって欲しいと思います。