自殺の必然性・生きることの意味・第三の選択肢に向けて
客観的に無限に広がる宇宙、という絶望がある。
ある日、気が付いたら、それがそこにある。
ただただ茫漠と、度し難く、圧倒的な存在感で広がっている。
そしてそれを "私が見ている"。
逃げ場のない、おそるべき事実。
■ 絶望的な宇宙観
この宇宙は3次元空間として無限にどこまでも広がっていて、
その中にある物体は全て、物理法則に従って動き回っていて、
はるかな過去からはるかな未来までそれが続いていく、という宇宙観。
こういう宇宙観は絶望的です。
この宇宙には意味がないからです。
もう少し詳しく言うと、こうした宇宙の中に自分がいる、ということが絶望です。
宇宙は無限に無意味であり、それにも関わらず、その中に自分がいる。
さらにもう少し詳しく言うと、単に自分というよりも "意識" や "心" といったことです。
無意味な宇宙の中に、それにも関わらず、心がある。
"無意味な宇宙" と "心" が両立しない。この矛盾がまさに絶望です。
■ 自殺しなければならないのはなぜか?
宇宙が無意味で、それにも関わらず自分がいるからです。
この世で何をしても意味がない。何を手に入れても手に入れなくても意味がない。
ただ単にそれだけではない。
それにも関わらず、それを認識し続ける自分という意識がある。
一瞬一瞬が苦しみの連続です。
そして、苦しみを耐え抜いた先に何があるかと言えば、
やはり無意味な宇宙空間が広大に寒々しく広がっているのみなのであり、
ただただ絶望するしかない。
消えてしまいたい。死んでしまいたい。
■ "世間" = "人生には意味があるという嘘"
無意味な人生には心が耐えられない。
だから何とかして、この世には意味があるということにする。
寄る辺のない宇宙空間に、依って立つことのできる大地をつくろう。
人は地球を求めた。
宇宙は無意味、という "客観的な真実" を覆い隠すための天幕です。
そのために、あれこれとストーリーを作る。価値観を作る。
いいこと。悪いこと。すべきこと。せざるべきこと。
よろこぶべきこと。悲しむべきこと。手に入れるべきこと。避けるべきこと。
そうしたストーリーを作り、守り、演じ、営む。
ここに世間が誕生した。
この目的は何だったのかと言えば、
宇宙が無意味であるという絶望を覆い隠すためなのでした。
だから、この天幕に穴を開けたり、価値観を疑うような言動は絶対に許すことはできない。
それをされてしまうと、たちまち嘘が瓦解する。
無意味な宇宙に心が放り出されて絶望にさらされる。
そんなことは絶対に許せない。
みんなで必死に作り上げている "この世劇場" を疑うような言動をとるやつは徹底的に攻撃する。排除する。
"そんなことは世間が認めない" "そんなことは世間では通用しない" "世間を甘く見るな"
世間に逆らうやつは痛い思いをする、という事実を演出する。怒りと恨みと恐れと絶望を込めて演出する。
特に警戒すべきなのは自殺です。
自殺は "この世劇場" に対する根本的な否定行為です。
そんなやつは徹底的に叩かねばならない。"この世の文脈で" 叩かねばならない。
あいつは心が弱かったのだ、現実から逃避したのだ、世間に負けたのだ、etc……。
傷ついた天幕に絆創膏を貼るように、"この世の文脈" を声高に叫んで取り繕わねばならない。
■ 自殺を避けるための方針
自殺しなければならない理由は何だったかと言えば、
宇宙が無意味で、それなのに自分という意識(心)があるから、なのでした。
したがって、方針は2つです。
A: 宇宙が無意味という "客観的な真実" から目をそらす
B: 心を否定する
2つと言っても、この2つは同じことの両輪です。
Aはつまり世間を構築することです。
そして Bはそうした世間の論理に自分を埋没させることです。
我を張らない。空気を読む。
自分の頭で考える、というフレーズを "世間の論理を察する" という意味で使う。
■ 科学とは何か
絶望的な宇宙観そのものであり、同時に、"心" を否定する装置です。
人間の心は物質に由来する、という。
物質が集まって細胞になり、細胞が集まって脳になり、心のようなものができた、という。
従って心のようなものはコンピューターの性能が高まれば再現が可能である、という。
科学は客観的な論証の積み重ねで "進歩" していきます。
人間の意志を離れて一人歩きしていく。
"誰にもその流れは止められない" などという。
人間の役に立たせるのではなく、人間が科学の進歩に順応することを求め出す。
そして、そもそも "人間の役に立つ" ということがどういうことなのかを科学は知らない。
宇宙は無意味なのであり、心は無意味な宇宙空間を騒がせる夾雑物(きょうざつぶつ)なのでした。
科学が言うところの人間とは、物質が自己複製するシステムでしかなく、
