防災無線の時報騒音を実行している人間の「理解可能な欲求」とは何か?
まずは迷惑行為全般について。
一口に迷惑行為といってもいろいろありますが、
共通している構図はこうです。
「誰かが自分の快楽を追及した結果、別の誰かに不快感を及ぼしてしまった」
すなわち、迷惑行為といえども、元をたどれば、人間としてのありふれた欲求がそこにあるのであり、
ただ、その欲求の満たし方に問題があったに過ぎない。そのように言えるはずです。
防災無線の時報騒音も迷惑行為の一種です。
ということは、防災無線の時報騒音を「鳴らしている人」にも、何らかの人間的な欲求があるということかもしれません。
それは一体何なのでしょう?
そこで今回は、いわゆる「迷惑行為」とされる行動を列挙し、その背後にある「理解可能な欲求」を考えます。
最後に防災無線の時報騒音を取り上げ、同じように、背後にどのような欲求があるのかを考えます。
・アパートの隣の部屋で音楽を鳴らされる
迷惑行為の定番ですね。
定番であるがゆえに、苦情を言う際に味方になってくれる人を見つけやすいというのが、せめてもの救いかもしれません。
さて、自分の意志に反して聞きたくもない音楽を聞かされる側にとっては苦痛以外の何物でもありませんが、
音を出している側としては「自分の好きな音楽を大音量で聴きたい」という欲求にもとづいての行動でしょう。
結果的に迷惑行為となっているのは確かですが、その欲求そのものは人間の欲求として理解することが可能です。
・犬の飼育
程度の差こそあれ、吠え声や糞尿によって近隣への迷惑源となることがほとんど不可避な行為です。
どんな言い訳をしても他者に無用な苦痛を与えていることは事実であり、その事実が消えて無くなるわけではありません。
が、「自分に懐く動物を飼育したい」というのは、上記の「音楽」と同様、人間の欲求として理解は可能です。
「マナーを守っている飼い主もいる」ですって?
もうそんな、つまらないお題目を唱えるのは卒業しましょうよ。
いいですか? それも所詮は程度問題です。
仮に、何の配慮もせずに野放図に飼った場合に他者へ及ぼす迷惑の度合いを「10」としましょう。
では「マナーを守った」場合はどうなるか? 最大限努力したとして、その度合いが「1」になる。
その程度のものです。
結局、絶対に何かしらの形で迷惑がかかる。「自分に懐く動物を飼育したい」という極めて個人的な楽しみを満たすために。
しかし、その欲求自体は人間として抱き得る欲求の1つとして理解することは充分に可能です。
(ちなみにこの手の「お題目」は場当たり的な「言い返し」に過ぎず、実体を伴った言葉ではないのですが、それはまた別の機会に)
> では「マナーを守った」場合はどうなるか? 最大限努力したとして、その度合いが「1」になる。
たとえて言うならペットボトルの飲料を買って、空になったペットボトルをリサイクルのゴミ箱に入れるようなものです。
それで「環境に配慮した "いいこと" をした!」と思ったら大間違い。
本当に環境に配慮するつもりなら、そもそもペットボトルの飲料など買わないことです。
話が脱線しました。
以下、話題を戻して続けます。
・廃品回収の拡声器騒音
本人は宣伝のためにやっているつもりのはずです。
果たして宣伝としてどれほど効果があるのかはわかりませんが、少なくとも本人は効果があると思ってやっているのでしょう。
もちろん、仮に効果があるのだとしても、その業者を利用する意志のない人間にとっては騒音以外の何物でもありません。
しかし本人は音を出せば出すほど宣伝になる、利益が上がる、お金が儲かる、と思っている。
「お金を儲けたい」というのは人間としての自然な欲求と言えるでしょう。
