「ウィンドウスナップ」機能の意味するところは何か?
Windows では「Aeroスナップ」という名前がついているらしいのですが、
何のことか、ご存知でしょうか?
Windows7 以降のデスクトップで、ウィンドウを画面端に移動させると、勝手に画面の半分のサイズになって張り付いてしまうアレです。上端だと最大化ですね。
私にはこの機能はお節介なものとしか思えません。そして同じように感じる人は、世の中にたくさんいらっしゃるようです。
もちろん、この機能を喜んで使っている人も、世の中にはいるのでしょうし、それはそれで、全然かまいません。
何がどのようにお節介で、ストレスの源になるか、ということは、いろいろな場所で多くの人が語っていることですので、ここでは繰り返しません。
さて、この機能がただ単に「Microsoft の余計なお世話」であるとしたら、話はそこで終わりです。
わざわざ変な機能を発明して、ユーザーの気を引こうとする。
「Microsoft ってば、おちゃめさん!」と笑って、話はそれで終わりです。
しかし、話はこれで終わらない。
■ Linux にもウィンドウスナップがある
もうね、がっかりです。
最近電源を入れてない旧XPマシンを再利用するために、いろいろと Linux のディストリビューションを物色していたのですが、
ほとんどのディストリビューションで、ウィンドウスナップがあって、かつ、律儀にデフォルトでオンになっている。
Windows よりもシンプルな環境であろう、と(勝手に)期待して Linux を物色していた。
それなのに、あの悪名高いお節介機能を、ここでも目にすることになるなんて……。
もちろんオフにすることはできるし、それは Windows でも同じなのですが、
デフォルトでオンになっているということが、お節介のお節介たる所以として批判の対象になっていたはず。
使いたい人は使えばいいけれど、最初から、これ見よがしにオンになっている。押し付けがましい。ウザい。
そういうのは Microsoft特有のおちゃめ回路だと思っていました。また、そういうことにして、それ以上深く考えないようにしていました。
しかし、こうなってくると、そうは言えなくなる。
なぜ、こうなるのか?
■ 雲の上の人たち
Microsoft で Windows を開発している人たちも、Linux のディストリビューションを開発している先生たちも、
私にとっては雲の上の存在です。すごく優秀な技術者にちがいありません。
そんな人たちが何を考えているのか、私なんかに理解できなくても何の不思議もない。
そういう雲の上の人たちが、「ウィンドウスナップをデフォルトでオンにしておく」ということで
意見を一致させている。
ということは……。
私なんかには想像もつかない理由で、その方がいい、という道理があるのかもしれません。
本当に?
知りません! そんなこと知ったことじゃありません!
雲の上の連中がどうであろうとも、パソコンを使っているのは私だ!
そして私がそれほど特殊なユーザーということもないはずだ。
むしろ雲の上の連中の方が、雲の上にいるという理由で、特殊です。降りてきやがれ。
とりあえず、Windows や Linux のデスクトップ環境を作っている先生方が、
自分たちが普段使っているパソコンをどういう設定にしているのかが気になります。
ウィンドウスナップなんて、本当に使ってるんですか?
> むしろ雲の上の連中の方が、雲の上にいるという理由で、特殊です。降りてきやがれ。
あ、でも、万が一、万が一、ここを読んでメール送ってくださったりなんかしたら、平謝りです。乱暴なこと言ってごめんなさい。ぺこぺこ。
■ 雲の下にて、状況が悪化している気配
もともと誰も喜んでなかった。待ち望んでもいなかった。
しかし、いつのまにか、その機能が「ある」ことがあたりまえになってしまう。
その機能が「ある」前提で、上手にパソコンを使いこなすことがクール、ということになってしまう。
「勝手にウィンドウのサイズを変えられて不便!」と言っているやつは古臭い人間、ということにされてしまう。
「勝手に」は「自動的に」と言い換えられ、「不便」は「便利」と言い換えられる。
「自動的にウィンドウのサイズが変わって便利!」
これが Microsoft の傘の下だけで開催されている茶番劇場であれば、単なる笑い話です。
しかし、やがて茶番が世間を覆い尽くし、劇場の外へ出ることができなくなる。
単にパソコンの使い方、というだけのことでしょうか?
