騒音は「ガッカリ」する:我慢×歳時記×風流×バーチャル
私は普段、自宅にいるときには耳栓やホワイトノイズのイヤホンで厳重に聴覚をガードしています。
耳栓単体ではあまり遮音性能は高くないので、その上からイヤホンを押し当ててのホワイトノイズが欠かせません。
ホワイトノイズとしてよく使うのは雨の音や波の音です。
聴き続けていて飽きの来ない音であり、かつ、周囲からの音をごまかす効果があります。
この「耳栓+ホワイトノイズ」の組み合わせはかなり強力です。
ほとんどの騒音を防ぐことができます。
とは言うものの、耳栓をずっとつけていると物理的に耳が痛くなってきます。
ホワイトノイズもずっと聴き続けていると精神的に疲れてきます。
だけど、「この状態がデフォルトなのだ」と自分に言い聞かせて、その状態を厳重に継続するように心がける。
油断して外からの拡声器音やドアバンなどを聴かされてしまうと、「精神がかき乱され」ます。
「うあーーっ!!!」って感じになります。もちろん声には出しませんけど。
とにかく、その「精神がかき乱される」ことを避ける。なんとしても避ける。
一度その「うあーーーっ!!!」になってしまうと、もちろん精神的に苦痛ですが、
もっと実質的に、時間がもったいない。
そのときにしていた作業はしばらくお預けになってしまうし、もちろん眠ることもできなくなります。
一瞬の油断で数時間のロスです。
これは何としても避けなければならない。
だから「耳栓+ホワイトノイズ」を続ける。
物理的に耳が痛くなるし、精神的にも微妙に疲れ続けるけれど、続ける。厳重に続ける。
実際、これでかなり安らかな生活を送ることができます。
騒音のことを忘れて生活することができてしまいます。
しかし、たまには耳栓を外してすっきりしたい。
たまにはホワイトノイズを消して本当の静寂を味わいたい。
この状態をデフォルトにして一ヶ月、二ヶ月と過ごす。
その間、一度も外からの騒音に苦しめられずに過ごしてきた。
すると、ある期待が頭をもたげてくる。
「ひょっとすると、世の中はもう静かになったのではないか?」
そう思ってイヤホンと耳栓を耳から外してみる。
静かだ。
しかも耳はすっきり。
ああ、これが本当の静寂! やった! 苦難の日々は過ぎ去った! 忍耐の勝利だ! これからは静穏な生活ができるんだ!
という喜びも束の間、ものの30分もしないうちにドアバンや左へ曲がりますが外から壁を突き抜けて室内に飛び込んでくる。
あぁ〜〜………。ガッカリです。
いや、わかってましたけどね。
私が我慢したからと言って、「私の我慢に免じて」世の中が静かになってくれるだなんて、そんなことがあるわけがない。
「耳栓+ホワイトノイズ」で厳重に聴覚をガードしていた数ヶ月の間に
ドアバン野郎が反省して静かにドアを閉めるようになったとか、
火の用心野郎が反省して拍子木騒音をやめたとか、
ちり紙交換がいよいよ廃業になったとか、
トラックのボイスアラームが違法化されたとか、
防災無線が廃止になったとか、
救急車が有料になって無闇に呼ぶ人が減ったとか、
ほんの少ぉ〜〜〜〜しだけ、淡い淡い淡ぁ〜〜〜い期待を抱いてたりもしたんですけれど、
そんな期待が叶うはずがない。
ええ、わかってました。わかってましたとも。
でもですね、もう一回言いますよ?
「ガッカリ!」です。
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■ 我慢しても問題は解決しない
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これは騒音に限ったことではなく、「一般論」と言っていいと思うのですが、
我慢しても問題は解決しません。
ところが、不満を口にすると、周囲からは「我慢」を推奨される。
とかく「我慢が足りない」と言われる。
じゃあ、我慢すれば問題が解決するのか? しない。
騒音の場合で言えば、我慢すれば我慢に免じて、
「よく我慢してくれましたね〜。たくさん我慢してくれたから静かにしてあげますよ〜」
ということになるか? ならない。
では我慢することの意味は何か?
