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◆◆ したこと: ◆◆

        マインドルの立ち絵作成
        
        学園モノと言えば無抵抗の相手の髪をわしゃわしゃ。
        
        
        
        
        そして学園モノと言えばもう一つ欠かせないのが若い女性につかみかかる社会人男性。
        
        
        
        さぁ、俄然学園モノらしくなって参りました。
        他にも細々と、このような後回しにしていた特殊な単品ものを埋めて学園モノらしさを補強しているところです。
        さしあたり「立ち絵」という形式で用意することになっているデータをコンプリートするべく邁進しております。モリモリ。
        
        
        それにしても、どうしたものでしょうね。
        支配と協調。あるいは協調と支配。
        
        支配型の社会。
        一部の者に権力が集中し、それ以外の人々が服従する。
        
        協調型の社会。
        上下関係はなく、それぞれの個人が他者を尊重しながら自律して判断および行動する。
        
        この2つのうち「どっちがいい?」と聞けば、おそらく素朴な答えとしては後者が選択されそうなものです。
        しかし実際はそうなっていない。そこがどうしょうもない。
        え? なんですって? 仕方ない? 誰だって我慢してる。なるほど。まさにどうしょうもないですね。
        
        支配と協調は正反対のものであるはずです。
        しかし支配が行き届いた空間では、「協調」ということが「おとなしく言う通りにする」という意味になってしまうようです。
        他の国の世相についてはわかりませんが、
        我が国で実際に生活していて肌感覚として感じるのは、そういう風潮です。
        
        だから出口がない。まさに、どうしょうもない。
        
        「仲良くしましょう」というと「支配されましょう」という意味になってしまう。
        「自分の頭で考えましょう」というと「支配者の気に入る "正解" を気を利かせて実行しよう」という意味になってしまう。
        
        だから出口がない。まさに、どうしょうもない。
        
        恐るべきは支配されている側の人々が、こぞって順応を表明し、さらに他者にもそれを要求する、という点です。
        素朴に考えるならば、支配とは「されたくないこと」であるはずです。そのはずです。はずです。
        しかし事実はどうやらそうではないらしいと見える。
        それこそ「みんなで協調」して支配的価値観への順応を表明する。
        ただし、それは何しろ「(被)支配」なのであり、そこに自律的な判断というものはなく、他者を尊重するということもありません。
        その「協調」は、そのような「協調」です。
        自己自身の預かり知らぬところで先験的に決まっている規範や価値観といったことが「ある」ということになっている。
        それに従うことが正しいことであり、
        人に言われなくても積極的にそのように行動することが「自分の頭で考える」ことなのであり、
        その規範や価値観に沿ってすべての他者が裁かれる。
        他人の独自の考えや行動を尊重するということが成立する余地がない。
        自己の外側に規範や価値観を先験的なものとして措定した。
        そのことの、ほとんど必然的とも言える帰結として、他者の独自性は干渉され、裁かれ、測定の対象となる。
        すべてがフラットな物差しの上で差別の順列にそって並べられる。
        「仲良くしましょう」と言って、「仲良しランキング」が開催され、「仲良く」するのが得意ではない人を差別する。
        
        本当にどうしょうもない。

        出口がない。出口のように飾られたゲートは、さらなる地下迷路に人を誘い込む罠なのでした。空間自体が歪んでいる。
        まさにどうしょうもない。
        脱出の望みがない。何しろ空間が歪んでいる。どうしょうもない。

        
        > 自己自身の預かり知らぬところで先験的に決まっている規範や価値観といったことが「ある」ということになっている。
        > それに従うことが正しいことであり、
        
        何しろ「正しいこと」というのは、「自分が決めたわけではないこと」のことなのでした。
        問題集の後ろの解答ページに載っている解答が「正解」なのであり、
        自分なりに考えて書いた答えは「間違い」なのでした。
        
        【先生】
        「そっかぁ、○○くんはそういうふうに考えたんだね。でもね、正解はそうじゃないでしょ。
        え? どうしてかって? うるさいわねぇ、明日学校の先生に聞いてみなさい!」
        
        「正しいこと」とは「客観的なこと」のことであり、
        「客観的なこと」とは「私が考えたことではないこと」なのであり、
        「私が考えたこと」は「主観的なこと」「に過ぎない」なのであり、
        「そんなのはおまえが勝手に言ってるだけだろ」なのでした。
        「そんな勝手なこと言ってたって世間じゃ通用しないぞ」なのでした。
        人が自分なりに考えたことは価値のない取るに足らない自分勝手なことなのであり、
        問題集の後ろの解答ページに載っている解答こそが「正解」なのでした。
        え? その正解を考えたのは誰かって? そんなのは昔からそう決まってるんだよ! そんなこと言ってたら世間じゃ通用しないぞ!
        
