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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        自己と他者の差異。あるいは同一性。「転換」がもたらす「酔い」に警戒しながら。
        
        差異と同一性の間を転換し続ける認識。
        
        僕らはみんなそれぞれ違うように見えるけど、実は同じなんだ!
        とか、
        僕らはみんな同じように見えるけど、実は1人ずつ違うんだ!
        とか。
        
        どちらも転換の瞬間にはインパクトを伴って「酔い」をもたらしてしまう。
        酔ったままでは真っ直ぐに歩けない。
        自分では真っ直ぐ歩いているつもりで、いろんなものにぶつかってしまう。
        
        
        
        > 僕らはみんなそれぞれ違うように見えるけど、実は同じなんだ!
        > とか、
        > 僕らはみんな同じように見えるけど、実は1人ずつ違うんだ!
        > とか。
        
        どっちが先なんでしょうね?
        私が自分の中の記憶と感覚の起源を辿ってみると、
        小さい頃、明確に「言葉で教わった」のは上記のうち後者のケースです。
        食べ物の好き嫌いについて、親が話していたのを覚えています。
        「自分が嫌いなものを好きって人がいると "うげぇー、あんなもんどうして!" って思うけど、人によって違うからね~」
        というようなことを親が話しているのを聞いて、そして、特に疑問にも思わなかった記憶があります。
        
        疑問に思わなかったということは、
        自他の違いを認識していない状態が出発点だった、ということでしょうか?
        そこから出発して、自他の違いを認識する能力を獲得していく過程を歩む、という順番でしょうか?
        
        そして、
        「違うけど、やっぱり同じ」
        と
        「同じだと見せかけて、やっぱり1人ずつ違う」
        の
        間を往復し続ける。
        
        どこへ向かって?
        
        そして出発点はどこだったか? それもやはりまだ気になるところ。
        「もともとはこうだったのだから」ということを説得力として、そこへ戻っていくべきなのか?
        それとも、それを発達段階の初期状態、つまり克服すべき状態として、あくまで斥けるべきなのか?
        
        
        
        > どこへ向かって?
        
        もう永遠にあなたに会えないとしても、
        あなたはあなたなりに幸せであってくれるといいと思う。
        
        この願いがある限り、他はどちらでもいいのではないか?
        
        それでも人生は続く。