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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        「本当のところ」お節介拡声器騒音の何がダメなのか? ~ 言語化へ向けて ~   
        
        
        [要旨]
        ・拡声器騒音の問題点については加害者だけでなく被害者も理解が足りていないのではないか?
        ・加害者への啓発活動だけでなく被害者自身が問題を掘り下げて考えることも重要であろう。
        ・それが現状の膠着した「戦況」を打開することにもつながるのではないか?
        
        
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        ■ 我々の戦い、いつもの風景
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        「お降りの際はお忘れ物にご注意ください」
        「エスカレーターにお乗りの際は手すりにつかまり中央にお立ちください」
        「左へ曲がります。ご注意ください」
        
        現代の日本にはこうした「お節介な放送(拡声器騒音)」が満ち溢れています。
        私はこうした放送が嫌いです。聞かされるたびに不愉快になります。
        幸か不幸か同じように感じるのは私だけではないようです。
        少しネットで検索すると少なからぬ人々がこうした放送に苦言を呈しているのを見ることができます。
        
        この問題の厄介なところは、この問題を問題だと思っていない人が多いということです。
        「えっ? どこがうるさいの?」「そんなこというのあんただけだよ」「放送? そういえば鳴ってるね」
        
        大多数の人々はこうした「音」を聞かされても何とも思っていないらしい。
        「我慢が足りないんじゃないの?」「安全のための放送をやめろだなんてワガママなやつだな」「むしろ心なごむ」
        
        それゆえ、こうした「音」に不快を感じる私や私の「同志たち」は苦戦を強いられることになる。
        「神経質すぎるんじゃないの?」「精神病院に入院すれば?」「無人島に引っ越せ!」
        
        もはや万策尽き果てた。呪いの言葉を叫ぶしかない。
        てめぇらの血は何色だぁーーー!!
        
        ぜーはーぜーはー。
        
        
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        ■ 戦いの構図、明日のために
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        だからこの問題について語るとき、
        その語り手は常に「被害者」自身、ということになります。
        そしてその矛先は「加害者」へ、つまり音を流す人・容認する人、へと向かうことになる。
        その論調はいつも「被害者」が「加害者」の無理解を指摘・糾弾する、という形をとることになる(そして反撃を受ける)。
        
        さて、そうしたバトル自体には私自身も「被害者」の一人として大いに賛同するところではあるのですが、
        疑問も一つあります。
        
        「加害者」の側がこの問題に理解が足りないのはすでに明らかになっているところです。
        しかし、それだけではないのではないか?
        我々「被害者」の側も、この問題の何が問題なのかについて、もっと理解・考察を深める余地があるのではないか?
        
        
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        ■ 言葉を何の目的で使っているか?
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        たとえば、あなたがある日電車に乗ると、いつものように車内にお節介放送が流れてきた。
        日頃は温厚なあなたも今日という今日は怒り心頭に発した。もう我慢ならん!
        次の駅に到着するや否や電車を飛び出し、鬼の形相を浮かべて駅の事務室に怒鳴り込む。
        本来の目的の下車駅ではないがそんなことはどうでもいい。
        
        「うるさいお節介放送をやめてくれたまえ!」
        「え? 何でですか?」
        「わからんのかね? よーし、では理由を言ってやろう。
          ああした放送は○○○○だからやめるべきなのだ!」
        
        さて、上記の「○○○○」にはどんな言葉を当てはめて言えばいいでしょうか?
        
        ネット上での我が同志諸君の吐露や関連書籍を見ると、参考になる言葉が見つかりますね。
        たとえば、次のようなものが代表的です。
        
        あのような注意事項は言うまでもないわかりきったことだ。放送しても無意味である。
        乗客を人として最低限の判断能力も持っていない幼稚園児だとバカにしているに等しい。失礼だ。
        本来は自己責任で注意すべきことを放送すると、ごく一部の不注意な人間を甘やかすことになる。それは社会にとって害悪だ。
        放送を聞かされたくない人もいる。本人の意志を無視して強制的に聞かせるのは人権侵害だ。
        
        個人的にはどの主張も概ね同意ですし、他にもいろいろあるでしょうけれど、
        個別に是非を検討するのは今回のテーマではありません。
        
        どれも上記シナリオの「○○○○」に当てはめる表現として成立しているのは確かです。
        パズルのピースの選択肢・可能性の一つではある。
        
        ただし、2つの意味で、それ以上のものではない。
        
        [1] その結果、説得が受け入れられて放送をやめてもらえるかどうかは別
        [2] その表現が「自分自身の内面」を正確に言い表しているかどうかは別        
        
        いや、もう一つあるかな?
        
