より多くの人に支持される、ということが、物事の正しさの度合いを表している、とでもいうような、感覚の習慣と、
それに対する反動としての「人がどう思うか、と、物事の正しさ、は、必ずしも関係ない」という意志の指向性。
だから、その文脈でいる限り、後者の立場に立っているとしても、結局のところ、
「本当に正しいことはいずれみんなも認めざるを得なくなる」と思ってるはずで、
さらにいえば、ということはやっぱり、
最終的には、より多くの人に認めてもらうことで「ほらね、やっぱり正しいでしょ」という結末を夢見ている、ような気がします。
だから、この文脈が、そもそも違う。
他人と共有し得ることには限界がある。
他人と共有を確認し得ることには限界がある。
異なる個体間で成立させることのできる範囲での情報交換。
その範囲に収まる情報、で、果たして、どれほどのことが表せるか?
大したことが表せるはずがない。
だから、
本当に正しいことは、誰とも共有できないのではないのか?
「情報」として個体間を移動するような形式には、絶対に、ならない。
誰かと共有しようとすると、どうしても、ノイズが入らざるを得ない。
そのような悪条件の下で、妥協しながら、共有を成立させる。
そこで成立しているものは、すでに、もとの「正しかった」ものではなくなっている。
さらに悪いことに、なまじ他者と「共有」できてしまっているものだから、「情報」として個体間を移動する。
つまり、一人歩きを始める。
正しくないことがはびこる。
元々は正しかったことだから、余計に始末が悪い。
正しさの仮面をつけて、間違ったことがはびこる。
困った。どうしましょう?
だから、いつでも、お題目の、その背後にあるはずの、本当の願い、に、意識の手を伸ばすように、ように、する。
つまり、言葉には限界があると言いたいのですか?
言いたくはないです。が、そう言ってることになるのかも。
それでもやっぱり、言葉で言い表すことは、大事なことだと思うのです。
どうしてでしょう?
おかしいな。どうしてでしょう?
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