生きること と 他人と関わること が 別である理由 が 思い浮かばない。
体があるということは、自分以外の何かと、他者として接触しうる、
そのインターフェイスを提供している、ということのはずで、
だから、生きて、体のある人間として、
この世に、もっと具体的に言うと地球上に、もっと具体的に言うと、あなたの隣に、
いる、ということは、
誰かと関わってしまう、ことを、避けられない。
生まれてきてごめんなさい。
いや、そんな話がしたいんじゃなくて。
どんな話がしたかったんでしたっけ?
自分だけは、誰とも関係ないつもりで、いる、
なんてことは、根源的に、不可能なこと。
っていう話が、したかったんでしたっけ? どうでしたっけ?
思ったこと;
生きているということは、何かを、する、してしまっている、ということだったはず。
前、なんか、そんな話、しましたよね?
私と違って 優秀な みなさんは、覚えてますよね。
人の在り様を、動詞でしか、記述できない件。
〜ている。〜である。
そのことと、
壁に向かって じっと 座っていることが、難しいこと
とは、別のこと?
一瞬だって じっとしていられない。
いつも時間が流れているのは、いつも、何かを「している」から。
意識がある、そのときは、時間が流れていない。
何かを「している」あいだは、意識をなくしている。
常に何かをしている から 常に 意識は ない。
だから いつも時間が流れている。
「する」と「する」の隙間の、ほんの一瞬だけ、意識が戻る。
時間が止まる。その、ゼロに近似している一瞬だけ、時間が止まる。意識があるから。一瞬の永遠。
ああ、なるほど。
だから、死んだら、時間が止まるんだ。
生きてると、する、から、時間が流れて、年とって、死ぬんだ。
生きてると、意識がないから、時間が流れて、
あれ? 生きてると、意識がない?
死んだら意識があるの?
おかしいな。
どこかで間違えました?
つかめた気がしたけど、つかめてない。
ビッグバンがどうの、っていうのは、意識の限界なんじゃないんかな? どうなんかな?
> 生きてると、意識がないから、時間が流れて、
> あれ? 生きてると、意識がない?
> 死んだら意識があるの?
生きている → 意識がある → する → 意識をなくす → 時間が流れる
死んでいる → 意識がない → しない → 時間が流れない
死んだら意識がある、というわけではない。
ああ、よかった。
普通だ。普通のことだ。
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