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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        無意味な偶然はないのかもしれない。
        ただの運のように見えることにも、深い意味があるのかもしれない。
        
        ただし! 仮にそうだとしても、
        その意味を、自分が引き受けなければならないかどうか、は、別の問題のはずです。
        
        偶然にも意味がある、としても、
        だからといって、実は自分が選んでいるのだ、だとか、
        自分に責任があるのだ、だとか、
        そういうことを言ってしまうのは、控えめに言って、言い過ぎだと思います。ときには横暴ですらある。
        
        
        
        
        
        
        
        私の日常生活の話。
        
        耳栓を常用しています。
        部屋にいるときには両耳に耳栓を入れて、その上からイヤホンを押し込んで、
        落ちないようにイヤーマフで押さえて、音楽をかけて過ごしています。
        
        それぐらいしないと、ドアバンのような、重く響く種類の音は防げない。
        ドアバン自体は長引く音ではないのですが、タイミングがわからない。
        従って、常に聴覚を遮断しているしかない。
        
        ところが不思議なことに、本当に不思議なことに、
        トイレにいくときなど、たまたま耳からイヤホンを離したタイミングで、ドアバンが飛んでくる。
        そういうことが非常に多い。
        単純な確率計算では明らかに説明できない。
        
        もちろん、303号室の彼も、まさか私がトイレに行くタイミングに気付いて、それに合わせてドアバンをしているわけではないでしょう。
        そんなことはありえない。人間には不可能なことです。
        だからこれは、彼の意志ではない。別の何かの意志が作用していると考えるべきなのではないか?
        
        こういうことを言うと、頭がおかしいと思われるかもしれませんが、
        何か、いわゆる、低級霊のような存在、が関わっているのではないかと、わりと真剣に思っています。
        
        騒音とは、単なる音ではありません。
        騒音に限らず、迷惑行為全般に言えることですが、迷惑をかける相手がいないと成り立たないことです。
        つまり、あれらは人に聴かせるための音なのです。
        
        よく「気が付かずにしてしまっている」ということが、迷惑行為の原因として言われますが、
        それは、迷惑行為全体の、ごく一部の現象でしかないような気がします。
        もちろん、気が付かずに人に嫌な思いをさせてしまっていることはあるでしょう。
        一方、人が嫌な思いをすることがわかっていて、わざとやっていることもあるでしょう。
        前者のケースだけが、100%全ての迷惑行為を占めている、と考える方が、無理がある。
        後者のケースだって当然あるはず。
        そしておそらく、その割合は、一般的に考えられているよりは、ずっと多いのではないか?
        いや、多いはずだ。じゃないと、日々、実際に私たちの街で起きていることの説明がつかない。
        
        
        たとえば、わかりやすい例として、タバコの煙を考えてみましょう。
        喫煙とはどういう行為か?
        火をつけて、煙を吸い込む(そして吐き出す)という行為です。
        つまり、意図的に煙を出している、のです。
        自分で煙を出していて、「気が付かなかった」などということがあり得るでしょうか?
        それはもう、絶対におかしい。
        わざわざ、意図的に、している。その上で「気が付かなかった」なんてことは、もう、言葉の用法として、おかしい。
        言葉の用法、たとえば「赤くて青いリンゴ」と同じぐらいおかしい。文法的には合ってるので、言うのは自由ですが、内容はあり得ない。
        あり得ないことなんです。
        だからあれは、「実のところ」意図的にやっていることだと言わざるを得ません。
        
        「実のところ」と、カッコに入れて書いたのはなぜかといいますと、
        それが「実のところ」であるのは、あまりにも当たり前で、にも関わらず、あえて言わねばならない現実に奇妙さを感じる、という意味です。
        今さら「実のところ」なんて言うまでもなく、最初っから、見たまんまのこと。
        見たまんまのことが、おかしな言葉の用法で、誤魔化されてる。
        わざわざ煙を出しておいて「気が付かなかった」ですって? 「赤くて青いリンゴ」ですって?
        落ち着いて言葉をよく見よう。文法的には合ってるけど、言ってることはおかしいですね?
        