        つまり、どうしょうもない。
        
        
        > 支配と協調。あるいは協調と支配。
        
        人類の歴史上、支配の前に協調があったはずです。
        もちろん「おそらく」としか言いようがありませんが、そんな気がします。得意のイマギナティオーンでそんな気がします。
        なぜかと言えば、いわゆる「文明」というものは、とどのつまり「支配体制」のことらしいと見えるからです。
        なんか王様的なのがいて、軍隊や法律があって、下々の庶民がその下で粛々と生活を営む。
        そのような「秩序」の存在を指して「おっ、文明だね!」と言っているようなフシがある。
        したがって、そのような「秩序」の出現以前、は「原始時代」なのであり、
        そのような「秩序」が存在しない場所の人々は「未開人」なのでした。
        まさに余計なお世話ですね。本当にどうしょうもない。
        
        こういう根本的なところに「押し付けがましい」ものがある。
        他人を尊重するということができない。干渉せずにはおかない。
        そういう傾向が、根本的なところに横たわっている。
        大体ここ最近の7000年ぐらい、ずっとそういう風潮がある。これだから最近の若いモンは。
        
        
        > しかし支配が行き届いた空間では、「協調」ということが「おとなしく言う通りにする」という意味になってしまうようです。
        
        さりげなくこういう言い方をしてしまいましたが、もしかすると間違っているかもしれません。
        何が間違っているかもしれないかと言うと、
        「協調」の意味がそのようなものになっている原因として、「支配が行き届いたから」としている点が、です。
        その因果関係が本当かどうかは不明です。
        「支配された結果、そうなっちゃった」ということなのかどうなのか?
        素朴に考えるとそういう因果関係が思い浮かびます。しかし本当にそうなのかどうかは怪しいところではあります。
        なぜかと言えば、「あえてそれを望んでいる」ようなフシが見受けられるからです。
        だってみんな支配されるのが大好きでしょ?
        本当にどうしょうもない。
        でもそれを自分で認めると、「自分の意志で支配をしてもらっている」ことになる。
        すると、それはもはや「支配されている」ことになりません。
        主体性が自分の側にあって支配させているのだから、それはもう「支配されている」ではありません。
        擬似SMに堕してしまう。あたしもうそんなんじゃ満足できないの!
        だから決して「あたしは支配されるのが大好きでーす」とは言わない。
        あくまでも「仕方ないだろ!」です。どこまでも「誰だって我慢してるんだ!」です。
        自己意識の放棄は完璧です。自分の意志で放棄したという意識さえない。この徹底ぶり。完璧とはまさにこのこと。
        みなさんご覧ください。これが「成熟した大人」です。
        もちろん本人が好きでそういうプレイをやってるだけなら何の問題もないのですが、
        厄介なのは、こういうのは他人を巻き込まずにおかないというところです。
        何しろ「あくまで私が個人的に好きでやってるだけ」と認めてしまったら擬似SMに堕してしまうのであり、それじゃ満足できないの!
        だから自分を含めて身の回りの全員が一人残らず登場人物になっててくれないとあたしもう満足できないの!
        本当に本当に本当に本当に本当に、ほんっと〜〜〜〜〜〜〜に! どうしょうもない。
        
        
        
        さらに現代では、「支配」と言っても、具体的に目に見えて誰か特定の人物が「支配者」ということはあまりありません。
        「この私を倒しても第2第3の魔王が……ぐふっ!」というやつです。
        と思いましたが、そういうことでさえないですね。
        「この私を倒しても……ぐふっ」の場合は、あくまでも、「悪の支配者」です。
        世の中には悪モンがいくらでもいるぞ、ぐふふのふ、という話です。
        だから村人は「もうまおうにおびえなくていいのですね!」なのでした。
        あくまでも「意に反して抑圧されて」いる。この場合は。
        しかし実際はそうではないのでした。
        
        ゾーマさんが悪モンだからイケないというより、
        選挙なり何なりの民主的な手続きをキチンと経た上で、ゾーマさんが選ばれてしまう。憲法だって何のその。
        そこがどうしょうもない。これではどんな勇者も「頭のおかしい陰謀論者」です。本当にどうしょうもない。
        
        実際のところ、具体的な誰かや何かが悪モンである、というケースはあまりないというか、
        その具体的な誰かや何かが根本原因ということはあまりないと考えた方がよさそうです。
        「支配」と言いますが、では「誰」に支配されているというのか?
        その「誰」というものがない。そこがどうしょうもない。
        
        いわば「支配」されている側の人々が「集合的」に魔王である、とでも言う言い方が当てはまってしまいそうです。
        しかし、それはあまりに理不尽です。あまりに不合理です。あまりに実体がなさすぎます。
        しかし、まさにその理不尽で不合理なことが実体なく、今この瞬間も絶賛稼働中なのでした。
        これではどうしょうもない。
        だから、このどうしょうもなさを、理不尽さも不合理さを排し、実体をともなった形式で表現しようとすれば、
        「悪の秘密結社が社会を裏から牛耳っている」とか「爬虫類型の宇宙人がハイテク兵器で地球人を洗脳している」とか
        そういう言い方にならざるを得ません。
        
