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◆◆ Web閲覧メモ ◆◆

■ 2017/07/01
騒音の問題じゃなくて、生活の問題

引用元:「納得できるようなひとこと」があるわけがないでしょ

> これ、騒音の問題だと、騒音がうるさいということだけだと思ってしまう人間がいる。
> そうじゃない。一日のうち、六時間四〇分以上、どでかい騒音を聞かされるということは、騒音の問題じゃなくて、生活の問題なんだ。
> そして、それが毎日毎日、一年三六五日中三六五日続くなら、それは、人生の問題になってしまうのである。

かく言う私もこの人ほどの被害を経験しているわけではないので、
「本当にはわからない」人間の側に含まれてしまう。そのことは覚えておかなければならない。

その上で言うのですが、
騒音というのは騒音そのものが問題というより、生活が壊されるという問題です。
騒音を経験したことのない人と、実際に経験した人との間で、そこのところの理解に溝ができやすい。
そしてその溝は実に埋めがたい。
埋めがたいけれど、この「騒音の問題じゃなくて、生活の問題」というのは本当のことです。
これは何度でも言っていかないといけない。

騒音は「騒音の問題じゃなくて、生活の問題」です。
そしてそれが長引けば人生の問題にだってなる。







■ 2017/01/27
「きちがい親父」と「大きな組織」の類似点

引用元:「どけたら、死ぬ!!」みたいな切迫感がある(1) 
http://www.30hikikomori.com/2017/01/blog-post_45.html

> つねに、こっちがなんか言うと、かならず!!!否定!!!するんだよな。
>「煙が出てる」「こげくさいにおいがしている」って言っているのに、
>「煙なんて出てない」「においなんてしてない」と言う。
> これ、本当、出てるんだよ。
> 蒸気のほかに明らかに煙が出ていて、明らかに、こげくさいにおいがしている。


上記の引用元サイトで紹介されている事例は非常に極端な例だとは思いますが、
かと言って、ありえないことではないと思います。

人から「やってくれ」と言われたことは絶対にやらない。
人から「やらないでくれ」と言われたことは意地になってやり通す。
自分が「やる」と決めたことは何が何でもやり通す。
そして、その「やる」と決めたことというのは、なぜか決まって、誰も望んでいないようなことばかり。
それでいて、「どうだすごいだろう。ほめてほめて」と言わんばかりに自分のやったことを押し付ける。

どことなく「見覚えがある」。
引用文著者の体験した艱難辛苦を思うと、軽々しく「私も同じ目に遭った!」と言うことはできないのですが、
しかし、どことなく、「見覚えがある」んです。

それはもちろん、「こんなのありふれたことなんだから我慢しろ」という意味ではありません。
こうした一種の「狂気」が、そうとは思われずに、私たちの社会に浸透している。
上記のような事例を「特殊だ」と言って見なかったことにすることはできない。
他人事じゃない。


「見覚えがある」ということで具体的に自分の記憶を掘り起こしてみると、
ふと、昔やっていたネットゲームのことを思い出しました。
ネットゲームなどというお気楽な記憶で申し訳ないですが、しかしそこには確かに「見覚え」がある。
ゲームとして重大な問題があった。
運営会社に対して、たくさんのプレイヤーからさんざん同じような要望が上がってる。しかしまったく対応しない。
たまに思い出したように「大型アップデート」をする。
で、その内容というのが、毎回決まって、誰も望んでいないような変テコリンな仕様変更ばかり。
例の重大な問題は放置したまま。