それはズバリ、こうです。
「問題が "ない" ということにする」
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■ 「~ということにする」という文化
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あまり詳細緻密な文化論を語れるほどの見識は持っていないのですが、
どうも、この社会には、「~ということにする」という文化というか習慣というか、が、ある気がします。
たとえば人形浄瑠璃の黒衣(くろこ)。
明らかに見えているのに、「見えていない」ということにする、ということになっている。
明らかにそこにいるのに、「いない」ということにする、ということになっている。
部屋を襖や障子や屏風で仕切って、向こう側の様子はほとんど筒抜けなのに、
一応の間仕切を挟んだことで、向こう側のことは「見えていない」ということにする、ということになっている。
俳句の季語。お菓子の練り切り。商店街の街灯に飾ってあるプラスチックの造花。
実物の自然ではなく、「春といえば、これ」「夏と言えば、これ」ということにする、ということになっている。
「日本には四季があって日本人は自然に敏感だ」などという言説がまことしやかに流れていたりもしますが、
私の印象では、それは嘘です。嘘というよりフィクションとでも言いましょうか。
そこで言っている「四季」なり「自然」なりは実物の自然ではない。
実物ではなく「そういうことにする」というバーチャルな世界です。
型が決まっている。
「自分自身が本心から感じたこと」よりも、そうした型の方が優先される。
いや、優先されるなどという生易しいものではないかもしれません。
型の方こそが「実物」であり、「自分自身の本心」などというものは「存在しない」ということにする、ということになっている。
たとえば Wikipedia の「練り切り」のページには下記の画像が載っています。
夏の菓子(なでしことつばめ)
アジサイ
が、私にはどう見ても「なでしこ」にも「つばめ」にも見えません。
「アジサイ」にも見えません。「え? どこが?」という感じです。
さらに、私の感覚では「なでしこ」や「つばめ」と言われても「夏っぽい」というイメージはあまり喚起されません。
新暦と旧暦で季節がズレている、ということを差し引いたとしても、
やはり私の感覚では「なでしこ」や「つばめ」にそれほど季節感を感じません。
アジサイは梅雨かな? と思って検索してみたら夏ですか? ふーん。どう違うの?
そもそもこんなこと検索しなきゃいけないってのがおかしい。「私の感覚」でいいじゃん。ダメなの? ふーん。
しかし、これが「型」というものなのでしょう。
これが「なでしこ」であり「つばめ」であり「夏」なのだ、ということになっている。
これを見て「ほほぅ、なでしこですか〜。おっ、こちらはつばめですな? いよいよ夏まっさかりですなぁ〜」
と「ごく自然」に語って見せることが「風流なこと」なのでしょう。
「私個人はどう感じるか?」「あなた個人は本当のところどう感じているのか?」ということは無視されている。
「~ということになっていること」について語り合うことのみが許されている。
上記の「なでしこ」や「アジサイ」は、個人の感性を表現したものではなく、「型」を表現したものです。
たとえば何某というアーティストが「芸術は爆発だ!」とかなんとか言いながら
「なでしこしこ! アジサイサイ!」と言って作った、というものであれば、
私個人にはそのように見えなくても、
「なるほど、そういう感性もあり得るものなのだなぁ」というふうな興味で眺めることは可能でしょう。
しかし、練り切りのそれらを、そうした興味で眺めることはできない。
なぜなら、そこにあるのは「個人の感性」ではないからです。あくまでも「型」です。
「なんでこれでアジサイ?」と言っても「そういうことになっている」というFAQの回答集が出てくるばかりです。
表現が向かっている方向が真逆です。一方は個人へ。一方は集団へ。
(念のため言っておくと、今は「どちらがいい・悪い」という話をしているのではありません)
あ、もう一つ。空を切り刻むように走っている電線も同じですね。
あれも「見えていない」ということにする、ということになっている。
騒音に関してもこれと同じなのかもしれません。
明らかに音が鳴り響いているのに「聞こえていない」ということにする、ということになっている。
で、「聞こえている!」と「自分自身の本心」を言うと、
「我慢せよ!」との教育を施される。
すなわち「聞こえていないことにせよ!」との教育です。
あれを「聞こえている!」などと言うのは、
人形浄瑠璃の黒衣を「見えている!」と言うが如く「野暮」なわけでありま〜す。やかましいわ。
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■ 「騒音」も「型」で語られる
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> 騒音に関してもこれと同じなのかもしれません。
> 明らかに音が鳴り響いているのに「聞こえていない」ということにする、ということになっている。
もう少し正確に言うと、「騒音」ということも「型」が決まっている、というべきでしょう。
「騒音とはこういうものである」という「型」が最初から決まっていて、
それに当てはまるものは「騒音」だが、当てはまらないものは「騒音」ではない、ということになっている。
