他人。「すること」を絶え間なく供給するものとしての、意味を保証するものとしての。
その意味での他人と、偶像の向こうに見るものとしての他人、は、違うもの? 同じもの?
違うものなような気がします。
ロボットが心をもつことができるかどうか、みたいな話のとき、
心がある「ように見える」かもしれないけど……みたいな話に落ち着いたりしますよね。
なんでしょう?
実在する他人、と、認識される他人、を区別する、ということ、でしょうか。
いわゆる「アニメオタク」を罵る文脈。
架空のキャラクターを愛すること、と、実在する他人と関わること、を、比較して、
前者より後者の方が、高級なことなのだ、と、して、
前者およびそれを実践する者を罵る。
この「罵り」の正当性とか、このように罵りたくなる理由、とかは、ここでは、さておき、
その両者の違い、または同じさ、を見てみる。
偶像の向こうに神を見る。
隣のおっさんの向こうに神を見る。
> 架空のキャラクターを愛すること、と、実在する他人と関わること
架空のキャラクターに人格がある「ような気がする」こと
隣のおっさんに人格がある「ような気がする」こと
違いがあるとすれば、「関わり」の有無、でしょうか?
架空のキャラクターと「関わる」
隣のおっさんと「関わる」
架空のキャラクターに萌える。
隣のおっさんに萌える。
> 他人。「すること」を絶え間なく供給するものとしての、意味を保証するものとしての。
それは、関係するものとしての、ということでしょうか?
日々、何かを「しなければならない」ことの大半は、他人と関わっていることによるもの。
何かに意味があるような気がするとして、
「それに意味があること」の理由を、自分以外の何か・誰か、に、委託? している。
ただ単に自分自身、に、なるならば、大半のことは意味を失う。
実在する人々(世の中・社会)との関わりで、
日々の「しなければならないこと」「することの意味」に取り囲まれている。
ただ単に自分自身、に、なるとき、それらのことは、全て、消失する。
その上で?
それでもなお?
しかし?
神? と関係することもできる。
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