言葉はみんなの共有物なのですよね。幸か不幸か。よくもわるくも。
自分が大切にしている言葉が、違う意味で使われている場面に遭遇すると、
心が汚されてしまった気分になります。
でも仕方がない。
共有している、から、話が通じる、というべきか、
共有している、つもりになっている、から、誤解が生じるというべきか。
他人と意味をやり取りするためのツールとしての言葉。
自分の中で概念や感情をつなぎとめておくための目印としての言葉。
前者。publicな領域。
他人との共有が前提。みんながそれを使っています。私もそれを使います。
後者。privateな領域。
他人と共有する必要はない領域。
むしろ共有したくないかもしれない。
かと言って、考え事をするときだけ独自の言語を使う、というのも難しい。
> 自分が大切にしている言葉が、違う意味で使われている場面に遭遇すると、
> 心が汚されてしまった気分になります。
> でも仕方がない。
日本語(第一言語)の情報に触れるのは、気疲れが激しいですね。
そこには自分が大切にしている言葉がたくさんある。
第一言語だからこそ、考え事をするときには、使ってしまうし、
大切にしている言葉が増えていくのですが、
第一言語だからこそ、自分が生活している環境で、他人と共有されている。
むしろそういうものを、自分の private なものとして「大切に」などしてはいけないのかもしれない。
その点、外国語は気楽です。
自分が知っているのとは違う意味で言葉が使われている場面にぶつかると、
「へー、そういう使い方もあるんだー」とは思っても、嫌な気分になることは、まずありません。
そこに、自分が大切にしている領域、は、ほとんどない。
結局、そこは「外国」ということでしょうか。
だから、使うときには、こんな使い方していいのかなー、と弱気になってしまいがちなわけですが、
それを言うなら第一言語でも同じなのですよね。
母語だと思って、自分のモノだと思って、意味がわかってるつもりで、自分の家のつもりで、
遠慮なくふるまう。
他人の言葉の意味も理解できてるつもりになる。
でも、そこは自分の家ではないのかもしれない。
あれ? なんだか、どこへいっても肩身が狭いですね。
結局、他人を操ることはできないんですもの。
> でも、そこは自分の家ではないのかもしれない。
言ったもん勝ち? 月に国旗を立てる?
> 共有している、から、話が通じる、というべきか、
> 共有している、つもりになっている、から、誤解が生じるというべきか。
「母語」と Lingua franca が同一、という環境は、実は結構、なんというか、キモイ、のかも。
家の中と外の区別があいまいになってるようなものなんじゃないんかな。
寝間着で街に出かけて、それが寝間着だと気づかない。
自分の家に、ステテコ姿のおっさんが勝手に出入りして「ビール冷えてねーのかよ」とか言い出す。
> 共有している、つもりになっている、から、誤解が生じるというべきか。
母語なのに、母語だからこそ、会話が成立しない。
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