        [3] その表現が「社会の実相」を正確に言い表しているかどうかは別
        
        
        [2]と[3]をまとめて
        その表現が「物事の実相」を正確に言い表しているかどうかは別
        
        とした方がいいのかな?
        いや、今はそこはこだわらないことにします。
        
        ただ、今回私が言いたいのは、どちらかと言えば[2]です。
        我々「被害者」が、お節介放送に不快感を感じるのはどうしてなのか?
        それを果たして我々「被害者」自身が理解できているか?
        
        
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        ■ 負け戦の日々
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        思い出してください。
        世の中の大多数の人々はお節介放送を聞かされても何とも思っていないんです。
        
        我々「被害者」が言葉を尽くして「いかにお節介放送は悪いものであるか」を語ったとしても、
        世の中の大多数の人々は涼しい顔をして得意気に答えることでしょう。
        
        「ふーん。でも別に、そこまで気にしなくてもいいじゃん」
        「だからって、気にしすぎなんじゃないの?」
        「そのぐらいのことで神経質になりすぎなんじゃない?」
        「安全のためなんだから我慢してあげれば?」
        「放送を必要としてる人だっているかもしれないのに」
        「自分のことしか考えてないんだな」
        「キミは思いやりが足りない」
        「うるさいのはあんたの方だよ」
        「精神病院に入院したら?」
        「そんなに嫌なら無人島に引っ越せば?」
        
        うおおおお! てめぇらの血は何色だぁーーー!!!
        
        ぜーはーぜーはー。
        
        書いてたら怒りが込み上げて興奮してしまいます。
        えーっと、どこまで話しましたっけ?
        我々「被害者」が言葉を尽くして「いかにお節介放送は悪いものであるか」を語ったとしても、
        世の中の大多数の人々には「伝わらない」んです。
        我々「被害者」にとっては毎日のように神経を逆撫でされて不快の極みであるあの「音」が、
        彼ら彼女らにとっては何ともない。
        「でも別に」「だからって」「そのぐらいのこと」
        でしかないんです。
        この事実は認めざるを得ない。
        
        我々「被害者」にとっては異常としか思えない拡声器騒音地獄が
        大多数の彼ら彼女らにとっては当たり前の日常風景なんです。むしろ心地よくさえあるらしい。
        この感覚のギャップは埋めがたい。
        
        だから、実に理不尽なことではありますが、
        
        [1] その結果、説得が受け入れられて放送をやめてもらえるかどうかは別
        
        という点において、我々は常に敗北している。
        上記のミニシナリオの「○○○○」に当てはまり得る言葉を我々はそれなりに持っていますが、
        [1]の点において、それらの言葉はほとんど何の力も持っていない。
        
        
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        ■ 「本当のところ」何が不快なのか?
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        そこで、私は視点を変えることを提案したい。
        
        [2] その表現が「自分自身の内面」を正確に言い表しているかどうかは別 
        
        この点において、我々は充分な言葉を持っているでしょうか?
        
        我々「被害者」が、お節介放送に不快感を感じるのはどうしてなのか?
        この点について、我々「被害者」自身、理解しきれていないのではないか?
        
        代表的な「お節介放送批判論」をもう一度振り返ってみます。
        
        > あのような注意事項は言うまでもないわかりきったことだ。放送しても無意味である。
        > 乗客を人として最低限の判断能力も持っていない幼稚園児だとバカにしているに等しい。失礼だ。
        > 本来は自己責任で注意すべきことを放送すると、ごく一部の不注意な人間を甘やかすことになる。それは社会にとって害悪だ。
        > 放送を聞かされたくない人もいる。本人の意志を無視して強制的に聞かせるのは人権侵害だ。        
        
        これらは音を出している「加害者」への説得の言葉としては、
        (説得は失敗するにせよ)それなりに合理的な「論」であることは間違いありません。
        
        それはさておき、こうした言葉は、
        我々「被害者」の、音に対する内面的な実感(不快感)、を正確に表現できているでしょうか?
        
