暴力でなければ話し合いと呼べるか? それは大きな間違い。
暴力を振るうときと同じ心である限り、その心で放たれた言葉はやはり暴力です。
暴力言葉。
言い返されなければいい、という心。
最終的に自分が言い返した状態で、押し切って、相手を黙らせれば、それで自分の言い分が通ったことになる、という心。
このような心は話し合いを求める心とは程遠い。暴力を振るう心と全く同じです。
こうした心に話し合いで立ち向かうのは非情に不利です。
彼は思いつく限りの「言い返されにくい言葉」「一見もっともらしく聞こえる言葉」を脈絡なく繰り出して、あなたを諦めさせようとします。
話し合いを求めるあなたは、彼の繰り出す言葉の1つ1つに、丁寧に応じようとします。
彼とあなたとで、費やすコストに大きな差があることは明らかです。
仮にあなたの努力が実って、その場は彼との利害関係の調整に成功したとしても、それはその場限りのことです。
それはなぜかと言うと、話し合いと暴力の性質の違いのためです。
話し合いであれば、そこで話し合われて成立したことは常に「真」です。
ですが暴力は違います。いつでもその場限りの場当たり的なものにすぎません。
その結果、彼とあなたとの間には再び同じトラブルが発生するでしょう。
暴力を振るうのと同じ心である限り、やはりその心から放たれた言葉は暴力なのであり、
その言葉が表面上何なのであれ、それは話し合いを構成するものとは決してなりません。
人類が真の意味で平和を手にするには、
こうした暴力の心で思考することを辞める必要があるのではないでしょうか。
ですがそれは難しい。
他人を操ることはできないからです。
ましてや、話し合いができない相手はなおさらです。
そこで、私はまず、
こうした暴力言葉に虐げられている心が、そうした暴力の抑圧から解放されることを願います。
一見話し合いに見えるものが実は暴力であると気付くこと。
それが、平和を求める心が解放される第一歩になるのではないか。
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