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◆◆ したこと: ◆◆

        マインドル本文・3rdヒロ子氏のパート・第11話が完了。
        
        残すところあと3話ーーー! 
        つまりどういうことかと言うとですね、第11話が完了したということです。
        おお、マジですか? マジなのですよー。もうビックリするしかありませんね。選択肢ありませんね。
        いいえ、たとえ選択肢が一つしかなくても、その選択をしているのは他ならぬこの私なのだ!
        私は、私の意志でビックリする!
        選択肢がないですって? バカ言っちゃいけない。
        私の意志を否定する者どもよ、その目を開けて目撃するがいい。
        私は私は私はぁ! 私の意志でビックリを選び取るーーーーーーー!!!
        
        強引に盛り上がってみましたがオチが見つからないので話を進めます。
        
        本文が1つ完了したときの話と言えば、分量と出来映えですね。
        聞きたいでしょうから教えてあげようではありませんか。
        分量はですねぇ、分量はですねぇ、原稿用意換算で311枚でした。
        久々の大長編ですね。時間がかかってしまったのも頷けます。
        いやいや、頷いてる場合じゃないですよ。逆向きに頷きますから時間を巻き戻してください。うんうん、じゃなくて、んうんう。発音難しい。
        
        そうなのですよね。時間が流れることが、前々からの悩みどころです。
        ところで今「前々からの悩みどころ」っていうところで言葉が思い浮かばなくて1分ほど考え込んでしまいました。
        こういうときって他に何か気の利いた言い回し、ありませんでした?
        積年の恨み、とか? 古傷、とか? 持病、とか? 宿痾、とか?
        どれも微妙に間違ってますよね。困ったな。
        仕方がないので「前々からの悩みどころ」という、こなれてない日本語で我慢することにしたのです。
        言っておきますが、我慢は美徳ではありませんよ? すなわち私は今、悪人です。なまはげを迎え撃て。
        
        何の話でしたっけ?
        時間が流れて困ってます、という話でした。
        このお悩みをネットの掲示板に書き込んだら知恵のあるみなさんから斬新な罵倒の雨あられを賜ることができるのでしょうね。
        しかし時間が流れるのって困りますよね?
        誰もが同じ悩みを抱えているはずなのですよ。
        だから世の中を変えよう。今度の選挙では時間の流れを遅くしてくれる政党に投票します。
        
        ちなみに、なぜ時間が流れるのかと言うと、
        私以外の存在が動いているからです。
        マンガに出てくるタイムストップ装置を思い浮かべてみると明らかですよね。
        時間が止まるというのは、すなわち、私以外の一切が止まる、ということに他なりません。
        だから私は声を大にして言わねばならないのです。
        あなたたち、少し止まっててください。
        せめて私がごはんを食べてる間ぐらい止まっててください。
        人がごはんを食べてる間に動き回るだなんて、断じて許すことはできません。我、義憤せり!
        ゆえに、今度の選挙では私がごはんを食べてる間には一切衆生は止まるべし、との法律を作ってくれる政党に投票します。
        
        何の話でしたっけ?
        忘れてしまったので時間をかけて思い出す。
        たしか、第11話の本文が完了したという話ではなかったでしょうか? なるほど。
        分量は原稿用紙換算で約311枚。大長編かぁー。
        実際には本文に混じってメモ書きの文言も混じってますので、少し少ないはずです。大長よりも少し少ない編かぁー。
        
        えっと、今は3rdヒロ子氏の後編の途中なのでした。
        前編が大長編ばっかりで大変だったなー、という記憶があって、
        前編の作業をしながら、後編は大長じゃない編ばっかりになるはずだから! とのお告げに励まされつつ作業を続けていた、という記憶があって、
        しかしながら、この現状はどうだ! 騙された! コノヤロー!

        いやいや、今まではお告げの通りだったじゃないですか。
        今回、後編はじまって以来の300枚超えです。
        ふむ。たしかにそうですね。
        すると、つまり、こういうことですか? 今後はもう大長編にはならないと?
        どうでしょう? えへへ。
        なんだその曖昧な返事は! やっぱり騙したな! コノヤロー!
        人を騙すなんてひどい。私の純真な心はロボロボです。じゃない。ボロボロです。
        
        しかし、過ぎたことはタイムマシンが発明されるまでは仕方がありません。
        覆水タイムマシンが発明されるまでは盆に返らず。しばしの辛抱ですね。
        
        今後はどうですか? 残りあと3話。
        3話とも大長編だったら私、胸が張り裂けてロボロボのサイボーグになってしまいますよ?
        詳細設計によると、どれもそこそこの分量にはなりそうですが、今回ほどの分量にはならない感じですよ?
        おそらく、今回が後編で一番の長丁場だったのです。
        本当ですか? 信じていいのですか? 
        
        いやいや、長いこと自体は悪いことではないのですよ。
        悪いのは時間がかかることです。
        すなわち、私以外の存在が動いていることが悪いのです。キサマー! そこを動くなー!
        どうやら私は人類を敵に回してしまったようだ。
        
        つまりこういうことです。
        自殺するか? 世界を滅ぼすか?
        
