TOP > テキスト目次 > マインドルの立ち絵作成



◆◆ したこと: ◆◆

        マインドルの立ち絵作成
        
        学園モノと言えば適当なTシャツ。
        
        
        
        立ち絵作業も終盤ということで、デザインに苦慮しております。
        デザインにこだわるつもりはないとは言え、他のキャラと同じような感じになるのは避けたいところ。
        というかむしろデザインにこだわりようがない(絵が描けない)。
        服自体のタイプと色を変えるぐらいしかできないわけです。
        
        服のタイプと言っても、「半袖」「長袖」「襟つき」「襟なし」「スカート」「ズボン」「着衣」「全裸」ぐらいのもの。
        色を変えると言っても、人間の世界には原理的に赤と緑と青しかありません。
        色を混ぜると言っても、元が3色しかないのでたかが知れています。
        だからゴレンジャーはたった5人で地球を守らねばならないのです。人類危うし!
        
        それで結局、黄色いTシャツのキャラって既に他にもいませんでしたっけ? ということになる。このやろ〜。
        しかし、同じルートには登場しないので誰も気付かないでしょう。
        しかも、みなさんの目は頭部のちょんまげに釘付けになるので誰も気付かないでしょう。たとえ全裸でも気付きませんよね? よし。
        
        制服や学校指定の体操服であれば一度決めてしまえば、全キャラ同じでいいのですけどね。
        と言いつつ、一度決めてしまうと取り返しがつかなくなるってんで、制服を決めるときにはプレッシャーで寿命を縮めることができたのでした。
        この調子でどんどん寿命を縮めて一刻も早く人生を完遂したいところです。
        しかし私はあなた方を愛していますので、まだ地球にいなければならないのでした。
        
        ところでいつも「あなた方を愛しています」と申し上げているわけですが、
        この「あなた方」ということを、どういう水準に設定すればいいのでしょうね?
        水準というか、範囲というか、規模というか。
        
        たとえば聞いた話では、カツオノエボシというのがいらっしゃるそうじゃないですか。
        
        
        
        見たところ一匹に見えますが、実際には小さな個体(個虫)が集まってこういう形になっているんですってね。
        この場合「カツオノエボシさん」というのは、この群体の全体を指して言ったらいいのでしょうか?
        それとも、群体を構成している個別の皆さんそれぞれを指して言ったらいいのでしょうか?
        いや、「カツオノエボシ」という名称の所在に関しては、「株式会社カツオノエボシ」という感じかもしれなくて、
        それは用語の定義の問題だから、わりとどうでもいい気がします。

        それよりも、仮にカツオノエボシさんが自己意識をお持ちになっていらしたとして、
        それは群体として1つの自己意識なのでしょうか? それとも1つ1つの個虫が個別に自己意識をお持ちになっていらっしゃるのでしょうか?
        
        私はもちろんカツオノエボシさんのことも愛しているのですが、
        果たしてどの範囲を想定して「カツオノエボシさんが幸せでありますように」と言えばいいのでしょう?
        
        「幸せでありますように」というのは、あくまでも何らかの「自己意識」に向けて言っているのです。
        「ヤン・ピーテルスゾーン・クーンさんが幸せありますように」とは言えますが、
        「東インド会社が幸せでありますように」とは比喩以外では言えません。
        もちろん東インド会社自体に自己意識がある場合は別ですが、果たしてどうなのでしょう?
        
        
        それからもう1つ、みなさんの大好きなオカルトの話になりますが、
        一人一人の人間に憑いている守護霊と、民族単位で憑いている民族霊と、時代単位で憑いている時代霊というのがいらっしゃるそうじゃないですか。
        この中で言うと守護霊というのは、見た目通りの個人単位についているということで、ある意味わかりやすいものがありますが、
        それだけではなく、民族全体、あるいは時代全体という規模で、何らかの霊的存在の影響がある、というお話ですね。
        
        そのノリでいくと他にもいろいろありそうです。
        スマホ見ながら歩いてる人たち全体に憑いているスマホ霊だとか。
        歩きながら喫煙して煙をまき散らしている人たち全体に憑いている歩きタバコ霊だとか。
        各種拡声器放送が鳴り続ける風潮を陰に日向に支えている人たち全体についている拡声器放送大好き霊だとか。
        
        つまり、本当にそれって自分が(あなたが)個人として自分の意志で選択して判断して実行してることですか? ってことですよ。
        
        実際、不思議で仕方がないんですよ。
        スマホ見ながら歩いているスマートな人は頻繁に見かけるのですが、
        そのわりに、そういう人が誰かとぶつかっている場面、ってのは全然見かけません。
        前を見てないのに一体どうしてぶつからないのか?

