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◆ 2020/09/27
    思ったこと:
        ブラウザゲーム「愛と哀しみの出口戦略」のリリース後の雑感
        
        
        そんなわけで前回の続き。
        前回はリリース直後で瀕死だったゆえリリースの報告だけで精一杯だったので、
        今回はこのゲームに込めた熱く激しい想いのたけを原稿用紙ン百枚分の大長編でたっぷりと……
        と思ったのですが、そんな話に興味があるのはせいぜい数百億人程度の私の大ファンだけでしょうから、
        中ファンおよび小ファンぐらいの皆さんにもご興味をお持ちいただけるよう、
        もう少々一般的な話から入りたいと存じます。
        
        
        で、これは多分一般的というか「あるある」だと思うのですけど、
        ツイッターってリンクがクリックされませんよね。
        ツイッターというか、ネット全般でそういう傾向があるのだとは思うのですけども、
        ツイッターだとその他の露出数とのギャップが特に際立つ気はします。
        こんだけ触られてるのに、リンク踏んだ人こんだけかよ、みたいな。
        
        マインドルの公開後、宣伝用にアカウントを作って、私なりに考えて宣伝を続けてきたわけですが、
        最近は、なんていうのかな、「諦めている」と言ってしまうと語弊があるのですが、
        「その目的」自体に関しては、ほとんど「意識してない」「忘れている」「放置している」感じです。
        
        リツイートや「いいね」を押してもらったりフォローしてもらったりはしても、
        結局、リンクはほとんどクリックされない。
        
        少なくとも今のやり方では、ちょっともうなんだかドウニモナラナイのでしょうね。
        
        私のコンテンツに問題があるから、という可能性を考慮・反省しないわけではないですが、
        根本的にその要因はあんまり関係ない気がします。
        なぜかと言えば、他の人のコンテンツに言及する内容のツイートを投稿した場合でも、
        やっぱりリンクがクリックされないからです。
        いくらRTやいいねをされても、ツイッター側のアクセス解析を信用する限り、リンクのクリックは常に激レアです。
        「ゲ制」以外のアカウントでニュース記事などを引用したような場合でも同様です。
        
        他の人のコンテンツに言及する書き込みをする際は、
        基本的にダウンロードページなどのURLを書き添えるようにしており、
        僭越ながら知名度の向上に微力を添えることができれば身に余る光栄の極み……ッッ!!!
        という思いで、投稿後はリンクのクリック数に一喜一憂しております。
        で、そのクリック数が常に激レアである、と。
        もしくは私の文章がよほど人を寄せ付けない禍々しいオーラを放っているのでしょうか。
        
        「リンク先の内容に興味を持つこと」
        と
        「ツイッター側でのリアクション」
        は
        イコールとは言わないまでも、相当程度に相関関係があるだろう、
        と
        ツイッターを使い始める前の私は(素朴に)思ってました。
        
        だからこそ、ツイッターという(最近ちまたで大ブレイク中の)メディアに「宣伝効果」を求めた。
        
        しかし、その考えは根本的に間違っていたらしい、というのが現在の認識です。
        
        リンク先の内容にまったく興味がなくても、
        ツイッター側でリアクションを行うということは充分にありえることであり、
        むしろその方がデフォルトと言ってもいいのかもしれません。
        
        具体的に言えば、ツイッターのアナリティクスの数字上、
        いいねやRTの数に比べて、リンクのクリック数の方が、常に下回るということです。
        (「常に」の前に「ほぼ」をつけておこうかと思いましたが敢えてつけないでおきます)
        
        ちなみにアナリティクスって、各投稿の右下にあるこのボタンで見れるやつね。
        ↓ (別に特殊なアクセス解析をしてるわけでもなんでもないですよ、という話)
        
        
        
        文化を誤解していた、と言えばいいのかな。
        心情的には「おいおい、リンク先も見てくれよな〜!」という思いはあるのですけど、
        それを言っても仕方がありません。
        もともとSNSというものをずっと使わずにいましたし、感覚にズレがあったのかな。
        今でもそのズレは埋めかねておりますが、
        ともかく「こういうものだ」という現実・事実は受け入れざるを得ません。
        
        もちろん、リンクがクリックされにくいというのは昔ながらのWebの伝統ではあるので、
        さほど驚くようなことではないのでもあるのですけども、
        ただ、ツイッターの場合は、各種リアクションの機能があるじゃないですか。
        その敷居の高さが、
        「そうしたリアクション < リンクのクリック」
        であるというのは私としては意外だった、ということです。
        その不等号は逆向きだと思ってたのですけども。
        
        だって奥さん、そうしたリアクションの方が「表に出る」じゃないですか。
        それに対してリンクのクリックは、「見えない」じゃないですか。
        件数だけは投稿主のアナリティクスで分かるようになってるとは言え、
        あくまで裏側のことであり、誰がクリックしたかまでは分からない。
        
        一方、各種リアクションはその逆です。
        つまり「匿名性」という点では、
        「リンクのクリック > そうしたリアクション」
        なわけです。
        
        なので、例えば、
        「リアクションをするのは抵抗があるけれど、"こそっと" リンク先を見る」
        という行動の方が、ネット(匿名性を旨とする世界)的には実行しやすい筈、と、
        いう感覚が、今でも私の中にはあります。
        実際、私の場合は、リンクの方がクリックの抵抗が少ない。
        
        そこのところが、結局、「ズレ」ということなのですよね。多分。
        リンク先を見る気はないけれど、リアクションならする、と。
        その感覚を私は今でも把握しかねております。
        しかしそれがSNSという、一応匿名ではあるものの、ゆるやかな「つながり」を旨とする世界での文化、
        と考えねばならないということですかね。
        
        私が過去に浸ってきたのは、「つながり」のない、匿名性中心の文化なのでしょうね。
        そこのところがおそらく「ズレ」の原因になっているのだろうなという気はしております。
        それとも、何か私の側に、もっと根本的な勘違いがあるのか……?
        (上述のような認識フレーム自体が「ズレ」ている可能性)
        
        ちなみに、コレを言うとイヤラシイ話になってしまうかもしれませんが、
        まだ誰もリンクをクリックしていない状態で誰かにイイネやRTをされると、
        アナリティクスの数字を信用する限り、
        「あ、この人(たち)はリンクはクリックしなかったんだな」というのは分かってしまう。
        
        それが悪いことだと言いたいわけでは決してないのですけど、
        割とそういう行動が(私の思う以上に)普遍的に行われているものなのだぁ、
        という、(むしろ私自身の「ズレ」に対する)一種の「しみじみ感」です。
        あと、リンク先はすでに知っているから敢えてアクセスはしないというケースもあるかな?
        いつもご贔屓にしてくださってありがとうございます。
        
        なお、「アナリティクスの数字を信用する限り」、と書いたとおり、
        あの数字自体、反映が今ひとつ正確じゃなかったり、リアルタイムじゃなかったりするようなので、
        個別の他人の行動を断定できるほどの証拠にはなり得ない、とは申し添えておきたいと思います。
        いや別に、断定したとして、だからどう、という話ではないのですけども。ごにょごにょ。
        
        
        > 具体的に言えば、ツイッターのアナリティクスの数字上、
        > いいねやRTの数に比べて、リンクのクリック数の方が、常に下回るということです。
        >(「常に」の前に「ほぼ」をつけておこうかと思いましたが敢えてつけないでおきます)        
        
        それともこの法則が成立しているのは私だけなのかな???
        私だけ何かすんごいハブられてて、
        「リンクはクリックするなよ! いいねだけにしとけよ! イヒヒヒ!」という情報を
        私以外の世界中の皆さんでシェアしてるんでしょ? 隠したって霊能力のある私にはお見通しです。
        私の部屋に盗聴器をしかけて監視してるんでしょ? 隠したって霊能力のある私にはお見通しです。
        
        霊能力はさておき、誰かに言及していただいたときでも
        基本的にアクセスされ感がさほど変わらない場合が多いので、
        おそらく傾向としては大体「そういうもの」なのでしょう。良し悪しではなく。
        
        ただちょっと、SNS(「つながり」を旨とする世界?)の使い方という点で、
        私は「つながり」を軽視してしまってるかな、という反省はあります。
        そんなことだから、
        「リンクはクリックするなよ! いいねだけにしとけよ! イヒヒヒ!」という情報を
        私以外の世界中の皆さんでシェアされてしまうのですね。これではイケません。
        
        とは言うものの、「つながり」と言ってもあまり得意な領域ではないので、
        反省したからと言ってドウニモナラナイのではありますが。
        ましてや「営業」のために「つながり」を深めにいくのか? という自己ツッコミも生じるところであり、
        そうなってくると、ますます、「むしろディスタンスを開けねば!」と、慎み深い私は決意を固めてしまうのであります。
        しかしツイッターに限らず「営業」とはそういうものではあるのでしょうね。一緒にゴルフ行くとか。平成か。
        
        話は少し変わりますが、選挙で当選するには、単に思想や政策を語るだけではダメで、
        その選挙区の人々との「つながり」が大事である、と言います。
        新しく出てきた人が、本人の発言を聞く限りでは非常にまともなことを言っているのにほとんど投票してもらえず、
        一方で、昔から地元に密着してる人が、当たり障りのないことしか言ってないのに当選を続ける、なんてよくあることです。
        良し悪しは別として、そうしたことが、
        世の中を動かす無視しがたい力の源泉であるのは1つの事実ではあるのでしょう。
        
        確かに、人間って意外と「嘘をつけない」生き物だったりしますので、
        普段付き合いのある人に「○○氏に投票して!」と頼まれて、社交辞令でもイエスと言ってしまうと、
        投票の当日、誰が見張ってるわけでもなくても、別の人に投票するのは心理的に抵抗があるのではないでしょうか。
        それに、後日その人と顔を合わせたときに、どんな顔をすればいいというのか?
        そこで何の心理的抵抗もなく嘘をつき通せる人は、決して多くはない気がいたします。
        良し悪しではなく、案外そういうことで世の中が動いちゃってる面はあるのではないかな。わかりませんけど。
        
        
        さて、それはさておき、
        さしあたりツイッター以外に情報発信の窓口を持っていないというのも私の現状ではあります。
        上述のような「感覚のズレ」があるとは言え、以前より少しはその性質が飲み込めてきたとも言えるでしょう。
        
        ではそれを踏まえて、
        ツイッターと親和性が高くなるような形で、コンテンツを作ってみてはどうか?
        今回の『愛と哀しみの出口戦略』の背景には、1つにはそういった陰謀があったりもします。
        (やっと話題が戻ってきた!)
        
        具体的には、まず「ブラウザゲーム」というのがそれですね。
        そもそもダウンロードしなくていいという点で敷居が低い(ハズ)であり、
        ただでさえリンク先を見に来てもらいにくい中、
        リンクのクリックから→実際にプレイまでの距離はできる限り短い方が望ましいだろうということです。
        
        ただちょっと心配なのは、
        「リンク先に移動するとすぐにプレイ開始」というのは本当に「いい」のか? ということです。
        
        これが例えば、ツイッター上でリンクをクリックして→直接Zipファイルのダウンロードが始まったりなんかすると、
        「うげげ」って思われても仕方ない気がするのですよ。反射的にキャンセルされそう。私ならする。キミもする。催眠術。
        つまり、クリックする立場としては、
        「まだ、私たちそういう関係じゃないのに」
        という「意図のギャップ」があるであろう、と、得意のテレパシーで読み取ることができます。
        
        その点、ブラウザゲームであれば、アクセス先のページですぐにプレイできるようになっていても違和感がないというか、
        むしろそれが「普通」なのではないかな、と、私は思っているのですが、
        知っての通り、私の感覚は「ズレて」ますからね。
        
        アクセス後にイキナリゲームが動き始めたことで、
        「ぎゃあブラクラ!!」と110番通報するお友達が大量発生していたり、
        「ぎゃあウィルス!!」と地元の代議士に陳情に走ったりする人が大量発生していたり、
        という可能性が得意の霊能力で生々しく視えております。
        
        それだけならまだしも、それによって、
        「ツイッター上のURLは迂闊にクリックしてはならぬ!!!」
        という風潮をますます加速させてしまっている、
        という可能性も得意の霊能力で生々しく視えております。
        
        今ふと思ったのですが、「ブラクラ」って死語ですか?
        私のズレっぷりは、とどまるところを知りません。
        
        
        あと、ブラウザゲームであれば、
        今ちまたで大ブレイク中のスマートフォンでもプレイできるであろう、
        という慈悲深い配慮も込めております。
        
        世間ではPC所有者が絶滅し、スマホ所有者が地上の王者になりつつあるようで、
        特にツイッター上ではその傾向が強いように見受けられます。
        PCを持ってないわけではないのだけど、ツイッターを見るときはスマホ、という人類が少なからずいらっしゃる、
        ということを得意の霊能力で感知している次第です。
        
        あまり世間に迎合して「これからはスマホ対応だぜ! ヒャッハー!」みたいなことはしたくないのですけども、
        こと、ツイッターからの流入、ということを前提に考えるならば、
        自分が用意しているコンテンツのうち、入り口として、1つくらいはスマホでも触れられるものがあるといいのかな、
        というふうに考えた次第です。
        なので今後「スマホ対応のものをガンガン作ってくぜヒャッハー!」と考えているというわけではないのですが、
        さしあたり「入り口は一つ設けたぞヒャッハー!」という感じです。
        結局こうして語尾にヒャッハーをつけざるを得ないのも時代の流れというやつなのでしょう。
        
        入り口。
        例えば『愛と哀しみの』をお楽しみいただいた後、
        画面端のトピックパスから上位ページにもアクセスして、
        マインドルの存在にも気づいて欲しいなぁ〜、興味を持って欲しいなぁ〜、洗脳されて欲しいなぁ〜、
        という楽しい陰謀を張り巡らせている次第です。
        入り口1つでは足りないかな? なお、いくつあっても無駄という説もあり。
        さりあたりは様子見ですね。
        
        一応言っておくと、『愛と哀しみの』が単なる「撒き餌」というつもりでは決してないのですけども、
        やはりマインドルを見ることにつながって欲しい、という願いは常にあります。ええ、あります。
        「いかにして全人類の脳にマインドルを刷り込むか?」という陰謀を毎日365時間考え続けてます。
        
        陰謀はさておき、マインドルはイロイロな意味で「敷居が高い」だろうな、とは思うところでして、
        それよりは敷居が低い形で、ウチのコンテンツに興味を持ってもらうための
        手軽さを備えた「入り口」を設けておけば、必ずやいつの日か世界征服の礎となってくれることでしょう。
        陰謀は一日にして成らず。
        
        ちなみに、そこまでするのであれば、素直に「マインドル」をどこかの投稿サイトに登録してはどうなのか?
        という率直な疑問を全国のファンの皆様からテレパシーで受け取っているという妄想が絶賛沸き起こり中ですので、
        この場を借りてお答えしておこうと思います。
        
        確かにですね、おっしゃる通りでして、
        純粋に「一人でも多くの人に手に取ってもらえるよう、少しでも可能性を高めておく」
        という意味では、たとえ「どうせ埋もれてしまう」と分かっていても、登録だけでもしておくべきだろうとは思います。
        登録自体に金がかかるわけじゃなし、
        それこそ「手当たり次第に」でも登録しておく「べき」なのですよ、その意味では。
        実際、検討したことがないわけではありません。
        しかし、こと「マインドル」の場合、それではダメ、なのですよ、それでは。
        
        なぜか?
        
        ほとんどの投稿サイトで、当たり前のように
        「ランキング」「星の数で評価」「○○アワード」のようなフィーチャーがある。
        投稿サイト以外に「コンテスト」的なものも同様ですね。
        
        なんと言ったらいいのかな。
        多分どう言っても「批判がましく」なってしまうと思いますので、敢えて言葉を選ばずに言うのですが、
        
        『学園棋神伝マインドル』は「他人と優劣を競い合うための道具」として使うためのものではないのです。
        
        別に個人的に、世の中に存在するそういう活動を否定するつもりはほんの少ししかありませんし、
        そういう活動が好きな人同士でそういう活動を楽しんでいる分には、
        そこに向けて、敢えて何か「私の持論」なり「善し悪し」なりを語って聞かせてやろう、
        などという大それた意図はほんの少ししかないのですけども、
        ただ、『学園棋神伝マインドル』は「そのためのものではない」ということです。
        
        もちろん「世間に公表」している以上、
        受け取った人が、他のものと比較したり「点数」をつけたりしたとしても、それは「その人の自由」ではあります。
        ただ、私から「そういう目的のものですよ」という体裁で出すわけにはイカないのです。
        
        もちろん、そうした投稿サイトに登録している他の皆さんが、
        例外なく熱心に「他人と優劣を競い合う目的ぃぃぃ!!!」でそうしているのかと言えば、
        必ずしもそういうわけではないでしょう。
        特にこだわってないだけ、というお友達が大半であることは霊能力のある私には明瞭に認識できます。
        
        では私もそれでヨイのではないか、という思念が全国津々浦々から送信されてくるところですが、
        私は、そういうわけには参りません。
        
        そんなにこだわることなのかと言えば、そんなにこだわることなのですよ、それが。
        『学園棋神伝マインドル』の内容をある程度見ていただいたお友達には
        察していただける部分があるのではないかと思うのですが、
        「こういう内容」なのに、でも結局やっぱり、「他人と優劣を競い合うための道具」にしちゃうんだ?
        ということを他ならぬ私がしてしまっては、
        『学園棋神伝マインドル』に対する裏切りになってしまいますし、
        受け取っていただくお友達に対する裏切りにもなってしまいます。
        
        たとえて言うなら、
        「森林資源を守るために紙の使用を削減しよう」という内容の(紙の)本を出す、みたいな感じですかね。
        
        別にその点だけが中心テーマというわけでは必ずしもないのですけども、
        「マインドル」的には、そこは敏感にこだわっておきたい。
        そういうのも「込み」で『学園棋神伝マインドル』です。
        
        というわけで、
        「存在を知ってもらう機会が少ない!」という問題を抱え込むことになるわけですね。わぁいわぁい。
        が、結局それもまた「込み」で『学園棋神伝マインドル』ということなのかもしれません。
        
        せっかく同じ時代に生まれたのですから、
        ご縁のある方にはお見逃しのないようにしていただきたいという思いはあるのですが、
        「マインドル」の精神を損ねるような形でアウトリーチしようとしても
        「ご縁」からは遠ざかってしまうのではないかな。横文字が得意。
        ん?リーチアウトでしたっけ???横文字が得意。
        
        ただ、そもそも、「マインドル」に限らず、「する」か「しない」かは
        その人自身の意志のことですので、
        私としては可能な限り available な状態を保ちつつ、
        「他人事」として構えているしかないのでしょう。横文字が得意。
        死ぬ前には10年分ぐらいサーバー代とドメイン代を支払っておこう。
        
        
        ちなみに投稿サイトは大手以外にもイロイロありますし、
        探せば、中には「こだわりの条件」にマッチするところもあるのかもしれませんが、
        明確に「優劣を競うフィーチャーを否定」というポリシーを掲げているところはまずないでしょう。
        得意の霊能力にモノを言わせて簡単に感知しました。
        現時点ではそうしたフィーチャーがないとしても、技術的に可能なら実装したいと思ってたりすることでしょう。
        この私の霊能力を侮ってもらっては困ります。
        
        さらに言えば、私の「こだわりの条件」を運営者側に押し付けるわけにもいきませんし、
        結局、自分のホームページやSNSに載せるにとどめておくのが最善かなと思っております。
        あと、駅前で街頭演説もしたいところですが、
        昨今のコロナウィルスの影響を考慮し、残念ながら自粛することとします。いやぁ残念だなぁ〜。
        
        なお、これは決して、個々の投稿サイトの運営方針を批判するつもりで言っているのではなく、
        「世間の風潮」として、なんか、そういう感じがあるよね、って話です。
        
        現在の世間の風潮として、「そういうのが当たり前」になってます。
        「そういう中」で「"他者を出し抜い" て "評価" を得ることこそが "意味のあること" である」
        というストーリーに染め抜かれている。
        「ゲ制」に限らず、どこでも同じです。
        そうしたことを「疑問に感じる」ということすら、ほとんどの人はしないでしょう。
        一時的に少しばかり疑問を感じることがあったとしても、特に掘り下げることはせず、
        せいぜい「いっときの愚痴」程度の認識ですぐに忘れてしまうことでしょう。
        なぜ忘れるかと言えば、1つには、つかんでおくための認識のフレームを持たないからであり、
        もう1つには、○○○○○○○○だからです。(←念のため伏せ字にしました。霊能力で読んでください)
        空気のような存在であり、あまりに「当たり前」すぎて、「見えなく」なっている。
        しかし一度「見えて」しまうと、もはや無視はできない。
        
        おっと、ついつい「批判がましく」なりかけました。
        繰り返しになりますが、別に「そういうの」が「好きでやってる」人たちを批判するつもりはほんの少ししかないのですよ。
        個人的にあまり好きな風潮ではないのは事実で、ついつい言葉が悪くなってしまいますが、
        他の人の行動に注文をつけたいわけではない。
        ただちょっと、もしも、当たり前すぎて見えなくなっているのだとしたら、
        一度「気がついて」みてもいいのではないか、とは思わないでもない。
        
        さらに言い添えておけば、
        現在の世の中に身を置いて生きる以上、こうした風潮から完全に距離を置いて「潔癖」を貫くというのも、
        あまり現実的なことではないとも思います。
        どこかで自分なりに折り合いをつけていくしかない。
        ただ、「見えて」いる以上、「影響をコントロール」できる道を模索したいとは思うところです。
        
        
        
        で、それと少々関連することなのですが、
        私はもう「戦うゲーム」は作らないでおこうと思ってます。
        
        どこから話そうかな。
        
        少し話は飛ぶのですが、先日ですね、少々、ショック、というと大げさですが、
        「ああ、やっぱりそうなっちゃうんだ」と残念に(私が勝手に)思った事例があります。
        
        タイトルは失念しましたが、たしか何かの二次創作だとかで、
        「うどんを届けるゲーム」というのを見かけたのですよ。
        内容としては、ボタンを押すと自機から「うどんが入った丼」が「発射」されて、
        それをターゲットに当てると「届けた」ことになる、というものです。
        
        ゲーム性としてはシューティングということになるのですかね。
        フレーバーは「うどんを届ける」ということで、これは「戦い」ではないように見えます。
        
        が、「届けた=ターゲットに当たった」ときのエフェクトが「爆発」なのですよ。
        ズガーンと爆発して、丼ともどもターゲットが消滅する。
        こうなってしまうと、もうすっかり「弾を発射」して「敵」を「攻撃」するシューティングです。
        せっかく「戦い」ではないフレーバーなのに、結局こうなっちゃうのか、と。
        
        一応言っておくと、別にそういう(一般的な)シューティングが「悪い」と言ってるわけではないのですよ?
        ここで言いたいのは「うどんを届けるゲーム」であっても「戦い」の表現が選ばれている、
        という事実への着目、です。
        
        たとえばですが、これを「おいしいうどんを届けてもらって喜んでいる表現」にすることもできたはずです。
        でも、そういう表現は選ばれなかった。
        
        いや別に、その作者様には「そういうこだわり」があったわけでは多分ないのでしょうし、
        私が勝手に期待して勝手に残念がっただけなのではありますけれども。
        
        もちろん、これはあくまで一つの事例にすぎず、
        作者様の意図はわかりませんし、私はその二次創作の元ネタも知らないので、
        もしかすると「爆発」でなければならない理由が何かあったのかもしれないですね。
        
        ただ、ゲームの全般的な傾向として、
        「戦い」の表現に傾きがちという面はあるように思います。
        
        というよりむしろ、何か「戦う」要素を実装することで「ゲームを作った」ことになる、という
        これまた「空気のような風潮」がある。
        
        たとえば、何かゲーム制作講座のようなもののサンプルを想像してみてください。
        
        画面の中にドット絵のキャラクターを表示しました。
        キーボードの矢印キーを押すと移動するようにプログラムを追加しました。
        こいつ……動くぞ!
        うおおおお、なんか楽しいいいい!!
        でも、これだけでは「ゲーム」になってない。
        じゃあ「足りないもの」は何だろう?
        
        で、多分、その講座の次の章では、
        「敵」を表示するのですよ。
        
        じゃあ次は?
        「接触するとダメージ」の実装ですかね。
        
        じゃあ次は?
        「スペースキーを押すと弾を発射」ですかね。
        
        すると次はもちろん、
        「弾が当たったら」「敵」が「死ぬ」機能を実装することになるでしょう。
        
        次は
        「敵」を「殺した回数」をカウントして、「点数」を表示、でしょうか。
        
        はい。
        俄然「ゲームらしく」なって参りました。
        
        
        結局「"何かと戦う" 機能をコンピューター上に実現すること」=「ゲームを作ること」
        ということになっているようなフシがある。
        
        これはいわゆる「暴力表現」であるとか「流血表現」であるとかいうことではなく、
        見た目が「ほのぼの」とした「かわいい」系のものであっても同じことで、
        結局どこかに「互いに相容れない目的を有した」「敵」がいて
        「相手の目的を妨害しつつ」「自分の目的を達する」という内部構造になっている、
        あるいはその結果を他者と競い合うような形式になっている、ということです。
        もちろん「対戦型」になっていれば、「見た目」に関係なく明らかに「戦い」ですね。
        
        「R指定」というのがありますけど、あれはどちらかといえば「見た目」の問題ですよね。
        ここで申し上げているのは、そういうことではなく、もっと構造的な話です。
        
        で、さて「ゲームが戦い」であることの何がイケナイのかということですが……
        別に何もイケナイとは思いません。そのこと自体は。
        
        ただ、これも投稿サイトのランキングやコンテスト的なことが空気のような存在になっているのと同様、
        「ゲーム=戦う」ということが何の疑いもない当たり前のことのようになっているのは気になるところです。
        
        別に、現実と仮想の区別がどうのこうの、などと言いたいわけではないのですけども、
        そういう「敵」と「戦う」だとか「攻撃する」とか「倒す」とかいうことが
        「面白いこと・楽しいこと」なのだ、と、無条件・無意識に思い込まされてはいないか?
        だとすれば、それはちょっと、一度立ち止まって考えてみてもいいのではないか?
        
        私やあなたは、本当のところ、何を願って生きている人間なのか?
        
        誰かと優劣を比べ合うだとか、何かを「敵」にして「攻撃」したりされたりする、
        ということが、本当に「楽しいこと」なのか?
        
        「ゲーム」というものを通して、「現実の社会では許されない行為」を「娯楽なのだ」と提供される。
        そういうことが「快感なのだ」と思わされている。
        そういうことが「おまえらの本性なのだ」と思わされている。
        
        「ほらみろ、"快感" だろう? 
          せいぜい仮想世界で "発散" するがいい。
          おまえは "そういうやつ" なんだ。
          だから現実世界では、様々な決まりごとで縛ってやらないと何をしでかすか分かったもんじゃない。
          安心しろ、おまえだけじゃない。
          どいつもこいつも同じだ。
          人間ってのはそういうドウシヨウモナイやつらなんだ。思い知るがいい!」
        
        「人間という存在」に対する「信頼」を貶めようとする「底知れない悪意の声」が聴こえてきます。
        え? 私の妄想ですか? いーえ、霊能力です。どうだ参ったか。参ったと言え。
        
        はい、
        ほんの少しばかりキチガイじみた言い方をしてしまったかもしれませんが、
        私ほどの霊能力者になるとですね、イロイロと聴こえてしまうものなのですよ。ふぅ、やれやれ。
        私の悪口を言うのは誰だ! ぜぇはぁ。
        
        ただ実際問題、ゲームが必ず「戦い」でなければならないという決まりなどは存在しないわけで、
        せっかく個人制作という自由な立場で作るのですから、
        あまり他の人が掘り下げてない領域を狙ってもいいのではないかなとは思うところです。
        (↑マトモっぽい言い方をしてみた。私の悪口を以下略!)
        
        念のため申し添えておくと、別に「戦い」のゲームが悪いと言うつもりはないのですよ?
        作るのも、プレイするのも、それ自体が、何か悪いことだと言うつもりはないのですよ?
        あくまで「ゲーム」でございます。
        実際私も、常日頃から「戦い」のゲームを楽しませていただいております。
        
        「戦い」にはある種の「面白さ」があるというのは事実です。
        多くのゲームが「戦い」の表現になっているというのも必然的なことでしょう。
        
        ただ、無条件・無意識に「戦い」に(を)「しちゃってる」のだとすれば、
        そこはちょっと意識的に選べるようにはなっておきたいな、と私は思う次第でございます。
        ごはん食べるとき毎回何の疑問もなくマヨネーズを塗ってたけど、
        別にマヨネーズをつけないとごはん食べちゃダメって決まりがあるわけじゃないよね? という感じです。
        え? ごはんにマヨネーズなんてつけたことない? 私の悪口を以下略!!!
        
        というか、脱マヨならば可能かもしれませんが、
        厳密に「戦い」の要素を避けようなどと思うと、ほぼ不可能なような気はします。
        今回の『愛と哀しみの』は「戦いではない内容」として作ったつもりではありますが、
        「生命を消滅させる」などと言ってるわけで、
        考えようによっては「攻撃的」ではあります。
        え? 考えようによらなくてもそうだって? 私の悪口を以下略!!!
        
