リクライニングシートの存在意義
電車や長距離バスの座席は、背もたれを後ろに倒すことができるようになっていますが、
あれって一体何の意味があるのでしょう?
倒せると言っても、中途半端なものです。
座り心地を調整するという実用面では、控えめに言って「おまけ機能」でしかないような気がします。
それでいて、後ろの人へ及ぼす影響は一人前以上です。
目の前の背もたれが自分に向けて倒れてきて、いい気分がするという人はあんまりいないんじゃないでしょうか?
「一言声をかけた方がよい」という意見もあるでしょうけれど、
声をかけられたとしても「いいですよ」としか答えようがない。
事実上、答えに選択肢がないのだから、声をかける方が余計に悪質とさえ言えるかもしれません。
> 目の前の背もたれが自分に向けて倒れてきて、いい気分がするという人はあんまりいないんじゃないでしょうか?
ちなみにこれは倒れてくる角度の大小とはあまり関係ないような気がします。
「視覚」の問題として「倒れてきた」という事実が重大なのであって、「どれぐらいか」はあまり関係ない。
一方、倒す側にとっては角度は重要な問題です。実際に体を乗せているのであって、見た目の問題ではない。
そして多分、この両者は釣り合わない。
しょせん少ししか倒れないようになっている。
倒したことによる座り心地の上昇度合いと、
倒されたことによる「あ、倒された。ふーん。いや別にいいんだけど……」の度合いを、
もしも比較することが可能なら、おそらくほぼ常に後者の方が度合いが大きい気がします。
前者が後者を上回ることは根本的にないのではないか?
いや別に前者が後者を上回る「ならよい」という話ではないのですけどね。
単純に実用面だけで考えれば、
あんな機能、百害あって一利なし、とまでは言いませんが、
十害あって三利程度、ぐらいではないでしょうか?
少なくとも私は、後ろの人に圧迫感を与えるリスクを冒してまで、中途半端な座り心地の調整を行いたいとは思いません。
そうまでして、わずかばかりの角度を稼ぐ意義を感じません。
別に我慢してるわけじゃなく、そもそも倒す意義を感じません。
では、なぜあんな機能が存在しているのか?
もともとの目的は「座り心地の調整」だったかもしれません。
ですが、今となってはそうではなくなっているような気がします。
純粋な実用面ではその目的を果たしているとは言いがたい。
にも関わらず、生き残っている。
それはなぜか?
ずばり、後ろの人間との無言の駆け引きが発生するから。
それこそが、いまだに根強くあれが存在している理由なような気がします。
その証拠、と言えるかどうかはわかりませんが、
バスの一番後ろの座席には当該の機能がついていません。
なぜか? 「後ろにはもう人がいないから」です。
電車の場合は一番後ろの座席も倒せるようになっている?
いいえ。電車は進行方向によって座席自体が回転するようになっています。
つまり一番後ろの座席は進行方向によっては一番前の座席になるのです。
バスと違って、どの座席にも「その後ろ」が存在し得る。
後ろに人がいるからこそ、背もたれを倒す機能に意味がある。
後ろに人がいないなら、背もたれを倒せるようになっている意味もない。
そこでは「背もたれを倒すこと」を巡って、人々が互いに言い訳を繰り広げ、後に引けなくなっているのではないか?
倒す側としては「倒せるようになっているのだから倒していいのだ」とか、
「ほんの少ししか倒してないからいいのだ」とか、「一言声をかけるようにしているのだからいいのだ」とか、
倒される側としては「倒せるようになっているのだから仕方がないのだ」とか、
「声をかけてくれるならいい」とか「でも黙ってやられると気に入らない」とか、
そして極めつけは、倒される側の座席にも、背もたれを倒す機能がついているということです。
いわば「先輩にいじめられたから後輩をいじめる」かのように、権力構造が引き継がれて再生産される仕掛けになっている。
「リクライニング」はすでに実用性を離れて、こうしたしがらみが複雑に絡み合う現場として成立しているのではないでしょうか?
各自が各自のポリシーを実践する場として、必要とされている。定着してしまっている。根を下ろしてしまっている。
たとえば「俺は遠慮なんかせずに倒すぜ? 何が悪い? 前のやつだって倒せばいいんだ!」という心にとっては、
そのような心を実践する場として。
「黙って倒されると残念な気分になりますね。一言声をかけてもらえると人情を感じるのですが」という心にとっては、
そのような心を実践する場として。
実用性はないけれど、無意味ではない。それどころか、実に実に、有意味と言えましょう。
しかし人と人の間に根深いレベルで不信感を撒き散らしている。
ならば、そのような機能は、やはり存在しない方がいいのではないか?
どうせ実用的には無意味なのだから、背もたれを倒すレバーなんて、そもそもついていなければ、
余計なことに心を煩わされずに、それこそ「心安らかに」座っていることができるのではないか?
そうかもしれません。
しかし、以上に述べたこと全てを踏まえた上で、
やはり、あのレバーがついていることに意味はあると思います。
ポイントはこうです。
「倒すかどうかの選択肢が、我々各自の手の中にある」
この事実。
選択肢があるということは、そこに意志がある、ということです。
選択せずにいる、ということも含めて、そこが意志の座になるということです。
レバー自体が存在しなければ選択肢も消滅します。そこには何らの意志もない。
さまざまな思いが絡み合っておりますが、
結論だけを言えば、背もたれは倒さないのが正解です。
そもそも座り心地を調整するための機能ではないのだから、実用的には倒す意味がない。
そして一義的には「後ろの人に圧迫感を与える」ことを契機とした装置なのだから、
単純な良し悪しで言えば、倒さないことが正解に決まっています。
それでも、倒せるようになっている。その選択肢が与えられている。そのことに意味がある。
いわば、人を傷つける権利が与えられている。
権利なのだから、使っていい。
相手は傷つくけれど、でも使っていい。使って「いい」んです。それはもう徹底的に「いい」んです。
さて、「あなたはそれを使いますか?」
そういう体験ができる。
電車や長距離バスの座席とは、そういう意義深い場所なのです。
> さて、「あなたはそれを使いますか?」
誰もそれをあなたに問わない。
なにしろ「権利」だから。問われないことになっている。
では誰が問うか? 問うているのは「誰」なのか?
そこに「倒すかどうかの選択肢」という意志の座があるからこそ対面することのできる何者か。
あれはそのような存在と対面することができる場所です。
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