人間は利己的な生き物だ、ということになっている。
しかし、他人を思いやるなどの利他的な性質もある、ということもまた、
かなりの程度、知られているはず。
しかし、それは「本当は違うのだ」ということにされてしまう。
人間は「本当は」利己的な生き物なのだ、ということになっていて、
あらゆることが、その結論を証明するために理由づけされる。
一見利他的に見えることも、実は利己的な目的のために行われているのだ、というロジックが発明される。
そのロジックを見て「ああ、やっぱりそうなんだ!」と膝を打つ。
人間は利己的な生き物である、ということになっており、
その仮説、実はさほど根拠のない仮説、に、もとづいて、世の中が運営されている。
一方、人間には利他的な性質があるということも、かなりの程度、知られている。確かにそれは知られている。
だけれども、その認識は、世の中を運営する原理の地位にはなかなか昇格しない。
商品を宣伝するために「お得ですよ!」という。
「人の役に立ちますよ!」とは決して言わない。
「お得ですよ!」という方が売れる、ということになっている。
人のことよりも自分が得をしたい、と思っている人間が多数派である、ということになっている。
だから、それが正しい販売戦略、ということになる。
「人の役に立ちたい」ということは、人間の根本的な願いの1つであるはずなのですが、
「そんなものは本当は、ない」ということになっている。
「本当は巡り巡って自分が得をするために計算しているのだ」というロジックで説明される。
そういうロジックがなければ安心できないらしい。
そういうロジックを使いこなせる人が、物事の道理をわきまえた一人前の大人である、と見なされる。
ここで私が懸念するのは次のことです。
このような世の中においては、自分のことを利己的な人間なのだと思い込む人が出現してしまうのではないか?
いや、それはすでに出現しているでしょう。
「私は利己的な人間なのです」と言ってみせることが、誠実なこととされる。一人前の大人の証拠の1つと見なされている。
「私は利他的な人間だ」などと言うことは、不誠実なこととされる。物事の道理をわかっていない、愚かな人間の言動、と見なされている。
だから人々は懸命に、自分で自分のことを利己的な人間なのだ、と思い込もうとしてしまう。
すると、どうなるか?
しなくてもいい、利己的な行動、を、してしまうようになるのではないか?
たとえば、実は欲しくもない安売りの商品を買い占める。
たとえば、実は好きでもない音楽を大音量で鳴らすようになる。
たとえば、実は勝ちたくもない出世競争に血道を上げるようになる。
「そういうふうにするのが得なことなんだ!」「それをしないのは損なことなんだ!」
と、思い込んでしまう。
それを、自分という人間の行動を決めるための、判断の指針としてしまう。
自分は利己的な人間なのだ、という思い込み。
その思い込みが、その思い込みを現実のものとするような行動を、自分に選択させてしまう。
その思い込みがなければ、ごく自然にできたかもしれない行動が、できなくなってしまう。
他にも欲しい人がいるかもしれないから、自分は必要な分だけにしておく。あるいはどうしても必要じゃないなら我慢する。
他の人の耳を煩わせてまで音楽を鳴らす必要はない。自分がいいと思っていない商品を人に売りつけなくていい。人を騙してお金を巻き上げなくてもいい。
そして、そうした行動を、「実は利己的な目的のために計算してやっていることなのだ」などというふうに
わざわざ複雑なロジックを発明して説明しなくてもいい。
ごく自然に、他人を思いやるということが、できるはず、なのに、できずにいる。
それは、「自分は(人間とは)利己的な生き物なのだ」という思い込みのせいなのではないか?