        
        世の人々が「戦い」のゲームを作ることを批判するつもりでは全くない、と、あらためて申し上げた上で、
        もう少々余談を続けさせていただくと、
        私としては、「戦うゲーム」はもうこれで最後にしよう、と、マインドルのときから思っておりました。
        
        ちなみにあれ、もともとは「対戦型ボードゲームにストーリーモードをつける」という企画でして、
        そのボードゲームはチェスにするつもりでした。
        主眼はストーリーなので、ボードゲームは無理に自作するより、
        既にゲームとして確立されているものを拝借する方が安全ですし、
        何ならAIも自作しなくて済むかもしれず、そこは「楽をしておく」つもりだったのですよ。
        ただ、ストーリー的に、(その)ゲーム(で勝ち負けを争うこと)を批判するような内容があったりするので、
        題材に既存のゲームを借用すると、そのゲームが好きな人たちに嫌な思いをさせてしまうのではないか?
        と、お馴染みの慈悲深さを発揮し、
        艱難辛苦の果てに独自のボードゲームをAI含めて用意したという、聞くも涙、語るも涙の裏話。
        結果的には、あの形になったのはベストだと思ってますけどね。
        
        えーっと、何の話でしたっけ。
        話がまとまらなくなって参りました。
        つまり「マインドル」の時点から、「戦い」ということを相対化していこう的な考えはあった、という話です。
        
        
        ただ、正直、難しいですね。「戦いじゃない」という縛りでゲームを作るのは。
        いろいろ考えた末に、今回の『愛と哀しみの』はああいう形になったわけですが、
        何かと戦っているわけではないとは言え、
        それでも上述の通り、厳密に言えば「戦い」的な要素を完全に排除できているとは言い切れないですね。
        「生命を消滅」もそうですが、そもそも、「なんらかの課題を解く」という時点で
        結果が「成功/不成功」に分離するわけで、それは結局「勝ち負け」の相似形です。
        
        一応、こだわったところとしては、
        結果をランキング的に「記録」する機能は敢えてつけなかったことです。
        また、結果を表す数値を2種類にすることで、単純な比較がしにくいようにしてあります。
        さらに言えば、いわゆる「スコア」とは違って、
        あれらの数字の「多さ/少なさ」と「善し悪し」を単純に結びつけることはしにくいのではないかと思われます。
        
        それから結果をツイッターに投稿する機能をつけてありますが、
        単に「クリアできた/できなかった」という意味づけではなく、
        「クリア」したとき・しなかったとき・「投了」したとき、それぞれの文言を、
        単純には「善し悪し」の「上下的な価値」を比較判定しにくいものにしたつもりです。
        それぞれが「選択の結果」です。
        
        ただ、どうしたって結局、純粋に「読むだけ」のノベルでもない限り、
        何らかの「チャレンジ」に対する「勝負」という要素は排除しきれるものではありませんね。
        
        その点を細かく追求するとキリがないというのも最初から分かっていたことではあります。
        純粋に厳格にこだわるなら、起動すると真っ白な画面が表示されて、
        ただひたすら座って何もせずに眺めるだけの涅槃アプリにするしかありません。
        「正解」はそれです。うん、知ってた。
        
        それを百も承知の上で、「無」ではなく「有」の側で、生きる。
        「正解」ではない。
        「間違っている」ことを承知の上で、「間違い」を生き抜く。
        「生まれてしまったのに死んでない私(たち)のリアル」はそこにこそあるはずです。
        「間違い」は「間違い」以外の何ものでもないとしても、
        「間違わないこと」が「本当の願い事」というわけではないでしょう。
        やるべきことはある。
        
        何を言ってるかわからなくなって参りました。
        あ、別に「戦い」が「間違い」だと言ってるわけじゃないですよ? 口が酸っぱい。
        
        他にも案はイロイロあります。
        「これからじゃんじゃん作ってくぜヒャッハー!」というほどの元気はありませんが、
        何か作るとすれば、「戦わないゲームシリーズ」として作っていこうかなと思っております。
        
        さしあたり次もまた、あまり規模が大きくないものを出して、
        その次に、やや大きめで、なおかつ、
        「戦いではない」ことを、私が言わなきゃ誰も気付かないレベルではなく、
        より明確に打ち出したものを考えております。
        今後のことは分かりませんが、その2つは作っておきたいかな。死ぬ前に。
        
        
        さて、今日はなんだかイロイロと批判くさいことを書いてしまいました。
        別に他の皆さんの活動に物申そうなどという意図は全くないのですけども、
        ……いや、ほんのちょっぴりはあるかな?
        あるとすれば、個人的に誰と誰と誰が、ということではなく、世間一般の風潮に対して、ということです。
        「誰かが悪い」だとか「何かをヤメろ」などと言いたいわけではありません。
        そういう中で、私は、これからどういう行動を選んでいこうと思っているか、という話です。
        言葉には気をつけたつもりですが、気分を悪くさせてしまってましたら、ごめんなさい。
        
        「ごめんなさい」と言いつつ、さりげなく「善人アピール」をしているようで卑怯くさいので、
        ここで何か1つ、悪人アピールをしておくべきですね。
        存分にこの私を憎んでいただけるよう、ご用意をしておかねばなりません。
        
        どうしようかな。何か一つ、品のないことを申し上げておこう。
        何かないかな? うんこ。
        いや、そんな投げやりな。
        うんこを投げやる。

        何かもっと陰湿なやつを。
        湿ったうんこ以外で。
        えーっと。

        よし、1つ思いつきました。なかなかの陰湿っぷり。
        これでどうだ。
        と、思ったんですけど、言えない。ぐぎぎぎ。
        いや、そこを何とか。
        えーい、ままよ。
        ○○○○○は○○○○○○○ね!!!!!!!!
        
        ぜーばーぜーはー。
        やはり私では根っからの善人すぎて、汚い言葉には宇宙パワーで伏せ字がかかってしまいます。
        霊能力を駆使して読み取ってください。
        
        
        ではまた、生きていたらお会いしましょう。
        今日もあなたが○○○○○○○○○○○に。(あっ!)
        
        
        
        
        
        
	
	
	
◆ 2020/09/22
    したこと:
        ブラウザゲーム「愛と哀しみの出口戦略」をリリース
        
        
        ああ疲れた。死ぬかと思いました。
        今度こそ死んだに違いありません。まだ実感はありませんが、きっとそういうものなのでしょう。
        この期に及んでまだ生きてるなんて、そんなバカな話があるでしょうか?え?あるんですか?
        
        というわけで全宇宙の誰にも話さずに作り続けていたブラウザゲーム、
        「愛と哀しみの出口戦略」をリリースしました。
        
        ブラウザゲームなのでリンクをクリックするとたちまちプレイ開始です。
        あなたの端末で動きますように。
        
        

        今日までこの世にい続けてしまったからこそ、このゲームができるのです。
        もはやプレイするしかありませんね。
        
        
        PCを持たないお友達のために、持ち前の慈悲深さを発揮して、
        スマホでの操作を想定してUIなどに配慮してみたつもりです。
        が、知っての通り私はスマホ持たない星人。
        なので、Firefoxの「ウェブ開発→レスポンシブデザインモード」で動作確認してました。
       
        ちなみにそのモード、画面の横幅を変えてるだけだろうと思ってたんですが、
        イベントのエミュレートやユーザーエージェントの偽装までしてくれるんですね。
        これは頼もしい!
        これほど頼もしいならば、コレで動作したなら間違いなくスマホでも動作するに違いありません。
        しなかったらFirefoxさんのせいです。だましたな!このやろ〜。
        
        とは言え、実機で一度も確認せずに公開するというのも勇者すぎる話。
        残念ながら勇者の末裔ではない私は、近所のショッピンセンターのドコモショップにお邪魔して、
        店頭のサンプルでこそっと動作確認させてもらいました。
        GalaxyだったのでAndroid系ですかね。iPhoneは未確認。
        
        なお、できる限りご迷惑にならないよう、迅速に作業を済ませるべく、
        URLを仕込んだQRコードを印刷して持参です。この私の思慮深さには驚かされるばかりですね。
        
        
        スマホ持たない星人ゆえにQRコードの読み取り方から分からなくて死ぬかと思いましたが、
        天性のITセンスに物を言わせてアクセスに成功。
        
        ちょっとボタン押しにくいところもあるかな?
        しかしスマホ自体のUIのボタンだって似たようなものなので、大体こんなもんなのでしょう。
        なんやかんやと1ゲーム回せたので動作自体には問題ないと判断いたしました。ドキドキ。
        
        運の良いことに、ちょうどそのとき、適度に混んでてですね、
        店員さんが全員、他のお客さんに掛かり切りになっててですね、
        おかげさまで店員さんの目を気にすることなく存分に動作確認ができたのでした。
        これぞまさに宇宙意志のはからい。
        「このゲームを無事にリリースせよ」との宇宙規模の霊的合意がここに顕現したのです。
        これ以上ないほどの「動作確認」と言えましょう。やったね!
        
        
        内容的なことについてですが、
        要は「飛び越えて消す系のソリテア型ボードゲーム」ですね。
        そこに「意味を語らせる」過程で少々複雑になってしまったかなという反省はあります。
        チュートリアルで大枠をつかみつつ、実際はプレイしながら覚えてもらうしかないかな(がんばって!)
        いろいろ紆余曲折があって、極力シンプルにまとめたつもりではあるのですけども。
        (ちなみに最初は数字いじり系のシミュレーションゲームでした)
        
        「練習ステージ」のようなものも用意しようかという考えも浮かんだのですけども、
        命がいくつあっても足りないので、今回はこういう形でのリリースといたしました。
        今後、宇宙意志の思し召しがあれば追加することもあるのかもしれません。

        ちなみに設定で「駒の移動方式」を「ドラッグ」にしておくと、
        精神で飛び越える前に、「どの生命が消滅するか」を事前に確認できます(黄色い四角が出る)。
        スマホだとやりづらいと思いますがPCならば。「マウスオーバー」ってのがないんですよねスマホだと。
        
        
        バランスに関しては、(一部の惑星を除いて)比較的ユルく遊べる感じにしたつもりではあります。
        私の大ファンでありながらPCを持ってないばかりにマインドルができなかったお友達や、
        普段ゲームしないお友達にも満遍なくお楽しみいただけますように。
        あと、一部の惑星はガチガチのバランスにしたつもりですので、
        腕に覚えのあるお友達もご満足いただけるハズであります。
        ちなみに、クリアまではできなくても
        プレイ後に「プレイした意味」を味わっていただける仕掛けを入れたつもりだったりもします。
        
        あと何かなかったかな。
        他にもイロイロとですね、あったハズ。
        何しろずーっとご無沙汰していただけに、
        積もる話が堆積しまくって化石になってる感じです。掘り出すところから一苦労。
        続きは次回にしようかな。そろそろ死にたくなって参りました。
        
        あっ! そうだ、死ぬ前にこれだけはお話しておこうかな。
        今回のゲームは「戦いではない」ものとして作りました。これは重要な点です。
        では、そのへんのことを含めて、次回(生きてれば)ゆっくりと大長編でお送りしようと思います。お楽しみに〜。
        
        というわけで、取り急ぎ、リリースの報告でした。
        
        あっ! そうだ、これも死ぬ前に言っておかなければ!
        
        今日もあなたが幸せでありますように。(超久しぶり!)
        
        
        
        
        
        
        
◆ 2020/07/05
    したこと:
        「自殺」を扱うサブカル作品ネタバレ感想のまとめページを作成
        
        取り急ぎ報告まで。
        
        ネタバレ感想は今までこのテキストのページに書きためてきたわけですが、
        ここは「私が書き殴りやすいこと」を優先してpreタグの中に書いておりまして、
        このままだとブラウザの横幅を変えても改行しないので可読性に問題があるかな、
        というわけで保存版として専用のページを設けねばならぬと思っていたのです。
        
        ・その他 > 「自殺」を扱うサブカル作品ネタバレ感想集
        
        気付いた範囲で日本語がおかしかった箇所をこっそり微修正などしつつ、
        内容は以前このテキストのページに書いたものと同じです。
        自慢のスタイルシート技を惜しみなくつぎ込んで優美華麗なページに仕上がりました。
        ぜひ改めてご鑑賞くださいませ。
        ひとたびブラウザの横幅をウネウネ変化させてみれば、
        その流麗なレスポンシブっぷりに病み付きになること間違いなしです。
        
        というかスマートフォンでご覧になるお友達を意識したのですよ。
        横幅が狭い画面でもいい感じに読めますようにというイキな計らい。
        ご存知の通り私はスマートフォンを所有しない星人なので確認できないのですが、
        得意のイマギナティオーンで皆様の喜ぶお顔を明瞭に霊視しておりますので頑張ってご安心することにします。ドキドキ。
        
        
        あと、ついでに学園棋神伝マインドルの自殺関連ルートの攻略情報も少しだけ載せました。
        ついでと言うか、むしろこれが目的だったというのは公然の秘密ですが、
        「自殺」という入り口でご興味をお持ちいただいたお友達が
        初回プレイで別のルートに入っちゃったりすると申し訳ないので、
        最低限どのルートを狙えばいいのかは明かしておくべきかなとは思っておりました。
        加えて、該当ルートに入るまでの序盤のウォークスルーぐらいは
        見たい人は見れるようにしておいてもいいかなという感じです。
        それから、マインドルの試合で勝てないという衆生の嘆きのお声がしばしば聞こえてきておりましたので、
        それに関しても少しばかりケアを。
        プラス、エンディングのコンプを目指す場合、
        難易度的にほんのちょっとだけ理不尽みが滲み出てきてしまうかな、という反省もあり、
        そのあたりのヒント的なものも書いておきました。
        少しだけと言いつつ、なかなか至れり尽くせりですね。まさに揺りかごから墓場まで。墓場とは何だ。ドキドキ。
        
        本当は今頃は世間を席巻する超大人気ゲームになっていて
        ネットも街角もマインドルの話題で持ち切りになっていて
        少し検索すれば情報サイトがわんさか飛び出すお便利環境が出来上がっているハズなのですが、
        そういう状況が完成するにはまだほんの少しだけ時間がかかりそうですね。
        仕方がないので持ち前のサービス精神を発揮して微力ながらアシストさせていただいた次第です。
        
        ふと思ったのですが、スマートフォンって背景と同じ色の隠し文字を選択して反転させて読む操作ってできるんでしたっけ?
        攻略ページは「見たい項目を反転させて読んでください」という由緒正しい伝統的仕様にしたのでした。
        今検索してみたところ、iPhoneだとやりにくいそうではありませんか。スマートじゃないじゃん。コノヤロ〜。
        頑張ってJavaScript仕掛けの表示/非表示切り替えボタンもつけた方がいいのかな?
        残念ながら今はそんな元気はありません。
        マインドルをプレイするお友達はパソコンをお持ちのハズなので多分大丈夫のハズ。
        
        
        さて、前々から気になってた件もこれで片付いたことですし、次は何をしようかな? 死のうかな? ウキウキ。
        生きていたらまたお会いしましょう。
        今日もあなたが幸せでありますように。久々に言った。
        
        
        
        
        
        
        
        
        
◆ 2020/06/10
    思ったこと:
        アニメ映画『スーサイド・ショップ』ネタバレ感想
        
        
        「自殺」を扱うサブカル作品の感想シリーズ5回め。
        今回はフランス製のアニメ映画『スーサイド・ショップ』を視聴しました。
        「スーサイド」なんてカタカナで言うと、
        「シーサイド? 海辺?」ってな軽い印象になってしまいますが「自殺(suicide)」ですね。
        原作の小説があるらしく、邦題は『ようこそ、自殺用品専門店へ』とのこと。
        
        さて、フランス製ということで、「自殺」の取扱い方に文化の違いが見られるか……?
        と興味を持って視聴してみたのですが、
        その点に関しては本邦と大きく違うところはないようです。
        あくまでも「死=悪」「生=良」であり、
        どこまでも「自殺=暗い・苦しい・無気力・絶望・不幸」であり、
        ただ単純に「生きる=明るい・楽しい・意欲的・希望・幸せ」です。
        日本のアニメ以上にデフォルメされた絵柄とも相俟って、
        固定観念の嫌味なほど忠実な戯画化が見られます。
        表現上のセンスの違いは文化の違いでしょうか。
        
        タイトルからもわかるように、自殺志願者向けの自殺用品を売る店の話です。
        この設定だけを見ると自殺に肯定的か、と見せかけて、
        結局は自殺をヤメて「明るく楽しく」せよ、という内容です。
        展開はかなり強引。
        理屈もドラマも何もありません。
        なぜ自殺がダメなのか、なぜ生きるべきなのか?
        それ以前になぜ自殺したいのか? なぜ生きたいのか?
        何の説明もないまま、
        「明るく楽しい」子供のイラズラで
        「暗い」自殺用品店が「明るい」クレープ屋に変わってしまう。
        お説教とさえ言えない。
        精一杯言葉を選んで言うと、見終わった直後の印象は「は?」です。
        
        「無邪気な子供の影響で、絶望していた大人が生きる意欲を取り戻す」などと言えば
        いかにも何かハートフルな物語のように聞こえてしまいそうですが、
        全然そういう感じはしませんでした。
        ハートフル以前にハートがない。
        ただ単に戯画的な「暗い大人」と「明るい子供」が出てきて、
        子供が大騒ぎをして「暗い大人」が「明るく」変わる。それだけです。
        ハートフルどころかハートレスと言った方が良さそうです。
        
        子供向けのアニメとして敢えて小難しい要素を除外した結果、
        こうなってしまったのでしょうか?
        そもそも子供向けなのか?
        そのあたりの文化的な背景については、よく分かりません。
        
        やはり海外製ということもあって、
        絵柄や表現方法は本邦で見慣れたアニメと比してかなり異質であり、
        実際のところ「どういうつもり」なのかという
        「距離感」が今ひとつ分からないのは認めざるを得ないところですね。
        
        自殺のホラー的な印象を利用したブラック系のネタをやりたかったのか?
        それとも「良い子は自殺しちゃイケないよ」とでもいうような
        教育的なアニメをやりたかったのか?
        
        陰鬱っぽく描かれる自殺志願者たちよりも、
        始終ニヤニヤしている子供(アラン)の方がむしろ不気味に見えてしまいました。
        自殺志願者の内面に寄り添う姿勢を1ミリを見せず、
        強引に「明るさ」を押し付けるさまは冷酷ですらある。
        「子供」という立場を免罪符にして振るわれる「笑顔の暴力」。
        
        もしかすると、そうした逆の意味のジョークと言いますか、
        皮肉を込めた表現だったのでしょうか。
        あるいは見慣れない絵柄ゆえにそう見えてしまうだけなのか。
        ……などと思わず深読みしたくなってしまうのは、
        そうでもしなければ気持ちが置いてけぼりになるほど、
        「は?」という印象を覚えてしまったということでもあります。
        
        あまり批判的なことを言いたくはない……という以前に、
        批判する気にすらなれないというのが正直なところです。
        「釣り」なのではないかとさえ思えてしまう。
        
        それなりの制作費をかけた「アニメ映画」ではあり、
        はるばる海を越えて日本にまで紹介されているというのは、
        一種の文化的・社会的な「現実」ではあります。
        
        この『スーサイド・ショップ』という作品そのものを批判するかしないかという以前に、
        こういうものが存在しちゃってる、というこの「現実」をどう受け止めるか?
        その点にこそ、「自殺」を巡る我々のリアルがあるのではないかという気がいたします。
        
        
        ちなみに小説版は読んでおりません。
        批判がましいことを書くなら読んでおくべきか? とも思いましたが、
        正直ちょっと、そこまでしているといつまでたっても感想が書けないと申しますか、
        今回は敢えて読まずに「純粋に映画版だけの感想」とさせていただくことにしました。
        (最近は図書館も気軽に出入りできないし……)
        
        ところで小説には『ようこそ、自殺用品専門店へ』という邦題がついているのに、
        映画版は『スーサイド・ショップ』などという
        軽いカタカナ語にしてしまったのはなぜなのでしょう?
        タイトルだけで自殺がテーマということが分かる日本人がどれだけいらっしゃるか?
        「自殺」という単語を避けて軽い印象にするために、
        わざわざカタカナにしたのではないか……というのは深読みしすぎでしょうか。
        良し悪しはさておき、何らかの「配慮」があったのではないかと想像いたします。
        
        
        
        
        ■ あらすじ(ネタバレ)
        ----------------------------------------------------------------------------        
        
        ※敢えて登場人物等を絞り、ストーリー全体の主軸と思われる要素だけを記述します。
        
        
        高い自殺率を誇る陰鬱な街。その一角に「自殺用品専門店」は存在する。
        自殺したいけれど失敗が怖い。そんな自殺志願者向けに、首吊り用のロープや毒薬など、
        確実に死ぬためのグッズを販売している。
        
        店主のミシマ。
        先祖代々続く自殺用品店を受け継いで、懸命に店を切り盛りしている。
        
        娘のマリリン。
        自殺用品店の一員として、人生に悲観的な態度を持つようミシマ夫妻に育てられた。
        
        ミシマは責任感を持って店を続けていた。
        死に救いを求める人々の手助けをする。この店は自殺志願者の多いこの街に必要な存在だ。
        しかし実は、人を死なせることにストレスも感じており、精神的には限界だった。
        
        そんなある日、ミシマの一家に末弟のアランが誕生する。
        アランはなぜか生まれつき天真爛漫。
        一家の教育方針に反し、生きる意欲に満ちた少年へと成長する。
        
        アランは人々が自殺をすることを良く思わず、
        製品に細工をして客の自殺が失敗するように仕組むなど、店の邪魔ばかりする。
        
        アランは何とかして人々に自殺をヤメさせようと計画を立てる。
        ある日、店の前で巨大なスピーカーを使って賑やかな音楽を大音量で鳴らした。
        振動で商品は全て棚から落ち、店は崩壊。売り物が無くなり営業が続けられなくなる。
        
        一方、その賑やかな音楽の影響で、たまたま店に客として来ていた青年とマリリンが恋に落ちる。
        2人は生きる意欲を獲得するのだった。
        その様子は周囲の人々にも影響を与え、店はクレープ屋にでも改装してはどうかという話になる。
        
        しかし店主のミシマは怒り狂い、刃物を持ってアランを追いかける。
        追い詰められたアランは「お父さんを笑わせたい」と言ってビルの屋上から飛び降りる。
        我に返り、絶望するミシマ。
        しかしビルの下ではアランの友人たちが待ち構えていた。
        飛び降りは父を驚かすためのイタズラだったのだ。
        アランが死ななかったことにミシマは安堵する。
        
        その後、店は人生を謳歌する人々が集う明るく楽しいクレープ屋として再出発するのだった。
        
        
        
        
        ■ 「自殺」への深い理解を思わせる点
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        全体の筋書きとしては(実に粗雑な形で)自殺を否定し、
        生きることを無邪気に賛美するという、ただそれだけ、のものですが、
        一見して「自殺」への深い理解を思わせる点もあります。
        
        まずは「自殺用品店」という設定ですね。
        一般に自殺志願者が自殺をためらう大きな理由の一つは
        「失敗するかもしれない」という不安です。
        痛みや苦しみを味わうだけになってしまうかもしれない。
        障害が残ってしまうかもしれない。
        死ぬのは決して簡単なことではない。
        
        自殺に否定的な人の口からは、
        「そんなに死にたいならさっさと死ねよ」
        「死なないってことはどうせ本気じゃないんだろ?」
        などと、自殺が簡単なことであるかのような言説が飛び出しがちであるというのはご存知のとおり。
        一方、死ぬのは決して簡単ではないということは、
        死ぬことを少しでも現実的に考えたことがあれば理解できるところでしょう。
        
        したがって「自殺用品店」という設定自体が、
        「自殺」ということに対する一定以上の「理解の深さ」を物語っていると言えます。
        
        
        それからもう一つ。
        「自殺用品店」のようなものを営んでいながら、
        店主のミシマ氏やその家族が自殺しないという矛盾。
        これに関しては作中で明確に述べられている箇所があり、
        その答えは
        「自殺志願者を手助けする存在として、自分たちは店を続けねばならないから」です。
        自殺を肯定し手を差し伸べる者は、
        だからこそ最後まで生きていなければならないというパラドックス。
        これは非常に興味深いですね。
        このようなジレンマが提示されているということは、
        「自殺」に対する一定以上の思慮の蓄積を物語っているのではないか。
        
        
        しかしその後の展開は、
        ただひたすら粗雑に「明るく楽しく」自殺否定・人生賛美に走ってしまうというのは前述のとおり。
        このギャップは何なのか。
        
        ミシマ氏たち自身が自殺しない件に関しては、
        「自殺用品店」という「ネタ」を思いついた後に
        「ツッコミ対策」として後付けで考えただけだったりするのかな、とも推測します。
        
        
        
        
        ■ 「明るく楽しく」で「自殺」がなくなるのか?
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        本作で末弟のアランが行った「自殺問題」の「解決策」は
        「アップテンポの音楽を大音量で無理やり聴かせる」でした。
        この「騒音」の音波で「自殺用品店」は崩壊し、客と店員が恋に落ち、
        その場にいた人々の自殺願望が消えるのでした。
        
        どんちゃん騒ぎと衝動的な恋愛。
        
        あまりにも乱暴過ぎます。
        これはちょっと、いくらなんでもノーガード過ぎて、つっこむ気にもなれません。
        
        「自殺」に対する無理解さ・無神経さもさることながら、
        これでは、ここで称揚されている「生」すら軽薄で狂気じみたものに見えてしまう。
        むしろアランこそ、
        世間の少なからぬ人々が「自殺」を理解しようともせず
        表面的なお説教でお気楽に善人ぶる様子を皮肉ったキャラクターなのではないか……
        と深読みしたくもなってしまう。
        
        長女のマリリンと恋に落ちる客ですが、名前を尋ねるシーンがあります。
        つまり、お互いに名前も知らない初対面であったことがわざわざ示されているのです。
        場当たり的な恋愛。
        さりげない点ですが、この描写の細かさは一体何なのか?
        「自殺対策」の粗雑さとのギャップや如何に。
        やはり「わかっていて」ワザとやっているのではないか……
        と深読みしたくなってしまうところです。
        
        アランの暴力的とすら言える「自殺対策」の後、
        店主のミシマが怒るのはむしろ当然と感じます。
        ここで店主のミシマまでも簡単に籠絡されてしまうようでは、
        いくらなんでも「見どころ」がなさすぎるというものでしょう。
        白昼の街を舞台に刀を振り回してアランを追いかけるシーンはアニメの絵的には面白かった。
        ちなみにミシマというキャラ名は三島由紀夫から取ったそうです。
        日本刀のアクションシーンは制作者の趣味なのかもしれません。
        
        しかし、ミシマの心変わりの顛末である、
        「アランが自殺のフリをして、死んでないことに安堵して、怒りを鎮める」
        については、どう解釈したものでしょう?
        
        よくある「悲しむ人がいるのだから自殺するな」の一種ということでしょうか。
        それに関しても、
        じゃあ悲しむ人がいない場合はどうなのか、とか、
        人間関係が自殺の原因である場合は、とか、
        その人が自殺志願者のその後の面倒を見てくれるのか、とか、
        数多のつっこみどころが放置されすぎていて、
        これまたあけっ広げなノーガードにツッコむ気が失せてしまうところです。
        
        ミシマが自殺幇助という自分の生業にストレスを感じていたことが事前に描写されていますので、
        店をたたむ決心をするためのプロセスとしては妥当な展開と言えばそんな気がしなくもありません。
        しかし、汚れ役であることを承知の上で覚悟を決めて営んでいた筈じゃないのか。
        その覚悟はどこへ行った。
        
        あるいは、
        「自殺者を手伝う商売をしていても、やっぱり自分の身内が死ぬのはイヤなんでしょ」
        という意味なのでしょうか。
        それに関しては前述の通り、序盤で触れているシーンがあり、
        自分たちは自殺者を手伝う家業を営んでいるのだから、
        その自分たちが死ぬわけにはいかない、と回答しています。
        アランが「死のうとする」場面で、そのことを一言も言わないのはどうしたことなのか。
        それ以前に刀で「殺そうと」しちゃってるのだから、すでに正気ではないということか。
        
        登場人物が何も考えていないかのようです。
        こんなので本当にいいの?
        思想的な矛盾というより、作りが「適当」なのではないかとさえ思えてしまう。
        
        
        ちなみにミシマ以外のキャラ名も実在の人物から取っているのだとか。
        長女のマリリンはマリリン・モンロー。
        アランは数学者のアラン・チューリング。
        あまり出番がありませんが長男のヴィンセントはヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。
        全員、死因が自殺とされている有名人ですね。
        ストーリーや登場人物の言動の「いい加減さ」が目についてしまう一方、
        こういう凝った設定もあって、制作者が何も考えてなかったとは思えないのですが……。
        
        あるいは、むしろ、当方の想像を絶するほど「軽く」考えていたからこそ、
        「自殺」を「ネタ化・キャラ化」してしまったということなのでしょうか。
        だとすると、ここにはある種の
        「文化の違い」と呼ぶべき何かが潜んでいると考えるべきなのかもしれません。
        いや、単に何も考えてないだけ?
        依然として消化不良の違和感が残ります。
        
        
        
        
        ■ 自殺をヤメさせるのは「商売」の問題なのか?
        ----------------------------------------------------------------------------
        
        終盤、店をクレープ屋に改装した後、
        「ポイントカードを作ろう」と言い出す場面があります。
        
        つまり、今までは客は死んでしまうので二度と同じ人が来店することはないが、
        クレープ屋ならリピーターが来る可能性があるから、ということのようです。
        素直な心で見れば、「生=未来」に向けた「前向き」な発言のように聞こえるのですが……。
        
        一般的に、自殺をバッシングする風潮に対して、
        「自殺されると資本主義における搾取対象がいなくなって困るからなのではないか」
        という疑惑が存在することを思い出してしまいます。
        つまり、生きてる人間の方が「金づる」になる、というわけです。
        これは安楽死や終末期医療の是非に際しても指摘される問題ですね。
        自殺関連の議論に少し首を突っ込んだことがある人なら、
        そうした疑惑を一度も耳にしたことがないとは考えにくい。
        あるいはフランスではまた少し違うのでしょうか。
        
        この「ポイントカード」発言は、
        そうした疑惑を分かった上で敢えて言っている「辛口のジョーク」なのか、
        それともやはりこの映画自体が「皮肉」なのか、
        はたまた実はやっぱり「何も考えてない」のか。
        あるいは「子供向けだから」なのか。
        
        やはり「距離感」が分かりません。
        
        
        
        
        ■ ラストの解釈・ミシマは自殺幇助業を続けているのか?
        ----------------------------------------------------------------------------
        
        自殺用品店がクレープ屋に変わってしまう、というのがストーリーの大筋ですが、
        最後に、以前の客が再訪し、毒薬を渡して帰らせるシーンがあります。
        
        その客は以前首吊りロープを購入したのですが、
        そのロープにはアランの「イタズラ」で切り込みが入れられていたため、
        体重を支えられずに切れてしまい、自殺が失敗してしまった。
        そのため店を再訪したのですが、店はすでにクレープ屋に変わってしまった後。
        店の様子に驚きつつ客は「青酸カリ入りのクレープ」を注文。
        ミシマは家族にはバレないように店の奥からこっそりと商品を持ってきて客に無償で渡す。
        客は店の外でそれを食べて絶命。
        
        これは、表向きはクレープ屋になった後も
        自殺志願者へのサービスは続けているということでしょうか?
        映画の序盤では自分たちの家業の意義をさんざん語っていたのですから、
        表の顔はさておき、思想を貫徹する態度を見せてくれているのは
        「筋が通っている」感じはいたします。
        
        しかし、この場面の直後に、前述の「ポイントカード導入」の話が出てくるのですよ。
        そもそもこの客は新規の顧客ではない。
        つまり、自殺用品店の客は、満足させたら二度と来店しなくなるが、
        クレープ屋の場合は満足させれば再来店する可能性がある。
        この客は、その対比として登場させられただけなのではないか。
        
        やはり、自殺志願者を相手にするのはビジネスとして儲からないぞ、と、
        そういうことを表現して(してしまって?)いるシーンのように見えます。
        だから「自殺を推奨しない方がいいぞ」と純粋に言いたいだけなのか、
        あるいは底意地の悪いジョークなのか。
        
        このシーンは、再訪した昔の客を追い返しているようにも見えます。
        いくら「明るく」振る舞っていても消えることなく存在する「死」の現実を、
        まるで汚らわしいものであるかのように「追い返す」。
        もうこの街には「死を求める人」の居場所はない、というわけです。
        
        その後、映画は生を無邪気に賛美する歌とともに終幕となるのでした。
        
        
        
        
        ■ 現代の「踏み絵」としての「自殺を巡る価値観」
        ----------------------------------------------------------------------------
        
        敢えてもう1つだけ、野暮を承知で「ツッコミ」を。
        一般に「自殺」と一口に言っても、そこに至る経緯や内実は人によって様々です。
        この映画の中では意図的なのかどうなのか、
        個々の自殺(志願)者の「事情」が完全に省略されています。
        それを単なる「明るく楽しく」という気分だけで一時的に死ぬ気をなくさせたとしても、
        問題の対処方法としては表層的に過ぎる、とは言っておきます。
        
        
        その他、思わずツッコミたくなる箇所や意図を把握しかねる箇所は多々あるのですが、
        多々ありすぎるので書くのは諦めます。
        ツッコむべきなのか、ジョークなのか、
        皮肉なのか、子供向けとして敢えて単純化しているのか……
        前述したとおり「距離感」をつかみかねる。
        そんな映画でした。
        
        むしろ、この「よくわからない」中で勢いに任せて「同意」を「迫られる」。
        そういう「気持ち悪さ」を感じます。
        
        この「わからなさ」は文化の違いや表現方法の違いから来るものなのかどうか?
        