「ネトゲなんて大体どこもそんなもん」とはよく言われることですが、
こういうことが「通常」だというのは、やはり「異常」なことです。

ネトゲであればそれ自体はお気楽です。
じゃあ、もっとお気楽じゃないような別のことなら、「ちゃんとしている」のか?
と言えば、別に全然そんなことはないと思う。

最近お世話になっているクラウドソーシングの会社も同じようなところがある。
要望を送ると「ご意見ありがとうございます」とか「担当の部署に伝えておきます」とかのテンプレ回答ばかり。
掲示板を見ると、私と同じような要望を抱えている人がたくさんいることがわかる。
で、その掲示板に公式のサポート要員が書き込みをしていて「現在対応中です」みたいなことを言っている。
その日付が一年以上前だったりする。その間、一切動きなし、ということです。
それでたまに「新機能追加。フィードバック募集」みたいなことをアナウンスして、
その新機能というのがこれまた誰も望んでないようなもの、というわけです。

そういえばOSで有名な大手ソフトウェア企業の某M社も同じですね。
誰も望んでいないような機能をOSやオフィススイートに追加しまくって、ユーザーを振り回す。

ちなみにC社にも最近その傾向が出てきつつあるようです。
C社と言えば、ユーザー目線で使いやすいOSを開発して一躍評判を獲得した企業のはずなのに、
組織が大きくなるにつれ、徐々に迷走の度合いを深めている様子がある。

どうしてこうなんでしょう???
これは一体何なのでしょう???
「一体」「何」なのでしょう???

上記の引用元のサイトでは「きちがい」という言葉の代わりに「サイコパス」という言葉を使っていることもあります。
「サイコパス」と言えば、大企業のトップにその傾向のある人が多い、という話を聞いたことがあります。
なんとなく、わかるような気がします。

しかし、その「なんとなくわかるような気」の内容を具体的に言葉にできない。

これは一体「何」なのか???

「きちがい親父」は個人ですが、その振る舞いが、どことなく、対応が硬直化した大企業に似ている。
共通点は何だろう?

単に「自分勝手」だとか「融通がきかない」だとか「頑固」だとか言うだけでは
言い尽くせない何か、があるような気がします。
そういう、「人間の性格的な性質を言い表す単語」ではカバーしきれない気がします。
何かもっと、得体の知れない、別の、何か、です。




■ 2016/09/28

騒音学者が褒め称える「感動ストーリー」への疑問
http://bunkasouonn.blog.fc2.com/blog-entry-498.html

(引用)
> さて、この主婦はおじいさんからの手紙をきっかけに、〈周りには子どもがいない静かな環境〉にもかかわらず、
> 〈怒るのも、笑うのも大きな声でのびのびと、私も子どもも生き〉る方向に舵を切ったようです。
> しかし、たった一人の(しかも耳の遠い)おじいさんが〈もっと気になさらずに大きな声で遊んでください〉と言ったからといって、
> それがなぜ「周囲の住民すべてが『子供が大声で遊ぶこと』を認めた」という解釈になるのか。
> 私には、ここがわからない。
 

引用元の記事は、騒音を擁護する内容の新聞投書(を褒め称えているという別のブログ)への批判です。

元記事で引用されているA教授のブログというのがどこのことなのか、
私自身は確認できていないので、ここではあくまでも一般論としての話になりますが、

騒音問題に限らず、この手の「イイハナシ」は世の中に数多く出回っていることと思います。
そして、そうしたものに対して「なんだかウサンクサイな〜」と直感的に思う人も少なからずいるはずです。

が、このリンク元の記事のように、何がどのように「おかしい」のかを
論理立てて明晰に示すことができるというのは貴重なことだと思います。言葉が与えられた。ありがたいことです。

とは言え、こうした的確な批判を本人に見せつけたとしても、
騒音主自身も、その周囲を取り巻く騒音擁護者たちも、あまり聞く耳は持たないでしょう。
しかし、現に騒音に苦しんでいる被害者にとっては、心の支えになるはずです。

騒音被害には段階があります。
音そのもので苦しめられる一次被害と、周囲から理解されないという二次被害です。
こうした「イイハナシ」は一次被害を引き起こす加害行為を正当化するだけでなく、二次被害を助長するものと言えるでしょう。

> 私は、この投書のようなストーリーをうやうやしく祭り上げる行為こそ、
> 子供の声を含む近隣騒音やスピーカー騒音問題を解決することの難しさを露わにしていると思いますね。