それすらも科学の文脈で再現してみせる対象の一つでしかない。
こうしてますます人間から目がそらされる。
さらに、無意味な宇宙という絶望的な宇宙観そのものを否定することもできない。
たとえば神様がいるとか、天国があるとか、そうしたことは "理性的ではない" として攻撃の対象となる。
つまりここで行われているのは、こういうことです。
A: 宇宙は無意味であるという "客観的な真実" を提供し
B: "心" という "夾雑物" を否定する
■ 科学と世間の共通点
どちらも "自己の外側にあるもの" です。
世間は人と人の間に措定されている。一人一人の人間ということを超え、支配するものとして用意されている。
科学は人間とは無関係にこの宇宙を記述する。人間が存在しない宇宙を記述する。
どちらも一人一人の人間の外側にあるものとされ、かつ、一人一人の人間よりも一段高いもの、優先順位の高いものとされる。
ここであえて "一人一人の人間" という言い方をしているのは、
世間が記述する "みんな" という観念との差を強調するためです。
単に "人間" というだけでは、世間の文脈との紛れが起きる可能性がある。
世間が言うところの "人間" は "誰でもない誰か" であり同時に "全での人間を代表する仮想の誰か" であり、
それは私でもあなたでもない。
■ 絶望とは人間が否定されるということ
無意味な宇宙が無限に広がっており、にも関わらず人間(自分という意識)があること、
それが絶望の有様なのでした。
つまり無意味に広がる宇宙空間、によって、確かに今ここにある "私" が蔑ろにされている。
それがまさに恐るべきことであり絶望なのでした。
では、なぜこうなったのか?
■ 絶望のサイクル
1、理性的で無意味な宇宙観が出現する
2、虚しさから逃れるために世間が構築される
3、構築された世間の中で、ますます人間が否定(抑圧)される
4、宇宙の無意味さが確認されると同時に、世間がより強固なものとなる(→ 1および2へ)
ここで見えてくる問題は2つ。
・どこでこのサイクルが始まったのか?
・このサイクルから脱出するにはどうすればいいのか?
>・どこでこのサイクルが始まったのか?
これはちょっと、わかりません。
気が付いたらこうなっていた、と、さしあたり言う他ない。
しかし、気が付いた、ということを、サイクルから脱出するための足がかりとしたい。
> ・このサイクルから脱出するにはどうすればいいのか?
自殺する。
■ 自殺するしかないのか?
自殺することの意味は何だったか?
無意味な宇宙に意識が宙吊りになっており、
人間を守るために作られたはずの世間さえも人間を否定する。
人間を守るには死なざるを得ない。
自殺しないのだとしたら、どうなるのか?
無意味な宇宙で宙吊りになっている有様を直視しながら耐え続けるか、
世間の中で抑圧されることに耐え続けるか。
前者も後者も死ぬより悪い。
なぜならどちらも人間を否定することだからです。
人間を守るために死ぬ、という選択肢が生々しく光を放つ。
■ 人間を大事にするならば自殺しなくていいはず
人間が否定されることが何よりも悪いことなのであり、
絶望なのであり、死ぬよりも悪いことなのでした。
だから、どう転んでも人間が否定されるようになっているサイクルの中にある限り、
自殺ということが有力な選択肢であり続ける。
人間を肯定することができるならば自殺の必要はなくなるはずです。
一人一人の人間。自己自身であること。一人一人の "私"。
それを何よりも優先される基準とし、認め、肯定するならば、
そこは自殺しなければならないような世界ではないはず。
■ 人間とは誰のことか?
私のことです。
あなたのことです。
統計上の数字のことではない。
姿のない悪口のことではない。
現に今ここにある私自身。
現に今そこにいるあなた自身。
■ 第三の選択
人間を大事にする。何よりも最初に。
それをあらゆることの基準とする。
これはヒューマニズムではありません。
むしろ反社会です。
なぜなら "世間" に逆らうことだからです。
私を大事にする。あなたを大事にする。
そこには国も社会ももちろん世間もない。
"人間" に関する観念を疑う必要がある。
人間とは利己的な生き物ですか?
人間とは欲深い生き物ですか?
本当にそうですか?
それらは世間のストーリーではありませんか?
私はどうだろうか? あなたはどうでしょうか?
私は本当のところ何を願って生きている人間なのか?
あなたは本当のところ何を願って生きている人間ですか?
卑屈にならず、傲慢にもならず。
現にここにいる人間(私・あなた)から出発する。
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