        全体としては大雑把に「自殺否定・人生賛美」のように見える。
        それ以外の「わかりやすい解釈」を見つけるのは難しいと感じる。
        しかし何かがおかしい。否定しようのない、この違和感。
        
        ネットで他の人たちの感想を検索してみたところ、
        おおむね好意的な言葉が多く見られます。
        しかし手放しで大絶賛、というものは私が見た範囲ではなかったように思います。
        その一方、言葉を濁しつつ、あまり好きにはなれないという旨の声も散見されます。
        
        おそらくですが、私以外にも少なからぬ人々が、
        この違和感を感じているのではないかと想像いたします。
        表面的には「自殺否定・人生賛美」という姿をしている。
        だから、大っぴらに批判するのは憚られる。
        この映画は「いい話」なのか? 答えなんて決まってる。
        そう、「決まってる」のです。この違和感!
        
        つまりこれは「踏み絵」です。
        それも、底意地の悪さたっぷりに突きつけられる「踏み絵」です。
        
        「自殺なんてイケナイよね? 人生はスバラシイよね?! もちろんキミもそう思うデショ?!」
        
        露骨に不気味に嫌味に、皮肉たっぷりにそう迫ってくる。
        君たちの言う "いい話" ってのはこういうのなんだろ? 
        まさか "違う" なんて言わないデショ? ギヒヒ!
        とでもいうかのようです。
        理屈っぽいお説教よりもはるかに「イヤラシイ」と感じます。
        
        本家フランスでの評判や、
        製作陣の本音がどこにあるのかは分かりかねるところではありますが、
        少なくともここ日本においては、
        この映画はそういう「踏み絵」のような存在になってしまうのではないでしょうか。
        
        この映画は「いい話」なのか?
        いいや違う。この映画を「いい話」だと言わねばならぬという空気圧が存在する。
        それが現代の我々が身を置いている「世間」であり、
        まさにその「世間」の中で少なからぬ人が「生きにくさ」を感じ、
        そして本当に旅立ってしまいさえする。
        
        これは「自殺が良いか? 悪いか?」という単純な話ではありません。
        この命題自体への答えは一概に決められるものではないでしょう。
        しかし個々人が納得の行く答えを模索する以前に、社会の側からの強力無比な圧力がある。
        
        この映画自体にそうした意図があるのかどうかということではありません。
        誰かがそうした意図を持ってこの映画を世間に広めたのかどうかということでもありません。
        私たちが身を置いているこの世間において、
        「"自殺" に対する価値観」を巡って「踏み絵現象」が起きる。「魔女裁判」が執り行われる。
        何か居心地の悪さを感じつつも、決まりきった答えを口にすることしかできない。
        この世の私たちを縛る、得体の知れない社会的な作用がある。
        この映画がこうして存在すること自体を通し、そのことが浮き彫りになるように思われます。
        
        
        
        
        
◆ 2020/05/31
    思ったこと:
        マンガ『自殺島』ネタバレ感想
        
        
        自殺を扱ったサブカル作品のネタバレ感想シリーズその4。
        今回はマンガ『自殺島』です。
        以前からタイトルで気になってましたが、嫌な予感がしてリアルタイムでは読んでませんでした。
        で、今回読んでみた感想としては、大体予感通りだったとは申し上げておきます。
        
        本作は約8年にもわたって商業誌で連載された全17巻という非常に分量の多い大作です。
        商業作品としてこれだけ巻数を重ねたということは、一定以上の人気があったものと思われます。
        実際、以前ゲオの貸本コーナーの人気順の棚で上位の位置に並べられているのを見かけたことがあります。
        だからこそ「嫌な予感」がしていたわけです。
        「自殺」という一般的にはネガティブな印象を与える単語をタイトルに掲げつつ人気を博した。
        これはどういうことか? ある程度お察しできるところではあります。
        
        「自殺」を扱うサブカル作品にありがちなパターンというものがあります。
        たとえば自殺を何かおどろおどろしい猟奇的な事件の一種としてエンタメのネタにする、というパターン。
        あるいは自殺を図る人物を精神的に弱い人間として描き、お説教のネタにする、というパターン。
        本作はどうかと言えば、見事に後者のお説教系に該当します。
        
        大まかに言えば現代人が無人島に流されてサバイバルをするという娯楽マンガであり、
        純粋に漂流記モノとして楽しめる内容ではあります。
        文明から隔絶された環境に突然放り込まれる戸惑い。
        自然の美しさと厳しさを体感しながら仲間たちと協力して如何に生き延びるか?
        閉鎖空間での友情、対立、そして恋愛。
        随所にサバイバルの薀蓄が掲載されており、真実味のある描写は読みごたえ抜群です。
        
        しかし、とにかく説教くさい。
        マンガの表紙付近などに書かれている紹介文を読めば分かると思いますが、
        自殺志願者は社会の邪魔になるから無人島に追放してしまえ、というところから始まる「漂流記」です。
        「自殺を図る者=精神的に弱く道徳的にも間違った人間」という発想が通底しており、
        そうした人物をサバイバルを通して更生させる、という露骨な意図を感じずにはいられません。
        
        先述の通り、漂流記モノとしては非常に「面白く」読める内容です。
        「自殺=悪」というのは大方の社会通念には沿ったことであり、
        その点に違和感を持たない人にとっては、
        うまい具合にスパイスの効いた大変おいしく読める長編マンガではないかと思われます。
        商業誌で長期連載されていたことも頷けるというものです。
        
        しかしそうした「自殺」に対するスタンスに違和感を覚える読者にとっては
        まさに「読むに耐えない」ものと思われます。
        なにしろ冒頭からイキナリ自殺志願者は国の厄介者だというバッシングから始まりますからね。
        いや、むしろ冒頭にそうした攻撃的とすら言える批判的なメッセージを入れておくのは、
        「この漫画はそういう趣旨のものなのだから苦手な人は読まないように」
        という親切心による警告だったりするのでしょうか?
        だとすれば、わざわざ最後まで読んでしまった私は、
        たとえて言うならエロが苦手なのにわざわざエロ漫画を読んで立腹しているような野暮な存在かもしれませんね。
        
        商業作品である以上、あまり社会通念に反した内容を描くことはできないという都合はあるでしょう。
        その点を差し引いた上で最後まで目を通してみた次第ですが、
        やはり最後まで一貫してスタンスが揺らぐことはなかったことを報告しておきます。
        (特に終盤は "総仕上げ" とも言える露骨な内容でした)
        
        もちろん漫画など好きに描けばよく、読みたい人だけが読めばいいのであって、
        読みたくない人は読む必要は1ミリもありません。
        その意味で、序盤で方向性が明確化されているのは親切設計とは言えますね。
        
        とりあえずまとめると、
        いわゆる一般的な社会通念で言うところの「自殺=悪」という考え方に対して
        違和感をまったく感じない人にとっては純粋に楽しめるものと思われます。
        
        一方、
        
        「苦しい思いをしてまで生き永らえたいとは思わない」
        「死にたくなるほど追い詰められるのは社会の側にも原因がある」
        「いずれ必ず死ぬのに生き続けることに意味があるとは思えない」
        「生きたいか死にたいかは人によって違うのだから個人の意志を尊重されるべきだ」
        「たとえ死を望んでいても死の恐怖や苦しみが消えるわけではなく、生まれてしまったこと自体がうらめしい」
        「親の都合で生まれさせられたのに、感謝を強要されるのは理不尽だ」
        「子供本人に同意が取れるわけではないのに勝手に子供を生み出し、生きることを強要するのは不道徳だ」
        
        などなど、列挙すればキリはなく、細部に賛否はあるとは思われますが、
        「生」を無批判に良しとする価値観が疑問に思えるという
        (私に言わせれば当然の)感覚をお持ちの方にはまったくオススメできない内容です。
        随所に「考えさせる」ような要素もあり、真面目に読んじゃうお友達もいらっしゃるかもしれませんが、
        無理に読む必要はまったくないと思われます。
        
        以下、ネタバレ満載で感想をお届けいたします。
        純粋に楽しんで読む予定の方はお気をつけください。
        頑張って読んでしまった後、腑に落ちない思いを抱えている方や、
        漫画自体を実際に読む気にはなれないけどタイトルで気になっていたという方の参考情報となれば幸いです。
        
        
        
        
        ■ あらすじ(ネタバレ)
        ----------------------------------------------------------------------
        
        「自殺島」と呼ばれる特別自治区の孤島がある。
        自殺未遂を繰り返す者は「生きる義務」を放棄したことにより
        国民としての資格を剥奪され、その島へ追放される。
        
        主人公のセイもその一人。
        社会に馴染めず、将来への希望が持てず、
        自殺未遂を繰り返した挙句、「自殺島」へと放逐されてしまった。
        
        文明から隔絶された環境へ突然放り出され絶望するも、
        同時に島へ流された仲間たちと協力し、サバイバルをしながら生き延びていく。
        共同生活や狩猟を通し、仲間と助け合って生きていく喜びや自然の摂理を体感。
        セイは次第に生きる意志を取り戻していく。
        
        自殺未遂をするに至った経緯は人それぞれ。
        他のメンバーは必ずしもセイと同じように生きることに前向きになるわけではなかった。
        それでも大半のメンバーは仲間との共同生活や狩りを通して自然の摂理に触れることで、
        それぞれに心境が変化し、島での生活に希望を持つようになっていく。
        しかしセイの親友だったカイはセイとは相反する思想を持つようになり、
        他のメンバーに対して自殺幇助を繰り返すようになる。
        事態を重く見たセイたちは、カイをグループから追放するのだった。
        
        セイたちは自然の中で喜びを感じながら穏やかに生活を続ける。
        だが平穏は続かない。
        島にはセイたちの他にもグループが存在する。
        そのグループのリーダーであるサワダは好戦的な人物。
        セイたちのグループとの間に対立が生じる。
        しかし元薬物中毒者のサワダは「刺激」を求めており、和解に応じようとはしない。
        殺さなければ殺される。生きるためには殺さなければならない。
        対立は次第に激化し、全面戦争となる。
        以前グループから追放したカイがサワダの参謀となっており、争いは熾烈を極めた。
        互いに多くの犠牲を出した末、ついにセイたちはサワダを死に追い込み、戦いは決着を見る。
        両グループの間で争いを繰り返さないための取り決めが交わされ、ようやく平穏が訪れた。
        
        その後、出産や結婚といったイベントもあり、島で平穏な生活が根付いていくかに見えた。
        だが、監禁していたカイが脱走し、グループのリーダー格の人物を殺害。
        さらにセイの恋人を人質に取って山に逃げ込む。
        カイの要求はセイの命。
        中心人物であるセイを殺すことでグループを崩壊させ、さらには島の人間を皆殺しにしようとしていたのだ。
        すべての命を否定し、その後、自分も死を選ぼう。
        自分の思想を貫徹しようとするカイにセイが立ち向かう。
        愛する人を守るため、元親友のカイを、セイは島の生活で身につけた弓矢の技で射殺するのだった。
        
        その後、島に本土から船が到着。
        政府が政策を見直し、「自殺島」が「開放」されたことが告げられる。
        しかしセイたちは島での生活を続けることを選ぶのだった。
        
        
        
        
        ■ このマンガでの「自殺せずに生きる理由」のロジックまとめ
        ----------------------------------------------------------------------
        
        いわゆる「自殺問題」全般について、本作での見解をまとめると、
        おおよそ次のようになるものと思われます。
        
        
        ・生きることは義務
        
        大前提。疑いが向けられることはなく、この上にすべてが展開される。
        
        
        ・自殺してはいけない理由
        
        母親が出産のときに苦労したから。
        および、先祖代々そのようにして種が続いてきたから。
        
        
        ・死のうと思ってもなかなか死ねない理由
        
        本当は死ぬ気はなく、人生から「逃げ」ているだけだから。
        
        
        ・死なないでおこうと思う理由
        
        愛する人がいて、自分の命は相手のものでもあると思っているから。
        
        
        ・生きていることが「喜び」だと思う理由
        
        生きること自体を目的にすれば悩みがなくなる。「理由」など考えてはならない。
        現代社会で「死にたく」なるのは「目的」や「理由」にこだわるあまり、
        「喜びを感じる能力」が衰えているから。
        
        
        ・他の生き物を殺して利用してもいい理由
        
        他の生き物の命を「奪って」いるのではなく「受け取って」いるから。感謝すればよい。
        動物の肉を食べるのは「おいしい」からではなく、(命の輪に参加するのが?)「満足」だから。
        生態系を守るには「捕食者」が必要だから。
        また、命を「受け取った」のだから生きなければならない、ということにもなる模様。
        
        
        ・他の人間と争って殺してもいい理由
        
        愛する人を守るためならよい。
        殺すこと自体が目的ではなく、生きることが目的ならよい。
        
        
        
        作中で明確に述べられているものもあれば、
        明確に述べられているわけではないけれどストーリーを読み解くと
        どうやらそういうことになりそうだ、というものもあります。
        解釈には個人差があるとは思いますが、敢えて細かな言葉尻にはこだわらずに単刀直入に書き出しました。
        
        こうして身も蓋もなく列挙すると、控えめに言って「賛否が分かれ」そうなものも散見されます。
        しかし実際のマンガの中ではどれも情緒豊かな筆致で感動的に描かれており、
        反対することが許されないかのような空気感が迫ってきます。
        内容への賛否はさておき、マンガとしての「表現力」には頭が下がるばかりです。
        
        何でも理屈で捉えればいいというものではないというのは百も承知ながら、
        雰囲気に流されていたのでは見えなくなるものもある、とは言っておきたいと思います。
        
        
        
        
        ■ 自分の意志で死を選ぼうとする者へ敬意が払われることはない
        ----------------------------------------------------------------------
        
        ・見せしめ
        
        さまざまな自殺未遂者が登場します。
        というか話の舞台はずっと「島」であり、「自殺未遂者が島に送られる」という設定上、
        登場人物のほぼ全員が自殺未遂者ということになります。
        
        それぞれに事情や経緯は異なるようですが、
        ストーリー全体の大前提として「自殺=悪いこと」という一点が揺らぐことはありません。
        冒頭に出てくる政府からの告知のとおり、
        「生きること」は「放棄が許されない義務」ということになっており、
        どこまでも「生=正」が疑われることはなく、
        「死のうとする=生きようとしない=逃げ」ということになり、
        自分の意志で死を選ぼうとするということに対し、
        その選択や心情に敬意が払われることはありません。
        
        そもそも、自殺島に送られているということは、一度は自殺を図ったわけです。
        主人公のセイの場合はどうやらリストカットとオーバードーズを実行した模様。
        そこを病院に担ぎ込まれ、意識が朦朧としている状態で
        何かの契約書にサインをさせられ、島に連れて来られた。
        その契約書に何が書いてあったのか作中で明確に表示されることはありませんが、
        自殺島に送られることが本人の意志に反したことだったのは明らかです。
        
        つまり、死にたいなら日本社会の外で勝手に死んでくれ、ということのようです。
        実際、島に送られた直後に高所からの投身自殺を実行する者が続出しています。
        
        しかしそうした死に方は本人たちの望んだ死に方ではないものと思われます。
        自殺島に送られてくる者は全員その時点では骨折などの怪我がない状態です。
        身体的な障害を負った人物もいないようです。
        皆それぞれに「自殺未遂の常習者」ということであり、
        セイを含めて手首にリストカットの傷跡があるキャラは何人もおります。
        個々の具体的な自殺方法は必ずしも明確ではありませんが、
        高所からの身投げという方法を「常習」していたならば身体に障害が残らないとは考えにくい。
        
        そういう人々を、死ぬ方法を選べないような環境へ強制的に送り込んでいる。
        で、案の定、高所から飛び降りてもすぐには死ねず、
        手足が折れ曲がって血まみれになりながら苦しんで死ぬ様子や、
        それを見て主人公たちが恐怖におののく様子が描かれます。
        
        いかにも「見せしめ」という感じがいたします。
        
        死ぬなら勝手にしろ。せいぜい苦しんで死ね。
        ほら見ろ、これでも死ねるか? 
        これがおまえが「望んだこと」なんだぜ?
        それとも怖くなったか?
        どうせ「死にたい」なんて嘘なんだろ?
        迷惑なやつらめ。せいぜいそこで後悔しろ!
        
        明確にそのような文章が掲載されているわけではありませんが、
        そこで表現されているのは、つまるところ、そういうメッセージのように思われます。
        
        結局、「離脱」を望む人間に、そういう態度で応じるような世の中だったわけです。
        さぞかし息苦しい世の中だったであろうことは想像に難くありません。
        しかしそのような仕打ちをする政府に対して反逆をするようなストーリー展開が出てくることはありません。
        どこまでも「悪いのは自殺しようとする側」というスタンスは揺らぎません。
        
        
        ・「反対意見」を言う人物の扱いがヒドい
        
        主人公の元親友のカイは作中で唯一「死」を肯定する思想を持つ人物であり、
        本作の言わばラスボスを務めるキャラクターなのですが、
        このキャラクターの作中での扱いが非常に悪い。
        
        たとえば、
        「人間がいない方が地球にとって良い」
        「死にたい者が死ぬのを手助けする」
        といった思想を語っており、
        言説を見る限りではそれなりに一理あると思わせるものがあります。
        
        しかしその本心は、
        他のメンバーたちが島の生活を通して生きる意志を獲得して前向きになっていく様子に嫉妬し、
        自分の意見が認められないのが悔しくて屁理屈をこじらせているだけ、という設定になっており、
        卑劣に立ち回る小悪党として描かれてしまっています。
        
        そのため、言っていることに説得力がありません。
        と言うより説得力を感じさせないような描き方になっている。
        せっかく興味深い思想を語っているのに、それを正面から掘り下げることはせず、
        単に主人公たちが羨ましいから捻くれて言っているだけというふうに矮小化されてしまっています。
        そればかりか殺人を何とも思わない冷血な人間のようにも描かれています。
        ここまで来ると、自殺を考える人間への誤解を招きかねないのではないかと心配になります。
        
        カイをもっと誇り高い崇高な人物として描くこともできたはずですが、そうはなっていません。
        なお、カイという人物が実はただの小悪党だったのだとしても、
        語られた思想自体が間違っていたということになるわけではありません。
        しかし本作の中ではそうした「死」を選ぶことに肯定的な考えを持つ人間が
        それなりに尊重されるべき存在としては扱われないということです。
        これもまた一種の「見せしめ」ですね。
        
        ここでカイの言動を一つ一つ取り上げて擁護したくなりましたが、
        結局それらの言動の裏にある動機が小悪党的な嫉妬心や自己顕示欲「という扱い」になってしまっている以上、
        つまりは「話を聞く耳を持たない」ということであり、何を言っても意味はなさそうです。
        「羨ましいから怒ってるだけなんだろ? ダッサ〜」としか受け取られない空間で対話をすることは不可能です。
        
        ただ、そのカイに最終巻で唐突にメタ発言をさせていることには注目したい。
        
        「平凡な彼(セイ)が生きる力を取り戻す。その物語に自分を重ねて皆が同調していった。
          誰も彼もこの単純な物語の主人公になったつもりだ……バカバカしい!」
          
        「バナナを収穫して魚を獲って鹿さえも獲って!!
          生きる力を取り戻しました、もう大丈夫です……だって!?
          そんなおかしな話があるか。バカバカしい!」
        
        推測ですが製作サイドでもストーリーの不完全さを把握していたか、
        あるいは本作への不評(アンチ)が存在することを認識していたのではないでしょうか。
        そして、そうした反対意見をカイのような「小悪党」の言い分に過ぎないと作中で表現し、
        最終巻で「片付け」てしまった。
        
        主人公サイドと敵対する思想の人物を「カッコ悪く」描くことで存在を貶め、
        その思想と直接的に対峙することを避ける。
        一種のストーリーテリングの技術と言えるでしょう。
        
        
        ・メインキャラクターは誰も自殺しない
        
        作中でメインキャラクターの中からは自殺する人物が出てきません。
        ストーリー全体を通して自殺者が出る様子はしばしば描かれるのですが、名もなきモブキャラばかりです。
        主人公と交流を持つ主要キャラクターの中からは誰一人、自殺する人物は出ません。
        これだけ多数の元自殺志願者(という設定の人物)が登場しているにもかかわらず、これはなかなか意外なことです。
        顔と名前と自分の意志を備えた個人が、その意志で死を選んでこの世を去る、というエピソードが登場しない。
        
        おそらくですが、そうした展開を描いてしまうと、死を選んだ本人を無下に否定するわけにもいかず、
        かと言って死を選ぶに至った本人の考え方を肯定するような描き方も避けたかったのではないかと想像します。
        これもまたストーリーテリングの技術が駆使されたところなのかもしれません。
        
        つまるところ、「自分の意志で死を選ぶ」という個人の選択が尊重されないということです。
        そんな人間のために割くページはないというわけです。
        そもそもマンガの設定からして「自殺志願者は迷惑な存在だから島流し」という
        身も蓋もないものだったことが偲ばれるところではあります。
        
        自殺したキャラクターとして強いて例外を挙げれば、主人公の回想シーンに登場する英子先輩でしょうか。
        しかしあまり詳細に描かれることはなく、中盤以降は英子先輩の存在自体が有耶無耶になってしまっております。
        終盤に出てくる出産イベントで主人公たちは「命のバトン」を受け継いでいるのだから死んではいけない、
        という「答え」を手に入れて感涙にむせび泣きますが、
        それに従うと、英子先輩も批判されてしまうということなのでしょうか?
        序盤では主人公が心の中で英子先輩と対話するような場面もあり、なかなかのキーパーソンという感じがしましたが、
        主人公は島で出会って恋人となるリヴに英子先輩の面影を重ねていたところがありますので、
        英子先輩の話は徐々にリヴの話にすり代わっていくのであり、有耶無耶になるのはむしろ計算どおりなのかもしれません。
        つまりリヴを生かしたのだから、英子先輩も生かしたことになる。
        無心に読む限りは、そういう印象を受けます。
        これまたストーリー回しのうまさが光りますね。
        
        
        ・「自殺=逃げ」という発想
        
        登場人物たち全般に共通して、
        島に来る以前の自殺を考えていた自分の言動が「"前向き" になれていない」「逃げ」であった、
        とする自己卑下的なセリフを言わせています。
        数多くの自殺未遂者が登場し、「逃げ」という否定的な解釈が妥当かどうかは個別に判断が分かれそうですが、
        そういう解釈が成立しやすいようなキャラ設定・シチュエーションに偏っている気はいたします。
        
        しかし、目立った場所に例外がある。
        主人公の恋人となるリヴです。
        リヴは性的虐待の被害者であり、それによる精神的苦痛で自殺を図ったという設定です。
        このキャラクターに注目すると、自殺と言っても一概に本人が悪いとは言えないのではないか?
        と、いうことになってしまいそうです。
        なのですが、主人公の愛の力で心の傷を回復していくラブストーリーが感動的に描かれており、
        これまた無心に読む限りでは、そういう「野暮なツッコミ」をする気になれない。
        実に「うまい」ストーリー回しと言わざるを得ません。
        
        リヴも他のキャラ同様、「逃避」系のバックストーリーを持つ設定にしてはダメだったのでしょうか?
        おそらくですが、それではすぐに主人公と結ばれてしまって
        話の盛り上がりに欠けるということだったのではないか?
        少し系統が異なる設定にしておくことで、意志の疎通が難しい「謎の美少女」という立ち位置を保ちつつ、
        ストーリーの緊張感を後半まで引っ張ることができる。
        また、異性との性的な接触に心理的な抵抗があるため、簡単には主人公と結ばれない。
        物語後編まで時間をかけて心理的な距離を縮め、大きな愛の力で心の傷を回復し、
        2人で生きていくことを誓い合う熱いラブストーリーが展開される。
        こうして見ると、やはり「うまい」ですね。
        
        などなど、大規模なストーリーの中に大小様々な潜在的綻びを抱えつつも、巧みなストーリー回しによって、
        自分から死を選択するという人物や考え方に対する否定のトーンが全編を通して一貫しており、
        そのトーンを緩めなければならなくなりそうな脇道には深く立ち入らない構成になっています。
        
        島で「生きる意志」を獲得したセイですが、果たして現代社会に戻って馴染めるのでしょうか?
        しかし本作ではそこまでは描かれません。
        最終巻では後日談のような形で、島に残って生活を続けている様子が描かれます。
        結局、現代社会から「逃げ」た状態であるという点は相変わらずなのではないのか。
        どこか「逃げ」というフレーズを恣意的に使い分けているように見えてしまいます。
        
        
        
        
        ■ 主人公の「自殺問題」解決法と、その他のキャラとのギャップ
        ----------------------------------------------------------------------
        
        ・主人公であるセイの自殺理由は不明瞭
        
        前述のとおり、様々な人物が登場し、島に送られてくる経緯=自殺未遂の動機や経緯もそれぞれです。
        全体的に主人公・セイのケースが中心になるのは主人公である以上は当然と言えば当然ではありますが、
        セイのケースを他のキャラに敷衍していく(orしていかない)さまが少々強引に見えなくもありません。
        
        主人公であるセイがなぜ自殺未遂をするに至ったのか、
        作中では過去編として断片的に描かれるのみであり、詳細は不明です。
        ただ、元来あまり積極的に他人の輪に加わろうとはしない性格であったことや、
        両親から将来の進路について問い詰められていたことがストレスとなっていたことが描かれます。
        また、学校で親しくしてくれていた人物が自殺したというエピソードも登場します(英子先輩)。
        そのこととセイ自身が自殺志願者となったこととの因果関係は明らかではありませんが、
        「死」ということを一つの選択肢として強く意識するようになるキッカケではあったのだろうと思われます。
        
        
        ・他のキャラクターの自殺理由は割と具体的
        
        一方、他の登場人物は「死」を選んだ理由が比較的明確です。
        例えば経済的な理由であったり、恋人を事故で亡くしたことであったり、
        性的虐待を受けて精神的に苦しんでいたことであったり、薬物依存に苦しんでいたことであったり。
        
        それに比べ、主人公であるにもかかわらずセイの自殺志願の理由にはあまり「これ」といったものが見当たりません。
        だからこそ中立的とも言えるでしょうか。
        仮に具体的な理由がある場合、本作の主軸ストーリーはその「事例に特化」したものとなり、
        「自殺問題」自体の本質(と作者が考えているもの?)へ迫ることはできなくなってしまうかもしれません。
        
        しばしば言われることですが、原因がある自殺は「自殺問題」ではなく、その原因の問題と言えます。
        経済的な理由での自殺であれば、それは自殺問題ではなく経済問題です。
        人間関係が理由での自殺であれば、それは自殺問題ではなく人間関係の問題です。
        元になった原因を蔑ろにして「自殺」だけに目を奪われてしまうと問題の解決から遠ざかるばかりか、
        自殺した本人の精神面に問題があったのだ、などと「被害者に鞭を打つ」ような物言いにもなりかねません。
        
        その点で、主人公であるセイの自殺に具体的な理由が設定されていないのは、
        ある種の「正解」と言えるかもしれません。
        
        原因がある自殺は自殺問題ではなくその原因の問題だ、と申し上げました。
        ただし、それらの原因はあくまでもキッカケに過ぎない、と見ることもできます。
        人生における苦難や挫折をキッカケに、
        そもそも生を続ける営みそのものの価値や意味に対する疑問を抱き、
        自ら死を希求するようになる。
        それこそが、個別具体的な原因にとらわれず、
        その向こう側に見出すことのできる「自殺」の本質と言えるでしょう。
        
        
        ・主人公が「島」で「生きる意志」を獲得する経緯
        
        本作をおおまかに俯瞰すれば、
        原因を持たない自殺志願者であるセイが主人公の立場を務めて「自殺問題」を「解決」し、
        他の個別具体的な原因を持つキャラクターたちを牽引・感化していく物語と言っていいでしょう。
        
        実際、主人公のセイだけに限定して言えば、最初の2巻で物語は終了しています。
        山での鹿狩りを通して自然の摂理を体感し、生きる意志を獲得。
        しかしその後、その体験談が他の人物には直接には当てはめられないことが分かり、
        物語はさらに長期化していくのでした。
        
        では、そんなセイが中心となり、他の人物たちとともに見出していく「答え」とはどのようなものであったか?
        