たとえば「マンションの部屋で大音量で音楽を鳴らす」とか「工事現場」とか「自衛隊のヘリコプター」とか、
そうしたものは「騒音」ということになっていて、「騒音」という言葉で語ることが一応は許されている。
しかし、そうではない「音」について「騒音」という言葉を使うことは認められていない。
たとえば「除夜の鐘」や「保育園の喧騒」は、そうした「騒音のカタログ」には載っていない。
したがって、それを「騒音」として問題提起すると厳しく怒られる。
「そんなものまで騒音呼ばわりだなんて!」という例のアレです。
そして、インターネットの質問掲示板では「○○は騒音ですか?」などといったトンチンカンな質問が飛び交うことになる。
何がトンチンカンかと言えば、
実際にその音が他人を不快にしているかどうかという現実を無視して「型」を訊ねているからです。
いわば「歳時記」を参照しようとしている。
「歳時記には○○は騒音であると書かれていますか?」と質問している。
実際にその音が他人を不快にしているという現実。
そうした現実よりも「歳時記」の方こそが「現実」ということにされており、
「歳時記」に載っていない事柄を「騒音」と呼ぶと「○○を騒音だなんて風流じゃない!」ということにされる。
そういえば「ちり紙交換は風物詩!」なんて台詞もありましたっけ。まさに歳時記そのものですね。
上で私は「トンチンカン」と言いましたが、世間的には逆というべきでしょう。
「歳時記」に則った言動こそが「常識的」で「正しい」のであり、
そうではない言動は「非常識」で「間違って」おり「野暮」ということになる。
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■ 「我慢せよ」の実相
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「我慢せよ」は「歳時記の世界を実現させよ」です。
ある音がいかに不快であろうとも我慢しなければならないのはなぜかと言えば、
それは「歳時記」によると「騒音」ということになはっていないからです。
「それは騒音ではない」というバーチャル世界を「みんなで協力し合って」作っている。
そんな中で「騒音だ!」などと本当のことを言うやつは輪を乱す無法者です。
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■ そして越えられない壁が姿を現す。
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>「それは騒音ではない」というバーチャル世界を「みんなで協力し合って」作っている。
じゃあ、実はみんな不満を心にためこんでいるのか?
仮にそうなのだとすれば、それを解放することで問題(ここでは騒音問題)を解決に導く、
という方策を考えることができそうです。
「みんな、本当はイヤなんだろう? ぶっちゃけちまいなYO!」というわけです。
しかし、どうも、そうでもないらしい。
いわば「型に染まる」ことに、むしろ何らかの喜びを感じる、という感性があり得るらしい。
だから「みんな、本当はイヤなんだろう? ぶっちゃけちまいなYO!」という話は、
どうも、いま一つ、うまく行く気配がない。
越えられない壁がある。
たとえば、とある「騒音」があったとして、
「どうしてもイヤだ!」という一定数の人々がいる。
条件次第では我慢する意志はあるにしても、根本的に「不快だ!」という感覚そのものは心の中から消えない。
その一方、「むしろイヤではない。心地よい」と感じる人々が、どうやらいるらしい。
ひょっとすると多数派でさえあるかもしれない。
「それぐらいいいじゃない。誰だって我慢してるんだから」と言いながら、
実は自分自身は「我慢」ではなく「型に合わせる喜び」に浸っている。そういう人々も、どうやらいる。
もしかすると多数派かもしれない。
もちろん感性は人によって異なります。それはそれでいい。
しかし問題なのは、この言わば「歳時記ファンクラブ」の会員たちは
「歳時記」通りの感覚こそが「当然」と信じて疑わない、ということです。
人それぞれの感性というものを認めない。
とある宗教の頑強な原理主義者のようなものです。
信教の自由、と言いたいところですが、頑強な原理主義者は自分たち以外の思想を排除しようとする。そこに問題がある。
上で「越えられない壁」と言いましたが、
越えられないはずなのに、「歳時記教」の側からは情け容赦なくミサイルが飛んでくる。静かにしてくれない。
互いに尊重し合う、ということができない。
そういえば「日本は多神教だから寛容」なんじゃなかったでしたっけ?
それで、もしかすると「我々は寛容なのだ!」と思い込んでいる人は多いのかもしれないですが、
こう考えてみると、それはずいぶんと怪しいですね。
おっと、「寛容」という単語が出たので、これ、言わないといけないのかな?
「音を出さないでくれ」っていうと、そう言ってる人の方が「寛容じゃない」ふうに見えるかもしれませんが、
それ、まったくの逆です。
音を鳴らすということは、その音を聴きたくないと思ってる人を無視するということです。
それって「寛容」ですか?
静かにするということこそ、その場にいる人たちそれぞれの生活や感性を尊重するということです。
音を鳴らしまくって放置することが「寛容」だなんて、とんでもない。
静かにすることこそが「寛容」です。
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