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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        より多くの人に支持される、ということが、物事の正しさの度合いを表している、とでもいうような、感覚の習慣と、
        それに対する反動としての「人がどう思うか、と、物事の正しさ、は、必ずしも関係ない」という意志の指向性。
        
        だから、その文脈でいる限り、後者の立場に立っているとしても、結局のところ、
        「本当に正しいことはいずれみんなも認めざるを得なくなる」と思ってるはずで、
        さらにいえば、ということはやっぱり、
        最終的には、より多くの人に認めてもらうことで「ほらね、やっぱり正しいでしょ」という結末を夢見ている、ような気がします。
        
        だから、この文脈が、そもそも違う。
        
        他人と共有し得ることには限界がある。
        他人と共有を確認し得ることには限界がある。
        異なる個体間で成立させることのできる範囲での情報交換。
        その範囲に収まる情報、で、果たして、どれほどのことが表せるか?
        大したことが表せるはずがない。
        
        だから、
        本当に正しいことは、誰とも共有できないのではないのか?
        「情報」として個体間を移動するような形式には、絶対に、ならない。
        
        誰かと共有しようとすると、どうしても、ノイズが入らざるを得ない。
        そのような悪条件の下で、妥協しながら、共有を成立させる。
        そこで成立しているものは、すでに、もとの「正しかった」ものではなくなっている。
        さらに悪いことに、なまじ他者と「共有」できてしまっているものだから、「情報」として個体間を移動する。
        つまり、一人歩きを始める。
        正しくないことがはびこる。
        元々は正しかったことだから、余計に始末が悪い。
        正しさの仮面をつけて、間違ったことがはびこる。
        
        困った。どうしましょう?
        
        だから、いつでも、お題目の、その背後にあるはずの、本当の願い、に、意識の手を伸ばすように、ように、する。
        
        
        
        つまり、言葉には限界があると言いたいのですか?
        言いたくはないです。が、そう言ってることになるのかも。
        
        それでもやっぱり、言葉で言い表すことは、大事なことだと思うのです。
        どうしてでしょう?
        おかしいな。どうしてでしょう?