自分と世界との結びつきは客観的な事実である。
たとえば何か社会問題や地球規模の問題について云々して、
いやー、深刻だねー、大変だねー、という話になっても、
じゃあ結局、俺らや私らのような一般庶民には何ができるのか?
というところで話が行き止まりになってしまう。
それで結局、うちらみたいなしがない庶民が何言ってもしょうがないよねー、よねー、YONE〜
と、酒を飲んでテレビを見てギャハハと笑って翌日頭いてーとか言いながら出勤して何もかも忘れてしまう。
だから、課題はこの点です。
「いかにして自分と世界との結びつきを認識するか?」
この認識を獲得しない限り、一歩も前に進めない。
世界との結びつきのない「しがない庶民」にできるのは
酒を飲んでギャハハと笑って出勤することだけだからです。
いかにして認識するか? と言いましたが、
わざわざ認識するまでもなく、すでに個人と世界とはつながっています。客観的な事実です。
そもそも「個人と世界」という分け方自体が表面的な形式に過ぎません。
自分のいかなる些細な行動も世の中全体の動きとつながっている。
何度でも言いますが、これは事実です。
別に何かカッコつけて言ってるわけでもなんでもなく、
端的な事実です。客観的な事実です。
たとえば何気なく呼吸をしているだけで、風向きに影響を与えて、
地球の裏側で暴風雨を引き起こして、大勢の人に大迷惑を与えているかもしれない。
どんなに些細な行動でも、風が吹いて桶屋が儲かりまくって、
グローバル桶屋企業になって、私設の軍隊を創設して、
核兵器を開発して、核戦争をおっぱじめて地球が滅ぶかもしれない。
繰り返しますが、これは事実です。
常にそういう可能性がある。
自分のいかなる些細な行動も、世の中全体の動きとつながっている。
後はそれをどれだけ意識するか、しないか、
私の心がけ次第です。あなたの心がけ次第です。
この意識を放棄したとき、
とある一人の人間は酒を飲んでギャハハと笑って出勤するしかない「しがない庶民」になる。
このことを意識するとき、
一人の人間は世界とのつながりを回復する。
酒を飲んでギャハハと笑うとき、その酒がそこに存在することの意味を認識できるようになる。
ギャハハと笑うことの意味を認識できるようになる。
たとえば何か社会問題や地球規模の問題について云々して、
いやー、深刻だねー、大変だねー、という話になって、
じゃあ結局、俺らや私らのような一般庶民には何ができるのか?
というところで話が行き止まりになることはない。
いかなる社会問題や地球規模の問題であれ、
自分と無関係ではあり得ないということがわかるからです。
あなたがさっきタンスのカドに足の小指をぶつけて今も痛みが残っていることが、
私と無関係ではあり得ないということがわかるからです。
いたいのいたいのとんでけー。
どうか今日もあなたが幸せでありますように。
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