自己と他者の差異。あるいは同一性。「転換」がもたらす「酔い」に警戒しながら。
差異と同一性の間を転換し続ける認識。
僕らはみんなそれぞれ違うように見えるけど、実は同じなんだ!
とか、
僕らはみんな同じように見えるけど、実は1人ずつ違うんだ!
とか。
どちらも転換の瞬間にはインパクトを伴って「酔い」をもたらしてしまう。
酔ったままでは真っ直ぐに歩けない。
自分では真っ直ぐ歩いているつもりで、いろんなものにぶつかってしまう。
> 僕らはみんなそれぞれ違うように見えるけど、実は同じなんだ!
> とか、
> 僕らはみんな同じように見えるけど、実は1人ずつ違うんだ!
> とか。
どっちが先なんでしょうね?
私が自分の中の記憶と感覚の起源を辿ってみると、
小さい頃、明確に「言葉で教わった」のは上記のうち後者のケースです。
食べ物の好き嫌いについて、親が話していたのを覚えています。
「自分が嫌いなものを好きって人がいると "うげぇー、あんなもんどうして!" って思うけど、人によって違うからね~」
というようなことを親が話しているのを聞いて、そして、特に疑問にも思わなかった記憶があります。
疑問に思わなかったということは、
自他の違いを認識していない状態が出発点だった、ということでしょうか?
そこから出発して、自他の違いを認識する能力を獲得していく過程を歩む、という順番でしょうか?
そして、
「違うけど、やっぱり同じ」
と
「同じだと見せかけて、やっぱり1人ずつ違う」
の
間を往復し続ける。
どこへ向かって?
そして出発点はどこだったか? それもやはりまだ気になるところ。
「もともとはこうだったのだから」ということを説得力として、そこへ戻っていくべきなのか?
それとも、それを発達段階の初期状態、つまり克服すべき状態として、あくまで斥けるべきなのか?
> どこへ向かって?
もう永遠にあなたに会えないとしても、
あなたはあなたなりに幸せであってくれるといいと思う。
この願いがある限り、他はどちらでもいいのではないか?
それでも人生は続く。
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