        その前にまずセイのケースをもう少しだけ詳しくさらっておきます。
        島に来た後、他のメンバーたちはそれぞれグループ内で各自の役割を果たしてサバイバルに貢献しており、
        問題が発生しつつも協力して乗り越えていっている。
        そんな中で主人公はなかなか自己主張もできず、不全感を募らせている様子が描かれます。
        セイたちが生存のために努力を続ける一方、自殺者も続出しており、
        何のために苦労して生き延びなければならないのかが分からなくなってきます。
        そんな折、グループ内で揉め事が起こり、暴力沙汰に発展。
        その負傷者も元自殺志願者ですが、
        島でみんなと一緒にサバイバル活動をするのは楽しかったので死にたくない、と言い残して死亡します。
        さらに冬が近づき、食料の確保が困難になってくる。
        それでも自分の中の「死にたい気持ち」が消えない主人公は、このままではいけないと考え、
        誰にも頼らず一人で山に入って鹿狩りをすることを決意。
        山で野性の鹿と対面し、生命力に感動しつつ、弓矢で仕留めて殺します。
        その際、命を「奪った」のではなく「受け取った」のだ、と「感謝」の念を感じ、
        自分も命の輪の中で生きていこうと思うに至ります。
        つまり言うなれば、
        今までずっと他の生き物の命を「受け取って」生きているのだから、
        これからも「感謝」しながら生きていく必要がある、ということのようです。
        そして、「死ぬ=そのサイクルに参加しようとしない」ことは「逃げ」という扱いになる模様。
        
        
        ・主人公の体験と他のキャラとのギャップ
        
        さて、この体験がどのように他のメンバーを感化していくのか?
        山から帰った後、他のメンバーに自分の体験を伝えようとするものの、
        人によって自殺未遂に至った経緯は様々であり、
        セイが山で感得した体験が一概には他の人に当てはまらないというシーンがあります。
        
        ではさて、一体どうするのか? ということでその後が気になって読み進めてみたものの。
        その後、物語は仲間割れや他グループとの対立へと突入していき、
        自殺そのものに関する主人公の体験と他のメンバーの個々の事情とのズレに関しては有耶無耶になっている印象です。
        例えばいくら自然に感動しても経済問題は解決しないと思われますが、
        そこに直接触れるようなストーリー展開はありません。
        
        最終的には主要メンバーのほとんどは島に残って生活を続けることを選択しているようですし、
        経済問題に関しては本土の貨幣経済の外側へ「逃げ」てしまえば解決ということなのでしょうか。
        しかしそういうのは本作で言うところの「逃げ」という批判の対象とはならないらしい。
        本土に残してきた債権者に迷惑をかけている可能性がありますがそれも不問ということのようです。
        
        一部のキャラは主人公とともに山での狩りに同行して
        同様の体験をするシーンがありますので、それで「お悩み解決」なのでしょう。
        その他のキャラについても、中盤以降は死にたがる描写がほとんど出てこなくなりますので、
        共同生活や他グループとの戦闘を通して、これからも頑張って生きていこうと(?)心境が変化したらしい様子です。
        これもまたストーリーの「うまさ」と申しますか、
        サバイバル漫画として矢継ぎ早に繰り出される「面白さ」の中で煙に巻かれてしまった印象です。
        
        
        > 元になった原因を蔑ろにして「自殺」だけに目を奪われてしまうと問題の解決から遠ざかるばかりか、
        > 自殺した本人の精神面に問題があったのだ、などと「被害者に鞭を打つ」ような物言いにもなりかねません。
        
        ではさて、「被害者に鞭打」っていないか? ということですが、
        残念ながら、自殺問題を本人の精神面の問題に帰属させるかのような扱いを全体的に感じます。
        
        本作を主人公のセイだけの個別事例の物語として見るならば、
        自殺企図を本人の精神面の問題とし、その弱さを克服する物語として成立しているようではあります。
        全編を通し、しきりに過去の自分を思い出しては
        「逃げていた」「未来に向き合おうとしなかった」と卑下しています。
        (同様の言動はセイ以外のキャラにも共通)
        
        で、他のキャラにはセイの体験が直接には当てはめられないとしながらも、
        そうした自己卑下のトーンを維持したまま、
        共同生活やサバイバルを通して皆が「前向きに」なっていくストーリーが描かれ、
        やがて最終回の大団円を迎えます。
        
        個々のキャラクターの事例にも触れていないわけではないのですが、
        と言うより、むしろ半端に触れられてしまっているからこそ、
        「どんな事情があろうとも自殺をするような人間は精神に欠陥があるのであり、
        社会に迷惑をかけずに本人の努力でその欠陥を克服せよ」
        と言っているかのような印象を受けてしまいます。
        
        特に性的虐待の被害者であるリヴなどは典型的な事例で、
        「義父」という明らかな加害者が存在するわけです。
        主人公との感動的なラブストーリーが展開される中で忘れてしまいそうになるのですが、
        人を自殺に追い込むような人間を社会に野放しにしておく一方、
        被害者を「社会のお荷物」として無人島に追放し、自己責任で精神鍛錬せよ、
        と言っているかのようで理不尽さを感じます。
        
        
        ・反対意見は許されない
        
        > そもそも生を続ける営みそのものの価値や意味に対する疑問を抱き、
        > 自ら死を希求するようになる。
        
        こうした問いはほとんど存在しないようです。
        何しろ全17巻という長大さですので、どこかで部分的には触れられていたのかもしれませんが、
        こういう形で「生」に対しての疑問を正面から掘り下げるというパートは、
        私が一読した限りでは、目立った形では見当たりませんでした。
        
        あくまでも大前提として「自殺=悪」「生きる=義務」ということで固定しているのです。
        その前提自体へ切り込んでいくようなストーリー展開は「ない」のです。
        長大なページ数全体にわたって、
        「生きなければならないのに、そうすることができない自分の欠陥」
        を巡るストーリー、という枠からハミ出すことはありません。
        
        唯一、その前提に反する思想の持ち主だったカイも、
        結局は「その前提を受け入れることのできない弱い人間」として描かれてしまっています。
        反対意見が尊重されない。
        その前提に「従う=善」「逆らう=悪」という構図にすべてを巻き込んでいく。
        そういう描き方がされています。
        
        
        
        
        ■ 「リア充自慢」「勝ち組マウント」
        ----------------------------------------------------------------------
        
        あまりネットの流行り言葉を使うのは好きではないのですが、
        本件に関してはあまりにもピッタリですので使うことにしました。
        
        
        ・「ボウシ」というキャラクター
        
        ボウシと名乗るキャラクターによる「持てる者 / 持たざる者」という発言があります。
        要は体格や容姿や能力など、世間で認められるような才能を持っている人間とそうではない人間がいて、
        世の中は「持てる者」が「勝つ」ようにできていて
        「持たざる者」は希望を持っても無駄である、というような考え方です。
        彼は自分を「持たざる者」と卑下しており、それが自殺島へ送られた経緯ということのようです。
        
        そんなボウシ氏ですが、島での生活の中で工作の腕前を評価され、
        農具や武器を作る職人としての地位を獲得していきます。
        さらには恋人までできて人生大逆転、と言ったところです。
        
        で、それだけであれば敢えて何も言うことはないのですが、
        「死」を肯定する思想を持つカイに対し、
        おまえは自分が認められないのが悔しいから反抗している哀れなやつだと暴言を吐くシーンがあります。
        
        これは何だか、控えめに言って「悲しい」ですね。
        ちなみに、ボウシ氏が最初に登場した際に「持てる者」の例を語る場面で、
        マンガの背景にカイの姿も描かれていました。
        つまりボウシ氏の中では元来はカイも「持てる者」の1人として認定されていたものと思われます。
        
        もともと劣等意識を募らせていたボウシ氏ですが、
        いざ相対的に自分の立場が昇格した(と自分で思った)ら、
        手のひらを返したように人を見下す行為に走ってしまう。
        もう一度言いますが、これは控えめに言って「悲しい」ですね。
        
        ストーリー上、カイは「悪役」ですし、
        実際その本心はボウシ氏の言う通りだった、という設定ではあるのですが、
        そうであれば尚更、ボウシ氏こそが誰よりも、
        自分の存在が周囲に認められずに居場所が見つけられないことの苦しみを知っているはずです。
        
        「悪役」であるカイは、このシーンの時点で既にいくつもの「悪事」を犯してしまっており、
        ボウシ氏の念願の恋人も被害に遭っている場面です。
        したがって「優しさを見せるべし」とは言いにくい場面ではある。
        
        だからこそ何度も言いますが、「悲しい」わけです。
        もう少し言葉を選ばずに言えば「いやらしい」。話の作りが「いやらしい」。
        ストーリーの展開上、ボウシ氏にこの「言葉攻め」をさせるために、
        わざわざボウシ氏の念願の恋人を「便利な駒」として被害者の1人にしているようなフシがある。
        計算され尽くしているかのような話の作りに悪意を感じてしまいます。
        シーンの中でボウシ氏が恋人の名前をつぶやくたびに、誰も文句を言えない空気感が場を支配する。
        結局そういう形でしか正当化ができないわけです。
        カイが罵倒されて貶められてる場面ですが、むしろ罵倒しているボウシ氏に悪い印象を持ってしまう。
        こういう形で「努力して "生" に向き合う価値」を
        表現しようとしているこの漫画自体へも悪い印象を持ってしまう。
        
        
        ・成功を誇る
        
        ボウシ氏は同じセリフを過去の自分にも言えてしまうのでしょうか?
        もちろん言い分はあるでしょう。努力して今の地位を手に入れたのだ、と。
        
        具体的にボウシ氏がどのようにしてグループ内で「職人」としての地位を獲得したのか、
        詳しいストーリーは出てきません。
        しかしボウシ氏の他には同じような作業をしているキャラクターは登場しません。
        つまりライバルはいなかったものと思われます。
        
        もし、グループ内にボウシ氏よりも工作の腕前が上の人物がいて、
        ボウシ氏の出番がなかったとしたらどうなっていたでしょう?
        あるいは実は他にもボウシ氏と同程度もしくはさらに上回る才能を持った人物がいたにもかかわらず、
        ボウシ氏に先を越されてしまったので遠慮して肩身の狭い思いをしているのかもしれません。
        
        職人として成功したことで恋人まで獲得して一気に「勝ち組」に昇格したわけですが、
        マンガを読む限りではその女性から突然告白されており、
        もともとボウシ氏の意中の相手であったのかどうかは不明です。
        「誰でも良かった」のでしょうか?
        まるで女性の存在を「がんばったごほうび」という
        「モノ扱い」しているかのようでもあり、あまりいい印象を受けません。
        
        もともと両想いだったのかどうかは不明ながら、
        仮にボウシ氏が職人として成功することがなかったとしたら、告白を受けることはなかったのでしょうか?
        だとすると、その女性はボウシ氏自身が好きなのではなく、
        「地位を手に入れたボウシ氏」に近づいた計算高い女なのではないか?
        つまりボウシ氏は利用されているのかもしれません。
        それは邪推に過ぎるとしても、恋愛と社会的な成功とを結びつけて描くと、
        どうにも不純な感じが漂うのは否めません。
        
        それでもボウシ氏本人が満足しているのであればそれはそれでいいのかもしれませんが、
        これまた他にも職人候補がいたかもしれないのと同じで、
        その女性に片思いをしていたキャラが他にもいたかもしれません。
        あるいは、そういう恋のライバルがたまたまいなかったからこそ、
        ボウシ氏がその女性と付き合うことができたのかもしれません。
        
        つまり職人としてグループ内で成功できたのは、運によるところが多々あった筈ということです。
        もちろん本人の努力もあったのでしょうけれど、
        カイへの暴言を見るに、少々謙虚さを失っているように思えます。
        しかし場面の文脈上、ボウシ氏の暴言を咎めにくいような空気感が醸成されてしまっている。
        そこがマンガの描き方として「巧妙」なところですね。
        
        しかしあまりこういうことを言うと、
        私もボウシ氏に罵倒されてしまいそうですね。くわばらくわばら。
        
        結局ボウシ氏は、自分がもっとも軽蔑していた筈の人間に自分自身がなってしまったのではないでしょうか。
        「持つ者 / 持たざる者」という上下関係の中で、「持たざる者」を見下して共同体の隅に追いやろうとする。
        そんな価値観の枠組み自体がボウシ氏を苦しめていた筈なのに。
        最初のうちこそ、他の人にホメられても照れくさそうに謙遜する様子を見せていたのに。
        それとも、その枠組みの中で自分が「勝ち組」に昇格して地位を固めてしまえば、
        後のことはどうでもいいということなのでしょうか。
        もはや自分は思う存分「負け組」を踏みにじる権利を手に入れたというつもりなのでしょうか。
        
        結局、島でのサバイバルの果てにたどり着く「生きる」ことの答えが
        こういう利己的なものに過ぎないと言うならば、
        カイが絶望してしまうのも頷けるというものです。
        
        最終巻のカイのセリフが印象的です。
        
        「さぁ…教えてくれ、セイ。
          この世界に尊いモノがあるならそれを僕に見せてくれ。
          自分の命以上に大切なモノがあると言うならね」
        
        しかしそのカイも、単に自分が認められないのが悔しいから屁理屈を言っているだけの小物、
        という設定で描かれてしまっているというのは前述の通り。
        上記のボウシ氏の暴言の直後、漫画ではカイが半泣きになっているコマが描かれています。
        ここまで来ると描き方として「意地が悪い」ですね。「陰湿」と言っても言い過ぎではない。
        たまたまカイがその程度の人物だったからラッキー、というご都合主義とも言えます。
        人に何を言われても動じない堂々たるダークヒーローとしてカイを描くこともできた筈なのに、
        あくまでもその存在を矮小化してしまってます。
        このマンガのこういう部分に、世の中に従順に適応しようとしない人間に対する、
        マンガ表現の技術を駆使したネガティブキャンペーンのようなものを感じてしまいます。
        
        
        
        ・恋人同士は「1つの命」
        
        ボウシ氏の暴言ほど露骨ではありませんが、同様の件は他にもイロイロあります。
        大きなところではセイとリヴの「1つの命」というフレーズ。
        すっかり恋人同士になった2人が、2人で1つの命だから自殺しないことにする、と誓い合うシーンがあります。
        これはどちらかと言えばリヴ編と言うべきで、リヴからセイへの言葉かな?
        いずれにせよ、たまたま自分を大切にしてくれる相手と出会えたから言えるセリフではあります。
        
        そういう人と出会えなかったら救われないのでしょうか?
        それとも、自然の摂理に従って努力していればご褒美として与えられるものなのでしょうか?
        与えられなかったとすれば、それは努力が足りなかったからだ、と言うのでしょうか?
        結果論でどうとでも言えてしまうお馴染みの後出しジャンケンですね。
        
        で、これもまたカイがサンドバック役として使われてしまうところになっていて、
        リヴが終盤でカイに向かって
        「頑張って行動したのは皆。一生懸命やった人だけが生きる力を得て、行動する人に皆がついていった」
        と言い放つシーンがあります。
        これまた「運良く」カイが卑劣な小悪党だったから、このセリフでリヴが悪者にならずに済んでいますが、
        こういうセリフが飛び出すということは結局、
        自分が「ハッピー」を手に入れられたのは自分の努力の賜物なのだという
        驕った意識が根底にあるように見えてしまいます。
        
        そもそもセイとリヴが同時期に島に送られていたのではなかったり、
        もしくはセイがリヴ以外の人と結ばれていたらどうなっていたのか?
        あるいはもしかすると、リヴの他にも同じような境遇の人物がいて、
        リヴがいなければその人物がカイと結ばれて「ハッピー」になっていたかもしれないのに、
        リヴがそれを奪ってしまっているという可能性もある。
        しかし、それも後述する「生き物を殺して肉を食べるロジック」と同じで、
        「奪ったのではなく受け取ったのだから感謝」の射程内なのでしょうか。
        セイと出会えたこともラッキーなら、カイが小悪党だったこともラッキーと言わねばならないところですね。
        
        
        ・「○○ざるもの食うべからず」の思想
        
        その他、島での日々の作業に参加しなかった者への食料の配布を渋るシーンが
        日常の風景のように随所に登場します。
        結局「食うために努力しろ」的な思想が根底にあるようです。
        そもそもそういう脅しと強制で意に反する行動を強いられ続ける社会や人生に
        NOを突きつけて自殺(未遂)をしたのではないのか。
        誰よりもお互いにお互いのことを理解し合える筈ではなかったのか。
        あるいはその考えを貫徹したキャラはキャラ名を与えられて誌面に登場することもなく、
        ひっそりと死んでいったのかもしれませんね。
        
        確かに、主人公グループが魚獲りに苦労する傍ら、自殺者が続出していて、
        何のために苦労して生きなければならないのか?
        と考え込むシーンは序盤にあったような気はします。
        
        島での日々の作業の中で、人手が足りなくて困っている、といった描写はほとんど見られません。
        食料の分量自体に問題がなかったのであれば、
        作業に参加したくない人は無理しなくてもいいということにしておけば、
        自殺を思いとどまった人も一定数いたのではなっただろうかと思ってしまうところです。
        
        
        
        
        ■ 都合の良い「自然」
        ----------------------------------------------------------------------
        
        主人公のセイが中心となって、自然の美しさや命のサイクルを体感し、
        その中で生きていく意志を獲得する……というのが本作の大枠です。
        しかし、そこで描かれる「自然」の有様が、少々都合がいいように見受けられるところがあります。
        
        
        ・猪でも熊でもなく「鹿」
        
        まず、セイやセイのフォロワーとなる一部のキャラクターにおいて、
        野生動物を狩って肉を手に入れるまでの一連の活動を通して
        自然や生命力に対する畏敬の念を感じたりするシーンが展開されるわけですが、
        そういう場面で出てくるのが決まって「鹿」なのですね。猪や熊などではなく。
        「命を奪ったんじゃなくて受け取ったんだ……感謝!」と感動的な空気感で語られますが、
        相手が自分よりも強い猛獣だったら、そんな悠長なことを言ってられるでしょうか?
        
        「生き物を殺す資格があるのだろうか?」などと深淵な問いが何度となく発せられます。
        しかし、こうした問い自体、
        「自分は生き物を殺して食べる側の立場だ」という都合のいい強者の発想です。
        
        自然の摂理に感動し、命の輪に加わることをよしとするのであれば、
        肉食獣に自分の体を捧げるなり、自害して土に還るなり、他にも選択肢はありそうなものです。
        「他ならぬ自分」が「生き続ける理由」はそこには含まれない筈です。
        
        それに関してはやはり山での鹿狩りの体験だけでは不充分ということのようで、
        別の場面で「生態系を守るために捕食者が必要だ」というロジックが登場します。
        で、その捕食者というのが「自分たち人間」だ、と暗黙的に思い込んでいるようで
        やはり何だか都合がいい発想のような感じがしてしまいます。
        「自分たち人間」だけを自然の中で特権的な地位に置くような驕りが感じられてしまう。
        
        こうした考え方自体を議論の俎上に乗せれば様々な意見があるところだとは思いますが、
        マンガの中では感動的っぽいふうに描かれてしまっていますので、
        「眉唾」と言うのとは少し違いますが、
        ここは少し冷静にならねばならないのではないか、と、
        読んでいて警戒心を抱いてしまうところではあります。
        
        
        ・猪の場合
        
        「害獣」として畑を荒らす猪が登場するシーンもあります。
        で、鹿のときと同じように猪を仕留めるわけですが、
        このシーンでは「命を奪ったのではなく受け取ったのだ感謝だ」という
        お馴染みの "自然さんありがとう教" のイニシエーションは出てきません。
        にっくき猪には情け容赦は無用ということなのでしょうか。
        あるいは、鹿のときよりは苦労の度合いが高かったような描写もありますし、
        努力して勝ったのだから敗者を搾取するのは当然、という「勝ち組」の理論なのでしょうか。
        それにしても「猪だって必死に生きているのだから」的なセリフを誰か言ってもバチは当たらないだろうに。
        狩りのシーンは完全にマンガ的な「戦闘シーン」そのもの。そんなに猪を悪者にしなくてもいいのに。
        邪推なのかもしれませんが、この箇所に限らずマンガとしての「うまさ」が、
        思想の語り方としては卑怯に見えてしまうところがあったりするのは本作の特徴のような気がいたします。
        
        
        ・サメの場合
        
        もう一つ、人間よりも強い野生の生物として「サメ」が登場するシーンがあります。
        このときは「手強い相手だった」とサメをリスペクトする言動がありましたね。
        ただ、サメを獲る必要があったのかどうかはよくわかりません。
        出没しやすい場所や時間帯も分かっていたようですし、
        わざわざ海に血を撒いておびき寄せてまで獲る必要があったのかどうか。
        これまたマンガとして迫力のある面白いシーンではありました。
        
        むしろ、ここでサメを出してきたのは、
        後にサワダがサメに食われて死ぬという展開の伏線だったように思われます。
        
        敵対するグループのリーダーであるサワダを激闘の末に追い詰めて、
        逃げようと海に飛び込んだサワダはサメに食われて死ぬという展開。
        この戦闘の際、セイは最後までサワダを殺すことを躊躇していましたが、
        こういう死に方をしてくれたおかげで、自分が直接手を下さなくて済んだ形になるわけですね。
        まるで「自然の摂理」で悪のサワダに天罰が下った……、
        とでも言っているかのように見えるのは深読みしすぎでしょうか。
        つまり、これもどことなく「自然」の都合のいい描き方の一環のように見えてしまう……ということです。
        
        
        ・「自然」は「罪」の責任を免除してくれる
        
        前述の通り、セイはサワダにトドメは刺しませんでした。
        よく見ると全編を通してセイが直接殺した人間は最終巻でのカイだけなのですね。
        他のキャラはさんざん殺し合ってますし、
        セイ自身も躊躇はしながらも敵となっている人間の足などに矢を当てるシーンや、
        結果的に死に追いやってしまうケースはあるものの、
        明確に殺す意志を持って直接トドメを刺したのはカイだけなのでした。
        それまでは人間は誰も直接殺していない。
        だから、生きるために他の生き物の命を奪っていいのか、と苦悩している様子をさんざん描いていても、
        そこで表現されている「罪の意識」に、今ひとつ重みが感じられない。
        人間と違って野生動物なら殺してもいい、という「軽さ」にも感じられる。
        
        そのカイにしても、実は苦しんでいて誰かに殺してもらえるのを待ってたのだ、という解釈になっています。
        野性の鹿に対する「奪ったんじゃなくて受け取った」にも通じる便利なテレパシーですね。
        結局セイ自身が罪を感じなくても済むようなストーリー回しになってしまっている。
        その後この一件とどう向き合っていくのかは、
        そもそもこのマンガ自体がそこで終了してしまうので描かれないわけですが。
        
        とは言え、人を殺したのは事実。さんざん躊躇した末に自分が手を下した。
        それに関してはどういう扱いになっているでしょうか?
        
        最終巻のカイとの対決の直後のシーンで、矢を射られて死ぬ間際のカイに、
        
        「僕やサワダのような人間が現れたら、また殺すのか?」
        
        と、読んでいて誰もが思うはずの疑問をぶつけられ、
        
        「殺す殺さないなんて始めは考えもしない。僕はリヴを守るために全力を尽くす。ただそれだけだ」
        
        と答えています。つまり、
        場合によっては殺す=愛する人を守るためなら人殺しは正当化される、
        と「はぐらかしながら答える」というのがセイの「答え」のようです。
        あるいは単に美辞麗句を用いた思考停止・問題の先送りなのでしょうか。
        それなら人を愛さない方がいいとか生きない方がいい、といった逆転のロジックも出てくることはありません。
        
        あるいは、セイは「自然の輪」の中で「全力で生き」ているのだから、
        その結果、人を殺すことになったとしても、それは「自分の責任」にはならない、ということかもしれません。
        つまり「責任能力」の放棄ですね。「自然の一部」なのだからもはや「責任ある個人」ではなくなる。
        なるほど、「自然」とはこのように便利なものでもある。
        たとえば言えば、上司の命令だから部下には責任がない、というのに近いでしょうか。
        「自然」に溶け込むことで「人間」は「罪」を問われる「主体」ではなくなる。
        
        しかし、そう答えながらもセイは涙を流しており、
        
        「何故…泣くんだ…君が」
        
        とカイに問われ、
        
        「わからない。ただ悲しいんだ…君が死ぬのが…」
        
        とも答えています。
        やはり「この世で生きること」への執着に伴う悲しさは人として無視できないということかもしれません。
        というより、そこで涙の1つも見せておかないと、
        セイが悪者になったままマンガが終わってしまうということかなと思うところではあります。
        
        
        
        ・冬のシーンがない
        
        物語の中で、冬が近付いて魚が獲りにくくなってきた、というシーンがあります。
        漂流モノと言えば冬編は定番。
        で、来る冬に備えて食料の備蓄などに励もう……という言動があるのですが、
        肝心の冬のシーンが出てきません。
        
        マンガの絵としては伝わってこないだけで
        「実はここからここまでは冬の期間」というものはあったのでしょうか。
        登場人物たちが「今は冬だから云々」と何か冬らしい話をするわけでもなく、
        服装にも目立った変化は見られません。
        メンバーたちが「来年の春に田植えをしよう」と言う回があり、
        そのしばらく後に「田植え」をする回がありますので、その前が冬だった筈ですが……。
        強いて言えば海水が冷たくて魚獲りの際に寒い、という場面はあったような気はするものの、
        取り立てて「冬らしい深刻さ」が伝わってくるということはありませんでした。
        
        例えば冬ごもりの中で本格的に食料が不足して、食い扶持を減らすために誰かが犠牲にならねば……!
        というような、さらに「自殺」について奥深く掘り下げる展開が見られるか、と期待したりもしましたが、
        そこまでの「サバイバル極限ドラマ」にはならなかったようです。
        
        自殺島は南の島という設定らしいので、
        冬と言っても雪が降るわけでも凍えるほど寒くなるわけでもない、ということなのでしょうか。
        それにしても、これまたサバイバルをするには「都合のいい」島ですね。
        そういえば大雨や台風や津波のシーンもありませんでしたね。ずいぶん良い立地のようです。
        
        自殺島は実は自殺志願者を「生かす」ために
        政府によって用意された環境であるらしいことがほのめかされていますので、
        いろいろと「都合がいい」のは不自然なことではないのかもしれませんね。
        しかし、だとすると「自然」じゃなくて「人為」ということになってしまいそうですが、大丈夫なのでしょうか。
        
        他の漂流記モノ作品と比較しても仕方がありませんが、
        『自殺島』が「自然の中で生きる意味を問う」といった内容であることを考えると、
        自然の厳しさの一側面として冬の要素を省いてしまって本当によかったのか、とは思うところです。
        
        
        
        
        ■ 出生賛美
        ----------------------------------------------------------------------
        
        終盤に出産シーンが登場します。
        メンバーの中にナオという元風俗嬢がいて、
        島に来てからも島の男性たちを相手に体を売っており、父親の不明な子供を妊娠。
        島の乏しい医療設備の中で苦労して出産、というエピソードです。
        
        この一件が主人公のセイが見つける「自殺してはいけない理由」の「答え」になるわけですね。
        要は、誰もが母親が苦労して出産した末に生まれたのであり、
        先祖代々そうやって続いて来たのだから、その命を自分から捨ててはいけない、ということですね。
        よくある「命のバトン」理論です。
        
        無事に出産が終わった直後、
        主人公が「そうか! そうだったんだ!」と突然閃いたかのように、上記の理論を語り始め、
        「ついに答えを見つけた!」と、他のキャラクターたちとともに感涙にむせび泣くのでした。
        
        これは、あれですね。
        最近のインターネットの一部の界隈では袋叩きにされるやつですね。
        
        私は慈悲深い善人なので言葉を選んで書きますが、
        それでもこのマンガのこのシーンには控えめに言って「茶番」くさい印象を否めません。
        まず、主人公のセイが、今初めてすごいことに気付いたかのようにこの理屈を語り出す、
        というのがいかにもわざとらしい。
        
        なぜなら、この手のことは自殺企図者へのお説教の定番中の定番だからです。
        セイも他のメンバーも、自殺島に送られるほどの「自殺未遂常習者」だった。
        そんな強者ぞろいの面々が、この理屈を聞いたことがなかったとは不自然です。
        むしろ、さんざん聞かされてウンザリしていなければおかしい。
        せめて、話としては聞かされていたけれど実際に間近で出産に立ち会って実感、
        ぐらいの物言いであれば、まだ少しは説得力があったかもしれないのですが。

        この理屈を終盤に「答え」として持ってきて、主人公たちに感動とともに語らせるということは、
        自殺を批判したい側の人(=作者?)にとっては、
        こうした理屈は「これでドヤ!」ってな感じの最終兵器なのでしょうか。
        しかし残念ながら、このシーンによって、「自殺」を看板に掲げる本作の正体が知れてしまう。
        この理屈が、自殺を考える人の気持ちから如何に遠く離れたものであることか、
        わからない人にはわからないものなのかもしれませんね。
        
        そもそもこのマンガは「自殺を考える人」に向けてではなく
        「自殺を考える人にお説教をしたい人」の側を向いて描かれたものなのであろうことが、これで一層明確になります。
        仮にほんの少しでも前者の方を向く意図があったのであれば、こんな描き方ができる筈がないのです。
        
        その場の全員がハッピー全開で、疑問を口にすることが許されないかのような空気感には、
        こう言っては不適切かもしれませんが、どこかカルト宗教めいた不気味さを感じないではありません。
        
        もちろん思想は自由です。マンガなど好きに描けばよく、読みたい人だけが読めばいいのです。
        そもそも冒頭でイキナリ「自殺志願者への説教モード全開」という警告が親切にも入れられているわけで、
        その時点で読みたくないと思った人は読んではいけなかった。
        悪いのは私です。本当に申し訳ございませんでした。
        
        それを重々承知の上で、昨今のインターネットの一部の界隈でさかんに交わされている議論も参考にしつつ、
        このシーンに対する雑感を申し上げておきます。
        
        一言で言ってしまえば「生んでくれと頼んだわけではない」ということです。
        頼んだわけでもないのに、とある男女が中出しファックをしたばかりに生まれさせられてしまった。
        そしてこのマンガで言うところの「生きる義務」とやらを強制的に負わされ、
        その後の数十年もの間、飢えの苦しみや死の恐怖や他者や他種との生存競争に晒される。
        
        そして最後は必ず死んでしまう。
        それも大抵は楽な死に方ではなく、病気や事故で苦しんだ挙句に死ぬことになる。
        そうなる前にできるだけ楽な死に方を選ぼうにも、
        「自殺島」のようなところに送られてさらに過酷な生(or死)を強要されてしまう。
        
        そもそも親となる男女が中出しファックさえしなければ、これら全てが発生しなかった。
        生まれさせられたことが全ての元凶であり、生まれてこなければ一切の問題が生じなかった。
        
        出産に苦しみが伴うのは事実としても、それは本人が中出しファックをした結果に他なりません。
        それは親となる男女の選択なのであって、生まれさせられることになる子供の選択ではない。
        親となる男女が自分たちの選択で中出しファックをし、
        その結果、「生きる義務」とやらを他人(子供)に押し付ける。
        
        百歩譲って子供本人が親に気を遣って、死なないでおいてあげよう、と心がけるのは
        それは本人自身の中で完結する選択ですが、
        親の立場から子供に向かって「生んでやった」などと感謝を強要する筋合いはありません。
        ましてや、まだ存在していない子供の世代へ自分もそれを続けねばならないことにもならない。
        このマンガ内で直接そういった発言があるわけではありませんが、
        セイがこの「答え」を閃いた場面は、
        周囲のキャラクターたちとともに感動にむせび泣く、という描写になっており、
        それを批判するキャラクターも一切登場しません。
        他のキャラも積極的に子作りに励むようになったことを匂わせる後日談も描かれる。
        一定の普遍性をもって肯定的に受け入れられて然るべき、という表現上の意図を感じます。
        
        「先祖代々続いてきた」というのも同じですね。
        「だから今後も続けなければならない」という結論を後ろ手に隠しているようですが、
        それを言うなら「だからこそ自分の代で終わらせねばならない」とも言える。
        一体いつまで続ければ気が済むのか?
        ずっと他人に「苦しみのバトン」を押し付け続けてきた歴史です。
        すでに起きてしまった過去のことを責めても実質的な意味はありませんが、
        その苦しみの連鎖を自分も自分の子供の代へ押し付けてしまうのかどうか?
        その選択は自分自身の手の中にある。
        
        最終回では他の女性キャラも妊娠して腹部が膨張している様子が
        「平和でハッピーな光景」として描かれておりますので、
        「子作り」は問いの俎上に乗ることのない「当然のこと・義務」
        という暗黙の前提がそこにあるようです。
        
        「生きる義務」という言い方を最初にしてしまっている。
        その前提自体を問う、ということをせず、その前提の上で、
        それを受け入れ(られ)ないことを卑下しつつ、
        いかにして受け入れていくか、という話になっており、
        その義務を「受ける」側の心構えが語られることはあっても、
        その義務を「負わせる」行為が問いの俎上に乗ってくることはない。
        
        「生」の範囲内だけに目を向けるならば、
        自分が生きていくためにしなければならないことはあるでしょう。
        しかし、生まれてこなければそんな必要(義務?)はなかったわけです。
        また、生きる上で社会を維持するためのコストというものもあるでしょう。
        しかし、「そのために」他人(子供)を生み出して義務を負わせるというのは、
        生きている人間の側の身勝手とは言えないでしょうか?
        