        もちろん、一口に「不快」と言っても人によって感性は異なります。
        私はさっきから「我々「被害者」」などと勝手なことを書いてますが、
        お節介放送に不快感を感じる人だって、十人いれば十通りの不快感がありえる。
        
        それを承知の上で、あくまでも私の感覚で話をするのですが、
        私は上記のような批判論の言葉に触れたとき、
        「音漬け社会への批判論」としては賛同しますが、
        「私が感じている不快感そのものの説明」としては「まさにその通り!」
        とは、必ずしも、思えません。
        
        たとえば、お節介な注意事項はわかりきっていると思いますし、放送しても無意味だとは思います。
        しかし、「だから私は不快を感じるのか?」と自問してみると、すっきりとイエスとは言いにくい。
        
        たとえば、客を判断能力の未熟な幼児扱いしていて失礼だと言われると、確かにその通りだと思います。
        しかし、「私は自分が幼児扱いされることが屈辱で我慢ならないのか?」と言えば、
        それがまさに「放送に対する私の不快感の正体」とはあまり思えない。
        
        たとえば、不注意な人間を甘やかすのは社会にとって害悪、と言われると、なるほど、その通りだろう、と思います。
        しかし、「だから私はあの音がたまらなく不愉快なのだ」とは、言いづらい。
        私の不快感そのものとは別次元の話です。
        
        たとえば、「本人の意志を無視して強制的に聞かせるのは人権侵害だ」には、諸手をあげて大賛成します。
        しかし、これは「私はあの音を聞かずにすむ権利があるはずだ」という主張なのであって、
        私の不快感そのものの言語表現ではない。
        
        
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        ■ 言葉が欲しい
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        だから実のところ、こうした「批判論」を人に話したときに返ってくる
        「だからって、そんなに嫌がらなくてもいいじゃん」
        のような反応に、私は、心のどこかで
        「確かにそうなんだよな」
        と思ってしまっている。
        
        つまり、私の不快感そのもの、を、うまく表現できていないんです。
        いくら声を上げても「放送をやめるべき理由」という説得の次元を超えることはなく、
        「私がいかに苦しいか」は伝わらず、
        最後はいつも「うるさいのはおまえだよ」で、ぐぬぬぬぬぬ、日本人許すまじ! となってしまう。
        
        もちろん人によって感性は異なりますから、
        私の他の同志諸君の中には上に挙げたような批判論が単に批判論であるだけにとどまらず、
        自己自身の内面で感じている不快を言い表すのにぴったりだ、という人もいるかもしれません。
        それならそれでいいと思います。
        
        しかし、私はもっと何か別の言葉が欲しい。
        私自身の不快そのものを深く掘り下げて、その正体を把握し、
        「こういうことなんですよ!」と表明できるような言葉を手に入れたい。
        
        同志諸君におかれましてはいかがでしょう?
        この文章をここまで読んでいるということは、あなたも私の同志である可能性が高いのではないかと思いますが、
        あなたはあなた自身がお節介拡声器放送に感じている不快感を
        「こういうことなんですよ!」と言い表せる言葉が欲しくはないでしょうか?
        それともすでに持っているでしょうか?
        
        もちろん、そういう言葉を手に入れて不快感をうまく言い表せるようになったとしても、
        [1] その結果、説得が受け入れられて放送をやめてもらえるかどうかは別
        の点をクリアできるという保証はありません。
        相変わらず「へー。でもそんなこと言うのはあんただけ〜。ベロベロバー」で迫害されることには変わりない公算が高い。
        
        しかし、
        [2] その表現が「自分自身の内面」を正確に言い表しているかどうかは別 
        この点で前進することは無駄ではないはずです。
        
        どのように無駄ではないか?
        えーっと。ごにょごにょ。
        すいません。ちょっとうまく答えられません。
        
        いやっ、でもでも、そんな言葉、あったらいいじゃないですか。不思議なポッケから出てきて欲しいじゃないですか。
        自信を持てるようになるはずです。
        
        現状、めっちゃ迫害されてるわけですよ。
        
        「あんたキ○ガイなんじゃないの? 精神病院いけよ」
        
        これに対して臆することなく胸を張って答える
        
        「キチ○イではない。私はただ○○○○ということなのですよ」
        「ヘー。でもつまりそれってキチガ○ってことだよな」
        「何ぃぃぃぃ?!」
        
