事実と願い。2つの視点。
我々は常に2つの視点から問いを持つことができます。
1つは、事実は何であるか?
もう1つは、願いは何であるか?
たとえば次のような言動に触れる、または自己自身がそのように言うとします。
「世の中カネなんだよ!」
このとき、上記2つの視点から、次のように問うことができます。
世の中はカネであるという、それは事実なのかどうか?
そして、私自身は、あなた自身は、何を願っているのか?
「世の中はカネである」ことを願っているのか?
それとも、そうではないことを願っているのか?
事実は何であるか? 願いは何であるか?
この2つは別々のことであり、並立しうる。
両者が一致することもあれば、一致しないこともある。
つまり別々のことだということです。
事実のために願いを曲げる必要はないし、
願いのために事実を曲げる必要もない。
どちらか片方だけが全てであるということはない。
そのはず、だと思うのですが、
身の回りを見回してみると、どちらかと言えば、
事実が優先するかのような物言いが多いような気がします。
どちらかと言えば、と言いましたが、もっぱら、と言う方が適切かもしれません。
なぜなのでしょう?
> 事実が優先するかのような物言いが多いような気がします。
それらの物言いは、
相手が願いの方を過度に優先していることを想定しており、
それを戒める、という体裁をとっている。
と、いうことは?
おそらく、我々よりも前の時代では、願いの方を優先するような思考の様式が大勢を占めていた。
そして、それを是正するような潮流が生じ、それが今の時代にまで続いてきている。
> 我々よりも前の時代では
ここでいう「時代」というのは、昭和何年とかいうレベルのことではなく、1000年単位の話です。
> それを是正するような潮流が生じ、それが今の時代にまで続いてきている。
だとすると、現代の我々としては、
両者のバランスを取るような思考の様式を育てていくこと。
それが時代的な課題ということでしょうか。
私たちがよい方向へ進んでいくことができますように。
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