他者という思考法。
人に何かを相談するときには、すでに答えは本人の中で出ていて、後は背中を押して欲しいだけ、
というようなことは、よく言われることです。
思考から決断までの過程の中に、他者の存在を前提している。
思考法としての他者。
え? 他者って思考法だったの?
もしかすると、それぐらいのことは、言えてしまうのかも。もしかすると。
モノを考えるとは、どういうことか?
すごく大雑把に、言ってみる。
ある観念から、別の観念へと、推移を経て、
最終的に、ある何らかの観念にたどり着いて、
その観念を「根拠」として、行動が踏み切られる(決断)。
ある観念が「正当だ」と感じること。
ある観念から別の観念が導かれること。
そのこと自体は、何一つ、論理的である必要がない。
というより、論理、というのも、評価基準の一種に過ぎないわけで、
っていう話でもない?
何の話だ。
> 思考から決断までの過程の中に、他者の存在を前提している。
「人の話を聞く」ということが、自分の代わりに誰かに考えてもらっていること、
だとして、
自分で考える、なんてことが、本当に、あるの?
実は、ないんじゃないの?
たとえば、何らかの観念や、言葉で、考え事をしますよね。
でもその観念や言葉は、誰のもの?
誰かに聞いたものなのではなくて?
「人の話を聞く」
その人も、きっと、別の誰かから聞いた。
そうして、さかのぼって、さかのぼって、どんどん、さかのぼっていく、
と、
最後に、どこにたどり着くのでしょう?
あれ? そんな話なの? これは。
> 他者という思考法
この前、髪を切りに行って、
店内に、ラジオがかかってて、
じっと座って、店員さんにチョキチョキしてもらってる間、
ラジオが、ずーっとしゃべり続けてて、
ああ、これは、自分の頭の中で雑念を思い浮かべる代わりに、
ラジオに、雑念をしてもらっているのだな、
などと思ったのでした。
あるいは、他人と共有可能な雑念、と言うこともできるでしょうか。
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