拡声器騒音は生活をつまらないものに変えてしまう ~「意志ある個人」の不在~
たとえばDVDを観ていて気分が盛り上がっているところで外から拡声器騒音が飛び込んできたら台無しです。
でも拡声器騒音というのは「世間的には正しい」ものだから文句を言うことができません。
防災無線であれ火の用心であれ救急車であれ、それらは「正しい」ものであり「必要な」ものだから
文句を言うことは許されない。「我慢」しなければ「ならない」。
それに対して部屋でDVDを観て気分が盛り上がっているというのは「世間的」には「取るに足らない」ことです。
せっかく盛り上がっていいところだったのを台無しにされてイヤ〜な気分になったとしても、
「そんなものなんか」よりも防災無線や火の用心や救急車やの方が「大事」なのであり、
私「なんか」の「個人的な楽しみ」「なんか」のために「ガタガタ言う」ことなど「世間的」には絶対に認められません。
さて、このように騒音というのは不愉快なものです。
その不愉快さの特質は「つまらない」という点にあります。
ただただ有無を言わさず我慢を強いられる。
「正解」は決まっており、選択の余地も展開の余地もありません。
ドラマ性というものとは無縁です。
「私の心」というものが「有無を言わさず」否定される。
いわゆる「悪」というものはこの世に様々な形で存在します。
一口に「悪」と言っても「面白い悪」と「つまらない悪」があります。
騒音は「つまらない悪」です。
悪としてつまらないというのではなく、つまらなさのゆえに悪と言うことです。
物事をつまらないものに変えてしまうという意味で悪ということです。
「面白い悪」というのは例えばアニメや映画の「悪役」になり得るような悪のことです。
悪は悪でも、そこにはドラマ性がある。
悪は悪でも、観るものを感動させる性質がある。
悪は悪でも、心にエネルギーを与える性質がある。
「悪 "役"」と言いました。つまり特定のキャラクターという「個人」が悪として魅力的である、ということです。
そこには人間がいる。
それこそがドラマ性の軸であり、感動の理由であり、心のエネルギーの素になるのです。
しかし拡声器騒音のような種類の「悪」にはそれがありません。
そこには悪役の「役」たる個人がいません。
防災無線にせよ火の用心にせよ救急車にせよ、それを「自分の意志で鳴らしている個人」が存在しません。
もちろん、物理的な現象としては誰かが「担当者」として音を出しているに決まっているのですが、
それはその人個人の意志ではありません。
何らかの「名目」に従って「お役目」を代行する「担当係」がいるのみです。
「この俺様がこの俺様の意志で鳴らすのだ! たとえこの命が燃え尽きようとも!」という「意志を持った個人」がいません。
そうした騒音を擁護する人々も同じです。
「だって必要だろうが!」「それぐらいでガタガタ言うな!」「神経質なやつめ!」という「常識」を「代行する声」があるばかりです。
「この俺様がこの俺様の意志でこの音を守り抜く! たとえ世界中を敵に回そうとも!」という「意志を持った個人」が存在しません。
単に存在しないというのではなく、そうした個人の存在を許さず、巧妙に消し去ってしまう。
人間を分別の中に閉じ込め、人生から生き生きとした光を奪ってしまう。
「騒音」とは、そういう種類のおそるべき「悪」です。
> 「騒音」とは、そういう種類のおそるべき「悪」です。
ここでいう「騒音」というのは単なる「音」そのものというよりは、
音を出す名目、その名目に従って動く人々、そして誰かに我慢を強いる、
という社会的なプロセス全体を指しています。
そうしたプロセス全体が「悪」である、ということです。
したがって、たとえば、音そのものを指して
「何デシベル以上はダメだがそれ以下なら文句を言う方がおかしい」といった線引きは
まったく本質を逸れた議論であるということです。
本質を逸れているのみならず、そうした議論自体が悪の一部と言わねばなりません。
問題の本質は「個人というものを抹消しようとする精神動向」です。
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