全く同感です。
騒音の「音」そのものが問題なのは当然ですが、
とかく騒音を擁護する風潮というものがあり、それが問題をより深刻にしていると思うのです。
こうした投書のようなストーリーをイイハナシとして持ち上げる行為が騒音の二次加害であるのみならず、
このようなストーリーがイイハナシとして持ち上げられてしまうということ自体が、
この風潮の根深さを物語っていると言えるでしょう。
騒音問題に取り組むにあたり、「音」そのものだけでなく、そうした風潮にこそ疑問を投げかけていく必要がある気がします。


リンク元の記事が幅広く知られて欲しいと思います。
二次被害の渦中にある被害者の心が少しでも安らぎますように。
もちろん、一次被害が少しでも減りますように。

それから、こうした「イイハナシ」を聞いて、素朴に「イイハナシだな〜」と信じ込んでしまう人のうちの一部は
この記事を目にすることで「おかしさ」に気付いて「イイハナシじゃないじゃん!」と思ってくれるようになるかもしれない。

積極的に騒音を正当化したがる人々との「コミュニケーション」は不毛に終わるのが常ですが、
特に積極的というわけではない第三者の中からであれば、このリンク元の記事をきっかけに、多少なりとも、
騒音を擁護するこうした風潮を「おかしいぞ?」と思う人が出てきてくれるかもしれない。出てきて欲しい。

もとより、この手のイイハナシに違和感を感じる人は少なからず存在するはずであり、
その違和感にこうして言葉が与えられたというのは価値あることだと思います。価値あることとしていきたい。


ところで記事中で件の投書を「一杯のかけそば」に喩えているのはいろいろな意味で秀逸ですね。
ただ、「一杯のかけそば」自体には(作者の素行等の顛末は別として)「被害者」というものは存在せず、あくまでも無邪気ですが、
騒音擁護ストーリーの場合は下手に広まるとその陰で苦しむ人が増えてしまう。
 