        言っておきますが「自分勝手だから」とか「まわりが見えてない」とか言うのは嘘です。
        むしろ話はまったくの逆で、言うなれば「空気を読んで」そのようにしているとでも考えざるをえません。
        「まわりを見てない」なら、もっともっとぶつかってるはずです。
        「気を遣ってよけてあげてる」(はずである)周囲の人々も含めて、「こんなもんじゃないだろ?」と思わざるを得ません。
        
        統計的には事故は発生しているらしいですし、そりゃ発生はしてるのでしょうけど、それがどうしたって気がします。「この日常」は変化しない。
        私自身の生活実感としては、もっともっとぶつかってないとおかしい気がします。
        私なんて外を出歩くときは全身の神経をビリッビリにして前後左右に200%の警戒をしてないと危険で危険でどうしょうもない。
        ほんのちょっと気を抜くだけでたちまち前や後ろから自転車(に乗った人)が迫ってきたり車(に乗った人)がクラクションを鳴らしたりする。
        それなのに、スマホに夢中になって歩いている人たちは、どうして、あんなにも「街に溶け込んでいる」のか???????
        仮に私が同じことをしたとしたら、10メートルも歩く前に何らかのトラブルが必ず起きるでしょう。
        
        一体何が「この日常」を可能ならしめているのか?
        
        そこでスマホ霊というわけですよ奥さん。
        スマホ霊の影響下で操られているからこそ、個々の人(肉体)はぶつからずに歩ける。
        自分で周囲に気をつけてなくても大丈夫、というわけです。
        一方、私はその霊に帰依していないので無理、というわけです。
        
        同じことはその他の各現象についても言えます。
        なんでそんなことができて(本人側)、しかもそれが常識的なことであるかのように日常に溶け込んでいる(世間側)のか?
        1人1人の人間がそれぞれに個人として自由意志で行動しているのだという前提で考えると、どうしてもつじつまが合わない。
        何らかの「カツオノエボシ現象」があるのではないか?
        
        さて、それでも私はあなた方を愛していますから、
        今日もいつものように、「今日もあなたが幸せでありますように」と言います。
        
        じゃあ忘れないうちに言うぞ。
        今日もあなたが幸せでありますように〜。
        
        ところで私は一体それを「何に」向けて言っているのか???
        
        私のようなスーパー善人にはよくあることですが、
        一人一人の個人がそれぞれに幸せであって欲しいと常に願っております。
        そして、そのように言うとき、それは同時に、「あなた」が一人の個人として自己意識と自由意志を持っていることを前提としているし、
        また、そのようにあること、をも大胆にも促そうとさえしている。してしまっている。
        しかし、それは果たして、どのような 水準/規模/範囲 でありえるのか? またはありえないのか?
        
        とりあえず「どっちでも同じ」「両方っすよ」と言って話を終わらせてしまいたい気もしつつ、
        しかしやはり、
        「ヤン・ピーテルスゾーン・クーンさんが幸せありますように」とは言えますが、
        「東インド会社が幸せでありますように」とは比喩以外では言えません。決して言えません。どーーーしても言えません。
       
        さしあたりは、無限定に、無照準に、言うことはできそうです。言うことはできそうですが……。
        
        > しかし、それは果たして、どのような 水準/規模/範囲 でありえるのか? またはありえないのか?
        
        どこかの水準でありえるとして、それ自体が果たしていいことなのか? それ自体が果たして「幸せな」ことなのか?
        
        何しろ一番いいのは生まれてこないことです。
        二番目にいいのは自殺です。
        最初からこの宇宙全体として何もない「無」だったらよかったのですが、どういうわけか、我々は存在してしまっています。
        
        その上で何ができるかと言えば、
        存在している諸々のものが、それぞれに、それぞれの仕方で、それぞれの意味合いで「よい」状態でありますように、と願うことだけです。
        
        うん。ですね。そうですね。
        そう。それ自体は、それ自体は、それはそれで、全然オッケーです。
        ただ、結局のところ、この世は一体何なんだ? ってことです。
        もっとよく見える目が欲しい。