人間の在り方の不気味さが、ここに垣間見える気がします。
■ ほとんど人はパソコンをデフォルト設定のまま使っている
統計情報もなにもなく、私の推測でしかないんですが、多分そうだと思います。
私みたいに毎日頻繁にパソコンを使う人間であれば、自分が使いやすいように設定を変更して使いますが、
そういう人間は、おそらく、全ユーザーの中で、決して多数派ではないはずです。
誰もがパソコンを使うことが日常の一部になっているというわけではない。
ほとんどの人は、たまに必要なときだけパソコンの電源を入れて、用が済めば電源を切るのではないでしょうか。
そういう使い方をしているならば、ウィンドウスナップがあってもなくても、ほとんど問題にならないでしょう。
仮に何かのはずみで意図せずにウィンドウスナップを発動させてしまったとして、そしてそれを鬱陶しく感じたとしても、
「パソコンってのは、そういうもんなんだ」と、いう程度にしか考えない。
おそらくそのはずです。
私みたいに「キィー! スナップうざい! オフだオフだお札! 今すぐ御札貼って封印!」と鼻血を撒き散らす人間は、
主張の内容の是非はさておき、数の上では、きっと少数派なんです。
多分、Microsoft も、それをわかってるんです。
ほとんどの人はデフォルト設定を、変更することなく、買って来たときのままで使い続けるはずだ、と。
ところで、「Windows 8.1 with Bing」というものがありますね。
おおざっぱに言うと、こうです。「安いんだけど、IE のデフォルト検索エンジンが Bing になっている」。それだけです。
これもおそらく、「ほとんどのユーザーはパソコンのデフォルト設定を変更せずに使い続けるはずだ」、という当て込みにもとづいているのではないか?
だから、ただ単にデフォルト検索エンジンを Bing にしておく、という小技だけで、
Google からシェアを奪う戦術として、充分に功を奏するだろう、という判断なのではないか?
検索エンジンとしての Google は強いですから、こんな小細工が通用するかどうかは私には怪しく思えますが、
ともかく、Microsoft の判断として、そういう発想が出てくる素地がある。「ユーザーのパソコンの使い方」の中に、そういう戦術を呼び込む素地がある。
(誤解を恐れずに言えば、ユーザーはナメられてるんです。こんなもんでしょ? って、ナメられてるんです。ペロペロ)
さて、ウィンドウスナップ。Windows の場合は Aeroスナップですか。名前が。
Microsoft が一体何の目的で Aero スナップを世間に普及させたがっているのか? それは私にはわかりません。
しかし、デフォルトでオンにしておけば、大多数のユーザーは「そういうもん」だと思って使い続けるはずだ、と、おそらく Microsoft は判断した。
そして、現実は、どうやら、Microsoft の目論見通りになっているらしい。
多くの Linux のディストリビューションで Windows と同じようにウィンドウスナップが実装され、あまつさえデフォルトでオンになっている。
その現象が、まさに、Microsoft の思惑が現実化していることの表れなのではないでしょうか?
■ Windows に追いつこうとしている?
Linuxと言ってもいろいろありますが、特に、デスクトップ用途に特化してますよ、という謳い文句のものですね。
今回、XPの代わりに入れるものとして私が物色したのは、大体そういう種類のものです。
「Windows と同じような操作で使える」ということがウリになっている。私もそのウリに惹かれて使ってみた。
確かに Windows っぽい操作感覚。すごい!
Windows の悪いところまでソックリ。あっぱれ!
そういうことなのかもしれませんね。ウィンドウスナップ。壮大なモノマネ。超似てる~。超ウケル~。
競争のために、競合相手との差別化として、不要な機能がもてはやされてしまう。
そういうことって、あると思います。
Windows はよくも悪くも、市場を牽引する存在ですから、
率先して新しい機能を提案するのでしょう。他がやってないことをやる。ユーザーの先回りをする。
ユーザーの要望に応じるのではない。そんな後手を踏むようなことでは市場を牽引できない。
ユーザが求めてさえないことをやって、ユーザーを引っ張る。
Linux でウィンドウスナップを見るにつけ「ああ、ぼくたちは引っ張られちゃったんだなぁ」と思う。肩こりが治るかもしれないと思う。
そういう空気になっているのだと思います。
ウィンドウスナップを実装してないと、
「なぁんだ。Windows にはあるのに、Linux にはないの? やっぱ Linux ってのはダメ OS だね! やーいダメっ子ダメっ子! やーい!」
とかなんとか、言われてしまう。
実際にそんなことを言う人がいるかどうか? それは問題ではない。
そう言われかねない、という危機感が共有されている。
それが「空気」ということです。
実在よりも空気の方が、影響は甚大かつ深刻です。
本当にそういう言い方で悪口を言う人が実在しているかどうかよりも、
そのような危機感が共有されていることの方が、人々の心理や行動へ与える影響は甚大です。
実在の人ではないから、影響はぼんやりしている……などと思ったら大間違いです。
実在が問題ではない。それほどまでに、我々の心の奥深くに、根を下ろしている。抗いがたく、心へ直接語りかけてくる。
それが「空気」ということの恐ろしさです。
ウンコをよけて歩くことはできても、漂ってくるオナラを吸わずにいることは難しい。それが「空気」ということの恐ろしさです。(わかりやすい!)