        あるいは、このマンガの言い方に合わせれば、
        「命の輪」に加わって「捕食者」になるのが人間の役割ということになるでしょうか。
        しかし、それこそ人間が勝手に言っているだけであって、
        むしろ人間が滅んだ方が地球のためになるとはよく言われることです。
        そうした可能性を棄却して、敢えて「人間」に「生きる義務」がある、
        というのはあまり説得力のある話のようには見えません。
        
        さらに言えば、「妊娠出産に伴う女性の苦しみ」を担保にしているというのも、おぞましいと感じます。
        作中でも述べられているように、死ぬ可能性さえある危険な行為です。
        だからこそ、その苦労をねぎらうべし、というのは話の片方として理解はできますが、
        だからこそ、そんな負担を女性に味わわせるのはいかがなものか、
        という話がもう片方に出てきてもよさそうなものです。
        
        その「苦しみ」はセックスをした本人の選択の結果ではありますが、
        それがもしも本人の選択ではなく、
        社会的な慣習の圧力で強いられたものなのだとすれば、尚更おぞましいことです。
        
        しかし作中では感動の空気が激しく渦を巻くばかりで、誰一人そのような発言をしません。
        サバイバルの際には盛んに「愛する人を守るため……!」と言って戦っていたのに、
        その「愛する人」を中出しファックの結果で危険に晒すことを誰も疑問視しない。
        この描き方には大きな違和感を覚えます。
        
        「先祖代々続いてきた」というのは、一つの事実に過ぎません。
        「だから自分の代で途切れさせてはいけない」の意味のようですが、
        だからこそ、そのような「苦しみのバトン」を延々と続けていくことへの疑問が生じる土壌にもなる。
        しかし本作の中でそちら側の見解に触れられることはないのでした。
        
        きっとその「先祖代々」の中には出産で命を落とした人や、
        それによって現代にまでは続いてこなかった「バトン」の分岐もあることでしょう。
        しかしこのマンガで表現されている思想に従えばそうした犠牲もまた
        「犠牲を払いながら続けてきたのだから、ここで止めずに続けていく義務がある」
        という結論へと回収されてしまいそうです。
        
        そんなことを一体いつまで続ければ気が済むのでしょう? この世は地獄だ。
        こういう話に触れると、ますます「死にたい」気持ちが強まってしまうのは私だけではないような気がいたします。
        ああ、でもそんなこと言ってたら私も「自殺島」に強制的に送り込まれてしまいそうですね。くわばらくわばら。
        
        ただ、いろいろ「都合のいい」ところのある本作ですが、
        「子供は望んで生まれてくるのよ」的なカルト教義を語り出さないだけ良心的とは言えるかもしれません。

        もちろん、さらに大きな宇宙的規模では本当のところ何が真実なのかは誰にもわかりません。
        この無限ループを続けることに何か私たちの知らない深淵な意味があるのかもしれません。
        生まれる前の世界が存在していて実は人間は望んで生まれて来ている……
        などという可能性もまったくのゼロと断言することはできません。
        しかし、このマンガに関して言えば、良くも悪くも、
        そこまで壮大な視野で描かれているわけではないようです。
        あくまでも社会通念の範囲内でそれを強化するようなストーリーが展開されているだけです。
        
        そもそも本作では目的を設定したり理由や意味を問うこと自体を
        何か「現代社会の良くない習慣」として批判的にとらえているようなフシが見受けられます。
        主人公のセイが両親から将来の目標について問い詰められてストレスをためていた件に触れ、
        複雑化した現代社会では意味や理由や目的を優先するあまり、
        自然な状態の人間が本来持っているはずの「喜びを感じる能力」が損なわれているのだ、
        といった現代社会批判が書かれており、
        サバイバルシーンの随所で「生きるために生きる」のが生物として正しい姿であるといった記述があります。
        そうした記述が自然の摂理や懸命に生きようとするセイたちの姿を美しく描写しつつ語られる。
        この現代社会批判自体はなかなか興味深い論説ではありますが、
        結局「なぜ生きるのか?」といった問いを行うこと自体を却下してしまっているわけですね。
        
        それも「お悩み相談」に対する一つの考え方ではありますが、
        そうやってただ「自然」に身を任せて「命の輪」を続けることで、
        いつまでも苦しみを生み出し続けてそれを他者へ引き渡し続けることになるという現象に加担することになる。
        そのことに無自覚になることを推奨しているかのようで、あまり共感はできません。
        そしてその身を任せる美しい「自然」の描き方が
        何かと「都合がいい」ものであるというのもまた前述のとおりです。
        
        余談ですが、出産の役割をナオというキャラクターに務めさせたのは
        一体なぜだったのかと勘ぐってしまうところではあります。
        ナオは島の男性たちを相手に体を売っていた女性です。
        これを言うと、性産業に従事する方を差別する意図が
        (私自身に)あるのではないかと疑われてしまいそうで言いにくいのですが、
        フィクションとしてどうにでもなる筈なのに、なぜナオでなければならなかったのか?
        よりによって「愛のない」性処理の結果として、子供の誕生を描いてしまっている。
        愛がなくてもセックスさえすれば子供は生まれてしまうのだ、という事実が表現されてしまっている。
        命の連鎖を美しく見せたかったようですが、この表現で本当によかったのでしょうか?
        それとも、だからこそ「自然の摂理」が際立つというものなのでしょうか?
        敢えて父親を不在にすることで、「女性の崇高さ」を際立たせたかったのでしょうか?
        責任の所在を曖昧にしようとしたのでしょうか?
        この点に関しての作者の意図は不明です。
        
        さらに余談ですが、サワダ側のグループでは毎晩乱交パーティが開かれていたという設定ですので、
        主人公側以上に子供が生まれていそうですが、そこには全く触れられていません。
        ナオとその子供はまだ運が良かったのだとしても、島の乏しい医療設備や過酷な環境の中、
        そちらのグループで全員が無事に出産できていたとは考えにくい。
        
        根本的に「生」を続けること自体への無批判さもさることながら、
        生殖に伴う負の側面に触れずに美化だけをするのはアンバランスと感じます。
        もちろんマンガに過ぎませんのでバランスを取る「義務」などないのではありますが。
        しかし仮にそういう展開を出すとしても、生き残った人間に対して、
        「だからこそ生き延びねばならない」
        というふうにロジックを回収してしまいそうですね。
        議論をすれば平行線になりがちな領域であろうとは思います。
        
        
        
        
        ■ 「生」を強要する社会が「生きづらさ」を作る
        ----------------------------------------------------------------------
        
        自分の意志で死ぬのは難しいものです。
        たとえ本気で死ぬつもりだったとしても、それでも難しいものです。
        
        そして「本当は死ぬ気などないのだ」「本当は生きたいのだ」
        という "説" が出てくるというのはお馴染みの話。
        
        さらには「人の気を引くためにやってるだけ」「現実逃避をしているだけ」
        といった "お叱り" が出てくるというのもお馴染みの話。
        
        死ぬ前にはさんざん無理解なお説教を浴びせておいて、
        いざ死んだら「相談してくれればよかったのに」などと言ってみたり、
        果ては「死ぬのは迷惑」などと言ってみたりもする。
        
        実際に死ぬのは大変難しいことですので、
        生きたいわけではないけれど、さしあたりは日常生活を営む。
        うっかり死をほのめかすような態度を漏らしてしまえれば何を言われるかわからない。
        自殺を巡っては、実際に「自殺者」としてカウントされる件数以上に、
        そうしたリアルがあるものと思われます。
        
        前述のとおり、作中でメインキャラの中からは自殺者は出ません。
        自殺で死ぬのはモブキャラばかりであり、死を選んで本当に旅立っていく物語が描かれることはない。
        結果的に「本当は死にたくない」キャラしか残らないことになります。
        中盤以降の他グループの戦闘の際などは当たり前のように死を恐れる発言が飛び交います。
        
        その一方、自暴自棄になって無法化する人物のエピソードはあったりする。
        カイにいたっては猟奇殺人者のように描かれている。
        自殺に関する「俗説」を強化するとともに、反社会的な危険人物であるかのように描く。
        
        数多くの自殺未遂者が登場しますが、大体のところ、
        「何か個人的に辛いことがあったから自殺(未遂)した」
        というパターンのカタログであり、
        自殺(未遂)をした本人の精神的な欠陥が強調されるばかりで、
        その本人を自殺に追い込むような環境については、断片的な言及はあれども、
        そこへ正面から疑問を向けるようなストーリーが展開されることはありません。
        
        ラストのオチでは「島」はその後「未遂者などの社会復帰プログラムに活用」されるとあります。
        「社会復帰」という言い方に「正しいのは社会だ」という前提が組み込まれています。
        最後まで「自殺は本人の精神的欠陥の問題」という扱いになっています。
        
        人間はこの世に生まれ(させられ)た以上、必ず死にます。
        しかしそうした人間存在の根本問題については
        最終巻の葬式のスピーチの中で取ってつけたように触れられるのみであり、
        ストーリーを通して掘り下げられることはありません。
        どこまでも「生」の内側に閉じた視点であり、
        「生」そのものを疑うことは許されず、この世への適応のみが強要され、
        「適応できない自分の欠陥」が問われるばかりです。
        
        さらにはそうした「この世」に新たな命(他人)を生み出して巻き込むことに対しても
        疑問の一片すら差し挟まれないばかりか、喝采を持って迎えられさえする。
        
        こうした一連の「閉じた輪」に、
        まさに死にたくなるほどの息苦しさを感じるのは果たして私だけでしょうか。
        
        もちろんマンガなど好きなように描けばよく、読みたい人だけが読めばいい。
        こうしてあれこれと書いていると、
        たかが漫画にムキになっても仕方がないのかなと虚しくなってくるところではあります。
        そうですね。「たかが漫画」であればいいのですが。

        本作は約8年の長期にわたって商業誌に連載された全17巻という超大作であり、
        途中で打ち切りにもならずそこまで続いたということは、
        世間から一定以上の支持を得ていたものと思われます。
        
        結局、このマンガで表現されているような自殺観が世間で広範な支持を得やすいとは想像できます。
        言うまでもなく、これ自体はあくまでマンガに過ぎません。
        読んだ人の全員がこの内容を真に受け、自殺問題の処方箋であるかのように考えるわけではないでしょう。
        しかしながら、ここに表現されているような考え方自体が
        「生きづらい社会」の温床になっているような気がしてなりません。
        
        
        
        

◆ 2020/05/08
    思ったこと:
        『自殺サークル』(漫画版)ネタバレ感想
        
        
        「自殺」を看板に掲げたサブカル作品は「地雷率」が高い、というのが私の印象です。
        地雷などと言っては失礼とは存じますが、
        「自殺」ということに関して何がしか真摯な思いを抱いているお友達が読んだ際、
        「読まなきゃよかった」という結果になるリスクや頻度が高いように思われるということです。
        
        だからこそ、この私が率先して発掘し、情報提供を兼ねて紹介していこう……と考えているところでありまして、
        今回は表題のものを拝読した次第でございます。
        
        次第でございますが……。
        ある程度予想はできてましたので「地雷」と呼ばわるのは気が引けるところではあるのですが、
        オススメという意味での紹介にはならない、ということは最初に申し上げておきます。
        
        批判がましいことを言いたいわけではないので、
        できる限り言葉を選びつつ、簡潔に特徴を言いますと:
        
        グロネタ+思わせぶりな(哲学的な?)謎かけフレーズで「深そうっぽい」フレーバーを添加
        
        という感じです。
        あと、怪談要素もあるかな?
        
        エログロや「怖い話」が好きな方は楽しめるのかもしれません。そうでない方は読む必要はないと思われます。
        血肉が飛び散る「派手な死に方」がたくさん出てきます。
        真相の不明な呪い(?)のようなものも出てきます。
        エロマンガではありませんが、メインキャラが少女売春をしているという設定上、多少そうした絵も出てきます。
        リストカットの延長で全身傷だらけの絵なども出てきます。
        
        なお、私自身はそうしたジャンルのエンタメを好む人間ではなく、
        本作がそうしたジャンルとして如何ほどのものであるのかの判断はできません。
        
        あ、念のため申し上げておくと、今回読んだのは漫画版です。
        映画版もあるそうですが、私は視聴しておりません。
        伝え聞くところによると、漫画版以上にグロ路線なのだとか。
        漫画版に対する好き嫌いは、映画版にはそれ以上に当てはまる、ということかなと推測しております。
        
        さて、こういうのが好きという方はいらっしゃるでしょうし、
        その需要・供給に口を差し挟む気はないのですが……
        
        と、しつこく前置きした上で。
        
        タイトルに「自殺」と銘打たれている上に、随所に何やら意味ありげな雰囲気を漂わせてはおりますが、
        「自殺」や、それに関連して「生きること」「死ぬこと」といったテーマに真摯に向き合いたいと思っている人には
        特段オススメできる内容ではないと思った、と申し上げておきます。
        
        あるいは逆に、そのように思っている人であればこそ、
        この漫画からでも、何かを読み取ろうと努力してしまったりするのかもしれません。
        だからこそ、これを真に受けて足踏みするよりは別のことに心身のリソースを割いた方がいいんじゃないかな、
        と余計なお世話と知りつつ言いたくなってしまうと申しましょうか。
        
        「自殺」という看板を掲げつつメインはグロ、
        ということがすぐに分かればその時点でそれ以上のものを求めたりはしないのですが、
        グロオンリーとは断言できないような仄めかしがあるので、念のため最後まで読んでみた次第。
        その結果、上記の意味で「特段オススメはできない」というのが私の結論です。
        
        いや、私なんかが心配しなくても、お仲間の皆さん(?)は充分カシコイと申しますか、嗅覚が鋭かったりもしますし、
        言われるまでもなく、避けて通るタイプの作品かな、という気もしないではありません。
        
        というか「自殺」と言えば「グロの1ジャンル」、というのは
        私が思う以上に「そりゃそうだろ、何言ってんだ?」だったりするんでしょうか……?
        そう思う人がいらっしゃるのは構わないのですけども、
        「自殺」がそういうふうにしか見られてないのだとすると残念だなという思いはあります。
        
        
        それではいつものように、内容をご存じない方向けに、あらすじ紹介からいきます。もちろんネタバレです。
        
        
        ■ あらすじ
        ------------------------------------------------------------
        
        「自殺サークル」と呼ばれるサークルが存在する。
        定期的に集団自殺を繰り返すが、なぜか1人だけ必ず生き残るようになっている。
        その生き残りが次のリーダーになり、メンバーを集めて再び集団自殺を行う。
        そのようにしてサークルは連綿と続いてきた。
        
        小夜と京子は幼い頃からの親友。同じ学校に通っている。
        しかし些細な事をきっかけに気まずくなっている状態。
        ある日、小夜が家庭の事情から悩みを抱えるようになり、リストカットや少女売春を繰り返すようになる。
        京子は小夜を心配するが、小夜には避けられてしまう。
        
        やがて小夜は「自殺サークル」のメンバーになる。
        親友の京子よりもサークルの方が自分の悩みを受け入れてくれると感じたのだ。
        そして集団自殺が行われる。
        小夜は幸か不幸か生き残って新たなリーダーとなり、メンバーを集めてサークルを大きくしていく。
        
        そんな小夜を止めようと京子は奔走するが、京子の言葉は小夜に届かない。
        やがて京子もサークルのメンバーになり、ついに集団自殺が決行されてしまう。
        死の直前、二人は友情を取り戻すが小夜は死に、京子は生き残って次のリーダーとなる。
        
        さぁ、次はどんな自殺サークルになるのだろうか? というところで劇終。
        
        
        
        ……あれ? こうしてあらすじだけ書き出してみると、何かちょっと面白そうじゃないですか。おかしいなぁ。
        
        
        
        ■ あらすじを書き出したら面白そうに見えてしまったという怪
        ------------------------------------------------------------
        
        読んでたときにはこんな感じじゃ全然なかったのにな。一体どんなミステリーなのでしょう。
        私の解釈でスジを抜き出したので、私の好みに合った形で抽出されてしまったのかな?
        
        上記のスジで言った場合、何が面白そうかと言うと、小夜と京子の関係ですね。
        悩みを抱えて死を意識している小夜には2つの道があった。京子(=生)か? サークル(=死)か?
        京子よりもサークルの方が自分の悩みを理解してくれると感じ、小夜はサークルを選んでしまう。
        そんな小夜を止めようとした京子の言葉は小夜に届かない。
        しかし小夜と同じサークルに入って共に集団自殺に参加することで、死の直前に友情を取り戻すことができる。
        
        このスジが私的に「あれ? 面白そうじゃない?」と思ってしまった箇所です。
        
        しかし、実際読んでみると、そういう印象は受けないのですよ。おかしいなぁ。
        
        
        
        ■ 実際読んだときには面白くなかったという怪
        ------------------------------------------------------------
        
        「面白くなかった」と言っては失礼ですが、上記のあらすじで感じたような面白さはなかったということです。
        読んだときに受けた印象としては、ああ、グロネタだなぁ、という感じです。
        それはそれで一種のエンタメとして必ずしも否定するつもりはないものの、
        逆に、グロネタという側面に焦点を当ててあらすじを書こうとすると、
        「ひたすら人が派手に死ぬ」というだけの身も蓋もないことになってしまう。
        あるいはグロに造詣の深い人があらすじを書けばまた別のものになるのでしょうか。
        
        そんなわけで私が「あらすじ」として「すじ」を思い出してみたときには前述のようなものとなったのでありますが、
        肉付けとしては、あくまでもグロネタですね、というのが私の印象です。
        いくらグロが目的でも集団自殺のイラストだけを脈絡なしに並べたのではマンガにならないでしょうから、
        何らかの「すじ」になるようなものは必要になる。
        しかしあくまでもグロネタを乗っけて展開させる骨組みとしてそうしたドラマ要素が使われていたということであって、
        それ自体が作品の主題だというふうには私には見えませんでした。
        
        また、哲学的(?)っぽい謎かけのようなフレーズが出てきたりもしていましたが、
        それもあくまでも雰囲気を出すための飾りとして散りばめられているに過ぎず、
        それ自体を掘り下げて表現しようとしている、というものではないと私には見えました。
        もちろん読者としてそうした箇所に触発されて考え込む、というのも作品の楽しみ方の1つであり、
        考えること自体はそれ自体で意義を持つものと言えますが、
        このマンガが「深い」と思って考え込むのであれば、
        考えを深めるのにもっと適した本は世の中にいくらでもあるでしょう。
        
        
        
        ■ 「自殺」の世間でのイメージとは……
        ------------------------------------------------------------
        
        作中で描かれている「自殺」のイメージが、どこかステレオタイプ的なものという感じがしました。
        
        「電車への飛び込み」「屋上からの飛び降り」、そして損壊した肉片の描写、等々、とにかく「派手」です。
        その事件性に対して警察が動いたりニュースになったりと「人騒がせ」でもある。
        「集団で」というのがステレオタイプと言えるかどうかは分かりませんが、
        単に絵的なインパクトを高めるためにそうしているように見受けられます。
        
        グロの「記号」として「自殺」を採用しているのだと思われますし、
        「わかりやすい」形式にするのは必然的なことではあるのでしょう。
        
        しかし実際に自殺を考える人の多くは、できるだけ「人の迷惑にならないように」と
        人一倍気にしているものであるように思います。
        それは普段生きているときからそうであり、
        そうであればこそ人よりストレスも多く、「死にたく」もなる。
        
        自分の死に方についてもそれは同じで、
        「人の迷惑にならない死に方は……」と模索するあまり、
        ますます精神が追い詰められてしまう。
        その結果的に死なずに生きることになるにしても、
        抱え込む苦しみは、死を真剣に考えたことのない人の想像をはるかに絶するものであることでしょう。
        
        その一方、世間では自殺に対し「迷惑だ」「死ぬなら一人で死ね」「誰にも迷惑かけるな」といった声が通底しています。
        そうした発言は世間の規範には準じているのかもしれませんが、
        苦しんでいる人を追い詰める非常に残酷なものだと言わざるをえません。
        
        その意味で、作中で描かれている「派手」で「人騒がせ」な自殺像を見たとき、
        「"自殺"と言えば、やっぱこういう感じっしょ?」とでも言うようなプレッシャーを感じてしまいました。
        特に電車への飛び込みはバッシングの対象として「定番」ですらある。
        もし「自殺をバッシングしたい」という人がいたら、
        「電車への飛び込み自殺を『自殺の代表例』のように取り沙汰すればいい」とアドバイスすればよさそうです。
        そうすればバッシングの言葉は天から降ってくるように簡単に手に入るでしょう。
        「だからあいつらは迷惑なんだ」と言えば拍手喝采間違いなしです。
        
        作者にそういう意図があった、とまでは言いませんが、
        フィクションの中でわざわざこの手法を採用したのは一体何のためだったのか……と思わず勘ぐってしまいます。
        これ見よがしに死体が飛び散る描写や、ニュースで騒がれる描写までつけている。
        描かれているのはあくまでも、「他人から見た自殺のイメージ」と言えます。
        
        もちろん、この作品1つを取って、これが世間での自殺のイメージを代表している、とまで言っては言い過ぎでしょうけれど、
        映画版とのメディアミックスもあり、商業的に一定の成功を収めているものであるとは想像できます。
        この作品での自殺の描き方が悪い、と言いたいのではありません。
        こういうものが「自殺像」として、世間で一定の公約数となっているのだとすれば、それは残念な気がした、ということです。
        
        
        
        ■ 「なぜ死を選ぶのか?」は結局よくわからない
        ------------------------------------------------------------
        
        自殺の外面的な「形式」がステレオタイプをなぞるものであると同時に、
        自殺を選ぼうとする人物の内面があまり描かれないというのも特徴的と思われます。
        
        小夜は家庭の事情で悩みを抱えるようになって自殺サークルに入る、という展開ではありますが、
        結局それでどうして死を選ぶのかはよくわかりません。
        
        小夜自身が死にたいと思うから自殺する、というより、
        「自殺サークル」というヘンテコリンなものに引っかかっちゃったから自殺しちゃうんだ、というふうに見えます。
        
        そもそもお悩みやストレスと「自殺」を結びつけて描くこと自体がステレオタイプ的というか、
        読者サービス的にわかりやすい記号を並べただけ、というふうに見えなくはありません。
        グロネタを乗せるためのシャリとしてはそのぐらいが丁度いい匙加減ということでしょうか。
        「リストカット」や「少女売春」といった目を引く記号がふんだんに登場します。
        雰囲気は抜群かな、とは思います。
        
        「サークル」は何か怪奇的な存在であり、リーダーも超能力を持っているかのようで、
        小夜やメンバーたちは精神を操られているように見えます。
        ではそのサークルの正体とは一体何なのか? と気になるところですが、
        その魔力の設定については最後まで謎のままであり、作中で明かされることはありません。
        
        そのようにして「死=何か怖い感じのもの」というイメージで描くのもステレオタイプ的ですね。
        サークルのリーダーが「死は幸せなのだ」的なことを言うシーンはありますが、
        そうした言動自体が「カルト的な不気味さ」として描かれていて、
        「幸せさ」が伝わってこないと言うか、そもそもそんなものを伝える意図があるようにも見えません。

        小夜以外のメンバーも小夜と同様、それぞれに「悩み」を抱えていて、そのゆえにサークルに魅了されている様子ですが、
        個別にストーリーが描かれることはありません。

        自殺サークルという存在、メンバーの面々、リーダーである光子、そしてサークルにのめりこんでいく小夜、
        すべてが「超常的・怪奇的なもの」という描かれ方です。
        つまり「話の通じる他者」ではない、というわけです。
        
        作中に散りばめられる思わせぶりな(哲学的な?)謎かけフレーズも、
        こうした「話の通じなさ」をますます演出しているようです。
        「彼女ら」には「彼女ら」の独特の論理があるのだろうけれど、「我々まともな側」には理解不能である、と。
        
        その理解不能さに向き合って何らかの形で乗り越えていこう、ということでもなく、
        理解不能さを理解不能さとして「面白く」見えるように演出し、娯楽として消費する。
        この作品はそういう目的の作品なのだな、という印象を受けました。
        翻って世間での「自殺」や「自殺しようとする人」へのイメージも同様に、
        「意味不明なキモチワルイ連中」というものだったりするのかな、と、
        これに関しても私としては残念な気分になるところです。
        
        しかし下手に分かったつもりでお説教をされるよりはマシというものかもしれません。
        その意味で、京子が小夜に拒絶されるという点に関しては共感できるような気はします。
        京子は「常識側」の人間です。
        小夜を心配し、リストカットをやめさせようとし、サークルを抜けさせようとします。
        その言動はどこまでも「常識的・善人的」であり、小夜に届くことはありません。
        一方で小夜やサークルの行動はますますエスカレートして手に負えないものになっていく。
        
        「わからなさ」を「わからなさ」のままに恐れ敬いつつ、
        相手の輪(サークル)に入って運命を共にしてこそ、精神的な交流が可能となる、
        だがそれは自らも同じ道をたどり繰り返すことになるリスクをも意味する……
        
        ……というふうに解釈すれば、なかなか意味深いストーリーのように思えてきちゃいますね。
        ええ、ですからスジを思い出して書いてみるとそんな気がするわけですが、
        このあたりの「怪」については前述の通り。
        
        京子の側にも実は精神的な問題があった……というような描写が直前に少し入ってきますので、
        そこを手がかりにしてさらに深読みしたくなってしまうところでもあります。
        とは言うものの「自殺」というテーマとはあまり関係なさそうで、
        あくまで雰囲気のために出してきただけというふうに私には見えます。
        
        そういえばネットで拝読した他の人の感想の中に「怖かった」というものが散見されました。
        「怖さ」とは「常識」の裏側にあるものだ、ということは指摘しておきたいと思います。
        その点で言うと、京子が「常識人」の役を務めているのは意味のないことではないのかもしれません。
        
        ちなみに作中で京子がサークルに入るのは小夜を理解しようと歩み寄って……では全然なく、
        小夜とケンカになった挙句、サークルのメンバーに捕まって、気絶させられて、拉致されて、
        気絶している間にメンバーの証である刺青を入れられて、後は無理やり集団自殺に引きずり込まれて……という展開です。
        最後までサークルの「不気味さ・非人間味」が際立つばかりです。
        
        また、サークルのリーダーがカルト的な魅力を利用してメンバーから金を巻き上げている様子も描写されています。
        こうなっては崇高さもなく、ただの安っぽい悪党集団のようです。
        
        
        
        あと、リストカットについても、もう少し触れた方がいいのかな?
        
        小夜を始めとして、サークルのメンバーがことごとくリストカットをしているのも本作で目を引く点です。
        心の傷は目に見えないから体に傷をつけて痛みを表現するのだ的なことを言って
        サークルのメンバーが集まって一斉にリストカットをするシーンなどがあったりします。
        
        リストカットについては私自身はやったこともやりたいと思ったこともないので、
        コメントは差し控えた方がいいかなとは思いつつ、
        作中での描かれ方はやはりどこかステレオタイプ的・記号的という気はしないではありません。
        自殺とリストカットを当然のように結びつける発想もさることながら、
        「心の傷は見えないから体に傷をつけて云々」という解釈が既に、
        当事者自身の心理というより、周りの人間が思う「もっともらしい "説"」を単になぞっているように私には見えます。
        ちょうどグロ路線という本作のスタンスとも相性の良い記号であることでしょう。
        
        ただ、ネットで他の人の感想を見た限りでは、リストカットの箇所に共感できるという声も少し見られましたので、
        リストカット当事者の方にはリアリティが感じられる表現なのかもしれません。
        
        
        
        ■ お説教くささはない
        ------------------------------------------------------------
        
        自殺ネタにありがちな変なお説教くささがないのは「安心して読める」点かもしれません。
        悪く言えばひたすら意味不明ということではあります。
        「わからなさ」は「わからなさ」のまま、そこにある。
        
        ネットで他の人たちの感想を見ていると、この作品の雰囲気に安堵を感じる、といった声も散見されます。
        「生」の側の理解を突っぱねて、一貫して「死」がすべてを蹂躙し尽くし勝利を収める。
        本作が放つそんな空気感が、「死」に親和性を感じる人には心地よく感じられる、というのは分かるような気もします。
        
        ただ、それを踏まえた上で敢えて言いたいのですが、
        その点が、私には逆の意味で「予定調和」と思われるところです。
        最初から「自殺は止めるべき」との訓戒を旨として自殺をヤメさせてハッピーエンドとする、
        といった筋書きが「生の予定調和」なら、
        ただひたすら「死」ばかりを見せつけるのも「死の予定調和」と言えるでしょう。
        それがインパクトを持ち得るのも一方に「生の予定調和」という文脈が世間の側に地盤としてあればこそであり、
        そうである限りは結局のところ、この「死」一辺倒の雰囲気を覗き込めば覗き込むほど、
        背後から「"生" の常識」に搦め捕られていることを意識せざるを得なくなってくるように思われます。
        
        ただ生きればいいってもんじゃないのは百も承知ながら、
        ただ死ねばいいってもんじゃないのも同様と言えましょう。
        などと言い出すと、私こそ説教くさくなってしまいそうですね。このぐらいにしておいた方がいいかな。
        
        
        
        ■ 「自殺」を看板に掲げて「何を」描くのか?
        ------------------------------------------------------------
        
        あるいは立場を変えてこう言うべきでしょうか。
        タイトルに「自殺」が入っている作品に読者は何を期待するのか?
        
