> その「意識のない時間」は、もしかすると「従来一般的に信じられているよりは」長いのかもしれない。
> そして意識がない状態でも、「従来一般的に信じられているよりは」、かなり、いろんなことができる。
私は私がいることを知っています。
だから、私は私を大事にしたいと思う。
しかし、このような自己の存在、というのは、意外と、気付かれないものなのではないか?
世間を見回していて、そのように感じることがあります。
自己が存在することを知っているのなら、自己を大事にするはずだと思うのです。
しかし、どうも、あんまり、自己が大事にされているように見えない。
だから「意識 は 意外と ない のかもしれない」という発想が出てきたのだと思います。
> 自己が存在することを知っているのなら、自己を大事にするはずだと思うのです。
ちなみに、それは必ずしも利己的であることを意味しません。
自己を大事にする、という発想と、
他者の不利益を省みずに自己の利益を追求する行動、とは、同一ではありません。
自己が悪事だと思っていることを、自己自身が実行できるはずがない。
結果的に他者の利益と衝突することはあるでしょう。
それはテクニカルに解決すべき事柄であって、自己の声に耳を傾けないこととは全く別の話です。
> しかし、このような自己の存在、というのは、意外と、気付かれないものなのではないか?
> 世間を見回していて、そのように感じることがあります。
ネットでブログなどを見ていて、
中の人自身の姿が見えない、と感じることがあります。
その人自身が、どんなことを感じているか? どんなことを考えているか?
記事の内容が、世間でよく言われている言葉や概念をツギハギしているだけのように見える。
そこにある「はず」の自己が、見えない。
それでいて、日々の雑事に追われている様子や、ブログ主の個人的な(!)悩み事が書き綴られているのを見ると、
自己が大事にされていないのではないか、と思うのです。
自分のことが他人の言葉で語られている。
それはもう、自分ではなく他人なのではないのか? よろこび も かなしみ も 他人事のように見える。
> 記事の内容が、世間でよく言われている言葉や概念をツギハギしているだけのように見える。
面と向かっての日常会話が、そのようなものでしかあり得ないのは、仕方のないところかと思います。
しかし自由に発言できるはずのネット上ですら、状況は、さほど変わっていないように見えます。
ときおり、匿名であることをいいことに、乱暴な言葉が氾濫している程度。
それは自己を大事にしているわけではない。
むしろ、自己の存在に気付いているのであれば、自分自身がそのような乱暴な言葉を使うことに耐えられないはず。
それは他人が使う言葉ではあっても、自分が使う言葉ではない。
自己の存在を忘れて他者になりきることで、初めて使用が可能になるのではないか?
> 自己が存在することを知っているのなら、自己を大事にするはずだと思うのです。
私自身は(あなた自身は)本当のところ、何を願って生きている人間なのか?
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