> 競争のために、競合相手との差別化として、不要な機能がもてはやされてしまう。
過去にも同じようなことがありましたね。
タブブラウザです。
いわゆるブラウザ戦争の中で注目された機能でした。
IE が圧倒的なシェアを持っている中、他のブラウザが、なんとかしてシェアを伸ばそうとしていた。
そうした中で、IE にはない機能として、多くのブラウザが利点を主張していたのが「タブ」だった。
おそらく、始めの頃は、タブは本当に実用的だったんです。
つまり Win98 がまだ世の中に存在していた頃です。
タブブラウザのメリットは主に2つありました。
・システムリソースを節約する
・タスクバーのスペースを節約する
しかし、このどちらも、現在の Windows では解決されており、したがってタブブラウザの存在意義もなくなっています。
> ・システムリソースを節約する
Win98 の頃は、ウィンドウを複数開くと、すぐに「システムリソースが不足しています」とのエラーが出た。
しかも、アプリケーションを閉じても回復しない。OS を再起動するしかない。
Win98(9x系) とは、そういう OS だった。
そういう環境では、タブブラウザに意味があった。
ウィンドウを新たに開くことなく、1つのウィンドウの中に「タブ」として複数のページを表示することができる。
システムリソースの節約になる。
(本当に節約になっていたのかどうか、私は検証してないので断言はできません。が、通説としてそういうことになっていた)
しかし、Win2000 および XP 以降は OS が改良され、システムリソースの不具合も改善された。
したがって、タブブラウザも、その役割を1つ終えました。
> ・タスクバーのスペースを節約する
当時の Windows では、アプリケーションを開けば、開いただけ、タスクバーに横長のラベルが表示されていました。
もちろんブラウザも例外ではありません。
Webを見ていて、ページを複数開いていると、タスクバーがあっという間にブラウザばかりに占拠されてしまう。
そんなとき、タブブラウザは大活躍でした。
タブの中にページをいくら開いても、タスクバーの中では1つだけ。画面すっきり!
もうタブブラウザが手放せない! タブブラウザじゃなきゃブラウザじゃない! IE なんて時代遅れ! IE 使ってるやつも時代遅れ!
誰もがそのように声高に叫んだ。攻撃的に叫んだ。
しかし、今となってはタスクバーの機能も改良され、この問題もなくなっています。
タスクバーの上でアプリケーションごとにラベルをまとめることができます。
サイズも横長ではなく、小さく表示することができます。
したがって、この点でも、すでにタブブラウザはその役割を終えていると言えます。
> おそらく、始めの頃は、タブは本当に実用的だったんです。
> つまり Win98 がまだ世の中に存在していた頃です。
つまり、タブが実用的だったというのは、ごく一時期の間だけ成立していた一種の錯覚です。
ブラウザの問題ではなく、当時の OS (Windows9x系)の問題だった。
ブラウザの問題ではなく、OS のリソース管理の問題だった。
ブラウザの問題ではなく、OS のタスクバーの問題だった。
ところが、ブラウザ戦争という文脈を通して、
ブラウザの優劣を語るための手段の1つとして一人歩きをするようになってしまった。
いつの間にか、ブラウザには「あってアタリマエ」の機能として、定着してしまった。
タブがないなんて許されない。
そういう緊張感だけが残り、実用的な存在意義を失ったままの「タブ」が空中に持ち上げられたままでいる。
今となってはタブブラウザじゃないブラウザを探す方が難しいぐらいですね。
上述の通り、タブ機能は過去の名残りなのですが、
タブが不要、などと口を滑らせたら何を言われるかわからない。
たとえ人を殺したって「あいつはタブが不要なんて言ったからだ!」と言えば許される。
タブの不要さを語るには、それほどの覚悟が必要。
そういう緊張感だけは、未だに健在なような気がします。
いや、そろそろ大丈夫かもしれませんね?
