マインドルの立ち絵作成
学園モノと言えばアメリカのお菓子のような濃ピンク。
というか前回の色違いですね。だってもう服装の選択肢があんまり残ってないんですもの。
何か追加のデータを買えばいいのかもしれませんが、どういうわけか偽札が未だに作れないのでどうにもなりません。このやろ〜。
スクリプトでは単に「私服」としか指定してないので、特にこだわる必要はないはず。
そもそもこの期に及んでグラフィックにこだわっても仕方がありません。埋まってることが大事。
と言いつついろいろ手を加えております。
前回と同じ要領でスカートからズボンに換装。
ちなみにコミPo!で部分的に服装を変えることはできないので、GIMP上でのモンタージュです。
上半身がのっぺりしてしまった気がするのでベルトを描き加えました。ベルトに見えますよね? はーい、見えまーす。
どうせテキスト欄に隠れるのであんまり意味ないかな? と思ったのですが、
むしろテキスト欄のちょうど裏側に位置することになるので、読んでる間ずっと視界の中心ですね。
この私が自ら描いたハイセンスなベルトを存分にご堪能いただければ幸いです。
さて。
どうしようかな。
まずさしあたり、あなたが幸せであってくれればそれでいいし、
今後においても、あなたが幸せであってほしいと思います。
たとえ何がどうであっても、あなたが幸せでないなら何の意味もないし、
たとえ何がどうであっても、あなたが幸せであるならそれに勝るものはありません。
とは言うものの。
この世は一体いつからこのようなのか? もちろんダジャレです。
かつて人間が美しいものであった時代があった。
やがて激情の時代を経て冷淡と退屈の時代へ。
太陽から月へ。月から地上へ。
情熱の光は傲慢の炎を経て抑圧の冷たい鎖へ。
それでもなお太陽からは離れがたく、それでいて直視することもできず、周囲をいつまでも回り続ける。
近くに月を振り回し、重力の鎖につながれて、毒の酸素を呼吸する。
太陽とは何か?
人間がその周囲をまわっているもののこと。この世がその反射であるところのもの。直接見ることはできないもののこと。
地球とは何か?
人間が生きている場所のこと。
月とは何か?
光の中では見えないもののこと。直接は触れられないが、常に近くに携えているもののこと。
星とは何か?
別の太陽のこと。可能性のこと。
物質とは何か?
他人と共有するもののこと。
時間とは何か?
他者との差分のこと。
さて。
愛はどこにあるのか?
聞くところによると、縄文時代は争いのない時代だったとか。
武器らしい武器や、戦闘らしい戦闘の痕跡の刻まれた人骨はあまり出土していないそうです。
財産の私的所有という概念がなく、人とも自然とも協調して平和に暮らしていた、と言います。
それが事実だったどうかということで言えば異論はあるのでしょうけれど、
仮に事実なのだとすれば、つまり、自己意識がなかった、ということなのではないかという気がいたします。
現代の我々が素朴に当然だと感じている、「個人」という感覚および「自我」という精神の仕組み。
「争いがない」「調和している」「私的な財産所有がない」というのは、つまりそういうことであるように思われます。
別の言い方をするならば、野生動物とあまり変わらない、と言ってもあながち間違いではないような気がいたします。
誤解を承知で敢えて言えば、「人間らしさがない」ということです。
もしたとえば現代のお茶の間で放送されているような人間関係のドロドロしたメロドラマを縄文時代の人に見せることができるとしたら、
言葉の壁は別としても、おそらく「根本的に」理解できないのではないかと思います。
何が「根本的に」かと言うと、それを了解するための内面的な仕組みそのものを持ち合わせていないということです。
まだ知恵の実を食べていない。
食べ物は生命の木から豊富に得ることができる。
すべては神の思し召しのまま。
世間では「無我」や「無私」といったようなことが、
何か人格的に優れた状態であるかのようなメッセージが流通しています。
世間に流通しているものとしてのそれらは、実際のところはせいぜい、世間的な価値観におとなしく従う、という程度の意味でありましょう。
そのような皮相な意味では(本来は)ないとしても、それが単に自己意識を否定するものであるならば?
知恵の実は否定すべき誤謬・煩悩でしかないというのならば?
じゃあなんで自己意識なんてものがあるんですか?
そういえば「利己主義」は迷信なのでした。
それはむしろ「オマエラは放っといたらトンデモないことをしでかすロクデナシだから管理してやるぜ。ありがたく言うことを聞け!」
というキャンペーンなのでした。余計なお世話ですね。
「私」が存在するということは、つまり「あなた」が存在するということです。
磁石のNとSのようなものです。片方だけ単独で存在するということは原理的にありえません。
念のために言っておきますが、これは何も別に「支え合ってどうのこうの」みたいなイイハナシでもなんでもありません。
単なる事実です。コインの片方が「裏」なら、もう片方は「表」という、それだけのことです。
どちらかを「裏」ということに決めたのなら、そうじゃない側は「表」ということになる。それだけの話です。
ではさて、一体何が目的なのか?
最初から何もなくてもよかったはずなのに。
何でまたこんなことになっているのでしょう?
この私がこの私の意志でこの私の大事な人の幸せを願う。
この私がこの私の意志でこの私の嫌いな人の幸せを願う。
この私がこの私の意志でこの私を嫌っている人の幸せを願う。
この私がこの私の意志であなたの幸せを願う。
何もかもが、よく ありますようにと願う。
苦しいことが「真理」であるハズがない。
だって「そんなハズがない!」って思うでしょう? 思いませんか? 思え。
はい。
ところがむしろ逆に、わざわざ苦しい状況に埋没していこうとする動向の度し難いことと言ったら。
いわく「仕方がない」「大人になれ」「そんなこと言ったって」「おまえも今にわかる」「甘いことを言うな」「キレイゴトを言うな」
つまり少なくとも「真理」ではないということをわかってはいるということです。
そしてこうした言動は、いつでも必ず自己自身以外の何かにその根拠を置いている、という特徴があります。
だから「仕方がない」という。
そこから抜け出すには「身勝手」である必要があります。
何が「無我」だ。しゃらくさい!
精神の歴史の行く末は?
それは後戻りできない直線か? それとも無限の積み重ねか?
どうあってほしい?
すべてがよくありますように。
自己意識を持っているという現状における、秘密の選択肢。
あなたの幸せを願って情熱的に踊れ。
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