マインドル本文・2ndヒロ子氏のパート・第12話の途中。
今日も2シーン進みました。
進めましたとは言いません。理由は……私の大ファンのあなたには、わかりますよね?
好きです。あなたが好きです。
さて、淡々と進んでいるようですが、調子はどうですか?
どうでしょう。
数日前までのような、意識だけがあって何もできないような重篤な感じでは、なくなってきています。
あとは、時間さえ流れなければ言うことなしです。
そうなのですよね。
時間さえ流れなければ、何の憂いもない。
どうして時間などというものがあるのでしょう?
時間が流れるということは、
つまり、自分以外のものが存在している、と言い換えることができるでしょうか。
マンガなどであるような、いわゆる「時間が止まった状態」というのは、
自分だけが動いていて、他の人たちや天体の運行は全て停止している状態、ですよね。
では先ほどの問いは、次のように言い換えることができますね。
どうして自分以外のものが存在しているのでしょう?
この問いは、自分と自分以外のものの境界がどこにあるか? という問いに還元することができるでしょうか。
「自分以外のもの」を問うには「自分」と「それ以外のもの」の境界をなんらかの仕方で設定する必要がありますよね。
何が自分で、何が自分ではない、のか?
自分とそれ以外のものの区別、とは、つまり何を区別しているのか?
自分とは、思い通りになるもの、のことでしょうか。
では自分以外のものとは、思い通りにならないもの、のこと、ということになりますね。
その前に、「思い通りになる」というときの「思い」とは何でしょう?
それはもちろん「自分の思い」ですよね。
「思い」とは何か?
たとえば何か心に思い浮かんだイメージなり願望があったとする。
それが「思い」ですよね。
その思いが「自分の思い」である、とは、どういうことか?
「心に思い浮かんだ思い」として、対象化している時点で、それはすでに「自分以外のもの」になっているのではないか?
心に何らかの思いが思い浮かんだ、それは自分の「思い」かもしれない。
だけど、その思いが思い浮かんだのは、自分の思い通りのことなのか?
自分の思いだと思っている、その「思い」それ自体が、自分の思い通りにはなっていない。
では、自分の思い通りになるものは、存在しないということになるでしょうか。
さきほど、自分とそれ以外のものを区別する基準として、思い通りになるかどうか、ということを言いました。
その基準で言うと、何もかも「自分以外のもの」ということになってしまいますね。
自分と自分以外のものの境界がどこにあるか?
すべては自分以外のものだった。
では「どうして自分以外のものが存在しているのでしょう?」という問いには、どう答えればいいでしょう?
この問いを発した時点では、さらに別の前提があったようです。
自分と自分以外のものが両方存在している、という前提。
その上で、後者が存在することの理由を問うていたのでした。
ところが、自分は存在していないのでした。全ては自分以外。
問いの前提が崩れた。
では、この問いはどこへ行くのでしょう?
崩された前提についてもう一度。
どうしてそんなふうに前提していたのでしたっけ?
時間が流れるのはどうしてか? という話だったのでした。
時間が流れていると感じる。
自分がいて、自分以外のものを見ている。
自分の立ち位置から自分以外のものを見て、ああ、時間が流れたのだな、と知る。
そういう仕方で認識を行っている。そこで「時間が流れる」という認識が成立する。
この認識をしているのは自分。
自分から、自分以外のものを見て、自分の側に、「時間が流れた」という認識が発生する。
何を「自分」と呼んでいるか?
その認識が発生した、その場所を「自分」と呼んでいる。
そこで、さきほどの結論に立ち返ってみる。
全ては自分以外だったのでした。
つまり、認識が発生したその場所も、実のところ「自分以外」なのでした。
自分が存在していない。
自分と自分以外があって「時間が流れた」という認識が発生するのだから、
自分が存在しなくて、自分以外しか存在しないなら、「時間が流れた」という認識も発生しないのか?
いや、その認識は現に発生しているではないですか。これをどう説明するのですか?
一応、無理矢理まとめてみると、次のようになるでしょうか。
自分以外のものを見ている「場所」がある。
それを今までは「自分」と呼んでいた。
それを「自分」と呼ぶのをやめる。
自分以外のものを見ている「場所」に、「時間が流れた」という認識が生じる。
だから、「時間が流れた」という認識は、相変わらず生じているんです。
それでいて、全ては自分以外。
この2つは矛盾しない。
これは単に、「自分」という言葉の定義を変えただけでしょうか?
せっかくなので、その定義をもう少しだけ整理してみます。
> 自分以外のものを見ている「場所」がある。
> それを今までは「自分」と呼んでいた。
全ては自分以外なのでした。
つまり「自分以外」とは「全て」のことです。
したがって、
「自分以外のものを見ている「場所」」は、
「全てを見ている「場所」」ということですね。
その場所はどういう場所ですか?
認識が生じる場所でした。
もっと大雑把に「思い」と言っておきたい気もします。
なるほど。「思い」があるのですのね。
私がいて、あなたがいて、あの人がいて、さらに別の人がいて……。
この世には様々な「場所=思い」がある。
それはどれ1つとっても「自分」というわけではない。
それがこの世の景色。
> それがこの世の景色。
「あの世」や、全く違う構造の世界もあるのかな?
宇宙人がいるとしたら、もしかすると、そういう何らかの別構造の世界なのでしょうか。
ここは地球。
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