        「自殺」といえば表現の題材として普遍的なテーマの1つです。
        あくまでサブカル商業作品なのだから過度な期待は禁物……と言う人がいたら、その人には反論しないでおきますが、
        他ならぬ「自殺」を看板に掲げているからにはそれなりの期待はしたくなってしまいます。
        
        「作品」として何を描くかという以前に、
        日常の中で「自殺」ということに対して私たちはどういう反応を示すかを思い返す方が先かもしれません。
        
        その「反応」をこの場で具体的に列挙するのは「言わずもがな」の繰り返しになりそうですので避けるとして、
        ここで考えたいのは「作品」がそうした世間感覚に対してどういう位置を取るのか、です。
        単に世間感覚をなぞるものなのか、あるいは「逆手に取った」ようなものとなるのか。
        それともまったく別の価値観を提示するものとなるのか。
        
        同じことは「自殺」に限らず、どのようなテーマでも問えることではあります。
        ただ「自殺」の場合は特に、自由な態度が取りにくいという性質があるように思われます。
        
        1つには「死」が絡んでいること。そしてそれを自分の意志で選ぶという特殊性。
        人は自からの「生」を希求しているものだという前提で構築されている我々の社会の根底を突き崩す危うさがそこにある。
        同時にそれはそのような中で築き上げられている人間関係の根拠をも危うくする。
        そのゆえにこそ、「自殺」を前にして、未だこの世を生きる生者としての我々は身を硬くせざるを得ないのでしょう。
        
        硬化した口から雄弁に漏れ出るのは果たして誰の言葉でしょうか。
        語られたどのような言葉も否応なくまたこの世を形作る要素の1つとして還流し、我々の在り方を規程するものとなる。
        そうしてこの世が変わらず続いていく。
        硬化した口から語られたのは誰の言葉だったのか。
        あるいはそれは、この世の持続力たる得体の知れない「何か」の声ではなかったか?
        続くこの世の空の下で、やはり「自殺」は手の届く場所に存在し続け、変わることのないその特異性で今日も我々を照らし出す。
        
        「生=この世」に溶解してもなお底に沈む澱のような意識が、容器の外へ飛び出すこともできず、白々しい光の影で煌々と佇み続けている。
        生きることも死ぬこともできない意識のリアリティ。
        
        自殺という、この、大きな口を開けた深淵を前にして、我々にはごく限られた言葉しか語ることを許されていないかのようです。
        だからこそ、この世と手を組んで溶け込みつつ我々を規程する言葉とは別種の表現としての創作物に、
        溶け切らず底に沈む澱のような意識の持ち得る言葉としての役割を期待するのは間違っているのでしょうか?
        
        
        
        
        

◆ 2020/05/01
    思ったこと:
        マンガ『姉の自殺と僕の秘密』ネタバレ感想
        
        『学園棋神伝マインドル』の関連コーナーとして、
        自殺を扱ったサブカル作品を紹介していこうという企画の第2段。
        (紹介できるタイトルがいくつかたまったら別コーナーとしてまとめます)
        
        今回は
        
        『姉の自殺と僕の秘密』(楓牙)
        
        の、あらすじ紹介とネタバレ感想です。
        
        希死念慮を抱えた男子学生と霊能力を持つ少女が織りなす優しいお話です。
        人が人を想う気持ちが心に響きます。
        内容的には「自殺」そのものを正面から掘り下げる展開というのとは少し違うのですが、
        「自殺ネタ」にありがちな上から目線のお説教要素はなく、安心して読むことができると思います。
        なお、エロマンガなので万人にオススメというわけにはいかず、その点ご承知置きをお願いいたします。
        
        また、この感想文では「希死念慮」という語を使用しますが、
        本作の中でこの語が使われているわけではありません。あくまで私の解釈としてこの語を使っています。
        心理学用語としての厳密さにこだわっているわけでもなく、
        
        「具体的に何か "不幸" があるというわけではないけれど、"死にたい" と思う慢性的な気持ち」
        
        というぐらいの意味で使っています。
        ある程度汲み取りながら読み進めていただければ幸いです。
        
        
        (以下、ネタバレ)
        
        
        ■ あらすじ
        ------------------------------------------------------------------ 
        
        エロマンガという性質上、お手に取って読むことができないお友達もいらっしゃることでしょう。
        大まかな内容が伝わるよう、要点を絞ってあらすじを紹介いたします。
        あくまであらすじですので私の解釈を交えつつ端折った要素もあります。
        できれば原著をお読みになることを推奨いたしますが、
        感想文の内容を理解する補助にしていただければと思います。
        (画像の転載はしていません。文章のみ。エロ描写は控えめでお送りします)
        
        以下の各話ごとの [ひろげる] をクリックすると表示されます(多分!)。
        
        --------------------------------
       
        ▼ 第1話 [ひろげる] 
        
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        ▼ 第5話 [ひろげる] 
        
        ▼ 第6話(最終話) [ひろげる] 
        
        --------------------------------
        
        
        
        ■ 「希死念慮」の描かれ方には共感できる
        ----------------------------------------------------------------------------
        
        主人公の圭壱は学校では友人を作らず周囲から浮いています。
        クラスメイトたちがおしゃべりに興じているのを横目に、
        何にも興味を持てずに冷やかでいます。
        
        > みんなどうしてそんなに楽しそうなんだろう
        > 本当に楽しいと思ってるのかな?
        > 仲間外れになるのがイヤだから合わせていたりする?
        
        > いつか必ずみんな死ぬんだ
        > それまでがどんなに楽しくても
        > 死んでしまえば全て消えてしまうんだ
        > 僕もいつか……
        
        ずっと死ぬことばかり考えており、死に方も決めてある。
        あとは一線を越えるタイミングを常にうかがっている。
        
        こういう感覚は多くの「お仲間」に共感できるのではないでしょうか? 私は共感できます。
        これが「人としてご立派」かどうかであるとか、「真実」かどうかであるとか、
        そうした周辺的な議論をし出すとイロイロヤヤコシクなるのでしょうけれど、
        そういうことはさておき、感覚的には非常に共感できるところです。
        
        なお、作中で「希死念慮」という単語は使われていないのは前述の通りです。
        ちなみに、あとがきの中では「漠然とした自殺願望がある」と紹介されています。
        作者がどういう意図だったのかはわかりません。
        
        
        
        ■ 「希死念慮」自体を正面に据えたストーリーというわけではない
        ----------------------------------------------------------------------------

        上記の通り、設定上は主人公は「死にたい気持ち」を抱えた人物です。
        ただし、そのこと自体は序盤で少し触れられるだけであり、
        それ以上に掘り下げて語られることはありません。
        
        また、主人公が希死念慮を持っているのは霊に取り憑かれた影響であるという設定です。
        その除霊のためにヒロインの琴音が奔走する、というのがストーリー全体の縦軸となっています。
        
        そのため、「死にたいと思う気持ち」や、生きること、死ぬこと、
        そのような気持ちで生きる主人公を取り巻く社会環境、などのような、
        「自殺」そのもの、あるいは直接的に関連する事項に向き合って掘り下げるといった内容ではなく、
        これを読んだからと言って、自殺についての理解や共感が深まる……
        といったことはないものと思われます。
        
        とは言うものの、まったく自殺と関係ないストーリーかと言えばそんなことはありません。
        主人公の「死にたい気持ち」を否定することなく、最後まで優しく受容的に寄り添うものとなっています。
        詳しくは後述しますが、むしろ、
        「死」そのものを直接的に正面から取り沙汰しない内容だからこそ、
        変にお説教くさいものに堕してしまうことなく、こうしたことが実現できていると言えるようにも思います。
        
        
        
        ■ 「上から目線のお説教」のような地雷要素はない
        ----------------------------------------------------------------------------
        
        よく「自殺をテーマにした」などというと、いかにもありがちなものとして、
        何か悩みを抱えて死のうと思っているキャラにお説教をして努力を促してお悩みを克服……
        というパターンが思い浮かびます。
        こういうのは普段から死にたい気持ちを抱えている人にとっては余計なお世話以外の何物でもない。
        そういうのはイヤですよね? 私はイヤです。
        
        本作は「自殺」そのものを深く掘り下げるようなストーリーではないのですが、
        そのおかげで、と言うべきか、
        「自殺ネタ」にありがちな、希死念慮や死ぬこと自体を「とやかく」言うようなお説教じみた要素はなく、
        希死念慮を抱えた人がこれを読んで傷つくといったリスクも限りなく低いものと思われます。
        
        
        
        ■ 自殺は否定されているか? 肯定されているか?
        ----------------------------------------------------------------------------
        
        「自殺」が扱われているという点に注目して拝読する以上、
        作中で「自殺」がどのような扱いになっているのかは見逃せない点です。
        
        単に世間的な価値観のまま、自殺が単なるお説教の対象になっちゃってるのか?
        それとも何か別の価値観が示されているのか?
        あるいはマンガのエンタメ要素を彩るネタに過ぎないのか?
        本作ではどうなっているでしょうか。
        
        まず前述のように、お説教要素がないという点では、否定的ではないと言えます。
        
        主人公は希死念慮の持ち主。
        ヒロインは「私も死のうと思ってたの! 一緒に死なない?」などと言う人物。
        この点を見るとストーリーは「自殺」に理解を示す内容であり、
        このまま自殺に向かって進んでいくかのようです。
        実際、二人で一緒に屋上から飛び降りるシーンまである。
        
        しかし主人公の希死念慮の原因は霊が取り憑いていることであり、
        除霊に成功した後は死を望む気持ちがなくなっています。
        それを見た琴音が「普通に戻ってよかった」などというセリフもあります。
        
        つまり
        「死にたい」などというのは「本心から思うこと」ではなく、
        「普通」でもない、という扱いになっています。
        
        また、プロット全体の構造を見ると、
        「死にたい気持ちのキャラを、別のキャラが "助け" て、死にたい気持ちがなくなって、解決」
        となっており、
        これは「自殺ネタ」でありがちなお説教パターンを構造的に踏襲した作りになっています。
        「自殺」は「やめさせるべき行為」であり、
        「いかにしてやめさせるか?」がストーリーを織り成す。
        
        琴音を始め、主人公の味方として登場する周囲の人々は
        結局のところ主人公を「死なせない」ことを目的としている。
        「一緒に死のう」というのは取り憑いている霊を満足させて除霊するための「作戦」だったのであり、
        琴音自身の本心ではありませんでした(少なくとも直接的には)。
        
        そもそも「自殺」そのものを正面から掘り下げるストーリーではないというのはすでに述べた通りです。
        明確な「お説教」こそないものの、
        最終的には「死=悪」「生=良」という一般常識に軟着陸する展開となっており、
        「自殺」を扱ったマンガという点に注目して読むと、
        何か、うまくはぐらかされてしまったような印象を受けます。
        
        では本作は自殺を単に「お悩み解決」するだけの薄っぺらい予定調和の物語なのでしょうか?
        そうとは言い切れません。
        
        最終的には主人公を「死なせない」ことが目的となってはいるものの、
        「死にたい」という思いそのものが直接的に批判されることはありません。
        
        その「死にたい」思いは霊が取り憑いているのが原因だったわけですが、
        最初からそれを明かすことはありません。
        
        もしも、序盤で琴音が圭壱に会いに来た時点で、
        「あなたが死にたいと思うのは霊が原因だから祓ってあげる」
        などと言っていたらどうなっていたでしょう?
        「お説教」に負けず劣らずお節介なものとなってしまっていた可能性が予想されます。
        これは単にプロットとしての話の引っ張りという以上の意味があると言えるように思われます。
        
        除霊のためには「圭壱が自分から死ぬと決めて飛び降りる」必要があった。
        これも単に、話の都合上の設定というだけのことではなく、
        「死にたい」という気持ちに対し、本人(霊=その気持ち)の気が済むまで
        徹底的に寄り添うことの大切さが表現されている……そんな気がいたします。
        
        琴音は圭壱を死なせないために圭壱の前に現れた。
        しかしそれを最初から表には出さない。
        「一緒に死のう」と言い、本当に一緒に飛び降りさえする。
        作中では結果的に琴音も助かりはするものの、自分はそのまま死ぬつもりだった。
        
        琴音の口から語られる「死後の世界」の話も、
        「自殺者の方が "死ぬ気で死ぬ" から成仏が早い」等、自殺を否定しないものとなっています。
        これについては、あくまでも圭壱を安心させるために言っただけ、という可能性もなくはありませんが、
        単に自殺をやめさせればいい、と、相手の意志を曲げることを目的としているのであれば、
        むしろ逆の内容のことを(嘘でも)言いそうなものです。
        
        ここには一つの矛盾もあります。
        死が悪いものではないというのであれば、なぜそうまでして圭壱の死を防ごうとするのでしょうか?
        確かに理屈で言えば割り切れないものは残ります。
        しかしここで重要なのは表面的な(表現上の)肉体の「生存/死亡」ではなく、
        圭壱の幸せを願っている、という琴音らの想いであると思われます。
        本人の意志を曲げて、肉体だけを生存させて「救ってやった」などと満足するのではない。
        圭壱の幸せ=精神的な意味で「生かす」こと。
        
        身を捨てるほどの覚悟で相手の心に寄り添ってこそ、
        単なる肉体的な生き死にを越えた意味で相手を「生かす」ことができる。
        ここにはそのような精神性が表現されていると私は受け止めたく思います。
        
        
        
        ■ 「あなたは大切に想われている」という空間
        ----------------------------------------------------------------------------
        
        ストーリーの縦軸は琴音による圭壱の除霊となっておりますが、
        これは後で振り返ってみればそういうことだった、という話。
        最初から「あなたの希死念慮は霊が原因だから除霊してあげる!」などと言わない、というのは前述の通り。
        
        除霊と言っても、何か、いかにもオドロオドロしい儀式をする……などということではない。
        琴音はただ、圭壱と親密な時間を過ごします。
        
        実の姉であると名乗る琴音と行動をともにするうち、
        圭壱は幼い頃の記憶を少しずつ思い出していきます。
        
        今まで忘れていた家族の記憶。あまり思い出したくはなかったこともある。
        そもそも今の家族とも折り合いはあまり良くない。
        生きていて楽しいわけでもない。
        序盤に「頭に憑いていた霊」を1つ取ってもらい、「頭の中がクリア」にはなった。
        それでも死にたい思いは変わらない。
        自分は死んだ方が良いのだという思いはむしろ確かなものとなっていく。
        
        しかし最終的に琴音との「飛び降り」を経て、
        そんなふうに思う必要はなかったことが分かるとともに、
        自分のことを大切に想ってくれている人が周囲にいたことに気付く。
        「死ぬ気」がなくなった後は、
        今までお世話になっていた(今の)姉のために戦えるようにもなります。
        
        ……と、こうして読後に思い出して筋書きだけを抜き出してみると、
        なんだか予定調和の訓話めいたキナ臭さが漂いますが、
        実際に読んでみるとそういう印象は受けません。
        
        大きな理由として挙げられるのは、主人公の「今の」両親が一度も登場しないことでしょう。
        「姉」を除く両親とは折が悪いふうなことが書かれてはいますが、
        直接その様子が描かれることはありません。
        
        また、学校では友人はおらず孤立していることになっていますが、
        かと言って何か直接的に敵対しているような様子も描かれません。
        
        記憶の中で想起される幼い頃の件に関しても、
        直接何か恨みを溜め込むような出来事は登場しません。
        あくまで圭壱自身が、自分を取り巻く「この世」に対し、
        引け目や所在無さを募らせているという描かれ方です。
        
        と言っても、露骨に何か「自分はこれこれの理由でダメ人間なのだ」などと言うような、
        世間的な価値観を大きく意識した対比での卑屈な発言があるわけでもありません。
        むしろ圭壱が感じているのは世間的な「価値」からは距離を置いた虚無感に近いものです。
        もちろん観念的に「そんな態度は間違っている!」などというお説教も出てこない。
        そのため、ストーリーに押し付けがましさというものがありません。
        
        これが例えば、何か直接的に自分に危害を加えていた人物が登場して、
        実はそれが圭壱のためを想ってのことだったことが判明して、恨みを忘れて赦さねばならない、的な筋書きだったり、
        あるいは何か世間的な価値観との対比で「もっと "頑張る" べきである」といった筋書きだったりしたら、
        まさしく説教そのもの・押し付けがましい・恩着せがましいものになってしまっていたことでしょう。
        
        圭壱に被害を与えるような存在はない。価値を値踏みするような存在もない。
        丁寧に虚無感が育まれる。決して否定などされない。
        自分のことをずっと大切に想ってくれている人がいた。
        だからこそ、「今の」姉のために誰にも頼らず戦うこともできるようにもなった。
        優しくされたい、構って欲しい、という
        幼い頃から抑え込んでいた自分の本心(生霊)と向き合うこともできた。
        「私達はそんな圭壱が大好きなの」
        琴音の言うこのセリフの主語が「私達」と複数形であるのは決して意味のないことではないでしょう。
        「良し悪し」を語るのではない。「大好き」と言ってくれた。
        だからこそ、圭壱は「こっちが本当の自分なのかな……」と受け入れることができたのではないでしょうか。
        
        死にたいと思うことも、優しくされたい、構って欲しいと思うことも、
        決して抑圧しなければならないようなことではない。
        そんな受容的で優しい空間がここにある。
        
        家庭環境や人間関係は人それぞれです。
        このマンガはあくまでマンガに過ぎず、
        ましてや「琴音」のような「救い主」が誰にでも現れるというものではないでしょう。
        その設定だけの出オチであれば、このマンガは単に
        「不幸な境遇に美少女が現れてイチャイチャ……」という即物的なものに過ぎなかったでしょう。
        
        "どこまでが本当のことだったんだろう? それとも全部僕の空想か……"
        
        空想でもなんでもいい。
        結局、琴音と主人公は結ばれることはありません。

        "先に行って待ってます。幸せでいてください"

        離れたところから、無私の愛を放って琴音は姿を消します。
        
        フィクションである以上、「予定調和」なのはある意味当然とも言えます。
        しかし「琴音」の存在は「どこまでが空想かわからない」という中から、
        空想と現実の垣根を越えて慈しみを伝えてきてくれるかのようです。
        
        
        
        
        ■ 作中で琴音の口から語られる死生観
        ----------------------------------------------------------------------------
        