        
        そして「意図的に」と言いましたが、その意図が、どういう意図なのか?
        それは、ちょっと、私にはわからない。おそらく本人にもわからない。
        もっともらしい説明としては「構って欲しい」というところでしょう。
        しかし、私はあまりこの説明に説得力を感じません。
        なぜか?
        やり方が、あまりにも非合理的だからです。
        構って欲しい、というのは人間の欲求として普遍的なものですが、
        それを満たすために、わざわざ人が嫌がることをする、というのは、いい大人のすることとは思えません。
        
        と、いう理由で彼らを「いい大人じゃない=子供っぽい」と非難することもできますが、
        私は、こういう非難をしたくはありません。
        なぜなら、こういう非難には、問題を解決に向かわせるような力は何もないからです。それはもう、さんざん経験済みです。
        お互いの心が、離れたまま。
        離れたところで、攻撃的な思念を発散させているだけ。
        仮に届いたとしても、それはやはり攻撃的な思念であり、さらなる不和を生むばかり。
        いいことが1つもない。
        
        なぜ、いいことが1つもない、かと言えば、
        それが、つまり、的を外した行為だから、だと思うのです。こうした非難そのものが。
        的は一体どこにあるのか?
        
        > やり方が、あまりにも非合理的だからです。
        > 構って欲しい、というのは人間の欲求として普遍的なものですが、
        > それを満たすために、わざわざ人が嫌がることをする、というのは、いい大人のすることとは思えません。
        
        いい大人のすることではない。
        では一体、何者のすることなのか?
        そこで、冒頭付近で述べた疑惑が思い浮かぶわけです。
        つまり、何か、いわゆる、低級霊のような存在が、いわば、その人に取り憑いて、行動させているのではないか?
        
        低級霊と呼ぶべきか、それとも他に何と呼ぶべきなのか、それはわかりませんが、
        いずれにせよ、人間ではない何らかの存在ということです。
        それがどういう存在なのかはわかりません。しかし人間ではないならば、人間にはできないことも、きっと、できるのでしょう。
        たとえば私がトイレに立つタイミングを察知するとか。
        あるいは逆に、ドアバンのタイミングで、私に、トイレに立ちたくさせているという可能性も考えられます。
        
        さて、ではその低級霊の意図が「構って欲しい」ということなのか?
        それは、もう、私にはわからない。
        それこそ、相手は人間ではない存在なので、人間の理屈は通用しないでしょう。
        「構って欲しい」というのは人間の欲求としては普遍的ですが、低級霊にとっては果たしてどうなのか?
        彼ら・彼女ら(霊に性別はある?)の意図が何なのかは、人間の私には、計り知ることはできません。
        
        
        霊だとか、こんなことを言い出すと、いよいよ頭がおかしくなったかと思われるかもしれませんが、
        つまり、それぐらい、従来の理屈では、目の前で起きている出来事に、対処しきれなくなってきた、
        というより、実は、もともと対処なんてできっこなかった、ということに、実感として、あらためて気付き始めてきた、といったところです。
        
        
        > 従来の理屈では、目の前で起きている出来事に、対処しきれなくなってきた、
        
        あらためて言うまでもないことですが、
        目に見えるものだけがこの宇宙の全てだというのは、非常に無理のある考え方ですよね。
        目に見えない何らかの存在なんて、あるに決まってる。
        それが何なのかはわからないけれど、何らかの形で、私たちの在り方・生活と無関係ではない。
        
        そのことを、今まで以上に、明確に、認める。
        単なる迷信だとか、縁起担ぎだとか おまじないだとか、昔話だとか、実生活には役立たないファンタジーだとか、娯楽の様相を呈したオカルトだとか、
        そういうことではなく、地に足を着けた現実感覚として、そうした存在を認める。受け入れる。
        
        そのようにしてこそ、人間としての、自己自身の在り方、向かうべき方向、も、明確になるのではないか?
        
        
        
        > 無意味な偶然はないのかもしれない。
        > ただの運のように見えることにも、深い意味があるのかもしれない。
        > 
        > ただし! 仮にそうだとしても、
        > その意味を、自分が引き受けなければならないかどうか、は、別の問題のはずです。
        > 
        > 偶然にも意味がある、としても、
        > だからといって、実は自分が選んでいるのだ、だとか、
        > 自分に責任があるのだ、だとか、
        > そういうことを言ってしまうのは、控えめに言って、言い過ぎだと思います。ときには横暴ですらある。
        
        この世界は一体、何なのでしょう?