暴力の要素がないゲームを探す方が大変なのですね。
ちょっと気分転換にゲームでも……と思うことはよくあるのですが、
気持ちよくプレイできるゲームはほとんどありません。
ほとんどのゲームに何らかの形で暴力の要素があるのですね。
ここで言っている暴力の要素というのは、何も、特別に露骨なものだけを指しているのではありません。
特別に露骨なものというと、たとえば人間に向けてリアルな銃を発射して血しぶきが飛ぶような描写があるようなものですが、
そういった一部の特殊なゲームだけが暴力ゲームなのではなく、ほとんどのゲームに多かれ少なかれ暴力の要素がありますね。
表現がマイルドであったり抽象的であったりはしても、結局のところ
何かを「倒す」「攻撃する」「戦う」「打ち負かす」「壊す」といったことがゲームの内容になっています。
それはもう、外国製のゲームでよくあるようなリアルな銃撃戦ゲームだけに限ったことではなく、
もちろん格闘ゲームのような殴り合いゲームだけに限ったことでもなく、
マリオであってもゼルダであってもドラクエであっても、将棋のようなものであっても、
結局のところ「倒す」「攻撃する」「戦う」「打ち負かす」「壊す」といったことが内容になっていて、
そしてそうしたことが「楽しいことなのだ」「面白いことなのだ」ということになっている。
さらに、ストーリーの上で「それが正義なのだ!」と正当化までしている。
もうこうなったら、対戦型じゃないパズルゲームぐらいしかするものがないなぁ、
と思ってフリーセルをやってみると、
「あなたの勝ちです!」とか「負けです!」とか言われる始末。
もう、そういう文脈でしか物事の価値を語ることができなくなっているのですね。
私たちは一体どこまで毒されているというのでしょう?
> 気持ちよくプレイできるゲームはほとんどありません。
プレイしていた気持ちよさを感じることができないと言えば、
ゲームの難易度やバランスが凶悪で、やっていてストレスが溜まるばかり、というのもそれですね。
なぜそうなってしまうのかと言えば、それもやはり、ゲームの主要な要素が暴力であることと根は同じなような気がします。
難易度やバランスが凶悪で、プレイしていてストレスが溜まるということは、
ゲームの世界がプレイヤーを拒んでいるということです。
自分を拒んでいるものとしての世界。
克服するもの・征服するものとしての世界。
自分を否定するものとしての世界。
そうした世界認識の反映なのではないか?
プレイヤーが何か「失敗」すると、その「失敗」を「咎めて」「罰を与え」る。
そういう装置としてのゲーム。
原理的に人を不幸にせずにはおかない。
根源的に不幸があって、その上で行うことのすべてが不幸の再生産で、不幸の物語を完遂することが目標になっている。
地獄だ。地獄がここに顕現している。
もちろん、バランスや難易度がゆるいゲームというものもあるわけですが、
そのゆるい難易度やバランスの中で何を行うことになっているかと言えば、やっぱり暴力でしかない。
誰でも手軽にモンスターに暴行を加えることができますよ。楽しんでね!
虐げられる側から、虐げる側へ。
その輪から逃れられない。
私の頭に角か生えたのはいつからだったのか? もう思い出すことはできない。
ところで、みなさんご存知のように、
青少年に対する教育的観点でゲームを否定する話がありますね。
私はそういう話は嫌いです。
なぜかというと、それは人間を管理・支配しようとする発想だからです。
管理する対象としての「青少年」を「望ましい人間」に「育てる」にはどうすればいいか? という上から下への視線がある。
そうした視線にもとづいて「ゲームを与えなければ望ましい人間が出来上がるに違いない。そうだそうだ、そうしよう!」というわけです。
これは邪悪だ。実に邪悪だ。
なぜ邪悪かと言えば、根本的に人間性を踏みにじっているからです。これを邪悪と呼ばずに何と呼べばいいのか?
今回、上でお話した内容は、こうした発想とは根本的に異なるものであることを、ここに申し上げておきます。
他人を管理・支配するのではなく、
私自身の、あなた自身の、心に問いかける。
他人を管理・支配する目的で「ゲームは暴力だ! だから悪い! 禁止だ!」というのは、
それこそ、暴力です。
そうではない。
> 結局のところ「倒す」「攻撃する」「戦う」「打ち負かす」「壊す」といったことが内容になっていて、
> そしてそうしたことが「楽しいことなのだ」「面白いことなのだ」ということになっている。
それが「楽しいことだ」「面白いことだ」というのは、本当に本当なのか?
私には非常に疑わしく思えるのです。
私は、あなたは、本当のところ、何を欲しているのか? 何を喜びとしているのか?
根深い勘違いがあるのではないか?
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