手法が適切とは言えないにしても、行為の根底には、理解可能な、ありふれた欲求を見出すことができます。
・喫煙(特に公共の場での)
世の中には様々な人間がおり、あの煙に快楽を感じる人間もいれば、苦痛を感じる人間もいる。
その違いを無視して煙を撒き散らすのだから、不和が生じるのは必然です。
私自身は喫煙をしないので、あれがいかなる快楽をもたらすものなのか、あるいは禁断症状がいかなる苦痛をもたらすものなのか、
自分自身の体験としては理解できないのですが、化学物質を摂取することで快楽を得たり、禁断症状で苦痛が生じたりするという現象の存在は理解できます。
そして「快楽を得たい」「苦痛を避けたい」というのは人間としての自然な欲求として理解は可能です。
そして、そうした自己の欲求を満たすことを我慢することができないのでしょう。
我慢ができず、他者へ苦痛を与える危険性を顧みずに自己の欲求を満たしてしまう。
それはもちろん結果として「迷惑行為」となってしまうのですが、
他者へ配慮するよりは自己の欲求を我慢できずに優先してしまうというのは、人間としてのありふれた姿として理解は可能です。
それと常々思っているのですが、その化学物質を摂取する方法が、煙を発生させるような形態でなければならない理由が私には全くわかりません。
仮にタバコが現在一般的であるような火を着けて煙を出すような形式のものではなく、たとえばガムだとか飴のような形態のものであれば、
それこそ「個人的な嗜好」の範囲内に収まるのであり、誰からも文句を言われる筋合いがなく、
「肩身の狭い思い」とやらを感じることもなく、自分を被害者に仕立て上げる演技に神経を磨り減らす必要もなく、思いのままに耽ることができると思うのですが、
どうしてそのような形式にならないのでしょう?
どうしても煙を出して、他人を巻き込まなければ気がすまないのでしょうか?
と、謎は残りますが、そもそも他者への配慮よりは自己の欲求を優先してしまう結果なのだろう、と、理解はそれなりに可能です。
・火の用心
拍子木の音や拡声器のアナウンスを聞かされたからといって、
「あっそうだ! ストーブが危ないってことすっかり忘れてたよ! おかげで思い出したよ! よーし気をつけるゾー!」
などということがあり得るでしょうか? あり得ません。
こんなことは言われるまでもないことであり、言われたからといって火災予防の効果が増すわけではありません。
つまり、単に騒音を撒き散らしているだけです。
「火の用心」や「火災予防」といった言葉自体は正しい。
だからといって、その言葉を使用している人間までもが正しいということにはならない。
おそらくそこが勘違いのツボです。
おそらくあの行為をやっている本人も、自分が何をしているのかわかっていない。
わかっているなら、あのような騒音を垂れ流すだけの無意味な行為ができるわけがありません。
「いいこと」だと信じ込んでいるから、毎晩毎晩飽きもせずに続けることができる。できてしまうのでしょう。
結果的には「大義名分を得ているだけの迷惑行為」に過ぎませんが、
「いいことをしたい」というのは人間としての極めて自然な欲求です。
または「自分はいいことをしているノダ!」と自己陶酔したいというのも人間としての極めて自然な欲求と言えます。
理解は可能です。
・新聞配達のバイク音
キキーッ! ガタン! ブルブルンブルン……、ガコッ、ブブーーーゥ、キキーッ! ガタン! ブルンブルン……ガコッ! ブブー、ドブ板ドガッ! キキーッ!
これを明け方に延々と町中でやるわけですからね。しかも毎日。今日も明日もあさっても、その次の日も、ずーっと、ずーーーっと……。
なんで誰も文句言わないんでしょう?
