TOP > テキスト目次 > > どういう人が、どういう意図で作ったものなのか、っていうこと、気になりません?



◆◆ 思ったこと: ◆◆

        
        > どういう人が、どういう意図で作ったものなのか、っていうこと、気になりません?
        
        しかし、以前、ゲーム制作界隈? に頻繁に通っていたときのことを思い出してみると、
        そうしたことを、あまり熱心に語っている人はいなかった気がします。
        制作にかけた思いとか、どういう意図を込めたものなのか、など。
        
        制作の過程をときどき日誌のページに書いたりすることもある、という程度のことはあっても、
        たとえば、どういう「面白さ」を目指したか、とか、既存のものとどこが違う、とか、
        これをプレイした人に、どう感じて欲しい、とか、どう感じるはずだ、とか、
        語るべきことは、いくらでもありそうな気がするし、
        そうした思い なし に制作のモチベーションが持続するとも思えないんですが、
        なぜか、あまりそうしたことを表立って語っている人を、あまり、いや、ほとんど、見かけませんでした。
        
        なぜか?
        
        わかる気もします。
        私も、作って公開 していた人間なので、多分、わかってるんです。
        「実際に出来上がった現物」 以外の部分で、ごたく を並べてはいけない気がする。
        評価はユーザーが下すものであって、作った人間に発言権はない。
        そういう感覚。
        
        感覚、というのは適切じゃないかもしれません。
        ある種の結論。「論」でもないですね。単に「帰結」。
        
        殊勝な職人気質、とでも言えば、いいのでしょうか。
        そのように言えば、聞こえはいいのかもしれません。
        美しいとされる態度の一つではありますよね。
        少し悪く言うと、
        こういう態度を取り続ける限り、批判に対する防御を保っていられる。
        
        「爽快な操作感覚でしょ?」と主張して「いや別に爽快じゃないよ」と言われると、
        自分の意図が失敗したことになりますが、
        自分からは何も主張していないないなら、たとえ「あまり爽快な操作感覚じゃないですね」と言われても、
        別に、自分の意図が失敗したことには、表向き、ならない。
        それでいて「この操作感覚は爽快ですね」と、あわよくば言われれば、
        その評価は自分のものとすることができる。
        周到に計算された態度です。
        
        いや、これは単に、私自身が、こういうふうに周到な計算を思い描いて、
        他者からの批判に必要以上に敏感になっていた、だけのことであって、
        他のみなさんは、ただ純粋に制作に打ち込んでいた、ということ、なの、かな? そうなんですか?
        
        もう少し別の角度から悪く言うと、
        自分からは、活動(※1)の意図を何も語らずにいる、という態度の裏には、
        ゲーム(と みなされるもの)の存在、それを作ること、消費すること、の価値を、他人へ丸投げしている、
        という姿勢があるようにも思えたりします。
        
        「"ゲーム"(と みなされるもの)とは何なのか?」
        「なぜそんなものに価値がある(と みなされる)のか?」
        そして「自分がしたことにはどういう意味があるのか」
        
        そうした思考を放棄し、意味づけ、価値付け、を全て他者へ丸投げしている。
        
        あるいは、これも、「作ったものは、もうユーザーさんのものだから」というような、
        「殊勝な職人気質」と呼ぶしかないんでしょうか。
        
        
        
        > そうした思考を放棄し、意味づけ、価値付け、を全て他者へ丸投げしている。
        
        批判めいた言葉遣いを探した結果、こういうフレーズをひねり出してみたのですが、
        でもこれって、何か悪いことですかね?
        別にいいんじゃないの? え、いいの?
        
        なんていうのかなー、
        積極的に「悪だ!」と糾弾する理由は、思いあたらないんですよね、たしかに。
        でも、両手を広げてウェルカムする気にもなれない。
        
        ゲームに限らず、なにかモノを作り出すというのは、
        今までの価値を否定して、別の価値を提案する、ということではないの? そうでもないのかな?
        だって、現状の価値に不足がないなら、わざわざ同じものを作らなくていいですよね。
        
        
        > 批判めいた言葉遣いを探した結果、こういうフレーズをひねり出してみたのですが、
        > でもこれって、何か悪いことですかね?
        
        以前、彼ら彼女らに、制作の意図を積極的に語って欲しいと願ったことがあるのですが、
        誰も何も語ってくれなかった。
        その 歯がゆさ を思い出しながら、今、これを書いてます。
        
        
        > だって、現状の価値に不足がないなら、わざわざ同じものを作らなくていいですよね。        
        
        私は、「現状の価値」に不満があった。
        だから作っていたし、作った意図を主張したかった。
        他の人(作者)にも、それぞれの意図を主張して欲しかった。
        現状の価値への反論を聞きたかった。「代案」としての成果物を、受け取ってみたかった。
        そうしたものが、私以外のところから(も)、たくさん出てくるものと思っていた。
        ところが、出てこない。
        
        誰も、現状に不満は、なかった?
        
        
        > ゲームに限らず、なにかモノを作り出すというのは、
        > 今までの価値を否定して、別の価値を提案する、ということではないの? そうでもないのかな?
        >  だって、現状の価値に不足がないなら、わざわざ同じものを作らなくていいですよね。
        
        そして、これもまた、いやらしい言い方になると思うんですけど、
        「コンテスト気質」っていうんでしょうか。
        
        評価の枠組みがすでに用意されていて、その枠組みの中での自分の価値を試す。
        誰かに「アイディア賞」だとか「○○杯」だとか言ってもらうのを待ってる。
        
        あー、ダメだ。言い方が いやらしい というより、私の気持ちが いやらしいんだ。
        そうした状況、彼ら彼女ら に対する不満 からモノを言っているから、
        いやらしい言葉遣いにしかならない。
        
        
        
        > 今までの価値を否定して、別の価値を提案する、ということではないの? そうでもないのかな?
        >  だって、現状の価値に不足がないなら、わざわざ同じものを作らなくていいですよね。
        
        「コンテスト気質」は、いやらし過ぎるので、せめて「コンテスト指向」と言い換えておきます。
        
        さて、なんでしたっけ? コンテスト指向。
        そこで行われるモノ作りは「今までの価値を否定して、別の価値を提案する」ということでは、ない、ですよね。
        コンテストを指向しているということは、指向しているコンテストの価値の枠組みを全面的に信用している。
        
        うーん、
        やっぱり、どう話を進めても、「悪だ! 許せん!」と言える展開にはならないなぁ。
        「いやらしい言い方」は、いくらでもできると思うのですけど、
        いくら言っても「別に、そうしたい人は、そうすればいいんじゃないの?」という(脳内)ツッコミを否定できません。
        残念。いや知ってましたけど。
        
        
        ただ、つまり、「現状」(※2)に不満があった私としては、
        「現状」に揺さぶりをかけられる可能性が見込めなくて残念、という思いがあったわけです。多分。
        
        
        
        ※1 「ゲーム制作」よりも広い意味の言葉として「活動」という言葉をここでは選びました。
        ※2 今の「現状」がどうなっているのかは知らない。