■ 2016/09/12 「すっとぼけるのも、いい加減にしろ」と言いたくなるようなことばかり言う http://www.30hikikomori.com/2016/09/blog-post_10.html (引用)------------------------------------------------------------------- これ、いま書いたことを読んだ人ですら、「そんな人はいない」というような考えにこだわるなら、 俺の言っていることが、変なことのように思えるわけだよ。 俺の記述こそが嘘だと思うわけだよ。「そんな人はいない」わけだから。 で、「そんな人はいない」と思っている人は、俺の文章を読んで怒る。怒りを感じるんだよね。 どうしてかというと、「そんな人はいない」と思っている人の平和な世界を壊したから。 その人の世界というのは、「そんな人はいない」という認識の上に成り立っているんだよ。 だから、「いる」という俺の言葉を聞けば、「そんな人はいない」認識の上に成り立っている平和な世界が、壊れる。 これは、完全に壊れてしまうわけではなくて、おどしを受けるということだ。ショックを受けると言うことだ。 いままで、地震がなかったのに、ぐらっとしたわけだ。 「そういうことがある」ということを言っている人が目の前に現れるわけだから。 まあ、少なくても言葉は現前するからね。それは、その人の自我に一撃を与えるのである。 その人の自我は「そんな人はいない」という認知の上に成り立っているのだ。 だから、それが、一瞬揺すられ、不安になる。自我が不安になる。 それが、「不愉快」「怒り」という反応をうむ。「そんなんじゃない」だけだから。 俺は「そういうこともあり得る」ということを言うわけだから。この差なんだよ。 だから、「そんな人はいない」と思っている自我を持っている人は、俺の言葉に腹を立てる。 「そんな人もいるだろう」と思っている人は、そういう自我を持ってないので、 「あなたの、お兄さんとお父さんはそうなんだろうな」と思うだけだ。 「そういう人もいる」と思っている人の自我は、別に傷つかない。最初からいると思っているわけだから、不安にもならない。 「そんな人はいない」と思っている人は、不安になって怒る。そして、否定する。 (引用ここまで)------------------------------------------------------------------- この著者の体験には遠く及びませんが、 私も人並みに騒音の被害というものを経験しております。 で、それについて人に話をすると、妙に「怒られる」ことが多い。(だから基本的には黙ってます)。 私は別にその相手に「私の味方になって一緒に苦情を言ってくれ」などと要求しているわけでもなんでもない。 ましてや「さてはおまえも騒音主の仲間か? この場で成敗してやる!」などと攻撃しているわけでもなんでもない。 もちろん私としては日頃からその件(騒音)で不満を溜め込んでいて、その上で愚痴を言っているわけですので、 愚痴を聞かされる方としては、あんまり気持ちのいいことではないとは思います。 とは言うものの、よくある日常会話の一場面に過ぎないと思うのですよ。 単なる愚痴として聞き流してくれればそれでいいと思う。 しかし、なぜか、妙に「怒る」んですよ。なぜか。 意見や考え方が異なる、だとか、そういうロジカルなものではない。 とにかく「怒る」んですよ。私の言うことを、言った端から、感情的にひっぱたこうとしてくる。 本来、怒っているのは私であるはずなのですが、ある意味、私以上に、怒っている。 私が何に怒っているかといえば、騒音主に対して怒っている。 その人が何に対して怒っているかといえば、私に対して怒っている。 結果的に、私とその人がケンカをするような恰好になってしまう。実にバカバカしい。 本来、私とその人がケンカをする理由なんてどこにもないはずなんです。 だから、騒音のことに関して、うかつに人に話せないな、と今では気をつけるようにしています。 それにしても、なんでそんなふうに「怒る」ということになってしまうのか? 何かがある。何かがあるんです。それは何だろう? 今回引用した箇所は、そうした「怒る」という現象の機序について、鋭く分析されていると感じました。 そして、こうした現象は、おそらく、わりと一般的な現象なのだと思います。 いや、「一般的」と言っては語弊がありますね。 「あっていい」と言っているわけではありませんよ? なにか、こう、「騒音」という暴力が暴力として成立しているという事実の中に必然的に内包されるような、 そういう性質の出来事であるような気がしてなりません。 「騒音」という根深く幅広い問題を理解する上で、一つの鍵になる。