> 人間は「本当は」利己的な生き物なのだ、ということになっていて、
> あらゆることが、その結論を証明するために理由づけされる。
> 一見利他的に見えることも、実は利己的な目的のために行われているのだ、というロジックが発明される。
> そのロジックを見て「ああ、やっぱりそうなんだ!」と膝を打つ。
昔の西洋で、「神の存在証明」ということがさかんに行われていた時期があったらしいですね。
いろいろな人が「ごにょごにょごにょ………だから神は存在する」と言うのですが、
実のところ、「神が存在する」という結論は最初から決まっている。
決まっている結論を、もっともらしく表現する理屈を、あれこれと作り出す。
一種のパズルゲーム、または、こうしたこと自体が「神は素晴らしい!」と言うための信仰告白の一形式だったようです。
「人間は利己的な生き物なのだ」ということを言うために作り出されているロジックの数々も、
そうした「神の存在証明」と、似たところがある気がします。
実のところ根拠のない結論、が先にある。
その結論に、いわば忠誠を誓う。そのために、ロジックを作り出してみせる。
「私は "人間は利己的な生き物である" という考えに帰依します!」という信仰を告白している。
あまり、ありがたくない神さまだと思うのですが、どうでしょう?
> 人間は「本当は」利己的な生き物なのだ、ということになっていて、
> あらゆることが、その結論を証明するために理由づけされる。
> 一見利他的に見えることも、実は利己的な目的のために行われているのだ、というロジックが発明される。
> そのロジックを見て「ああ、やっぱりそうなんだ!」と膝を打つ。
ここで1つ面白いのは、そのように結論が決まっていると同時に、
「それは悪いことなのだ」、という認識もまた、共有されている、という点です。
その上で「人間は本来利己的なものなのだから、利己的に振舞うのは悪いことじゃないんだ!」という言説も出現してくる余地があるわけですが、
それは結局、「悪いことなのだ」という認識を出発点とした、バリエーションの一種です。
懸命に、根拠のない結論への信仰を告白するロジックを発明しつつ、
同時に、そこで結論づけられている内容が「悪いことなのだ」という認識も維持している。
これは一体何なのか?
本当に利己的であるのなら、どうして自分で自分のことを悪く言うのでしょう?
正当化しているのではない。
「悪いのだ」ということを懸命に言い続けている。
「俺は悪いやつなんだ」「おまえも悪いやつなんだ」「誰もが悪いやつなんだ」
という集会が毎日開かれている。
そうした中で、それに反することを言う人間は、いわば「裏切り者」です。
「いや、私は利他的な人間ですよ? あなただってそうじゃないですか?」
などと言う人間は、全力で排除しなければならない。
「この偽善者め!」
なるほど。「我々は悪人だ!」という集会を催しているのに、
その中で「いいえ、悪人じゃないですよ」などと言うのは、集会の主旨に反する非協力的な行為なんですね。
しかし、なぜそんな集会が開かれているのでしょう?
なぜそんな、ありがたくない神さまを崇拝するミサが毎日のように開かれているのでしょう?
誰が何の目的で開いているのか?
誰が何の目的で参加しているのか?
その神さまを拝むと、何かよっぽどいいことがあるんでしょうか?
そうに違いない。じゃないと、こんなにも大人気であるなんておかしい。
では一体どんな?
その神さまを拝むメリットは……………………………………………………
………………………………うーんうーん………………………………………………
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…………えーっと……………………………………………………………………………………
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……………………………………………………………………………………ない!
なんだ、ないじゃないか!
一個もないじゃないか!
強いて言うなら、そのミサが開かれている最中に、
会場の真ん中で、その神さまを否定するようなことを言うと、みんなにニラまれる、ってぐらいでしょうか。
ミサに溶け込みたいなら、おとなしく儀式に参加している方がよいのかもしれません。
そもそも、そんなミサに参加しなきゃいいんです。
何かの間違いで会場に迷い込んでしまったけれど、もう二度と行くもんか。
あー、すっきり。
会場の外は空気がおいしい!
おいしい空気を吸っていたら、
いつものように、何か善いことをしたくなってきました。
私は善人だから、善いことをする。
私は善人だから、自転車を止めるときは駐輪所にキチンと並べて置く。
私は善人だから、ドアは静かに閉める。
私は善人だから、店で買い物をしたときはレジの店員さんに一言「どうも」とか言う。
私は善人だから、図書館の書架の中に、分類の違う本を見つけたら、ラベル通りの書架に入れなおす。
私は善人だから、伝説のゲーム「世紀末善人伝説」を今でもたまにプレイする。
あー、善いことをしたいぃぃ! もう我慢ならん!
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