たとえばゴミのポイ捨てを注意する話。
誰かがゴミのポイ捨てをしているのを目撃したとして、
注意するかどうか?
相手が子供とかだったら注意するかもしれないけど、
見るからにヤ○○みたいな風貌の人だったら注意しない?
それは悪いことでしょうか?
そんなことないと思います。
別に、相手を選んで注意したって、全然悪くない。
誰にも注意しなかったら「ゼロ」ですが、
相手を選んで、自分に注意できそうな相手だけにでも注意すれば、多少は「プラス」です。
それでいいじゃないですか。
うん。そのはず、なのですが、
なぜ、そういう発想にならないのか?
上記のような発想を妨げている発想が、あるのですよね。
それは何か?
分け隔てなく注意しないのは不公平だ! ということでしょうか。
一貫性がないことに対する批判。
ある人には注意して、同じことをしている別の人に注意ないのは一貫性がない。おかしいじゃないか!
言葉にするならば、こういう感じですよね、多分。
でも、まだ足りない。
そこをもう一歩進めて、
「だったら誰にも注意しない方がマシである」
とまで思うに至ってしまう。
そのように至らしめる発想は何か?
何なのでしょうね?
一貫性があった方が、人に対する申し開きが立ちやすい、ということは、あると思うのです。
それで、ゴミのポイ捨てをしている人を目撃したとき、
相手からの反論を予想して、先回りして防御してしまう。
「ボクには注意するのに、あっちの怖そうなお兄さんには注意しないの? なんでなんで? ねぇ? なんで?」
そういわれると、返事に困ってしまうから、
そのような反論を予想して、そもそもボクちゃんにも注意しないことにしてしまう。
それで自分の中に一貫性を保とう、ということでしょうか。
自分で自分のことを「俺は他人のすることには干渉しない主義なのさ」というふうに思う。思い込む。
本当はそんな主義なんか持ってなかったくせに。
自分で自分に嘘をついて、そのうち自分でも、本当に自分がそういう考え方の持ち主なのだと思い込むようになる。
それは、なんだか、精神的に疲れることだと思うのです。
精神エネルギーを慢性的に食いつぶす腫瘍を自分の中に作ることになってしまう気がする。
では、どうしましょう?
「ボクには注意するのに、あっちの怖そうなお兄さんには注意しないの? なんでなんで? ねぇ? なんで?」
もし、こんなふうに言われたらどうしましょう?
「怖いから。てへ」
で、いいんじゃないかな? てへ。
自信を持って生きていけますように。
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