        あれー? おかしいな。おかしいな。
        
        
        ですから、直接的な解決が得られるというものではない。
        直接的な解決(音をやめさせる)を求めること、つまり[1] から一旦目を転じて、
        [2]の視点でこの問題への理解を深めてみてはどうか? という提案です。
        
        で、その結果、
        「私は○チガイであるがゆえにあの放送が不快なのだ」という話になってしまったら残念だなぁと思うわけですが……。
        
        
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        ■ 本当は戦いたくない
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        私の希望的観測としては、
        そういう、ネガティブな方向へ進むのではなく、
        人間というものを、より幅広く、理解し、肯定していけるような、(教条的ではない新たな)視点、
        が、得られるのではないかなぁ、得られるといいなぁ、
        むしろこの件を契機にそういうことを考えてもいいんじゃないか、などと思っております。
        
        だから、あのような放送に不快を感じること自体が感覚として間違っている、などとは言わず、
        そのこと自体は人として何らおかしなことではない、
        と、まずは無根拠に決めつけようと思っています。
        (なにしろ連中はこの逆を無自覚にやってるわけですから。と、憎々しげに言う)
        
        あのような放送に不快を感じるということ自体は無条件に肯定し、
        そこから話を深めていく。そういう道があるはず。
        
        
        ちなみにさきほど、
        [2] その表現が「自分自身の内面」を正確に言い表しているかどうかは別

        に並列して
        [3] その表現が「社会の実相」を正確に言い表しているかどうかは別

        もあるのではないか、と言いつつ[2]で話を押し通してきましたが、
        それはなぜかというと、
        この問題について語るとき、「こんな日本はおかしい!」のように、
        日本の文化や社会そのものを批判するというビッグなスケールのアタックになりがちだからです。
        「音をとめてもらおう」から出発して、世の中全体を敵に回した一大革命戦線になってしまう。
        
        そうした視点や活動にはもちろん価値があると思いますし、続けていく必要もあるとは思いますが、
        それだけが「拡声器騒音」という厄介で解決困難な問題の全てではないはずです。
        
        今まであまり顧みられて来なかった視点もあるのではないか、という意味を込めて
        今回は[2]へ目を向ける提案をしている次第です。
        
        
        > この問題について語るとき、「こんな日本はおかしい!」のように、
        > 日本の文化や社会そのものを批判するというビッグなスケールのアタックになりがちだからです。
        
        これを言うと私も人のことを言えないわけですが、
        こうしたこと自体を悪いことだと言うつもりはないんです。
        批判、大いにしていきましょう。邪悪な騒音国家日本を我ら静穏党が転覆させるのだ! おー!
        ただ、他にもやれることがあるんじゃないか? という話です。
        
        
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        ■ まとめ:共感できる言葉を
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        知っての通り、今のところ日本の社会から拡声器騒音がなくなる気配はありません。
        それどころか増える気配さえある。
        同志諸君の日々の奮闘にもかかわらず、その成果は出ているとは言い難い。
        
        今までの活動のパターンを概観すると、こうです。
        
        1、拡声器放送を聞かされて不快になる
        2、文句を言いにいく
        3、全く相手にされない
        
        このサイクルを繰り返す中で自分の中に怒りと失望を増加させてしまう。
        「話が通じない」という現実がある。
        この現実の中で奮闘すればするほど怒りと失望を醸造することになってしまう。
        
        私が思うに、言葉が足りていない、のだと思うのです。
        同志諸君の中にはかなり積極的に奮闘していらっしゃる方もいて、
        そういう同志のことを思うと "言葉が足りない" とは言いづらいのですが、
        やはり、結果的に共感を得ることができていないという点で、
        もっと別の言葉を探る余地があるのではないかと思うのです。量的にではなく質的に。
        
        たとえば拡声器放送の問題点から出発して鋭い日本文化批判論を展開したとして、
        その論そのものには一定の共感を得られたとしても、
        「なるほどー。でも別にそんなにうるさがらなくってもいいんじゃないの?」の一言で全否定です。
        