        ああ、どうしてこんなに苦しい二者択一を迫られねばならないのでしょう? 心がロボロボになってしまう。
        生きるとは選ぶということです。
        生きるとは迷うということです。
        生きるとはロボロボになるということです。
        
        いいえ、私はロボなどではない。人間です。生きた人間です。
        それゆえに自己意識があるのであり、選ぶのであり、迷うのです。
        一瞬一瞬が選択の連続であり、迷いの連続です。
        
        ときにはロボロボになり、そしまた人間へと戻る。
        そのように揺れ動くこということ。
        その全体が生きるということの実相です。
        
        何の話でしたっけ?
        何か大事なことを忘れている気がしてなりません。認知症かな。
        ごはんはさっきあなたが止まってる間に食べましたよね?
        あ、思い出した。出来映えの話をしてませんでした。
        
        出来映えはねぇ、出来映えはねぇ、もちろん完璧ですよ。なにしろ仏のなさることですからね。
        私の想像をはるかに絶する完璧さがそこにある。
        あのときのアレはこういうことだったのかー、ここでこういうふうにつながるのかー、と、
        おそるべき緻密さで全てが組み立てられている。まさに仏のみわざ。開いた口がふさがりません。
        と、書いて気付いたのですが、「開いた口がふさがりません」って、こういうときに使うフレーズでしたっけ?
        いや、私が言いたいのは、仏のみわざに感動して、声にならない声が出て、開いた口を閉じることも忘れるほど心を打たれた、
        ということです。それほどまでに畏怖の念を禁じ得ない、ということです。
        おっ、それじゃん。それじゃないですか! 畏怖の念を禁じ得ない。最初っからそう言えばいいじゃないですかー。Hahaha!
        ワターシ、if no nine woe quinsie'ny デスー。
        
        しかし、どうでしょうね?
        「畏怖の念を禁じ得ない」というフレーズも別の意味で使う風習が根付いたら、別の意味になってしまうんじゃないですか?
        
        「あなた、また遅刻ぅ? 畏怖の念を禁じ得ないわね!」
        「おまえすげぇ寝ぐせだな。畏怖の念を禁じ得ないぜ! ギャハハ!」
        「うわっ、あいつまた来てるよ……どんな神経してるんだ? 畏怖の念を禁じ得ねぇよなぁ」
        
        つまり、重要なのは、その発話にどのような意志が込められているか、です。
        
        それとも、発話を受け取る側の思い込みでしょうか?
        いいえ、私はそうは思いません。あくまでも発話する側の意志こそが重要であると私は考えます。
        
        受け取る側の思い込み、という考え方は、つまり「気にしなければいい」「気にするから悪い」というやつですね。
        私は、そういう考え方は、あまり問題を解決しないと思うのです。
        なぜなら、自分がいかに「気にしない」としても、相手の側に悪意がある限り、それはやはり「悪意がある」ということだからです。
        この世に存在する悪意の総量に変化がない。つまり、問題は解決していない、ということです。
        そしてなによりも、自分はどうなのか? ということです。
        自分自身は悪意をもって言葉を使っていないか?
        「気にしなければいい」「気にするから悪い」
        これは裏返せば、自分自身はいくらでも悪意を振り回して構わない、ということになります。
        いわば、人を殴って痛い思いをさせておいて、おまえの体に痛覚があるから悪いのだ、と居直るようなものです。
        人を殴って怪我をさせておいて、殴られても怪我をしないように体を鍛えてないおまえが悪い、と居直るようなものです。
        たまたま曲がり角で人とぶつかってしまう、というのとは全くわけが違う。
        
        そこに悪意があること。実在していること。
        それがそもそもの問題です。
        そして自分自身が悪意の保持者にならないこと。
        問題をなくすために必要なのはそのことです。
        
        汚い心で言葉を使えば、どんな言葉でも汚くなってしまう。
        自分自身が汚い心にならないことが大事なことです。
        
        
        ではもう一度。
        心を落ち着かせて。
        根源の願いに立ち返って。
        
        仏のみわざを前にして、開いた口がふさがらない。
        うん。いいじゃないですか。
        畏怖の念を禁じ得ない。
        うん。いいじゃないですか。
        
        そこに込める意志が重要なのです。
        そこにいかなる意志を込めるかが重要なのです。
        数多くの単語を複雑に組み合わせることが重要なのではない。
        単語なんて少なくてもいい。
        そこに込める意志が善意である限り。
        むしろ単語なんてたくさんあるから、余計な悪意が入り込むのかもしれない。
        いっそ単語なんて一つだけでいい。
        今日から「どうも」だけで押し通したっていい。
        
        「どうも〜。どうもどうもどうも。どもー。どうも……? どーうも、どもども。どうもー。どもどもー!」
        
        きっと世界はよくなる。
        
        さらに踏み込んで、こういうふうにする。文字だって1つで充分。
        「XXXX XXXX XX XXX XXXXXXXX」
        
        え? 何て言ったのかって?
        だからぁ、えっとねぇ、もじもじ。
        今日もあなたが幸せでありますように、って言ったのー。
        
        キャッ! 言っちゃた! ヤダもぅ、言わせないでよぉ! バシバシと背中を叩くぅ!