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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        他者という思考法。
        
        人に何かを相談するときには、すでに答えは本人の中で出ていて、後は背中を押して欲しいだけ、
        というようなことは、よく言われることです。
        
        思考から決断までの過程の中に、他者の存在を前提している。
        思考法としての他者。
        え? 他者って思考法だったの?
        もしかすると、それぐらいのことは、言えてしまうのかも。もしかすると。
        
        
        モノを考えるとは、どういうことか?
        すごく大雑把に、言ってみる。
        
        ある観念から、別の観念へと、推移を経て、
        最終的に、ある何らかの観念にたどり着いて、
        その観念を「根拠」として、行動が踏み切られる(決断)。
        
        ある観念が「正当だ」と感じること。
        ある観念から別の観念が導かれること。
        そのこと自体は、何一つ、論理的である必要がない。
        というより、論理、というのも、評価基準の一種に過ぎないわけで、
        
        っていう話でもない?
        何の話だ。
        
        
        > 思考から決断までの過程の中に、他者の存在を前提している。
        
        「人の話を聞く」ということが、自分の代わりに誰かに考えてもらっていること、
        だとして、
        自分で考える、なんてことが、本当に、あるの?
        実は、ないんじゃないの?
        
        たとえば、何らかの観念や、言葉で、考え事をしますよね。
        でもその観念や言葉は、誰のもの?
        誰かに聞いたものなのではなくて?
        
        「人の話を聞く」
        
        その人も、きっと、別の誰かから聞いた。
        
        そうして、さかのぼって、さかのぼって、どんどん、さかのぼっていく、
        と、
        最後に、どこにたどり着くのでしょう?
        
        
        あれ? そんな話なの? これは。
        
        
        
        > 他者という思考法
        
        この前、髪を切りに行って、
        店内に、ラジオがかかってて、
        じっと座って、店員さんにチョキチョキしてもらってる間、
        ラジオが、ずーっとしゃべり続けてて、
        ああ、これは、自分の頭の中で雑念を思い浮かべる代わりに、
        ラジオに、雑念をしてもらっているのだな、
        などと思ったのでした。
        
        あるいは、他人と共有可能な雑念、と言うこともできるでしょうか。