        積極的に奮闘しているわけではない同志の場合でも、
        たとえばネット上の掲示板などにときおり見られる「我慢の限界に達して書き込んだ怒りの言葉」
        を見ると、本当に本当につらい状況なのだな、と心の底から同情すると同時に、
        やはりそこに書かれている言葉が、言葉として貧困な表現であることに気付かざるを得なかったりする。
        そりゃもちろん、怒りと苦しみの真っ只中で書いた文章なのだからしょうがないとは思うのですが、
        だからこそ、ただでさえ話の通じない「加害者ども」には絶対に伝わることがなく、
        むしろ怒りや苦しみがにじみ出ているからこそ「精神病院いけばぁ〜?」などと言わせる隙にもなっていることが残念でなりません。
        
        「拡声器騒音による不快感」そのものを肯定的に言い表す言葉があれば、
        怒りの感情に任せることなく、冷静に語ることができる……かもしれない。
        あるいはそもそも、そこまで怒りの感情を溜め込まずに済んだ……かもしれない。
        (かもしれない、としか言えないのが、私の今回の提案の弱いところです。すみません)
        
        私に言われるまでもなく同志諸君はすでに痛いほどわかっていることと思いますが、
        我々「被害者」が発する言葉(や行動・態度)が、世間の人々(「加害者」ども)には共感されていない、ということです。
        この点でまず、反省の余地がある……とは言いづらいですが、戦略を考え直す余地があるのは確かでしょう。
        
        そしてもう一つ。共感を得られていないと言えば、
        我々「被害者」同志であっても必ずしも互いに共感できているとは言い難い部分がある気がするのですが、どうでしょう?
        
        「拡声器の放送が不愉快だ」という点では当然ながら共感できないはずはありませんし、
        世の中からそうした音を減らすための種々の主張や活動も基本的には賛同されることでしょう。
        
        ただし、「不快だ」ということ自体の中身についてはどうか?
        我々「被害者」同志であっても、必ずしも共感を呼ぶ言葉を持っているというわけではない気がします。
        
        特に心配なのが、表には出てきていない「潜在的な同志」のことです。
        拡声器放送に対して不快感を感じてはいるのだけれど、
        私や同志諸君ほどにはそれを表立って語るということはしていない。
        そういう人も(表に出ていないので知る由はありませんが)少なくはないはずです。
        しかし活動的な「被害者」が語る言葉には共感ができない。
        「たしかにうるさいけど……でも、あんなに言うほどでは……」
        そして結果的に「加害者」側の言い分を飲むような日常生活を送ってしまっている。
        
        つまり我々「活動的な被害者」の行動が裏目に出ているケースということです。
        味方になるはずの人が敵側にとどまっている。
        いや、あまり「敵味方」と分断する言い方はしたくありませんが、わかりやすく言うとそういうことです。
        
        
        >1、拡声器放送を聞かされて不快になる
        >2、文句を言いにいく
        >3、全く相手にされない      
        そして4、怒りや失望をためこむ
        
        とかく「他者攻撃」になりがちです。
        もちろん、まず何を置いても「私やあなた自身が騒音主から攻撃されている」のであって、
        そのことをねじ曲げる必要は全くない。
        自分の気持ちをごまかして悪を善だと言いくるめる必要は全くない。
        
        ただ、なんというか……
        ああ、すでに「まとめ」に入っているはずなのに、ちっともまとまってくれない。困った!
        
        実際、具体性に欠けた話なわけですよ。
        具体性を得る以前の段階の話というか。
        
        
        
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        ■ 同志諸君よ言葉を探れ
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        さっきの節が「まとめ」じゃなかったのかよ、というツッコミはアカシックレコード経由で受付中です。
        
        私は同志諸君に "言葉を探ること" を提案します。
        今までは他人(音を出している連中や容認している者ども)を説得・批判するための言葉に終始していた。
        それも大事なことではありますが、そうした試みが行き詰まっているのもまた認めざるを得ないところでしょう。
        
        他人を説得するための言葉ではなく、自己自身の内面を語る言葉を探る。
        お節介拡声器放送に感じる不快感、を、語る。
        「だから静かにしろ」と言うのをひとまず保留して、
        我々のそれぞれがそれぞれの内面で感じている不快感そのものの内実について内省し、言語化していく。
        