あんなの「新聞配達」っていう大義名分がなかったら絶対に許されないですよ。
いや「新聞配達」が万人に通じる「大義名分」になり得ること自体が私には大いに疑問なのですが、
事実上、「大義名分」としてまかり通っているということは、一応理解できます。現状認識として(逆らうと袋叩きに遭う)。
そしてあの行為も、そもそもは購読者の家に新聞を届けるためにやっているのであって、
夜中に騒音を撒き散らすのが目的でやってるというわけではない。その点で珍走団とは一線を画する。少なくともそのはず。そこは理解できる。
だからといってこの毎日の苦痛が消えて無くなるわけではないのですが、
購読者の家に新聞を届けること自体が悪いことだとは全く思いません。それ自体は充分理解可能です。
念のために繰り返しますが、理解できるからと言って、毎日の苦痛が消滅するわけではありません。
相変わらず毎日毎日「キキーッ! ガコッ! ブブー!」を聞かされる日々が続く。
なにしろ「夜明け前に」「町中の家に」「バイクで」配達して回ってるんですよ? その結果がどうなるかは考えなくてもわかりそうなものです。
しかもそれが毎日続く。一年に一回程度の特別なお祭りの日だけ、ってわけじゃない。毎日続く。
毎日。それはつまり日常? これが日常? いいや違うね。こんなのは日常じゃない。日常を奪われてるんです。静かな日常を奪われてる。
(正月の間だけは静かだったなぁ……)
あと、新聞配達っていう行為自体が何か「真面目な勤労者の象徴」みたいに扱われてるところがありますよね。
神聖不可侵というと大げさに聞こえるかもしれませんが、批判の対象にすることが許されないような空気がある。
私に言わせれば、控えめに言って「だからと言って、うるさくしてもいいという理由にはならない」のですが、
彼らは普段、あまり静けさに気を配る必要性を感じる機会のない環境で業務に従事しているのかもしれませんね。
あまり好きな言葉ではありませんが、言わば「甘やかされている」。
音のことなんて気にしない方が作業は捗るでしょうし、文句を言われない限り、あるいは文句を言われたとしても
「こっちは仕事なんじゃ!」で押し通せてしまう状況が続く限り、
作業効率を犠牲にしてまで静けさに気を配ることはないのだろうな、と、そのような形で「理解」はできます。
明け方の街は住民にとっては「住んでいる場所」でも、彼らにとっては「仕事場」なわけです。
人のことなんて気にせずに自分の作業に集中する方が楽ですもんね。さっさと仕事終わらせて帰りたいですもんね。
これもまたありふれた人間の姿として理解可能です。
それから新聞を購読している側には、「毎朝家にいながらにして最新号を手にしたい」という欲求があることでしょう。
その欲求も、人間の欲求として不自然なものだとは思いません。理解はできます。
購読していない人にとっては騒音になるわけですが「そんなもんは知ったこっちゃない」と言ったところでしょう。
想像すらしたことがないという人が大多数かもしれません。
人間として尊敬できる態度ではありませんが、理解はできます。それが「ふつう」だと思います。
拡張員に購読を勧められたときの断り文句として「ご近所の迷惑になりますから……」という理由が挙がるという話は聞いたことがありません。
この理由を断り文句として挙げる(思いつく)には、ある種、特殊な奉仕精神とでも言うべき心が必要でしょう。
そんな心を万人に求めることが現実的だとは思っていません。
さしあたり、現状認識として「人間なんてそんなもん」だと「理解」しています。
> あと、新聞配達っていう行為自体が何か「真面目な勤労者の象徴」みたいに扱われてるところがありますよね。
> 神聖不可侵というと大げさに聞こえるかもしれませんが、批判の対象にすることが許されないような空気がある。
せっかくなので少し脱線。
新聞配達の騒音の話になると必ず「毎朝早くから頑張ってるんだから大目に見てあげるべき」みたいなことを言い出す人がいます。
この理屈がどれぐらいおかしいことなのかは、わかる人には説明不要で明白のはずですが、通じない人には一切合財通じない。
それで、今からそのおかしさについて説明をしようと思うのですが、
その目的は、おかしさがわからない人にわかってもらうことではありません。そんなもんどうせ通じないし、言うだけ無駄です。
