ゲームに対して、批評というか、
ここが不満、とか、ここがいい、とか、悪い、とか、
そういう話は、よくあると思うのですが、
それで、その「いい」「わるい」に従って、そのゲームを、どんどん修正していったとして、
究極的には、一体どういうものになるのでしょう?
もとになるゲームがどういうゲームであっても、
プレイヤーのワガママに従って究極まで修正していくと、行き着く先は、同じになるような気がします。
いや、同じには ならないかな? どうでしょう。
いずれにしても、それは、
「結局のところ、なんのためにゲームをするのか?」
という問いを突きつけるもの、になると思うのです。
そして、それはおそらく、
「現在の我々」が「ゲーム」という言葉でイメージするものとは、似ても似つかない姿をしている。
ゲームに対する「もっと、こうあって欲しい」という要求が、
結局のところ何を意味しているのか? を、示すもの。
でも、この話は、きっと、
「結局のところ、なんのためにゲームをするのか?」という問いに対して、
何の躊躇もなく、反射的に答えを口に出すことが出来てしまう人にとっては、
あんまりオモシロイ話ではないのだろうとも思います。
考えることをやめるための便利な言葉が 身の回りには たくさんあります。
言葉があるせいで、考えなくなってしまう。これは一体どうしたことか?
言葉の役割とは何だったのか?
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