        言語化したからってどうなるんだ? と言われれば、答えに窮するところなのですが、
        ともかく、言い尽くせていない何か、があることは確かなんです。
        それを探っていく価値はある。まだ見ぬフロンティアがある。
        
        今はかみ合わない会話しかできていませんが、かみ合わせる表現が、もしかすると見つかるかもしれない。
        希望があるということです。
        
        だから、私以外の「お節介放送不愉快派」の同志のみなさんも、それぞれに、
        「どうして放送を不快に感じるのか?」を考えていく余地があるんじゃないのか、と、
        希望を込めて、言いたい。
        
        そのためには、まず、何を置いてもしなければならないことが一つある。
        それは、お節介拡声器放送を「不快に感じること自体」を否定せずに無条件に肯定することです。
        お節介拡声器放送って不快ですよね? 不快だ! コンチクショー! 
        
        世間には、ああした放送を不快に思うこと自体を
        人間として劣っているかのように悪し様に言う言説もありますが、
        そんなこと全然ないです。
        あんなもん不快に決まってます。不快だ! うるさい! コノヤロー!
        
        ぜーはーぜーはー。
        
        ではさて、私は、あなたは、ああした放送をどのように不快だと思うのでしょう?
        内面を掘り下げて考えていきませんか?
        卑屈になる必要はないんです。
        (すぐに「私って神経質な人間だから」とか言わないで! そもそも「神経質」って何? 未踏のフロンティアは広いぞ)
        何度でも言いますが、ああした放送を不快に思うこと自体は全然悪くないんです。
        安心して、のびのびと、考えていきませんか?
        
        そして、どんどん声を上げていこうではありませんか。
        
        もちろん既存の表現の中にしっくりくるものがある人は、そのように言っていけばいいと思います。
        たとえば「わかりきったことを命令するな」や「人を幼児扱いして失礼だ」などの言葉で
        「自分の内面的な不快感をぴったり言い表している」と感じるなら、そのように言っていけばいいのです。
        ただ、少なくとも私は、こうした既存の表現では「いまいち乗れない」のです。
        「それが私の感じていることだ!」とはあんまり思えない。
        
        「乗れる」言葉がない。
        現状、こうした放送に対して疑念の声を上げる人自体が少ないという状況があるわけですが、
        もしかすると「乗れる」言葉がない、というのもその理由の一つかもしれません。
        
        もしかすると、表に出てきている以上に、お節介放送を不快に思っている人は多いのかもしれません。
        しかし、言葉がないがゆえに表に出てこないのかもしれない。
        つまり、
        「あんな放送、聞かされたくないなぁ。でも……まぁ、安全のためだし……我慢するか(ため息)」
        のように思っている人は、案外多い、の、かもしれない。
        
        そのように思っている人に向けて、
        たとえば「キミは幼児扱いされて悔しくないのかね?!」と言うとどうなるか?
        「そうだ! 私は幼児扱いされることに我慢ならないのだ! ゴゴゴゴゴ!」と覚醒する人もいるかもしれませんが、
        「いや、別に幼児扱いというか……そこまでは別に……」と思ってしまう人も案外多いのではないでしょうか?
        しかし放送を不快に思っていないわけではない。
        その不快さを言い表す言葉として、自分なりにしっくりくる表現を持っていないだけなのかもしれない。
        
        だから私は同志諸君に提案します。
        自分なりに「こういうことだ」と思える言葉を探っていきましょうよ。
        そして自分なりに見つけた言葉で声を上げていきましょうよ。
        
        上で「乗り」などと言いましたが、言葉を見つけるには「乗り」や勢い以前に
        一歩引いて自分の内面を見つめる地道な作業が必要です。
        声を上げていこうとも言いましたが、声を上げる前に黙って内省しなければならない。
        しかし現状の「おかしな世の中」で諦めずに腐らずに生きていくには、そうした地道な作業にも価値があるはずです。
        
        言葉を見つけよう。
        そして静穏なる世界の構築に向けて戦いの旗を掲げようではありませんか!
        ハイル静穏! ジーク静穏!
        ん? 静穏? 静音? もじもじと迷う。
        
        
        
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