マインドルの立ち絵作成
学園モノと言えば制服。
というわけですでにお馴染みのブレザーです。
当初は一度作ってしまえば別のキャラにも使い回せる予定だったような気がしますが、
結局最後までほぼキャラごとにオーダーメイドでした。
効率悪いことしてるな〜、と思いつつ、
こうしてブレザーを作り込むのもこれで最後かと思うと名残惜しいものがあります。
頬を伝う熱いものは何だろう? もちろん汗です。まだまだ暑いんですもん。
とは言え、文字通り桁違いだったその暑さも今では少々和らいできております。
何事にも終わりがある。
どんなことにも人生で最後の○○というときがやってきます。
人生で最後のブレザー作り込み。
人生で最後の食事。
人生で最後のオナラ。
人生で最後の立ちくらみ。
人生で最後のOD。
最後のは単に直接死んじゃってるんじゃないですか? まさに命がけ。
しかし命がけなのはODに限ったことではありません。
どんなことだって、それが人生最後になる可能性がある。
だから命がけでブレザーを作り込むのです。命がけで食事をして命がけでオナラをして命がけで立ちくらむのです。
今日が死ぬ日かもしれない。
だから今日を命がけで生きるのです。あなたを命がけで愛するのです。
ちなみにこうして入力してて思わずキーボードを叩き壊しそうになったのですが、
「たちくらみ」だと素直に「立ちくらみ」に変換してくれるのですが、
「たちくらむ」だと「他地区ラム」って何なんですか。隣町で作ってるラム酒ですか。これだからAnthyはヤメられません。
どういうことか?
立ち「くらみ」は名詞です。立ち「くらむ」は動詞です。
その動詞形が変換候補に登録されていない。
つまり立ちくらみというものは、それ自体で自動的に発生するものである、ということなのですね。
自分の意志で能動的に立ちくらもうと意図して実行するものではない。
そんなことをしようとするヤツは隣町のラム酒でも飲んでろというワケです。余計なお世話だ。このやろ〜。
というわけでここ数日、いつでも好きな時に立ちくらみを引き起こせる状態となっておりました。
まさに暑さの贈り物。意外とイイトコあるじゃん暑さ。見直したぜコンチクショー。バンバンと背中を叩く。
しかしいつの間にかフィーバータイムは終了してしまったようです。
今では立ち上がった直後に当然のようにスタスタ歩けてしまいます。まさに健康そのもの。
スタスタ歩いて一体どこへ行こうというのでしょう? この「現実」の中を歩いて行くのです。
つまり健康とは「現実」という幻覚に浸っているということに他なりません。この世の基準点がそこにある。
「健康」という語が持つ価値判断のニュアンスの中に、まさに「この世」の「凝集点」があると言えるでしょう。
少し前までは立ち上がった直後は当然のように立ちくらみワールドの中をスタスタと歩けていたのに。
もう二度とあの世界には行けないのかもしれません。
人生最後の立ちくらみを背後に見送ってしまった。それが最後だとも知らずに。
いつだってそれが人生最後かもしれない。そのような覚悟とともに命がけで日常を生きねばならない。命がけで立ちくらまねばならない。
立ちくらむにあたり、一番避けたいのは転んで怪我をしたり物を壊したりすることです。安全第一。
命がけじゃないのかよ、というツッコミを募集しつつ、立った状態で限界までダイブして、しゃがむ。
誰かに手伝ってもらわない限り、完全に意識を失うところまではイケないわけです。
いかに崖っぷちギリギリまで近づけるか?
