> 青少年に対する教育的観点でゲームを否定する話がありますね。
そうした「教育的な」議論というか暴論に対しては、
「それこそ現実とゲームをごっちゃにしているのではないのか?」という定番の反論がありますね。
私も「教育的な観点でゲームを否定する話」は大嫌いなので、
それに対する反論は、それがどんなものであれ、基本的には、小気味よいものを感じるのですが、
上記の定番の反論が、単なる反論のための反論ではなく本当に正鵠を射ているのかどうか、は、私には疑問に思えます。
たとえゲームの世界のことだとしても、暴力的なことを行うのは、決して精神にいい影響はない気がするのです。
考えてもみてください。
現実に実行すると不幸を生むようなことが、仮想の世界の中であればよろこびを生む、だなんて、奇妙ではありませんか?
私には奇妙に思えます。
「現実とゲームの区別はついている」「だからゲームの中でだけそうしたことを楽しんでいるのだ」「それのどこが悪いのだ」
私には、現実とゲームが、それほど違うものだとは思えません。
というと、これは私が、両者の区別がついていない愚か者、ということなのでしょうか?
もちろん、生活を営む上で両者の区別は不可欠ですが、
かといって、その両者が完全に別物ということはないはずです。
たとえば、こんな社会を想像してみてください。
表面上は実に平和。暴力もなく不正もなく、それどころか抑圧もない。
しかし人々は1人になると常に
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
などと、取りつかれたようにつぶやき続けている。
それは別に心の奥底にそういった願望が潜んでいるというわけでもなく。本当に、ただ単にそうつぶやいているだけだとしても。
こんな社会で生活するのは、なんとなく嫌じゃないですか?
この「なんとなく嫌」というのが、重要なことだと思うのです。
たとえ区別のついたゲームの中に限定したことだとしても、
他者を害するような行為が「楽しいこと」「面白いこと」ということになっている社会。
「おまえらは本当はそういうことを望んでるんだろう? 隠すなよ。正直になれよ。パーッと壊そうぜ」
というメッセージが、逆らいがたい圧力で、いたるところに遍在している社会。
たとえ、そうした、ゲームから「区別された現実」の側が、いかに平和だとしても、
そんな社会は、「なんとなく嫌」な感じがします。
私はこの「なんとなく」を無視してはいけない気がします。
> 私も「教育的な観点でゲームを否定する話」は大嫌いなので、
なぜ嫌いかと言うと、人間を管理・支配しようとする発想だからです。
だからこれを批判するのであれば、そうした観点での批判をしたい。
そして、それはそれとして、
ゲームの中、つまり精神世界の中で暴力が横行している現実(現実!)を憂慮します。
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