唯物論。世界を理解する1つの仕方としての。
それはどういう仕方か?
全てを他人事にする。
そういう仕方で世界を理解する。
心だとか精神的なものだとかは、ない、ということにしている。
だから、たとえば、脳をいくら切り刻んでも心が出てこないのは当然のこと。
1つの自己とその他全ての他者、というのも唯物観の一側面か。
自己だけを全てから切り離している。
唯物論が描く世界には自己がない。
同じ意味で、自己に並び立つ存在としての他者もない。心のないロボットが動いているだけ。
この世では、世界を理解する方策として、唯物観に行き着きやすくなっているようです。
あるいは所詮「レベル2」であるにしても。
行き着く場所がそこになりやすい。
それはどうしてなのか?
目的は何?
「世界を理解すること」なの?
それはあくまでも手段なのではなくて?
唯物観を手に入れて、それで、どうしたかった?
そして、その願いは達せられた? 達せられそう?
願い自体を忘れてしまったのではなくて?
心、というものが、ない、ということになっている。
でも、ある。
本当は、ないなんて思ってない。
唯物観は言うまでもなく完璧ではない。そこからこぼれ落ちるものがある。
心をないということにしたことにも、意味や理由があった?
あるいは、自己と他者、というように、切り分けをしたことで、
より、明確な輪郭で、心、が、見えるようになった?
それは副作用? 主作用?
あるいは、本当は、心を知りたいのではなかったか?
心のために、在りたいのではなかったか?
心のために、こそ、私は、在りたいのではなかったか?
> あるいは所詮「レベル2」であるにしても。
「レベル2」についての説明。
初期状態のままではない。経験を積んで、レベルが上がっている。
だから「自分はレベルが上がったのだ」と思っている。
だけど、そのさらに上があることを知らない。
自己効力感に満たされて、ときに不遜に振舞うこともある。
そうした状態を批判的に指して、私は「レベル2」という言葉を使っています。
|