おかしいということをわかってもらえずに自信をなくしている人を勇気づけることが目的です。
ではいきます。
たとえば、私が町中の神社にお百度参りをしたとする。その過程で影ながら私を応援する人も少しずつ出てくる。
やがて無事にお百度参りが終わった。その足で私はあなたの家に泥棒に入った。
あなたは怒る。しかし私を応援していた誰かが言い出す。
「お百度参り頑張ったんだし、そのぐらい許してあげなさいよ」
もちろんあなたは納得できるはずがない。
「そんなもん知るか!」
でも被害を受けたあなたの怒りは誰にも理解されず、むしろあなたを非難する声が大きくなるばかり。
「ちょっと泥棒に入られたぐらいでお百度参り頑張った人に腹を立てるなんて心の狭い人!」
もともと何の罪もない被害者のはずのあなたが、いつのまにか人格異常者ということにされてしまいました。
人格異常者というレッテルを貼られたあなたの声に耳を傾ける人はもう誰もいません。
あなたは泣き寝入りを強いられてしまいました。
> 「そんなもん知るか!」
そうです。その通りです。あなたは1つも悪くない。
犯人がお百度参りをいくら頑張ったからといって、泥棒に入られることを許さなければならない理由にはならない。全っ然関係ない。
あなたは悪くありません。
たとえ誰にも理解されなくても、あなたが悪くないということは紛れもない事実です。
宇宙の果てまで行っても変わることのない、確かな事実です。
どうかそのことだけは忘れないでいてください。
以上、脱線でした。
最後にもう1つ迷惑行為の例を挙げて、それから本題である「防災無線を乱用した時報騒音」の話に入ります。
・ドアバン
いちいち気をつけてドアを閉めるのが面倒くさい?
上に挙げてきた例に比べると消極的な理由ですが「面倒くさい」というのも、人間としての自然な欲求と言えるでしょう。
学校に行くのが面倒くさい、会社に行くのが面倒くさい、などと同じような、ありふれた怠け心の一種として理解可能ではないでしょうか。
(実際はこのようにシンプルには割り切れない面がありますが、ここではあくまでも理解の様式として「このように理解可能である」という話です)
さて、脱線も少なからぬ頻度及び度合いでしてきましたが、
いわゆる「迷惑行為」の背後に、理解可能な欲求があることをここまで確認して参りました。
では防災無線の時報騒音の場合はどうでしょうか?
これが私には非常に不可解に思えてならないのです。
毎日一定の時間に大音量の電子音を町中に鳴り響かせることが、いかなる「理解可能な欲求」によるものなのでしょう?
勘違いのないように言っておきますと、
あの音を「聞かされる側」が、いかなる理屈で「納得」しているか、ということではありませんよ?
あの音を「出している側」が、彼ら自身のいかなる欲求を満たすためにあの行為を行っているか、です。
「欲求」と言う言い方には違和感があるでしょうか?
そうかもしれません。あの行為は、少なくとも建前上は、公共の利益に資するためにしているのであり、
個人的な楽しみのために行っていることではない、はず、ですからね。
ですが、そこが、怪しいところなのです。
防災無線塔を乱用して時報を鳴らす理由について、行政は決まり文句で「点検のため」と答えます。
しかしこれが控えめに言って、嘘半分・本当半分、と言わざるを得ない不誠実な答えであることは明らかです。
防災無線塔そのものが無用であるとは申しません。点検も必要でしょう。
その意味で「点検のため」という言葉には真実があります。
ですが、この答えには、その点検の手法が「毎日一定の時間に大音量の電子音を町中に鳴り響かせること」でなければならない必然性についての説明が抜け落ちています。
・毎日鳴らす必要があるのか? 週に一度や月に一度ではなぜダメなのか?
・「点検放送」なるものは、時報とは別に年に一度ほど実施している。それは一体何なのか?
・点検というなら、音が出ているかどうかを市の職員や管理業者の技術者が確認しているのか? そんな人間の姿は見たことがない。
従って、単に「点検のため」と言われるだけでは到底納得できるものではありません。
もしかすると、どうしても音を出したくて出したくてどーにも仕方がない人間が行政の中にいるのではないか?
そんなふうに勘繰りたくもなってしまうのです。
しかしそれがいかなる欲求なのか?