        理不尽さは支配者の仕業であり、
        実体のなさは支配者が影に隠れているからであり、
        不合理さは人々が洗脳されているためなのでした。
        
        だから、よく「真実を知って目を覚まそう!」と言う。
        ネットを見ていると、そういうメッセージを添えてフクザツな「真相解明」を開陳している勇者ブログをよく見かけます。
        独特の匂いがあります。
        表向きは社会問題や世界情勢や歴史を扱うブログのような体裁だったりはしますが、独特のオーラを放っています。
        具体的にどこが、とは言い難いものがありますが、内に秘めた勇者のオーラが滲み出るのを隠すことはできません。
        例えば情報収集量の半端なさ。主張の熱気。それでいて垣間見える冷笑的な攻撃性。これぞ勇者の証。
        
        真実を知って目を覚ます。
        この点だけに関していえば、一応その通りと言いたいところではあります。
        しかし無理です。
        ファイナルファンタジー4で言うところのパロムとポロムです。
        自分の意志で石化しているのでエスナが効かない!
        ちなみに名前を思い出せなかったのでWikipediaで調べました。
        スーパーファミコンが出たとき本体と一緒に最初に買ったというか買ってもらったのがこのゲームだったなぁ。前世紀の話。
        そういえば当時は今のようなネットなんて影も形もなかったのでしたね。しみじみ。
        
        何の話でしたっけ。金の針が効かない話。
        熱心に情報を収集し、熱い主張で衆生の「目覚め」を促そうと奮闘する。
        しかしそもそも金の針は効かないのでした。
        勇者はますますヒートアップ。垣間見えるだけだった冷笑的な攻撃性も頻度と強度を増し、今や隠しようもない。
        そしてついに最強の呪文が解き放たれる。「以下の特徴に一つでも当てはまる人は洗脳されてます!」
        
        なんていうのかな。
        そもそもエスナが効かない条件下であるところへ、さらにそういう最強呪文を叩き込んだとしても、
        そのおかげで「洗脳」されていた人が「目覚め」て勇者のご一行に参加するようになる……
        というようなことは基本的に起こり得ないと思うのですよ。
        しまいには石化したパロムとポロムを叩き壊してしまうんじゃないでしょうか。頭部さえ無事なら復活できる。それはナメック星人か。
        しかし幸か不幸かそんな心配は無用で、叩き壊されるのはいつだって勇者の方なのでした。
        本当に悲しいことです。
        
        どんな最強呪文も伝説の剣も根本的に意味をなさない。
        じゃあどうすればいいのかと言えば、さしあたり「どうしょうもない」としか言えないのが悲しいところではあります。
        本当に悲しい。ひたすら悲しい。
        
        本当にどこかに大魔王がいるなら、どんなにかいいだろうとさえ思います。
        宇宙から地球を侵略しにやってくる爬虫類星人でもいいですし、
        霊界から人類のネガティブな感情を食べにくる捕食者でもいいです。
        
        そういう話は「なんか本質を突いてる感じ」がします。する。するんです。いや実にする。
        しかしそういう話をし始めると、それこそ本当に「どうしょうもない」としか言いようがなくなるじゃないですか。
        もちろん、「謎の秘密結社云々」でも同じです。宇宙人やオバケよりは手触りがあるかもしれませんが、
        結局「どうしょうもない」という点では同じです。
        というより、そもそも、そういう話自体が、
        「確かめようがない=手が届かない=どうしょうもない」という要素に支えられて成立しているようなところがあります。
        だから、そういう話をしている時点で、最初から詰んでるんです。
        どうなんでしょう。実はわかってるんじゃないのかな?
        伝説の剣をひっさげて威勢よく魔王討伐に向かう勇者様ご一行も、実は心のどこかで、「本当は不可能」だとわかってるんじゃないのかな?
        
        まず、出発点として「いても立ってもいられない感じ」とでもいうような衝動があると思うのです。
        何しろこの世は理不尽で不合理ですからね。
        ではさて、じゃあどうするか? というところで、
        その「根本的な不可能性」を意識から追い出すことで、独特の熱気と勢い「勇者のオーラ」を身にまとう。
        しかし、それが間違っているというのでしょうか?
        勇者に石を投げる群集に加わるつもりはありません。ありません。が、その方向は袋小路だとは言わねばならない気はします。
        
        ではさて、じゃあどうするか?
        結局その「根本的などうしょうもなさ」に如何に向き合うか、という話になってくるのかな。かな。語尾に自信がない。
        うん。なんか、これってそんな、勇ましく言えるような種類のことじゃない。
        
        とにかく「どうしょうもない」んですよ。
        一つ確実なのは、私はあなたを愛してるってことです。
        うーん。
        
        なんかもう窓の外が明るくなってきちゃったんで、今日はこのぐらいにしておきます。
        
        今日もあなたが幸せでありますように〜。