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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        食べ物の話となると、必ず健康の話がついてくる
        
        ちょっと、とある食材の調理の仕方について知りたくて、ネットで検索したのですが、
        どこを見てもカロリーだとか栄養だとかダイエットだとか、そんな話が必ずオマケにくっついてきて実に鬱陶しい。
        そういう話を抜きにして食べ物の話をすることはできないんですか?
        
        何なのでしょう、これは?
        
        単に "おいしい!" と言えなくなってしまっている、ということなのではないか?
        味というのは個人の主観的な官能体験です。
        そうしたことを語ることが許されてない。
        カロリーがどうであるとか、ビタミンがどうであるとか、
        客観的な数字や物質で語らねばならない。
        
        しかもそれは常に比較や分類が伴う。
        これはよい。あればダメ。あれと比べてこちらがいい・悪い。
        数字や物質で語るというのはそういうことです。
        そうした客観的な価値体系の中に否応なく位置づけて語られることとなる。
        
        "おいしい!" "まずい!" といった個人の主観的な官能体験は価値の低いものとされる。
        "おいしい!" けれども "体に悪い" ならば、食べてはならず、
        "まずい!" けれども "体にいい" ならば、食べねばならない。
        個人の主観的な官能体験は抑圧される。"我慢" しなければならないものとされる。
        
        物質が精神に優先する。
        物質は存在するが、精神は存在しない、ということになっている。
        ここに確かに存在している "この私" という意識の存在が無視される。
        "この私" や "あなた" や、そのまわりにいる具体的個別的な一人一人の "私" が無視される。
        そんなものは存在しない、ということになっている。
        存在するのは肉体やその位置や大きさといった物質や数値であり、
        それらの比較や分類のみが意味を持つものとされる。
        
        感情や思想さえも物質化を免れることはできない。
        それらは分類され、陳列され、比較される。
        "私" の心は解剖され、ホルマリン漬けにされ、ラベルを貼られて棚の片隅に並べられる。
        そうした "心(だったもの)" が無数に整然と陳列されている長大な棚だけが見渡す限り立ち並んでいる。
        生きた人間がどこにもいない。生きた心がどこにもいない。
        
        だけど、そんなはずはない。
        
        私はここにいる。
        あなたはそこにいる。
        
        います。
        いるでしょう?
        ほら、いるじゃないですか。
        そこに、いるじゃないですか!