他の迷惑行為において見出すことができるような理解可能な欲求が、
防災無線を乱用した時報騒音においては、見出すことができないのです。
しかし構図としてはやっぱりその他の迷惑行為と同じものがありますね。
目的自体に悪はなくとも、それを満たす手段に問題がある。
隣の部屋でヘビメタを鳴らしまくる隣人に苦情を言って「俺ぁヘビメタを愛してンだよ! 小さい音で聴くなんてヘビメタじゃねェんだよ!」
などと怒鳴り返されても、到底納得できません。そもそも会話になってません。
毎日一定の時間に大音量の電子音を聞かされて行政に苦情を言うと「点検のためです! ご理解ください!」と決まり文句で突っぱねられる。
これも到底納得できませんし、やはり会話になっていません。
構図が全く同じですね。
しかし点検のためと称して大音量の電子音を毎日鳴らし続け「たい」というのは、いかなる欲求なのか? そこが不可解です。
「ヘビメタ好き」は個人の好みですから、好きであること自体は、いくらでも好きでいてくれればいい。
しかし大音量の時報を毎日鳴らし続けることを、どのように「好き」でありえるものなのか? そんな「好み」が人間の心としてあり得るのか?
二重の意味で不可解です。
言葉通りの意味で「点検が目的」なのだとしても、理由として成立しておらず、不可解。
行政の中に「音を出したくて仕方がない人間」がいる? なんだそりゃ。これもまた不可解。
1つ、私が思いついた仮説はこうです。
「点検は必要だけど、面倒くさいからやりたくない」
本当に点検をするには、それなりの人員が必要であるはずです。
だから、本当には点検をしないで、点検をしてるようなフリだけして済ませたい。
それが本音なのではないか?
で、誰のアイディアかはわかりませんが、毎日自動的に一定の時間に何らかの音が出来るようにしておけば、
壊れて音が出なくなったときに、お節介な住民の誰かが知らせてくれるんじゃないか? そう誰かが言い出した。
その時点では「点検のためとは言え、毎日音を出すなんて騒音被害が発生する」という意見は関係者の中にもあったかもしれません。
そこでさらに誰かが名案を思いつきました。
「時報ってことにしておけば、誰も文句言わなくなるんじゃね?」
そもそも日本人は苦情を言わない民族ですから、日常のリズムに紛れ込ませてしまえば文句を言う人間は格段に減ると予想できます。
たまに文句を言ってくる少数者は「点検のため」と言って追い払えばいい。どうせやつらは少数者だから、世の中で発言力を持つこともない。
「それイイネ!」
こうして、やる気のない公務員どもによる形ばかりの防災無線の杜撰な運用が今に至るまで続いている……。
もちろんこれはあくまでも私の想像ですが、
当たらずとも遠からずと言ったところではないでしょうか?
いや、別に当たってなくてもいいんですよ。むしろ当たってない方がいい。
アイディア自慢で「どうだ!」って言うのが目的じゃないし、「当てっこゲーム」で「当ったりぃ~!」ってはしゃぎたいわけでもないんです。
何か本当に深刻かつ深淵な理由があってやっているなら、むしろその方がいいです。大いに望むところです。
しかし、どうしてもそうは思えない。
毎日の大音響で強制的に日常生活を破壊される苦痛を吹き飛ばすほどの、目が眩むような荘厳な理由が存在するのか?
「なななんと! そういうことだったのかぁー!」と今までの己の不明を恥じるとともに感謝の念に包まれるような、そんな深遠な理由があるのか?
あるなら是非聞かせていただきたい。その理由が持つ神秘のパワーでこの苦痛から解放していただきたい。
「点検のため」だって? ご冗談を。
そんな答えに何の力があると思っておいでですか?
冗談ならせめてもう少し笑えることをおっしゃっていただきたい。
「点検のため」だなんて、絶対に無理がある。おかしい。明らかにおかしい。
おかしいものはおかしいと言っていかないと、いつまでもおかしいままです。
「ご理解下さい」だって? 理解できません!
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