        第5話で琴音の口から死後の世界について語られる場面があります。
        
        「そう言えば……やっぱり自殺したら成仏できないのかな?」
        
        と尋ねる圭壱に、
        
        「いいえ、自殺した人の方が成仏できるわ」
        
        とキッパリ答えています。
        
        
        その箇所の会話を引用します:
        -------------------------------------------------------------------------
「そう言えば……やっぱり自殺したら成仏できないのかな?」 「いいえ、自殺した人の方が成仏できるわ」 「え?」 「『死ぬ気で死ぬ』からよ。ほとんどの自殺者は成仏まで早いわ」 「へぇ……」 「誰かへの当て付けで自殺する人もいるけど、そういう人は成仏しないみたいね。 病死、事故死、老衰、殺人、そうやって死んだ人の方がこの世の彷徨っているわ。 ほとんどの霊はそれよ? 圭壱だって見えるんだからわかるでしょう? 自殺した人の霊が全然いないって」 「いや、僕はそこまでわからないから……」 「そう? ちなみに、自殺したからって地獄に行くとは限らないから……」 「地獄!? あるの!?」 「舌を抜かれたり釜茹でされたりとかそういうのじゃないみたいだけどね、残念だけど。 同じように天国もあるわ。 死んだってそれで終わりじゃない。 天国でも仕事はあるし、結婚もあるのよ。 それに、セックスもできるから」
------------------------------------------------------------------------- これは圭壱が最初に尋ねたように、世間でよく言われる自殺にまつわる死生観とは逆です。 「自殺」というものに常識にとらわれずに向き合いたいと考えている私たち(?)にとって 非常に興味深いものではないでしょうか。 ただの作り事にしては、妙に説得力を感じる内容です。 しかも、マンガの1シーンとしては不自然に説明的なように思われます。 単にストーリーを進めるためだけに、ここまで長々と琴音の口から語らせる必要はあったのでしょうか? ストーリーはこれ自体を掘り下げるような内容ではないのですが、 それだけに、逆に、一体何のためにこれが語られているのか……と、思わず深読みしてしまいたくなります。 ストーリー全体からこの箇所だけを切り出して取り沙汰することの野暮さは承知ながら、 この箇所だけ妙に浮き上がって見えてしまうのも正直なところではあります。 あとがきの中で、 「これを描くにあたって、知人の、いわゆる『霊能者』と呼ばれる人から聞いた話を一部設定に使いました」 と述べられています。 それがこの死生観のことを指しているのかどうかは定かではありません。 が、あながちデタラメな話というわけではないという可能性が示唆されるところではあります。 あるいは作者が自分で詳しい設定を考えたものの、 ストーリーの中で直接的に活かす場面がなかったため、 せっかく考えた設定を眠らせておくのはもったいないと感じ、 この場面で琴音の口を借りて語らせただけ、なのかもしれません。 またはフィクションであるにしても、 琴音が圭壱を安心させるために口から出まかせを言った、という可能性もあります。 いずれにせよ、そもそも、これに限らず死生観などというものの真実は誰にも確かめようのないことではあります。 何を言っても結局は生きている人間が言っただけというのは否定しようのない「事実」です。 深い意味があるせよ無いにせよ、実質的には何も言ってないのと同じであり、受け止める人次第ということになるでしょう。 とは言え、たとえて言うならジャンケンの前に「チョキを出すよ」などと予告するような、言い知れぬプレッシャーは生じます。 語られてしまった以上、無視はしがたい。 この死生観をどう受け止めるか、および自殺の是非についてここで私から語るのは控えて、貴方の判断に…… と言って筆を置いてしまいたいところではあります。 しかし、わざわざこうして紹介してしておきながらそれではなんだか卑怯な話。 というわけで以下に私なりの解釈も少し書かせていただこうと思います。 さて、一見すると、まるで積極的に自殺する方がよいと言っているかのようではありますが、 そう解釈してしまうのは少々早計という気はいたします。 大事なのは心から納得して死を受け入れる、ということのように思います。 だから、もっと生きたかったのに意志に反して死んでしまう場合は「この世を彷徨う」のであり、 たとえ自分から死を選んだのだとしても「誰かへの当て付け」で自殺する人は成仏しない。 だからこそ本作で示されているように、 「死」や「死へ向かう気持ち」を否定することなく寄り添うことが大切となるのでしょう。 それはさらに突き詰めて言えば単に肉体的な意味での結果的な生き死にということではなく、 人が人を大切に想い、その幸せを願うこと。 そこにこそ、生き死にを越えた全ての本質がある。そんな気がいたします。 ◆ 2020/04/26 思ったこと: アニメ『バビロン』ネタバレ感想 〜 自殺肯定がテーマと聞いて観てみましたが…… 自殺の肯定をテーマにしたアニメだという評判を聞いて観てみました。 これはこれで面白かったですが、自殺云々というのはあくまでエンタメ目的の「ネタ」の一部という印象です。 実際の製作意図は知る由もありませんが、 いわゆる「死にたい気持ち」を抱えている人の心に寄り添うような内容というわけでは全然ないと感じました。 まだ観てない方で、その点が気になって観てみようかとご検討中の方には、 あまりオススメではない、と私からは申し上げておきます。 猟奇系の娯楽作品を求めている人向けなのかなと思われます。 以下、そういう私の視点で書きますので、ついつい不満を漏らしがちなところはありますが、 本作品および制作者を批判する意図のものではありません。 ■ あらすじ ---------------------------------------------------------------------------- 本アニメをご存知ない方でも以下の文章が理解できるよう、ざっくりとあらすじを紹介しておきます。 (もちろんネタバレですのでご了承ください) 正義感あふれる検事が、人の精神を操って自殺させる超能力を持つ女性を追って捜査を進める、というのが全体の縦糸。 主人公の名前は正崎 善(せいざき ぜん)。東京地検特捜部の検事をしており、自分の仕事を「正義」だと考えています。 対する悪役は曲世 愛(まがせ あい)。超能力を持っており、人の精神を操って「自殺させる」ことができます。 曲世はその能力を駆使して大勢の人を自殺に見せかけて殺害しつつ、 政治家を操って「自殺法」という "人が自殺をする権利を認める法律" を世界中の国に導入させようと暗躍します。 後半では自殺法の導入について最後まで慎重な態度を見せていたアメリカ大統領が 自殺しようとする人物を人生相談で思いとどまらせることに成功。 しかしその大統領も曲世に襲われて死んでしまいます。 その直後に曲世と対決した主人公もどうやら曲世に殺されたらしいことが仄めかされて劇終です。 ■ 「自殺は悪いことか?」という問いかけ(だけ)は頻繁に出てくるけれど…… ---------------------------------------------------------------------------- 作中で「自殺は悪いことか?」といった問いかけが頻繁に出てきます。 それでちょっと何か、自殺に関する常識を問う意欲作?!かのような期待を喚起させられるところなのですが、 観念的な言葉が飛び交うばかりで、自殺そのものを正面から取り扱っているとは言い難い内容です。 何より、全編を通して、肝心の「死にたい気持ち」を抱えた人物がほとんど出てきません。 全12話というシリーズの中でこれだけ頻繁かつ大々的に「自殺」ということを前面に打ち出しているにも拘らずです。 「自殺」や「善悪」といった抽象的な言葉の組み合わせで「自殺=悪」と言えるのか、といった議論が交わされるものの、 それで実際に死のうと思うのは誰なのか? という点がほとんど描かれず、ただの言葉遊びになっています。 自分から「死のう」とする人物も例外的に何度かは登場しますが(後述)、 普段から「ああ、死んでしまいたいなぁ……」という思いを抱えている人がそれらを見て 「そうそう、そういうことなんだよ!」と感情移入できるような描かれ方をしているとは私には思えませんでした。 そもそも本作自体にそういう製作意図があるわけではないのだろうと推測するところです。 とにかく「自殺」という単語だけは派手に踊り、インパクトは強烈ですが、 あくまでも話題性を狙ったエンタメの「ネタ」として「自殺(という単語)」を利用しているに過ぎないという印象を受けます。 もちろん製作意図がどこにあるのかは私にはわかりませんし、 仮にそうなのだとしても、それはそれで需要はあるのでしょうし、批判する気はありません。 ただ、「自殺」という心理的にはデリケートな領域であるはずのものが、 娯楽作品を派手に彩るためのネタとして利用されている、という点に、 私はあまりいい印象を受けなかった、とは言っておきたいと思います。 ■ 「曲世愛」の能力による被害は「自殺」ではなく「殺人」 ---------------------------------------------------------------------------- 作中では多くの「自殺」が登場します。 が、そのほとんどは超能力者・曲世に精神を操られて自殺させられたものであり、 これは「自殺」ではなく「殺人」です。 非常に衝撃的なシーンが続き、曲世の強烈なキャラクターもあって「エンタメ」としてのインパクトは抜群と言えましょう。 ともすればその派手さに目を奪われてしまいがちであり、それを純粋に「楽しむ」のが本作の嗜み方なのかもしれませんが、 全編をとおして、自分の自発的な気持ちや意志で死を選ぼうとする人物はほぼ登場しないことには注意しておきたいところです。 ■ 「自殺法」を巡る議論でも自殺は他人事 ---------------------------------------------------------------------------- 作中で、国民が自殺する権利を認める「自殺法」という法律を巡る展開があります。 一種の安楽死の延長のようなもののようです。 そこで「自殺は悪いことなのか?」「善とは?」「悪とは?」といった抽象的な議論が交わされるのですが、 ここでも「死にたいと思っている」当事者は全くと言っていいほど登場しません。 「自殺法の賛同者が大勢集まった」などという描写はあります。 しかしセリフのある個別の登場人物として描かれることはほぼありません。 どこまでも当事者不在のまま、政治家や警察関係者たちが「自殺の権利を認めるなんて……!」と うろたえながら観念的な議論を交わす様子が描かれるばかりです。 従って、自殺そのものを正面から取り扱うというより、 悪役・曲世の暗躍で人々が右往左往する様子の一環、ということなのかなという感じがいたします。 「自殺法」に賛成の立場で登場する政治家も、実は曲世に操られていたようなフシがありますし、 理屈はさておき、結局のところ本当に自分から死にたいと思っている人物は登場してないような気がします。 (一部の例外については後述) 「自殺法」自体はいわゆる安楽死の延長といったところで、議論の内容自体はそう突飛なものではありません。 「自殺」という単語をこれ見よがしにビシビシ使うからセンセーショナルになる。 ここでもやはり「自殺」という単語をエンタメ用の看板として利用しているだけなのだな、という印象を受け、 私はあまり好感を持つことはできませんでした。 作中の議論も自殺に関する法的な扱い方、という点に終始しており、 「なぜ死にたいと思うのか」とか「死とは何か」といった領域に踏み込むことはありません。 ただし、「死にたい」当事者が登場しないおかげで、「気楽に楽しめる」内容になっているという面はあるかと思います。 「自殺」というデリケートな題材でありながら、肝心の部分は巧妙かつ大胆に避けている。 重いテーマと見せかけて、実は軽い。 このあたりはむしろ商業娯楽作品としての「気遣い」ということなのかもしれません。 ネットでこのアニメに対する評判を検索して見ていると、 「考えさせられる」「哲学的だ」などといった反応がよくあります。 こうした議論のシーンを面白く感じ、肯定的に評価しているということなのだろうなと思います。 「哲学ネタ」のエンタメとして一定の成功を収めているということなのでしょう。 たとえて言えば格闘マンガに出てくる格闘技を実戦で使ったら強いのか? と談義するのが楽しいのと同様、 本作中で交わされる議論の端々を取り沙汰して意見を述べる、などというのも楽しみ方の一種なのかもしれません。 ■ 「死にたい」当事者が登場人物として描かれる数少ない例 ---------------------------------------------------------------------------- 本作は「自殺」ということが派手に前面に打ち出されているものの、 実際に自分の意志で死ぬことを考えている人物はほとんど出てないことはすでに何度も申し上げたとおりです。 ここではその数少ない例について触れていきます。 ◇「死にたい」当事者が登場人物として描かれる数少ない例その1:後追い少女 第10話に母親を病気で亡くした少女が後追い自殺をするシーンがあります。 ただ、その少女も母親も本編の主要キャラクターではなく、その回のそのシーンのためだけに唐突に登場する人物です。 あくまで「モブ」としてステレオタイプな事例を出しているに過ぎず、 「当事者が描かれた」とは言っては少々言い過ぎのような気はいたします。 死へ向かおうとする内面を掘り下げる、といった描写は一切なく、ここでもやはり自殺は他人事という扱いです。 で、他人事としての自殺を主人公たちが止めようとするのですが、 自殺法があるので止めることができませんでした、というのがこのシーンです。 なのでこれは、おそらく、自殺法のようなものがあったら簡単に自殺されちゃうかもよ、 ということを描きたいシーンなのかなと思われます。 当事者の立場ではなく、止める側の立場でのエピソードということですね。 それにしても「エライ人が "いい" って言ってたよ」というだけで簡単に死ねてしまうということには不自然さを感じます。 周囲の人間が止めないにしても、いざ死を目前にした際の恐怖感や躊躇してしまう様子など、 そういったものがあってもよさそうなものですが、本作のこのシーンを見る限りでは、そうした描写はまったくありません。 やはり、自殺するのは誰か他人、という扱いなのであって、 死のうとする側の人間の気持ちというものがキレイさっぱりスルーされているようです。 このシーンの後、自殺法導入を決めたその地区の市長を主人公たちが問い詰めるのですが、 実は曲世が市長を操っていたことが判明します。 つまり、やっぱり曲世が人を操って自殺するように仕向けているのがイカンのだ、おのれ曲世め〜、ということなのであって、 「死にたい」と思う気持ちが云々ということではそもそもなさそうです。 ◇「死にたい」当事者が登場人物として描かれる数少ない例その2:斎開化 これは大きめのネタバレなので一応気をつけて欲しいのですが、 ・ ・ ・ ・ 斎開化(いつき かいか)が実は自殺を考えていた、という設定になってます。 彼は日本の一部の地域に世界で最初に自殺法を導入しようとする政治家です。 序盤からずっと、自殺法の導入に向けて活動していたキャラであり、 その本人が実は自殺を考えていた……という、当たり前といえば当たり前の設定ではあります。 ネタバレを気にするほどでもないか。 で、その理由についての議論や演説のシーンがあるのですが、これ自体は前述の通り、いわゆる安楽死の延長のような話で、 斎本人が自殺を決意するに至った内面については、結局よくわからないままです。 最初は「子供に臓器移植をするため」と言って周囲の同情を集めますが、その後「それは関係ない」と言い出します。 つまり、本人が死を希望するならそれを認めましょうというのが「自殺法」、というわけで、 敢えて内面は語らず、死ぬと言ったら死ぬんだ、というのが骨子なのかな、と思います。 だから、ここでも死ぬのは他人、なのですね。 死を選ぼうとする人間に、生きる側が、とやかく言うな、ということであり、 描かれるのは「とやかく」言いたくなってしまう側のためらいであって、死を選ぶ側のストーリーではない。 この場面で、死を選ぼうとする本人の役を斎という主要キャラクターの1人が務めてはいるものの、 斎自身が自殺を考えている、という設定がなくても、全体の本筋はあまり変わらないような気がします。 また、斎という人物もクールなキャラクターであり、 内面をシャットアウトしたまま流暢に理屈だけ語る様はどこまでも無人格であり、誰でもない他者という印象を受けます。 なお、作中では結局最後まで斎自身が死ぬところまでは描かれない、という点には注意したいところです。 自殺法賛成派として理屈をひととおり語らせた後は、ストーリー的には役割終了ということのようです。 上記の演説も政治家同士の討論会の中で唐突に出てくるものであり、斎自身の人間としての内面が描かれることはなく、 理屈の内容はさておき、見ていて感情移入できるというような類のものではありません。 また、斎の側では曲世が暗躍しており、実は斎の言動も曲世に操られたものなんじゃないの? と思ってしまうところでもあります。 そういうわけで、これもまた、「自殺」と言いつつ、 理屈を楽しむための「ネタ」に過ぎないのだろうなと思うところです。 ただし、死にたい気持ちを人に相談しても一方的に否定されるばかりで日頃から不満を募らせている……という人にとっては、 一連の自殺法の理屈には「スカっとする」部分があったりはするかもしれません。 ◇「死にたい」当事者が登場人物として描かれる数少ない例その3:身投げ人生相談 もう一つの例外は最終回。 自殺法の是非を話し合う首脳会談の最中、ビルの屋上から身投げしようとする女性が出てきて、 自殺を止めるためにアメリカ大統領が説得をする、というシーン。 なんだか無駄にスケールの大きい人生相談ですね。 で、世界中の視聴者が見守る中、無事に説得が成功して拍手喝采、という「心温まるシーン」です。 説得の内容をかいつまんで言うと、 「自殺が悪いことなのかどうかは自分にも分からないから結論が出るまで待ってくれ」と言って自殺を中止させるというものです。 こんな簡単に死にたい気持ちがなくなるんなら今頃世界中から自殺者はいなくなってるはずですね。 死にたい人の気持ちではなく、自殺を止めようとする人の視点で、ご都合主義的に描いていると私は感じます。 ただ、頭ごなしに自殺を否定しないという点では好感は持てます。 ちなみに、このシーンの直後、自殺をやめさせる理屈を思いついた大統領は曲世に襲われて死ぬことになってしまいます。 つまり、ご都合主義な答えに満足している大統領に曲世が罰を下した、というふうにも見えなくはありません。 とは言え、単なる理不尽な猟奇的暴力のようで、見ていて気持ちのいいものだとは私には感じられませんでした。 かと言って大統領の説得で感動できたわけでもなく、どちらの立場にも共感はできませんでした。 ■ 正義の主人公 vs 悪の曲世愛 という構図 ---------------------------------------------------------------------------- 「自殺」ということを派手に掲げているわりに、正面から自殺を取り扱った内容とは言い難く、 その点で私としてはあまりいい印象を持たなかった、という話をこれまでにして参りました。 それとは別に、興味深いと感じた面もあります。 一つは主人公・正崎と悪役・曲世の対立構造です。 要は「いいもん vs わるもん」という基本的なことではあるのですが、 本作の場合、むしろいわば「綺麗事担当 vs ひねくれ担当」という役割分担が見えます。 主人公の正崎は東京地検特捜部の検事というエリートであり、妻子持ちで、部下にも信頼され、上司からの信任も厚い。 品行方正で世間的には実に非の打ち所がありません。 さらに自分の仕事は人を守る正義だ、などと抜かすのですからたまりません。 こういう「鼻持ちならない」やつを見ると、ちょっと揚げ足をとってからかってやりたい、 などと思ってしまうのは私だけではないでしょう。 そんな、私たちの誰しも少なからず持っている「ひねくれた」気持ちを代表するのが曲世愛。 そういう見方ができるようにも思います。 第2話の取調べのシーンはまさにそういう場面ですね。 曲世は正崎に「戦争は悪いこと?」「子供を殺すことは悪いこと?」などと基本的な質問を矢継ぎ早に浴びせ、 最初は自信たっぷりに答えていた正崎も徐々に答えにつまるようになり、最後は「何なんだキミは!!」と怒鳴り出してしまいます。 だから全編をとおして正崎および主人公側の人物の言動は、ひたすら中身のない表面的なお題目ばかりであり、 対する曲世の「ツッコミ」も、そのレベルに合わせるかのように表面的なものに終始しています。 たとえば「戦争は悪いこと?」と言いつつ、 実際に戦争が描かれて、そこに生きる人々の喜怒哀楽が描かれる……などということはない。 「自殺」についても同様で、作中で本当に「死にたい気持ち」が描かれることはないというのはすでにお話した通り。 どこまでも観念的なお題目のやりとりが繰り返されるばかりです。 そこが私には「ネタ」くささとして感じられてしまうと申しますか、 何か深い意味のある話であるかのような思わせぶりな様子を見せるばかりで 一向に「中身」へと踏み込んでいかない展開に興醒めしてしまったところではあるのですが、 上記の対立構造を踏まえて考えれば、むしろ中身がないのは当然で、 中身のない観念的な綺麗事を並べる検事や政治家などの「良識人」を、 これまた単に極端に猟奇的なだけで中身のない言動で曲世が揺さぶりをかけ嘲笑っていく…… その様子こそが本作品の見どころ、なのかもしれません。 「あなたたちが自分が正しいと思って頼りにしている常識なんて、所詮この程度のものなのよ」 と曲世の嘲笑が聞こえてくるかのようです。 (こういうセリフがあるわけではないのですが) 曲世愛というキャラクターの設定には曖昧なままの点が多く、実際に画面に登場する頻度もあまり多くはありません。 たまに出てきては主人公に不気味なセリフを残して消えていく、という登場の仕方ばかりです。 超能力で変身することができるため、出てくるたびにビジュアルが違っていて素顔もわかりません。 それにもかかわらず、非常に存在感があるのは、 そもそも等身大のキャラクターではなく、品行方正な善人を見ると思わずいけ好かないと感じてしまう、 視聴者としての心の一面の投影像だからかもしれません。 感情移入というのとは違う、ある種の痛快感を惹起されるキャラクターではあります。 ■ 「考えて」というメッセージ ---------------------------------------------------------------------------- 思わせぶりなお題目や観念的な議論が中身を伴わない空回りを続けられる一方、 「考えて」というメッセージが繰り返されます。 主人公の正崎は「正義とは何だ?」などと観念的な言葉遊びを繰り返すキャラですが、 そんな中で「正義とは何かを永遠に問い続けること、正義とはきっとそういうものなんだ」と語る場面があります。 物語の後編に出てくるアメリカ大統領は、考え続けることで人生の難局をクリアしてきたという設定の人物で、 自殺法の是非を巡っては各国の首脳をリードして考えることを促します。 そして曲世に至っては、人間を生きたまま斧で切り刻んで 「悪って何かしら?! ほらっ! 考えて! 考えて!」などと主人公に迫るキャラです。 最終回、自殺を止める人生相談のシーンでは、 自殺が悪いかどうかは分からないから答えが出るまで待ってくれ、と 「考え続ける」ことを確約することで説得に成功するのでした。 しかしその直後、説得にあたった大統領は「答え」を思いついてしまいます。 その「答え」を教えようとした瞬間、曲世に襲われて殺されてしまいます。 どんなに正しそうな答えに辿り着いたのであれ、考えるのをやめた人間には生きる価値がない…… それが異能者・曲世が世界の人々に下す審判であるかのようです。 ……というのは、全編を見終えた後に思い出してみれば、そういう見方もできるような気がする、という話。 観ている最中には観念的な議論や曲世の起こす猟奇的な事件の印象ばかりが強く、 衆目を集めるためのエンタメ的なネタとしてやっているだけなのだろうな、と醒めた気持ちで眺めていました。 さらに言えば、いかにも「考えさせられました」「哲学的!」「深い」などと視聴者に言わせようとしているかのようで 少々わざとらしい、という印象を私は受けてしまいました。 特に上述の曲世が斧で人間を切り刻むシーンなどは、単に猟奇ネタに走ってるだけなんじゃないかというのが率直な印象です。 ストーリー上、そういうシーンが必要だったのかどうか、私には疑問に思えます。 セリフの上で「考えて!」などと言っておけば「考えさせられました」と言ってもらえると思って作ったのだとすれば、 それは少々安易な作り方だなと思わざるを得ません。 ■ おわりに:「自殺」ということに対する世間的なイメージ ---------------------------------------------------------------------------- 娯楽作品である本作に娯楽以外の何かを求めるのはそもそもお門違いというものではあるでしょう。 とは言うものの、ただ衆目を集めるために「自殺」というデリケートなテーマを掲げて 面白半分に弄んでいるようにも見え、あまりいい印象を持てないというのが私の正直な気持ちではあります。 もちろん製作の真意がどこにあるのか、私には知る由もないことです。見る人次第で印象も異なるでしょう。 しかし「自殺について常識にとらわれずに向き合って欲しい・考えて欲しい」という切実な願い、 といったものが本作品から伝わってくるようには私には感じられませんでした。 「考えさせる」かのような要素もあくまでも「哲学風の娯楽ネタ」に過ぎないのだろうし、 その内容自体についてとやかく言うのも格闘マンガの格闘シーンを真に受けるような野暮なことのように思われます。 本作は世間では娯楽作品として一定の評価を得ているようではあり、 それに関して何か物申すことのできる立場に私はおりませんが、 「自殺」ということに対する世間でのイメージが間接的にある程度うかがい知れるような気はいたします。 作中でも触れられているとおり、日本だけでも毎年何万人もの自殺者がいる…… というのはニュース等でもたびたび話題となることです。 それでも大多数の人々にとっては「自殺」は他人事であり、 何かおどろおどろしい気配を帯びた、日常に刺激を提供してくれる猟奇的なネタの一種、 というぐらいの感覚を持っていたとしても、仕方がないと言えば仕方がないことかもしれませんね。 商業作品である本作が、そうした「多数側」の人たちを対象とすることとなるのは自然なことではあろうかと思います。 確かに、自分の意志で死を選ぶということについて真剣に考えたことがある、 という人が本当に多数派になってしまうようでは世も末でありましょう。 こんな「娯楽作品」が世間に受け入れられるぐらいで、世相としてはちょうどいいのかもしれません。 などと言えば、嫌なら見なきゃいいだろ、という声がどこかからか聞こえてきそうではあります。 その通り。 「自殺」ということを娯楽のネタとして消費したいという人はさておき、 そうではなく、正面から向き合いたい、と考えている人には、本作はオススメできないと私は考えます。 ◆ 2020/04/22 したこと: デ中略ァン720mg(メ○コ●)体験レポート みなさん、こんにちわ。愛してます。 というわけで久々にイッてキました。 本当に帰って来れてるのかな? 一時はイキっぱなしになるのではないかと思ったこともありますが、多分帰ってきてます。愛してます。 現時点で摂取から27時間ほど経過しておりますが、 まだ立ち上がると体が異様に軽くて身の危険を感じるほど。今日は誰に言われなくても外出自粛です。 瞳孔はまだガバガバで目ブレは収まらずキーボードの打ちにくいこと。 なお、例によって肩コリは全快です。素晴らしい。 さて、いつものように、悪い子がマネしないように具体的な物質名等は伏せ字にし、 ご存知の方にだけ伝わる方で、事故防止(harm reduction)や情報共有を兼ねてお送りいたします。 というわけで、この内容は「フィクションということになり」ます。よろしく! あ、あと法律に違反するようなことは一切していないと断言しておきますよ! ■ 目的 基本的には前回と同じです。 デ中略ァンの解離効果を利用して擬似的にニルヴィカルパ・サマーディの状態に入り、 元因領域までイッて神とやらを殴ってやろう、ということでございます。 なぜこの世はこのようなのか? なぜ無ではなく有なのか? なぜよりにもよって、感覚を持った存在が苦しまねばならないような宇宙にしてしまったのか? 2、3発殴る程度で許すつもりなどありません。 牛乳を拭いた雑巾を机に入れ、上履きズックは防火バケツで水浸しの刑です。 さらに事と次第によっては体操服をハサミで切り刻んでやる所存であります。黒板に悪口を書くことも辞さぬ覚悟で臨みます。 神だかなんだか知りませんが調子に乗りすぎなんですよ。一度シメてやらないと。 それに加え、今回は『学園棋神伝マインドル』の件でも聞きたいことがあったのでした。 これを私にどうしろというのか? 石川県某所に在住の無名の木下某とかいう一介の人間にこれを作らせたって知れ渡るようになるわけがないではありませんか。 今までの人生を振り返ってみると、結局のところ「私」にこれを書かせるために全てが配置されていたように思えてなりません。 どういうわけか「私」に「私」という意識があり、生存のために苦しまねばならない。 その点については「私」以外の認識主体の皆々様方もご同様のことと拝察いたします。 具体的個別的な人生の生き様はそれぞれであるにせよ、そうした基本構造自体は「私」に限らず普遍的なものであるはず。 ただ、その苦しみの度合いが高すぎても低すぎても、それについて記述を進めていく際のバランス感覚に影響が出る。 「私」ぐらい中途半端で恥ずかしい人生を送った人間じゃないと、なかなか「こう」はなりにくい気がいたします。 しかし、「私」に書かせたってですね、その後、ドウニモナランわけですよ。 ちょっと何と申しますか、手が込んだ策を巡らせたようで、その割に、采配に手抜かりがあったんじゃないかなと申しますか、 やっぱり神とかいう人(?)はアホちゃうか、と、こう思うわけでございます。さてはツッコミ待ちか? ■ ドースについて 今回は有効成分で換算して720mmです。 日本でOTCで購入できるコ●タ●クWで言うところの一箱分ですね。 これが何を意味するかと申しますと、プラトーで言うと第3の後半ぐらいを目がける狙い。 いずれ一度は第4を目がけてイきたいとは思っておりますが、前回は540mmでしたので、少しずつ増やしていきます。 ■ 摂取方法 すでに定番の白がゆメソッドを使用。 おくすりを直飲みすると胃が刺激されて吐いてしまう → 胃に悪い & 歯に悪い & おくすりもったいない というわけで、事前に白がゆを食べておくことで胃壁を守るわけですね。 胃腸の動きも活発になって吸収も促進される。まさに一石二鳥。あ、鳥さんに石を投げちゃダメですからね? 途中で寝落ちしないようにたっぷり睡眠をとった上で胃を空っぽにしておき、 レトルトの白がゆをおナベでコトコトあたためてイタダキます。 その約15分後、メ錠48錠を(ちまちま一粒ずつ数えて)ぬるま湯でイッキ飲み。 しかし毎度ながら錠剤を数える作業が死ぬほど面倒くさいですね。 他の皆さんは本当にちゃんと数えてるんかな? エライなぁ。これだけで悟りが開けてしまいそうですよ。 いやむしろ悟りを開いてる人じゃないとヤッちゃイケないということか? 鶏が先がタマゴが先か。お風呂が先かご飯が先か。ドキドキの禅問答。 ■ 開始〜効果発生まで 前日は睡眠を多めに取っておくつもりが、目が覚めた直後のパソコンのタイマーによると5時間ほどしか経過してないらしい。 分量的には今ひとつ不安。二度寝を試みるも、寝れそうにない。眠気はないのでこのまま決行することとする。 熱いシャワーを浴びて完璧に目を覚ます。 で、おナベで白がゆのレトルトを温めるなどしつつ、 いつもながら、飲む直前まで「え〜、ヤルの? マジで? 今なら引き返せるよ?」とグダグダ思っている。 白がゆを食べた後はもう流れ作業。 待機→時間来ちゃった…→錠剤を淡々と数える(数え終わちゃった…)→水温める(お湯できちゃった…)→おくすり飲む 飲んだ直後からイキナリ若干吐き気があるようなないような? 錠剤のニオイがキツイですな。人によってはあの匂いを嗅いだだけでエズくというのも頷ける話。 これまたいつもながら、飲んだ直後は実感がない。 直後というか、「飲む」と決めて、錠剤の数を数えるなどの直前の作業に入ってからが妙に淡々としていて現実味がない。 実は既に飲んでいて、幻覚の中で飲む作業を繰り返しているのではないか? とかなんとか。 洗面所&トイレのドアは開けっ放しにしておく。電気もつけっぱなし。 寝床との経路上に踏んで滑るものなど危険なものがないことを確認。 トリップ中の食料として、パンを一口サイズに千切ったものをキッチンペーパーに並べておく。 吐き気が来たときの対策として、きな粉ジュースを作っておく。 吐く前にこれを飲むことで、歯を胃液の酸から保護するのが目的。 ハサミはビニールテープでぐるぐる巻きにしておき、包丁もキチガイの手の届かないところに片付けておく。 念のため、枕元にゲロ袋も用意。 近所の駐車場の車が通るたびにキンキンやかましいドブ板も前々日の夜にこそっと直し済み。 セッティングは完璧。 効き始めるまでどうしようかな? いつも何してましたっけ? アニメとか観てたような。 Twitterが気になるというのは今までにない要素ではある。 が、体験中Twitterは見ないと決意しているので見ない。不退転の決意で見ない。 ・00:00 〜 00:20 ブラウザで将棋(『将皇Lv1』)。勝てた。まだ脳は正常。 CEVもなし。 ・00:20 〜 00:30 CEVに目立った変化はなし。 シラフのときよりは光の点が飛び交うような? 気のせい? 暗闇に奥行きがあるようなないような。 暗闇に意識を集中すると引き込まれるような、何かが浮かび上がってくるような……。 まだシラフでの瞑想と大差ないっちゃない。 ・00:30 〜 00:45 具体的な変化はないけれど…… このまま何も起きなければ……残念ではあるけれど、それはそれでいいのかな。 なんて、これもまたいつも思うこと。 某ワスカと違ってブツがケミカルですから、効かないってことはないはず。多分。ドキドキ。 そう、なんか妙にそのドキドキ感が募ってくる。あ、心拍数に異常が、ということではないっす。 深呼吸をすると、息がほのかに薬くさい。 ・00:45 〜 00:50 立ち上がってみる。少しフラついている? 足元に恐怖感。 転ばないように気をつけて洗面所へ。鏡で瞳孔確認。まだ開いてはいない。 念のため小用を足しておく。身動きができる今のうちに。 足の裏の床の感覚が心許ない。 戻ってきて窓の外の天気を見る。 身を屈めて窓に顔を近づけようとした際、ぐいっと顔が窓に接近。危うくぶつかるかと思った。 身体のふんばりがユルんできている。視覚の距離感も怪しい。これは危険。気をつけよう。 ・00:50 〜 01:00 サイケ系のトランスをBGMに瞑想を試みる(Shpongle、Entheogenic、Astral Projection、Ott 等)。 座って背筋を伸ばしているのが少々つらい。 キーボードを打つ手が少しふるえている? ブルブルというよりフワフワ。指の狙いが定まらない感じ。 この時点で吐き気や下痢が来ないってことは、すでに白がゆメソッド大成功ってことでいいのかな? ・01:10 上の四行書くだけで10分近くかかってる。いつもどおりっちゃいつもどおり、か……? タイプミスしまくる。いつもどおりっちゃいつもどおり、か……? 手とキーボードが巨大に見える。いつもどおりっちゃいつもどおり、か……?! 大爆笑。 瞳孔やや開き気味。 足元がおぼつかない。洗面所への行き帰りが冒険味を帯びつつある。 あー、もうアイマスク装着して横になろう。 ・01:45 すでにりりくずみ (↑ささっとタイプしてアイマスク+おねんねに戻った) 以下、シラフではなくなり、こうした時系列に沿った実況的な記述は不可能となります。 ■ 離陸 前回同様、頭の後ろの方から光の輪のようなものが次々と表れて前方へ移動し、トンネルのような形状になる。 なるほどやはり臨死体験などでよく言うトンネル現象と言うやつかな? 身体から脳への信号が減っていくことが脳内ではトンネルのような形状で表現される、とかなんとか。 同様のことは麻酔剤のケ●ミンでも報告されていると聞き及んでおります。(※ケ●ミンは一般民には違法) デ某ァンも作用機序が近い(NMDA受容体拮抗作用)ので根本的には同じなのでしょう。 解離(dissociation)と体外離脱との類似点がここにあるというわけですね。 で、どうすんの? トンネル。入るの? 入らないの? そりゃもちろん入りますとも! 視界が前方へ流れていく。暗闇が周囲から押し寄せてくる。前方に光が見える。少しずつ大きくなってくる。 そしてトンネルを抜けると……満天の星空! 宇宙空間か?! さて、今回もこうして無事に「効果が出た」わけだ。この安定感は、さすが化学物質と言ったところですかね。 うーん。さしあたりそのようではある。 この時点で吐き気も下痢もないってことは、やはり白がゆメソッド大成功と言うことなのでしょう。 若干、手足の末端や頭皮がビリビリするような感じがある。 無意識に頭を掻いていた。 おそらくこのまま「自分の身体」に執着していると、それが「かゆみ」に変化していくのではないか? デ某ァンで痒みに襲われて大変だったという話をしばしば聞きます。それは御免こうむりたい。 思い切って身体のことを「忘れ」よう。すると末端のビリビリ感もすぐに気にならなくなってきた。よし。 一応、離陸はできたみたいではあるけれど……。 何? 何か不満でもあるの? とりあえずイロイロ見て回りたいかな。 はいはい。 視界が変転。見たことがあるようなないような街の景色。 大通りから川沿いへ。そして広場へ。天気はいいみたいだけれど空が暗い。夜なのかな? 桜が満開だ。「現実」ではすでに葉桜ですが、こっちでは今が盛りのよう。 しかし人がいない。 桜の咲き乱れる場所にも、ここに来るまでに通った駅前のような場所にも人っ子一人いない。 もしやこんなところにまでコロナの影響が。 その後もひたすら支離滅裂な景色が次々と変転。これについてはいつも通り。 ただ今回特筆すべきは、身体の感覚がほとんど、あるいは全くなかったこと。 今までは何だかんだ言いつつ、「実際には自分の部屋で寝ているだけ」という感覚が常にあった。 今回ももちろんその自覚がないわけではない。 しかし、「そんなことはどうでもいい」という感じ。 