■ 2016/07/21 一日に一〇分間、ヘッドホンをして静かにすれば、それでいいかというと、良くない http://www.30hikikomori.com/2016/07/blog-post_21.html (引用) > 「感じが出ないから嫌だ」……これだけの理由で、きちがい敵などでかい音で、鳴らし続ける。 > 鳴らし続けて、一日に一〇分だって、ヘッドホンをしてくれない。 > 一日に一〇分間、ヘッドホンをして静かにすれば、それでいいかというと、良くない。 > 一日に、一〇分間、ヘッドホンをすればいいんだな!!ということになるんだろうけど、それでは良くない。 > きちがい兄貴に交渉するとこういうことになる。 以前から上記のブログを拝読しているのですが、 いわゆる「騒音主」や「迷惑野郎」の精神構造が明瞭に表現されていると思う。 世間に数多くの被害例/加害例が存在する中で、ここまで度合いが深刻なケースはレアだと思いますが、 度合いはさておき、ここに表れている加害者側の精神構造そのものは、 いわゆる「騒音主」や「迷惑野郎」に共通するものがある気がします。 同時に、被害者側が第三者たちにその被害をわかってもらえずに二次被害を受ける、という点も共通していると思います。 もちろん何度でも言いますが、ここまで度合いが深刻なケースはレアでしょう。 私もそれなりに被害者のつもりですが、この著者に向かって「わかります」とは言えない。 しかし他人事ではない。私にとっても、あなたにとっても。 明日、あなたの隣に騒音主が引っ越してくるかもしれない。 いわゆる「常識的な言葉」では表現しきれない「騒音主の精神構造」が、もっと世の中に知れ渡って欲しい。 そして、「いわゆる常識」とのギャップで理解を得られず二次被害が発生してしまうという現状も、知れ渡って欲しい。
■ 2016/07/17 そんなんで解決したら、苦労してない http://www.30hikikomori.com/2016/07/blog-post_17.html (引用) >「つまらない」とかそういうことをキーワードにして、いろいろと探していた。昨日ね! > きのうきのう。でっ、出てくるページがライフハック系のページばかりなわけ。 人生や世の中には「難しい問題」がたくさんあって、 「解決方法のように見えるもの」も同じくらいたくさんあるのだけれど、 そのほとんどは的を外したものだと思う。 「本当の解決方法」は誰にもわからないまま、 当事者の苦しみを利用して「上に立とうとする」という行為が横行してしまう。 > で、「自分もかつてそうだった」「自分はこうだった」というようなことが書いてあったとしても、 > リンクまでの導火線の役目しかしてない。本当にそうだったかわからない。 ネットや検索エンジンのおかげで「解決できる問題」は解決しやすくなったと思う。 たとえば料理の仕方とか、パソコンの修理方法とか、 そういう「答えのある問題」の「答え」は簡単に手に入るようになった。便利になったという他ない。 しかし、「答えのない問題」については、「ゴミ情報」ばかりが蔓延するようになった。 じゃあネットのない昔はどうだったのかと言えば……それはわかりません、と言うしかないのですが……。 ただ、少なくとも、現代、ネット(や検索エンジン)が 「二次被害」を広める役割も果たしてしまっているという事実はあると思う。 私も自分のサイトである種「答えのない問題への解決策」みたいなことを書いてるときがあります。 自分の体験に即して書くことしかできない。他人のことはわからない。 当事者の意識を逆撫でするような内容になっていなければいいと思う。 いや、私にはわからないところで逆撫でしているのだと思う。 どうしたって「私にはわからないところ」は「私にはわからないところ」だからです。同語反復。 何もしないのが一番いい。この世に存在している時点で罪だ。しかし開き直っても罪は軽くならない。 検索エンジン対策をまったくしていないせいか、アクセスされてる気配がほぼないのが不幸中の幸いか。 たとえ小さくても、存在していることの責任を忘れないようにしたい。ごめんなさい。
■ 2016/07/15 岡田代表のコメントを印象操作をする共同通信 http://skymouse.hatenablog.com/entry/2016/07/15/161146 (引用) > 日本のマスコミは、具体的な事を報道せず、曖昧なままにしておいて、その上で印象だけを操作する。 > そうすることで、ハッキリとしたウソにならないのだ。 ウソではないウソが横行している。 まったくその通りですね。 こうしたウソを見分ける嗅覚を養いたいと思う、と同時に、 こうしたウソを書いている側の良心はどこにあるのか? とも何度でも思ってしまう。 生きている目的そのものが違う、とでも考えるしかない? たとえば雑菌に向かって「そこで繁殖するのは倫理的に悪い」と言っても無意味なのと同じように。
