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◆◆ 思ったこと: ◆◆

        自己が存在しないということと自己が存在するということは同じことでしたよね。
        
        「自己が存在する」と言うとき、その二通りの意味。
        ・対象としての自己
        ・認識主体としての自己
        
        >・対象としての自己
        
        たとえば、この場所には私を含めて3人います。
        Aさん、Bさん、そして、わたくし Cの3人です。
        
        という場合の「わたくし」
        これは Aさんや Bさんと同じような仕方で Cであるところのわたくしもそこにいる、
        と言っているのであり、
        つまり、他者のことです。
        対象としての自己。つまり他者です。
        
        
        >・認識主体としての自己
        
        AさんやBさん、あるいはCさんをも含めた森羅万象を認識する主体としての自己。
        この存在には名前がありません。
        並び立つものがないので、他と区別するための名前は必要ない。
        対象としての「わたくし」が C であるかどうかは、この文脈ではどうでもいい。それはまた別の話。
        
        ここでは対象としての自己は自己ではなくなっている。
        それは認識主体としての自己を踏まえるとき、対象としての自己はもはや自己ではない。
        自己(主体)があるからこそ、自己(対象)がない。
        
        対象としての自己(C氏)に固着するとき、認識主体としての自己は省みられていない。
        対象としての自己が前景に出ていて、認識主体としての自己は背景に退いている。
        自己(対象)があることで、自己(主体)がない。
        
        
        
        認識主体は果てしなく主体なのであって、
        それを言及した瞬間に主体ではなく対象になっているわけですが、
        そのことを厳密に踏まえてしまうと、言葉にならなくなってしまう?
        言葉は果てしなく対象?