どうしても「ヤリきれてない感じ」がつきまといます。
しゃがんだ直後、「早すぎたかな?」と毎回思ってしまいます。
しかし今回何度も立ちくらんでみて気づいたことの1つは、
しゃがんだ後からがトリップ開始、ということです。
大体、順番としては次のようなパターンです。
・カムアップ
立ち上がった直後から。目の前に白とも黒ともつかぬ粒子が増殖して視界が埋め尽くされていく。
・ピーク
しゃがんだ直後から。徐々に皮膚の感覚が厚ぼったく痺れてくる。
頭の周囲で「ザーーッ」というような雑音が起こってくる。
体がガクガクと痙攣する感じがする(感じ、です。実際にガクガクしているのかどうかは不明)。
やがて「あの世界」になる。ここはもう言語を絶する状態。
・カムダウン
徐々に意識が元の状態に戻ってくる。
目に映っている景色が見慣れた自分の部屋であることをいつのまにか思い出している。
すでに「あの世界」ではない。
・アフターグロウ
理性は戻ってきているが呆然とした状態がしばらく続く。
普段からカムアップの軽いやつはわりと頻繁に来るのですけどね。
ピークの深部まで到達できる体験はレアです。
今回のお祭りではほぼ毎回ピークまでイケていたのでウハウハでした。
味わえるだけ味わっておくしかありません。ウハウハが死語とか言ってる場合じゃない。
しかし何度体験しても「あの世界」を言葉で言い表すことができません。
「何だったのか」が根源的にわからない。
それで「あと一回」「もう一回」と、何回も繰り返しておりましたら
頭痛と吐き気がして参りました。さらに目の裏に針で刺すような痛みも。
身の危険を感じ、さしあたりこの症状が収まるまでは中断することにしました。
そして数日後、気分は爽快。全然立ちくらまなくなっておりました。このやろ〜。
結局「あれ」が何なのかはわからないまま。
やみくもに繰り返してもダメなのかな? とは言うものの、どこに目標を定めればいいのかもわかりません。
一応、閉眼幻覚は確認してみましたが何も見えませんでした。
後から思い出せる中で1つ面白かったのは、しゃがんだ状態で目に映っている景色から色が褪せて、
エンボス加工をした平面的で無機質な模様のようになったときのこと。
このとき、「それを見ている私」という感覚が消滅していました。
見えている対象と、見ている自己、という区別が消滅していました。
そのエンボス加工のような「それ」が「すべて」でした。内面的な思考も完全に停止しています。
「私」は「それ」であり、「世界」は「それ」です。その事実だけがすべてです。
この状態に比べると、普段の「周囲の対象」を「見ている私」という感覚がいかに強固なものであるかがよくわかります。
どんなに意識的に「無私」だとか「無我」だとか言った精神状態を試みたとしても、あのときの状態には程遠い。
あともう1つ。ピークの最中、なんだか妙に「にぎやか」な感じがするということ。ほぼ毎回そうです。
後頭部の周囲あたりで「ザーーッ」という雑音がするだけでなく、
何か、知っているものや人や気配や記憶といった種々雑多なものが濁流のように一気に渦を巻いている感じ。
今思ったのですが、もしやこれって走馬灯とか言うやつですか? ドキドキ。
> つまり健康とは「現実」という幻覚に浸っているということに他なりません。この世の基準点がそこにある。
いわゆる「幻覚剤」の中には、分子の形がセロトニンに似ているものが多いらしいですね。
詳しい機序は不明ながら、それがセロトニン受容体に取り付くことで「幻覚作用」が生じる、らしい、と。
ということは、それを言うならセロトニンだって「幻覚剤」の一種なのではないでしょうか?
その受容体が「どのような世界を知覚するか」の受容体であり、
そこに取り付く物質によって、様々な異なる世界が知覚される。
セロトニンも、そうした世界知覚を引き起こす物質の一種に過ぎないのではないでしょうか?
いわゆる「鬱」状態の原因としてよく言われるのはセロトニン不足です。
それでセロトニンの選択的再取込阻害剤だとか酸化酵素阻害剤のようなものが「抗鬱薬」として使われている。
あるいはセロトニンを増やすための食事だとか生活習慣のようなことが喧伝される。
ところが「鬱」というのは、あらゆる幻覚から醒めたもっとも冷静な状態なのでした。
日常・非日常のあれやこれやに意味や価値があるという幻想から醒めた状態です。
一切が無意味であるという真理に気付いている状態です。
そこへセロトニンという幻覚剤を持ち込むことで「現実」という幻覚が再構築されてしまう。
せっかく真理に目覚めたというのに、どうして好き好んで幻覚世界に戻ろうと言うのでしょう? まさに依存症。
みなさん、セロトニンは強力な依存性のある極めて危険な幻覚剤です。ぜひ法律で禁止していただきたい。
え? なんですって? 体内で勝手に生成されてるって? キサマは生まれながらの犯罪者かっ!
こうなったら地球上の全人類をブタ箱にぶち込むしかありません。人間を規制せよ。
つまりこの地球という惑星はセロトニンジャンキーの収容所なのでした。とかなんとか。ブヒー。
ちなみに「セロトニンジャンキー」とカタカナでつなげて書くと中にニンジャが潜んでいて読みにくいので
どこかに点を入れるとよいのではないかと思います。ぜひ好きなところに入れてみてくださいでござる。ニンニン。
無秩序の中に任意の区切りを入れること。それこそが世界知覚の実相なのでした。まさに忍術。ニンジャ恐るべし。
さて、そういうわけで作業は着々と終着に向かっております。
私の人生も着々と終着に向かっております。
今日が死ぬ日かもしれません。
と言いつつなかなか終わってくれないというのが困ったところ。
毎日命がけなんてやってられません。悔いなんてあるに決まってます。
願いは一つ。ただ着々とあなたの幸せを願うのです。
今日もあなたが幸せでありますように。
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