> 物質とは何か
あるいは、他人と共有可能な世界が狭すぎる、ということか?
「共有可能な世界が」というより、
認識の能力または枠組みとして。
たとえばテレパシーを使うことができない。
そうした欠如態としての唯物論。
我々は個に分かれてしまった。
あるいはそれも意味のあることだとすれば?
個々別々の我々として、何を為せばいい?
> あるいはそれも意味のあることだとすれば?
一者であることを放棄した、ということか?
一者ではなく、外側に他者を見る自己、に。
なるほど。外側に見ている、のですね。
何を見ているか? 他者を見ている。
外側に見るものが他者ではなく自己だとしたら、どうなるか?
それはドッペルゲンガーですね。
「外側」というのは、単に、肉体ということから必然的に導かれてくる「比喩」でしかないのではないのか?
自分のことを肉体だと思いこむという間違いを、やっぱり、根本的なところで、してしまっている。
すると、肉体は結局他者だから、この世界には他者しかいないことになる。唯物論の始まり。
> それはドッペルゲンガーですね。
「私」は常に「ここ」にいるもの、ということになっている。
だから「ここ」以外のどこかに「私」がいる、というのは、何かがおかしい、ということになる。
このほころびをほどいていくと、唯物論を超えることができる?
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