もうそろそろ、もしかしたら、
タブがデフォルトではオフになっているブラウザが、それを他のブラウザに対する利点として、登場するかもしれませんね。
さりげなーくタブがオフになっていて、全体的にスタイリッシュ。
「タブなんて時代遅れだぜ!」と人々が思い始めるキッカケになる。
今はまだ、誰もがタブを脱ぐことを恐れているけれど、
やがてそんなブラウザが登場しても全然不思議ではない。だって、もともとタブなんて不要な機能なんだから。
ちなみに私は当時、タブが嫌で、ずっと IE6 を使ってました。時代の先の先を行っていたわけです。
やがてタブブラウザ以外に選択肢がなくなってしまって今にいたるわけですが、
いつかまた、タブから解放されたブラウザを使いたいものです。
タブのデメリットは、複数のページを見比べられないことです。
タブを切り替えて、1ページずつしか表示させられない。
もちろん、解決の手段はいくらでもあります。
しかし、そもそもタブブラウザじゃなければ気にしなくてもよかったはずのことを気にしなければならない。
操作していて不便を感じるというのは、そういうことです。
> タブを切り替えて、1ページずつしか表示させられない。
それこそ、リソースが限られていた昔のパソコンでは、それも「我慢しなければならないこと」だったかもしれません。
しかし今のマシンや OS で、わざわざそんな犠牲を飲む必要はないはずです。
ウィンドウいっぱい出せばいいじゃん。なーんも問題ない。
グループ化がどうのこうの? だからそれはタスクバーの問題なのであって(以下同文)。
> もちろん、解決の手段はいくらでもあります。
これがまた、逆に、「上手に使いこなすためのコツ」として喧伝される。
マッチポンプです。
そこに煙が立っているのは、そもそもどうしてなのか?
> タブのデメリットは、複数のページを見比べられないことです。
私の場合は、ブラウザよりも、テキストエディタで、この不便さを感じることが多いですね。
ブラウザに限らず、何でもかんでも「タブがなきゃダメだ! タブがあるからクールなんだ!」という風潮が、一時期、ありませんでした?
テキストエディタにまでタブがついているのは、その風潮の悪影響なんじゃないかと思っているのですが、どうなのでしょう?
もちろん私は、タブがないテキストエディタをメインに使ってます。(おかげで、こんな素敵な文章が書けるんですよー)
ところでタブで思い出しました。 Linux のことです。
物色中のディストリビューションの中に、エクスプローラにまでタブがついてるものがありました。
ドラッグ&ドロップできないじゃないですか!
フォルダからファイルをドラッグして、別のフォルダへドロップしようにも、同じウィンドウ内の別のタブに切り替えなければならない。
もちろん、ファイルをマウスでつかんだままでは、タブを切り替えるのもままならない。一度デスクトップへ置けって? まじですか。
もちろん、タブを解除しようと思えばできますよ?
ドラッグ&ドロップじゃなく、切り取ってドロップでもいいですよ?
GUI を使わずにコマンドで操作することだってできますよ?
または、タブ切り替えのキーボードショートカットがあるのかもしれないですね。不勉強でごめん。
だから、つまり、なんでもタブ化すればいいってもんじゃない。そういうことです。
それでいて、「タブがなきゃブタだ!」という観念だけが度しがたく亡霊のように一人歩きしている。
そういう事実がある。
単にタブ云々ということではない。もちろんブタの問題でもない。人間の問題です。私たちの問題です。
私たち人間は、そういう亡霊を育ててしまう。そういう性質がある。
■ ReactOS の将来を心配する
ReactOS という OS をご存知でしょうか?
Windows 用のアプリケーションを動かすことのできるフリーの代替環境として開発が進められている OS です。素敵!
現在のところ、Win98 のようなデスクトップ環境が、ある程度、動作するバージョンが公開されています。すごい!
もちろん、ウィンドウスナップなんてダサいものはありません。最高!
しかし、もしかすると今後、
「Windows に これだけ追いついた!」と言うために、
ウィンドウスナップをこれ見よがしに実装してしまうのではないか? もちろんデフォルトでオンですよねー。よねー。
お願いだからそんな愚を犯さないでほしい。そんな具を入れないでほしい。
これは単に、パソコンの使い方、というだけのことではないんです。
ウィンドウスナップ云々、というだけのことではないんです。
人間とは、我々の社会とは、そのように動いてしまう。そういう性質がある。
そのことが、たまらなく、気掛かりなのです。
もし今後、Linux界隈でもリボンUI が採用され始めたりしたら、いよいよ世も末ということですね。
ひょっとして、もう、そういうディストリビューション、あったりして。くわばらくわばら。
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