■ 2016/07/12 参院選、マスコミの腐敗が独裁を生んだ http://skymouse.hatenablog.com/entry/2016/07/11/175011 (引用) > 2016年7月10日、国民は重大な失敗をしてしまったと伝えておきます。 > 恐らく、多くの新聞では、日本国民が大失敗をしたとは、書かないでしょう。 >(この改憲案を報道しない段階で、それが出来よう筈もありません) > 歴史的に見れば、民主主義の敗北であり、民主主義を否定する政党に投票したとして記録されるでしょう まったくその通りだと思うと同時に、どうしてそういう政党に投票する人がたくさんいるのかな??? と、何度でも思ってしまう。 その「どうして」というのは 単に理由を問う Why でもあり、糾弾の意味を込めた How could でもあります。 それでその理由としては、私もマスコミの責任が大きいと思う。 思うのですが、ニワトリが先なのか、タマゴが先なのか、とも思う。 他の国のことはわかりませんが、日本における投票行動は、 自分の信念を意思表示するというより、強者へ媚びるための儀式になっている気がします。 北朝鮮では選挙とは将軍様に忠誠を誓う儀式と化しているそうですが、 日本の選挙もそれと大差ないのかもしれない。 暴力で強制されているわけでもないのに「自主的に」そうしているという点で日本の方がより深刻かもしれない。 (先日、↓その話を書きました) (北朝鮮の選挙) で、それを「洗脳されている」として犯人を探して糾弾する、ということをしてもおそらく意味はなくて、 人々の精神性が変化しないとどうにもならないのだと思う。 さてどうしよう?
■ 2016/07/11 スピ系の人は、いじめ肯定、差別肯定になりやすい http://www.30hikikomori.com/2016/07/blog-post_10.html (引用) > それに、どちらかというと不用意に弱っている人(集合)を攻撃しているのは、スピ系の人なんだよ。 > で、スピリチュアリズムに凝っているのであれば、それは違うんじゃないかと言いたいわけ 同意です。 いじめや差別は強弱関係に便乗して弱い側を叩くという構造的な暴力です。 いわゆる「スピ系」はまさにそれと同じ構図になりがちですね。 全員がそうというわけではないにしても、そのようになりかねない落とし穴がある、 あるいは悪用される恐れがあるものだと思います。
■ 2016/06/28 選挙なんて棄権したほうがいいんじゃないっすか http://bunkasouonn.blog.fc2.com/blog-entry-494.html (引用) > 誰も彼もが「日本の政治を変えなきゃ!」などとしたり顔で言いますが、 > 本気でそう思うなら、中途半端に投票(買い物)するより堂々と棄権(買わないと判断)して、 > 国政選挙でも地方選挙でも、投票率が10%を切るくらいまで低くなってしまえばいいんです。 > そこまで投票率が落ちると何が起こるか。国際社会(笑)から > 「日本人は自分たちの国を『民主国家』とか言ってるけど、投票率が一桁ってどんだけ後進国なんだよ!」 > と笑いものになるでしょう。 リンク先は騒音問題について数々の提言をされている有名サイト。 私も被害者の一人として今まで大いに励まされてきました。 ただ「選挙カーの騒音」に関しては、バランス感覚が難しいなと思うところです。 選挙になると「選挙カーうるさい!」という人が雨後のタケノコのようにわいて出てきますが、 そういう人たちが騒音問題に関心があるかといえば、単に選挙を疎ましがっているだけのようです。 騒音問題、とりわけ拡声器騒音の問題は、コミュニティのあり方の問題とも言えます。 であるならば政治の問題とも切り離すことはできない。 どのように結びついているかと言えば、直接的に結びついているというわけではない。 たとえば「静音党」なるものがあって、そこが政権をとれば日本全国静かになるとか、 そういう状況ではない。少なくとも今のところ。 そういう意味では(残念ながら)ないのですが、 「コミュニティと自分との関係を意識する」 というのは拡声器騒音を考える上で重要なことであるはずです。 世の中の動きに自分だけは関係ない、という感覚は おそらく、選挙に関心がない層に共通の感覚であり、 同時に、拡声器騒音に無頓着な層の共通の感覚でもあると思うのです。 もちろんこのサイトの著者は前々から拡声器騒音についての提言を繰り返されている方であり、 単に選挙を疎ましがって「選挙カーうるさい!」と無責任に叫んでいるだけの人とは違うと思いますが、 「騒音問題」という観点で選挙カーの問題を考えていくにあたり、 どのようなアプローチがありえるかというのは慎重に考えたいところです。 この件に関して、最近下記の記事を書きました。 ・選挙のこと:投票を棄権するなら積極的にやろう ・「選挙カーうるさい」のに「ちり紙交換は風物詩」ですか? ・選挙カーの騒音は「まだマシ」だと思う