両手を胸の上で組んでいるのか、体の両端に投げ出しているのか、すぐに感覚がなくなってしまう。 足を伸ばしているのか、膝を曲げているのか、すぐにわからなくなってしまう。 金縛りに近い感じ。 動こうと思えば動けるが、動き方を忘れている。 もしかして死んでるんじゃなかろうか? と心配になり深呼吸をしてみる。確かに息をしている感じはある。うむ。 NMDA拮抗系の麻酔剤は呼吸抑制作用がないからこそ、設備の乏しい途上国などでの医療に欠かせないのだとか。 だから、この程度のデ中略ァンそれ自体で死ぬことはまず有り得ない。 他に常用してる薬があるわけでもなし。 身の回りに危険なものを置いてあるわけでもなし。 安心してイって参りましょう。 意識だけの存在になって、さまざまな空間を支離滅裂に飛び回る。 やっぱりちょっと全体的に「暗い」なぁ。 身体感覚がないという点では 540mm→720mm の効果が出ているということだと思いますが、これはどういうことなんだろう? ずっと日陰から日の当たる場所を覗いているような感じ。 見えていないわけではない。 視覚的な表現としての強度は落ちたものの、存在を感知するという点に特化しているということかな? たまに人を見かけるけれど顔がない。話をすることもできない。 繁華街。ビル街。住宅街。集合住宅のような高層の建物。 直前まで人が住んでいた様子でもあるが誰もいない。 時間が止まっているような。あるいは打ち捨てられた廃墟のようにうら寂しい。 誰か会いたい人はいないの? こっち側に来てるわけじゃないだろ? いるよ。こっち側にはこっち側の形で。 マジですか。 会いたいって念じれば会えるよ。 そっか……。でも別に、特に会いたい人ってのもいないからなぁ。 などと言っている間にも次々と目まぐるしく景色が変転している。 街の上空へ。車の行き交う大通りが不意に暗くなり、川のようになる。(人はいないのになぜか車は動いている) 水の流れが生々しい。いつしか辺りは森の中。 川は右側を流れている。やはり「川向こう」ということなのか。 生い茂る木々の間をくぐり、空に浮き上がって森の上空をすべっていく。前方に輝くのは……海か! 自然の景色には誰もおらず、街も打ち捨てられた廃墟のような寂寞感が漂う景色ばかりでしたが、 ずっとそばに誰かがいて導いてくれているような気配があり、孤独感というものはありませんでした。 延々と誰か(1人〜数人)と会議をしていた感じ。 街であれ自然の景色であれ、夜か明け方の薄明かりのような光景が多い。 が、それもまた風情があってよろしい。 この懐かしさは何だろう? 満天の星空の下、どこまでも続く大草原を、トロッコでレールの上を滑るように移動する。 で、これからどうする? えーっと……。 何か聞かなければイケないことがあったような……。 ところで私って「この中」の誰だっけ? あいつだよあいつ。 うん、その、石川県某所在住の木下某ってやつだよね。それは「知って」るんだけど……。 ああ、そういうことにしてあったんだっけね。 自分がどこの誰で、今までどのようにして生きてきたのか? なぜ今回「ここ」へ来ることにしたのか? 無数にある作り話の一種のように他人事のように感じられる。 そもそも直前に薬を飲んだ行為からして、理由がよくわからない。 私の意志ではなく、むしろ「呼ばれて」来たのではないのか? そんなことより、せっかく「こんな状態」なんだし、他に見たいものがあるんじゃないの? そのうちまた戻らなきゃいけなくなるんだし、行きたいところがあるなら早めにした方がいいよ。 えーっと、じゃあとりあえず地球から出よう。太陽系の外へいこう! なにそれ。発想が貧困。 地球に長居してたらそんなふうにもなる。誰のせいだと思ってるんだ。 オッケー、じゃあとりあえず行きますか。 上昇感。星の海へ。 一面の真っ白な空間。宇宙って黒じゃなくて白だったのか? その間も「おしゃべり」は続く。 妙に「メタ的?」というか、外側へ外側へと再帰ループを遡るような感覚の会話が多かった。 宇宙は3〜4人程度で回しているスキームで、そんなに大昔から続けてるってわけじゃない、とかなんとか。 大昔から続いているように見えるのは、内側から見たときの錯覚なのだ、とかなんとか。 今回のはそろそろ終わりだねぇ、とかなんとか。 人間を「じょせい」と「だんせい」に分けるってのはなかなかケッサクだったね、とかなんとか。 あんな不便なのが進化の必然だとか、何か無理がある説明だなって実は内心思ってただろ? とかなんとか。 でもまぁ「ロマンス」ってオモシロかっただろ? オモシロくねぇよクソが。とかなんとか。 今に始まった話じゃないという気はする。 私もこの「スキーム」に関係している? 言われてみれば思い当たるフシはある。 両親の顔が思い浮かぶ。今までずっと「私」の家族を演じてくれていたのだ。 道理で何かおかしいとは思っていた。 幼少期の記憶の中で、ずっと忘れていたけれど、今思うと不可解に思えるような記憶がいくつか蘇る。 なんで忘れてたんだろう? あの場所にあったビルはいつの間になくなった? あのビルの途中に書いてあった「○(←フォントに存在しない漢字のような文字)」って文字はなんだったんだ? だからキミにも他人事じゃないってことだよ。 そりゃそうだ。「地球」で「自分」として生きるってのはなぁ、もう筆舌に尽くしがたいことなんだぞ。 気がついたら「自分」がいて、生存ために追い回されて…… 必ず死ぬのに、何のために生きているのかも分からず…… 自殺することもできず、無目的に生存を続ける苦しみで…… わざわざこんな茶番を仕組んで地球のあいつに『学園棋神伝マインドル』まで書かせて、それでどうしようってんだ。 うん、だからさ、キミもこれでよく分かっただろ? ええ、ええ、よく分かりましたとも。こんなことを一体いつまで続ける気なんだ?! そろそろイロイロ限界かなとは思うんだけどね…… ■ 06:35 ふと目が覚める。 寝ていた? いや違う。整理して思い出すのは難しいが、鮮明に覚えている。 ぶっ飛びまくっていた。 アイマスクをずらすと窓の外からの白い光が目を射る。しかし焦点は合っておらずブレブレ。ガンギマリだ。 どうやらまだ生きているらしい。 身を起こそうとする。手足に力が入らない。立ち上がるのは不可能。 焦点の定まらない目で懸命にPCの画面を見る。 再生させっぱなしにしていた長時間ホワイトノイズの再生時間を見ると、約6時間半経過していると分かる。 そんなものか。長いような短いような。 というか「今」が「いつ」なのかがよくわからない。 体験中はTwitterは見ないぞ! などと事前に決意するまでもなく、そんなことはすっかりどうでもよくなっている。 このブレブレの世界の方が「現実」だということを頭では理解しているものの、「そんなことはどうでもいい」と感じる。 どうでもいいというか、それなりに重要ではあるものの、計画は向こうでしてくれているし、 「こっちの私」は「こっちの私」でさしあたり「居る」のだろうし、 なるようになるのだろう、と妙に覚めたところで「知っている」感じ。 全身の皮膚が厚ぼったく痺れていて感覚がない。 なるほど、麻酔中という感じ。 さて、私は「こんなことをしている場合ではない」のだ。 アイマスクを装着し、再び離陸。 ■ 06:35 〜 12:00 その後も目まぐるしい変転はひたすら続く。 生まれてきた意味も分からず、死ぬこともできず、生きるために苦しみ続ける。 だからせめて愛し合いたい。 どうかお願いだから。 苦しみを笑わないで。耳を傾けて。 どうかお願いだから。 ■ 〜15:26 おなか空いたなぁ。 しかも布団がなんかおかしい。 ブレブレの視界と前後も上下も分からない身体感覚の中で身を起こし、乱れた毛布を直す。 しかしわけが分からない。 焦点が定まらないながら、手に持ったそれが毛布であることは分かる。 が、何かもう、本当に、「わけが分からない」。頭の上にハテナマークが大量に並ぶ。 どっちが前なのか横なのか、一体どうすればいいのか。わかるようでわからない。 見当識がヤラれている感じ。 自信は持てないながら、毛布をどうにか「それっぽく」直して「よし」とする。 宇宙を作った神とか言う人が最初にイロイロ「あれ」と言って「よし」と言ったのも案外そんな適当な感じだったりして。 食事に行くべきか行かざるべきか? おそるおそる立ち上がってみる。うっ、これは無理。まともに歩けない。台所がはるか彼方にボヤけて見える。 この状態であんな遠方に行くなんて命がいくつあっても足りない。 効果はかなり抜けてきた感じではあるものの、まだまだ心身ともに「あっち側」に片足突っ込んでいる状態。 結跏趺坐で座って背筋を伸ばして瞑想をしてみる。 おお……。 一瞬で身体の感覚が消えてガンギマリになる。 目を閉じても「閉じている」という感じがまったくない。 白い石膏の壁に囲まれた広い部屋にいる。 いつまででも座っていられそう。 今度は敢えてロードースで瞑想の補助にしてみようかな。邪道の極みですが。 とかなんとかグダグダしているうちに立てるようになってきたっぽいので、 慎重に慎重に、コース取りを計算しながら手足を動かして、台所への摩訶不思議アドベンチャーを敢行。 吐き気がないことを確認しつつ、用意しておいたパンときな粉ジュースをいただく。 吐く心配はなさそうなので、きな粉ジュースは普通に飲み物としておいしくいただきました。 うまい。妙にうまい。 少しだけにしておくつもりがパン3枚分ほどガツガツ食ってしまった。 洗面所で鏡を見る。瞳孔はガバガバ。指先が入りそう。 しかしヒドイ顔だな〜、髪はボサボサだし、唇ガサガサだし、誰だコイツ、ってハイハイお約束。 ハミガキを済ませ、小用を足し、慎重に寝床に戻る。 アイマスクをつける。まだ効果は消えていない。 どこかの地下室のような空間が見える。きっと宇宙のどこかにその場所があるのだろう……。 ■ その後 完全に効果が消えてはいないことは身体のふらつき加減を考えれば明らか。 ひとたびアイマスクをつければ「見えまくり」ます。 しかしそれもマイルドなものとなり、やがて眠ってしまった模様。 目が覚めると外が再び明るくなっておりました。 ■ 反省と今後に向けて 読み返してみるとイロイロ恥ずかしいですね。 しかし体験レポートとはそういうもの。ゆえにこれで正常と言えましょう。 本当はもっとイロイロあったんですが、これぐらいが私に文章化できる限界です。 映像的な派手さという点では前回の540mmのときの方が見応えがあった。最近ハヤリのナントカ映えしそうな感じ。無理ですけど。 今回はそれよりは観念的な内容だった気がいたします。その意味ではより深いところまでイケたという気はいたします。 身体感覚がほぼ完全に消える時期があったというのも興味深いところ。 思わず "I am more than my physical body!" とアファーメーションしたくなっちゃいますね。 科学的には脳内の幻覚ってことになるのかもですが、私は学者じゃないのでそんなのはどうでもいいこと。 こういう体験を自分の中でどのように意味づけしていくか? 死んだ後、さしあたりはああいう場所に行くんじゃないかなぁ、という印象が 私の中で「既知」のものとなってきているような、そうでもないような。 しかしそうなのだとしても、それらを引っくるめた一切は一体何なのか。なぜ無のままではいられなかったのか。 ところで、この量で身体感覚が消え始めるということは、 これ以上量を増やすのは危険かもしれない。いや既に危険なんですが。 日本のOTC版のコ(中略)Wでの「一箱」がこの量、であることの意味を噛み締めたいところ。 瞑想との組み合わせで効果を増強できるというのも面白いですね。 人にオススメできるような方法ではありませんが、要は、方向性は近いものがあるということではあるのでしょう。 意識を保ったまま身体の感覚を消し、精神の世界を探求する技法。 その意味では、薬物の力を借りなくても探求の方法はあるのかもしれません。と、お利口さんっぽいことも少しは言っておく。 量を増やせばいいってモンじゃないだろうなとは思います。 今回、プラトー的には前回同様、第3後半〜第4入口ぐらいまではイッたのかな? 休薬期間のガイドラインはプラトーx(かける)週。最低でも1ヶ月はお休みということになります。 と言いつつ前回は1年近く開けちゃったんでしたっけね。 白がゆメソッドも安定してきたことですし、もうちょっと頻繁にやってみたいという気持ちもあるものの、 あんまり頻繁にやってたら身がもちません。やはり実弾の物量を増やさない方向を模索するべきかな? ちなみに肩こりは全快したものの、なぜか腹筋が筋肉痛です。 なぜだ? 手足が頼りにならない分、変に力が入ってたのかな? その他の後遺症はこれを書いている間にもだいぶ収まってきましたが、まだ何かフワフワ感が残ってますよ? そういえば前回は翌日以降も1週間近く離人感が残って大変だったのでした。 今回は果たして無事に社会復帰できるのでしょうか。まとまった休みが取れるときじゃないとヤレませんね。 良い旅でした。 ではまた、生きていたらお会いしましょう。 今日もあなたが幸せでありますように〜。 --------------------------------------------------------------------- →関連アーカイブ「トリップ体験レポート集」 ・追記:一日後の様子 今のところ離人感のようなものの兆候はナシ。 景色が美しく見える現象は今回は特にないかな。音楽はキレイに聴こえる気がします。 それにしても体が軽い! 歩いていると足がズンズン前に出る。 気のせいか視力がアップしている気がする。遠くまで細かく見える! まるで生まれ変わったよう。これだからヤメられませんね。 ◆ 2020/04/04 したこと: 『学園棋神伝マインドル』の宣伝活動 もう4月なんですね。 私は4月にすることに同意した覚えはないのに、それでも4月にしてしまう。 この国の民主主義は一体どこまで腐っているのでしょう? なお、このテンプレは毎月使用可能となっております。 と言うか3月は一回もこのページを書かなかったんですね。 どうりで最近「今日もあなたが幸せでありますように」って言ってなかったわけだ。 流石にこのセリフをツイッターで言うのはキモイですからね。え? ここで言うのもキモイって? でも私は言います。首を洗って文末を楽しみに待っていやがれ。参ったかコノヤロー。 さて、そんなわけで、特に書くに値するような進展らしい進展は何もないわけですが、 ずるずると地球ばかり自転および公転してらっしゃるご様子ですので、 ここらで一旦区切りをつける意味で、経過や所感などを書き連ねておこうと思います。 何から書こうかな。ワクワク。 進展がないと申しますか、何をしてたんでしたっけ? 何もしてなかったわけではない。おめおめと生き永らえていた。 おめおめと生き永らえて何をしていたかと言えば、ツイッターです。 「マインドル」の知名度向上を目論んで日々、交流や情報発信にいそしんでいたわけですが……。 その結果はと言えば、お察しのとおりですね。 まったくの無駄ではないです。 無駄などと言っては、お相手してくださっているレアな方々に申し訳ない。 ご存知のとおり私は善人。感謝の気持ちの永世名人。 決して無駄ではないのです。無駄では。 「マインドル」云々ということだけではなく、いろいろとお相手していただけることは意義深いことではあります。 かと言って、このまま今と同じように続けてこの先一体どうなるのか? という話。 あまり努力というか、私が人為的にどうこうできることではなさそう、という気はします。さしもの永世名人もお手上げです。 ちなみに、私が確認できている範囲では、プレイしてくれてる善人が数名はいらっしゃるようですので、 実際には少なめに見積もって、その数千倍は存在すると見込んでいいだろうとは思います。単純計算なら任せてください。 新参者の某ウィルスに負けずに今後さらに増殖していただけるものと期待しております。たとえが悪い。 いやー、しかし。 前回も前々回も同じようなことを言ってた気がしますね。 「過度な期待」をしていたつもりというのはないつもりではありますけれども、 それにしても、こんなに厳しいとはなぁ、とね、 乾いた笑いであっはっは、という感じですよ。さぁ皆さんご一緒に。あっはっは。もちろんマスク装着で。飛沫防止。 この件について話すと不満を吐き出しがちになってしまうのではありますが、 別に誰が悪いわけでもありません。 結果的に今のところこうなっちゃってる、っていう以上でも以下でもないってことであります。 さて、無駄というわけではなく貴重な結果はあり、 私自身の努力不足や工夫不足や、さらに試してみたいことなども思い浮かぶものの、 根本的にこれ以上ツイッターで活動していてもあまり大きな進展は期待しにくいんだろうな、 という結論に到達しつつあります。 端的にそう感じる典型的な現象として、例えば、 「いいね」を押してもらえてもリンクはクリックしてもらえない、という件があります。 お相手してくれるのは率直に嬉しいことではあります。 ただ、ツイッター上でいくら賑わっても、実際にモノを見てもらえることにはなかなかつながっていかないものであるらしく、 そうである限り、本来の目的達成とは言い難いところではあります。 なお、知ってのとおり私は物分かりの達人ですので、 これに関する「正しい解釈」としては、 「"いいね" を押す程度の関心ではあったけどリンクをクリックする程度の関心ではなかった」であり、 それを回答として答案用紙に書いておけば、先生に褒めてもらえて、保護者を呼び出される心配もなく丸く収まる、 ということなのだとは理解できます。 ただですね、その「関心の程度」のモノサシの並び順が、 [いいねを押す] < [リンクをクリックする] であることに、何の疑問も感じないと申し上げてしまっては嘘になってしまうところではあります。 逆じゃないんだ?????? ところがどっこい、この星では逆じゃないらしい。星に入っては星に従えと申します。 私の星の感覚からすると、逆なように思えるのですが、 私の星の感覚に合うように行動すべしという法律はまだこの星の国会で可決されておりません。法律は守る所存でございます。 「リンク先を見てないのに何を "いいね" と思ったの?????」と暴れたい気持ちはほんの少ししかないので、 おとなしく「そういうもの」と飲み込む所存でございます。何しろ私は物分かりの巨匠。 私の感覚はさておき、目の前で起きている現実は現実として認める以外にありません。 さらに、こういう場合は「私のコンテンツの魅力が足りないから云々かんぬん……」 というふうに謙虚スキルを発動しておくことにより、バーチャル頭ナデナデを獲得できるという攻略情報は存じ上げてはおります。 しかし当方のバーチャル頭ナデナデなら自給率100%超でございます。ゆえに、そのようなものは不要。 というわけで、あくまで冷静に考えるに、 リンクをクリックされにくい現象は、必ずしも私のコンテンツの問題とは言い切れないと思われます。 なぜなら、他の人のコンテンツに感想を書いた場合でも、 ツイッターのアナリティクスの数字を信用する限り、 そこに付記しておいたリンクがクリックされる回数は、「いいね」などの回数に対し、極めて少ないのが常だからです。 何かニュース記事などを引用した場合も同じですね。 リンク先の情報を確認することなしにイイネや拡散をする、というのがこの星の人々の習い性ということのようです。 ただですね、もちろんですね、どうか勘違いなさらないでいただきたいのですが、 「イイネや拡散をするんだったら、最低限、リンク先の情報を一度は見た上で責任を持って云々……」 などとエラそうに説教したい気持ちはほんの少ぉ〜ししかなくてですね、 私自身は少なくともリンク先に一度は目を通すのが当然だと思ってそうしている、 などとエラそうに自慢したい気持ちもほんの少ぉ〜〜〜〜ししかありません。 この私が物分かり界の首領(ドン)であることをご存知ないとしたら、あなたもまだまだヒヨっ子と言わねばなりませんね。 他人を操ることはできませんし、ましてや良し悪しを判定できるような立場の人間でも私はありませんし、 昨今のSNSの使われ方とは「そういうものなのだ」と、現実の1つとして受け止める所存ではあります。これぞ匠の技。 そもそもネットでの広告の話で「クリック率」というものが常に問題になることからもわかる通り、 一般論として、リンクというのは極めてクリックされにくいものであると承知せざるを得ません。 これは「いいね」機能を備えたTwitterであっても、「いいね」機能とは関係なく、そういうものであるらしい。 良し悪し以前の現実として。 それと、たとえ実際には見てもらえてなくても「いいね」などの数字を増やしてもらえれば それ自体で嬉しさを感じるというのも正直なところではあり、そこは(私の)「弱味」と言わざるを得ないのかもしれません。 だからこそ「いいね」を押されただけで満足していては本来の目的を見失うぞ、と次回も今回も自戒するところなのですが。 ただ、その数字が目立つ位置に強制表示される仕様になっている以上、 「箔が付く」のは実用的に言って有難いことではあります。 もちろん本当に「役立って」るのかは検証しようもないのですが、数字を増やしてもらえれば、頼もしくはあります。 そう言えば、 Web拍手 http://www.webclap.com/ って、この手のソーシャルいいねサービス?の元祖(かどうかは不明ですが初期のもの)だと思うのですが、 これの場合、得られた数字は、管理ページで確認できるのみになっていて、 訪問者の目に触れる仕様にはなってないのですよね。 その点、その後の後発の拍手系サービスでは、数字が訪問者の目に見えるのが一般的になっていったと記憶しております。 今では上記の元祖(多分)Web拍手は下火になっている様子ですね。 後発サービスのカシコイ皆様方は、そうした「見栄・外聞」の効用をよくご存知だったということでしょうか。 おそるべきことです。まるで悪魔のようなカシコサですね。くわばらくわばら。 > それと、たとえ実際には見てもらえてなくても「いいね」などの数字を増やしてもらえれば > それ自体で嬉しさを感じるというのも正直なところではあり、そこは(私の)「弱味」と言わざるを得ないのかもしれません。 とは言いましたが、明らかな営業だな、っていうものもありますよね。 もちろん具体的にどれ、というのは得意の霊能力に物を言わせればクッキリハッキリ霊視できることです。 などと今こうして私がこんなところで改めて言うまでもなく、 「いいね機能」が「営業目的」で使えてしまうというのは誰しも気付くところではあるでしょうし、 私自身、そういう下心を含めて押す場合が全くない等とは口を裂いてから言わねばならないのではありますが、 そうは言っても、私は善人ですから、あまり露骨にやるのは「気が引ける」というリミッターが魂に内蔵されてるわけです。 この点は大なり小なり他の善男善女の皆様方もご同様のことと拝察いたします。え?一緒にするなって?裏切り者め! しかし私などは可愛いもので、「本気でやってる人」というのは全然ちがいますね。 具体的に誰とは言いませんが、いつも高確率でいいねを押しにきてくれる人がいらっしゃいます。 それでいて私のコンテンツに興味を持ってくれてる様子は壊滅的にゼロなので、 ああ、いつものお兄さんだ、ご苦労さんであります、という感じで、 たまに押しにこないと逆にどうしたのかな? おコロナでも召されたのかな?って 心配になってアカウントを見にいっちゃうぐらいなんですけど、 でね、 いいねの履歴って見れるようになってるじゃないですか。 プロフィール欄とTL欄の境目の、タブみたいになってるところの右端。 で、ちょっと気になって、その人のいいねの戦歴を拝見したんですよ。 予想はしてましたが、驚きましたね。 普通のツイートの件数は数百件程度と比較的少なめなのに対し、いいねの件数は数万件。 詳しくは書きませんが、アカウント開設日から単純計算しても、一日平均で毎日かなりの回数いいねを押してらっしゃる。 ツールでも使ってるのかな? 特定のキーワードを含むツイートを自動でいいね、みたいなツールが存在すると聞き及んでおります。 でもその人のアカウントのいいね履歴を見た感じ、 そういう機械的な法則で対象を選んでいるようには思えませんでした。わかりませんけど。 実際、私の投稿に対しても、ただ闇雲にいいねを押しているわけではなさそう、と感じます。 仮にツールを使っているのだとしても、 あれだけ大規模に使用していればキーワードの登録や管理・運用も楽ではないでしょう。 注ぎ込まれた努力には並々ならぬものがあると驚嘆せずにはいられません。 ではさて、じゃあ、そこまで努力して、果たして効果があるのかと言えば……あるっぽい。 これも具体的には言わないでおくというか、あんまり批判がましいことを言うつもりでは決してないのですけど、 そのお方、実績としては、そこそこ当たり障りのない恋愛物?の短篇ノベルを一本公開してらっしゃるだけで、 現在制作中のものもあるようですが、そう頻繁に進捗を上げてるわけではない。 上記のとおり、いいね件数は数万件なのに対して、通常のツイートは極端に少ない。 ところが、たまに投稿されてる通常のツイートに、大量の反応がついている。 「新作のタイトルが決定しました」などと言った日には3桁に届く勢いでイイネや祝辞が殺到する。 すごい。 端的に すごい の一言。 これを「人望」を呼ぶのであれば、なるほど、「人望」なのでしょう。 私から付け加えて言うことは何もありません。 どういうことなのか? 目の前にこういう結果があり、そこへ何か分析的なことを言っても結果論にしかならないでしょう。 しかし、理屈として見えてくるものがないではありません。 つまり、その人の「ファン」としてそこに参集しているのは、 その人の懸命ないいね営業を受けて、純粋に嬉しくなって、その人のことを好きになった人たちなのでしょう。 「懸命ないいね営業」というフィルターを通り抜けてきた人たち。 いいねを押されることを素直に嬉しいと受け止める、人を疑わない、純粋な人たちなのではないか。多分。 そういう人たちが、結果的に、その人のもとに「残って」いる。 良し悪しを語るという野暮なことはしないでおきましょう。 ただ努力の賜物と言わずして何と言えばよいでしょう。 その人のもとに集っているファンの方々も同様、 そこにはただ純粋な盛り上がり・善意に満ちた賑わいがあるのであり、外野から否定すべき点などどこにもありません。 で、その人のことはさておきですね。 ということはですよ? 私も同じようにすれば同じような効果が得られるのではないか? って? いやいや、甘いですね。 もっと効率のいい方法があるでしょう? わざわざツイッター全体を巡って営業活動をする必要はありません。 その人のもとに参集している人たちに対して営業をかければよいではないですか。 つまり、その人が一生懸命に営業をしてくれたおかげで、 「フォロワー一覧」や「リプ欄」という形で「優良な営業先名簿」が目の前に出来上がっているわけです。 それをありがたく活用させていただけば、その人以上に効率的に効果が得られるのではないか? お主もワルよのう。 しかし、気が引けます。いろんな意味で気が引けます。だって私ワルじゃないもん。 と言いつつ、ごめんなさい、実験的に、少しだけやってみてしまいました。やはりお主はワルかっ。 というのはですね、 今、話に出したその人のところではないのですが、 さらに露骨なアカウントを見つけてしまったのですよ。 「絵師」であると名乗り、アイコンはアニメキャラ風。 冒頭に「絵師さんとの相互を受付中」である旨のツイート。 そして、その他の投稿はネットビジネス関連のアフィリエイトという露骨さ。 絵師であると名乗っているのによく見ると(よく見なくても)絵が1つもアップされてない。アイコンだけです。 通常のツイートは片手で数えられるほどなのに対し、いいねの件数は6万件。 個人でイラストの活動をしているアカウントを主な対象とし、いいねを押しまくってらっしゃるご様子。 いくらなんでも、こんなの真に受けて相手にする人いないだろう……と思うのですが、 しかし驚くなかれ、 その人の冒頭のツイートに、 「いいねありがとうございます! よかったら相互しませんか?」 といったリプが三桁に届く勢いで殺到している。 「いいね」の件数に至っては4桁に届きそうな勢い。 フォロワー数は数千人。 そこのリプ欄やフォロワーリストは非常に純度の高い「優良営業先名簿」になるものと思われます。 まさにウホッ!いい名簿……ってやつです。 そこまでして人を集めるなんて、なんてアカウントなんだろう……。 しかし、いかにも純粋なリプの数々を見ているうちに、 そんな営業じみたことをためしてみたい欲望が……。 やらないか? いい名簿に弱い私はその言葉につられてホイホイとついていっちゃったのだ。 それじゃ… やります… というわけでためらいながらも適当なリプを一つ見繕って、アカウント名をクリック。 (アカウントのページに)は…はいりました… 素朴なイラストが並んでます。 決して技巧的ではないけれど、「絵を描くのが好き!」ということが伝わってくる。 ああ…つぎはいいねだ。 それじゃ、押します… 決して嘘じゃないんです。その中で、本当に「いい」と感じたものに押したんです。 でも私はこの程度でもためらいを感じてしまう。 逃げるようにブラウザを閉じ、何事もなかったように日常に戻る。 約24時間後、あまり期待もせずにツイッターにアクセスしてみると…… うちのツイートの1つにその人からの「いいね」がついているではありませんか! ……反応してくださったんですね。 ありがとうございます。本当にありがとうございます。 そしてごめんなさい。 でも嘘じゃないんです。 キッカケと動機はクソミソ風味ですが、あなたのイラストを見て、本当に「いい」と思ったから、いいねを押したんです。 ……っとね、はい、ご覧の通り、私には無理ですね。一回で心が折れる。こんなことを継続的に貫徹なんて到底できない。 営業するにも一種の「才能」が必要なのでしょう。心を鬼にせねばならない。 私は絵師じゃないので、その人は私のコンテンツには関心を持ってくれないだろうなと思ってましたが、 それでも、お義理なのだとしても、少なくとも反応はしてくれたわけです。 このケースだけでは何とも言えないところではありますが、 その「名簿」の優秀さは充分に予感される手応えではあります。 こういう要領で、自分のターゲット層に合わせて、ツイッター上に落ちている「名簿」を見つけ出し、 心を鬼にして徹底的に営業をかければ、それなりの効果は見込めるのではないかと思われます。 あるいは自分のターゲット層に合うような「名簿を作る」目的で、 別のアカウントを作って事前に「釣り」をするという手も考えられますね。 ううむ、すごい。一体誰がこんなことを考え出したんでしょうね? 私のような生粋の善人は逆立ちしたって思いつきません。こんなことを思いつくのは鬼のようなやつに違いありません。 もちろん、私は鬼じゃなくて善人。善人には到底実行不可能なスキルでございます。 いやしかし、そもそもツイッター上で賑わっても、 目的のモノを見てもらうことにつながっていくかどうかは別なのであって、 そこもまた「こういう手法に訴えてまで……」と気持ちが白けてしまうところでもあります。 だからこそ、なりふり構わず「数字」を追いかけてしまうところでもあるのでしょうけれど。 上記のアカウントの人、アフィリエイト売れてるのかなぁ。 あと、他にもね、 こういう、いかにも「技」という感じのものに関しては、 むしろ一種の「割り切り」というものが感じられて、潔さすら感じるところではあるのですが、 もうちょっと、こう、活動のありようとして、「営業熱心」だな、と思うことはあります。 むしろこれの方が、具体的に言い出すとイヤラシイ話になってしまいますね。 そもそも私含め、自分のコンテンツを宣伝したいという思いは皆さん大なり小なり同じではあるでしょう。 だから具体的・個別的に誰のどういう行動が、ということではないのですけども…… 結局何だかんだ言いつつ、自分のことにしか興味ないんだな、というのはありがちなケースではあります。 あくまで全体的な傾向感の話であって、露骨なケースというのは「ほんの少ししかない」とは申し添えておきます。 そういえば以前どこかで、 「ゲーム制作者の相互目的のフォローはお断りします。気持ち悪いので」と明言してらっしゃる方がいました。 それを見たときは、何かよっぽど嫌なことでもあったのかなと思いましたが、 今は何となくですが、その人の気持ちが分かるような気がしなくもありません。 昔、一時期、ゲームの投稿サイトをやってたときのことも思い出します。 もうかれこれ10年近く前になるのか。 既存の投稿サイトに投稿しても高確率で埋もれるだけだし、お互いにお互いのゲームに感想を書き合おう! という主旨でエントリーを募ってたのですが、エントリー自体はそこそこ集まるものの、 ほとんど誰も他の人のゲームに感想を書こうとせず、サイトが成立しなかった思い出。 言いたいことはイロイロありますが、これまた18禁も真っ青のイヤラシイ話になってしまうのでモザイクかけて言うと、 ゴニョゴニョゴニョ! ムニャムニャムニャ! ニョキニョキニョキ! って感じです。最後のやつはちょっとモザイク薄かったかな? ご想像にお任せいたします。ドキドキ。 もうそんなサイトが存在していたことさえ誰も覚えてないでしょうけど、 アレに関しては私の力不足だったということにしておいてあげます。私は本当に慈悲深いですね。 あれからそれなりの時間が経過し、SNSが普及し、個人の発言力が増したかのように思われます。 しかしそういう全体の傾向自体はあんまり変わってないなと思うところではあります。 どこかの投稿サイトに投稿して何かのランキングを競うとか入賞を目指すとか、 そういう「(仕掛けられた)競争」への参加や権威に承認されることに対する熱量の大きさというものは依然としてあり、 一方で個人同士は相変わらず、あるいは以前以上に分断されており、 結局お互いに不利な状況のままになってしまう傾向はあるような感じはいたします。 私が知らないだけで、何か協力的なコミュニティを作ってうまくやってる人はいるのかな。 でもどうせ結局その中でランク付けだとかレビューで点数をつけるだとか賞を創設して競わせるだとか、 そういう競争的なフランス革命をやり出してしまいがちなんじゃないのかな。わかりませんけど私の霊能力の前では以下略です。 などと霊能力を少し発揮すると、ご存知の通り、 「人の評価なんか気にせずに自分で楽しくやっていればいいじゃないか〜」 的な声がどこからともなく生々しく聴こえてきてしまうわけですが、 この手の話は本当に悲しいなぁ。 学校の教科書にこの手の台詞が載っていてお受験のために暗記させられちゃうわけですよね。 それができない子はバケツ持って廊下に立たされちゃうわけですよね。お説教の効果音は「ガミガミ」なのですよね。 こんなに悲しいことってありません。うぇ〜ん、しくしく。 誰のことも責められない。 なぜこの世はこのようなのでしょう? あるいはもっと霊能力が強ければ、何かを見通せるのかな。 今はただ黙祷を捧げるのが精一杯です。 そもそも自分で何かモノを作って人に見せるということ自体が非常に不安を伴うことで、 卑屈な気持ちになりがちなことかなとは思います。 ついでに言えば、まるで当然のことであるかのように何かと各種の「数字」を強制表示するSNSの仕様も、 人々の卑屈さを煽ることに一役買っているのは間違いないですね。得意の霊能力でクッキリハッキリ認識できます。 霊能力はさておき。 活動の方向性は少々ズレてたかなと思うところはあります。 ゲームを作ったので宣伝を、ということでTwitterのアカウントを開設して皆さんのお世話になってきたわけですが、 いわゆるアレですよね、「ゲーム制作者界隈」っていうんですか? 「ゲームを作った」と標榜して活動していると、そのあたりの皆さんのお世話になる感じにはなってくるところで、 それはそれで意義深いことではあるのですけれども、 そもそもの目的である「宣伝」という観点では、ちょっとどうなのか? という話。 いや? ちょっと待てよ? なんでこうなったんでしたっけ? そもそも最初は無作為に「相互フォロー&固定RT」で作業的に回しまくってた。 それはもう、割り切って、ひたすら回しまくってた。そのまま突っ走るつもりだった。 しかし、それにも限界が見えてきたこと、 プラス、 結果的に徐々に、他の制作者の方たちからお相手をしていただけるようになってきて、 そっちに舵を切ったんじゃなかったでしたっけ? そうでした。そんな気がします。 つまり、活動の方向性として、 こっち方向こそが適切なんじゃないか、って、思ったのですよね。先月ぐらいのこと。 確かにそうなんですけど、しかし今思うと、それもどうなのかなぁ。 上述の「ゲーム制作者の相互目的のフォローは気持ち悪いのでお断りします」の人じゃないですが、 制作者同士のつながりを優先するのが果たして本当に適切だったかどうか、というのは少し考えたい気はしないでもありません。 実際、「お仲間」にお声掛けをいただけるのは嬉しく、頼もしく、意義深いところではあります。 それはそれでいいんですが、しかし「宣伝相手」じゃないよな、って話。 たとえば企業が自社のゲームを宣伝する際に、同業他社に向けて宣伝するか? マーケティングのことには疎いですが、そんなことはしないだろうとは思います。 宣伝相手は同業他社ではなく、潜在的なプレイヤー層ですよね。 それがどうして、個人制作だと、同業(?)同士になってしまうんだろう? いや、私が勘違いしていただけかな??? いや、でもねぇ、企業の場合はそうかもしれないですけど、 それは企業は「商品」を「売る」のが目的で、他社とは「競争」しているからなわけですよね。 私(や他の皆さん)は企業とちがって、「競争」する必要はないハズなのですよ。「そのハズ」なんですよ。 などと言い出すと、これまた繰り返しになってしまうところですかね。 ただ私自身の問題として、目的を明確に見定めて動いていたとは言い難いのかなと反省すべきかもしれません。 宣伝がしたいのか? それとも同業(?)の人と交流したいのか? いやー、しかし、そんなふうに割り切ってしまうというのも、なんだか殺伐としていて厳しいなぁ。 私以外の皆さんは、そのへん「わきまえて」らっしゃるのかな? どうなんでしょう。おっと霊能力霊能力。 ゲーム制作をしてる人たちには「親近感」を感じるところではあり、 SNSという形で交流ができるのは意義深いところではある。 が、「宣伝相手じゃないだろ」と言われれば確かにそうだなと認めざるをえないところではあります。 いや別に誰かに言われたわけじゃなく、あくまで霊能力で生々しい声を聴いただけなんですけども。 だから、これまた繰り返しですが、 同業(?)の人たちと交流することが、すなわち、宣伝にもなる、という協力関係が築ければ理想ではある、ってことですかね。 とは言え、それも私の手前勝手な理想。 皆さんそれぞれお考えやご都合もおありでしょうし、現実的にはなかなか難しいところではあります。 え?単に私がハブられてるだけだって? やかましいわ! さて、じゃあ「宣伝」ということをもっとクッキリハッキリ意識して、 直接「マインドル」の内容に興味を持ってくれそうな人たちにアピールしていったらどうか、って話になるわけですが、 それもまた、なかなか難しいところだったりはします。 実際、Twitterを見てると、「ああ、この人にぜひマインドル見て欲しいな〜(冥土の土産に)」って思うこと、しばしばあるのですよ。 そこまでピンポイントではなくても、それ系の界隈というものはある。 しかし、直接的なアピールはしにくいですね。 まず「ゲーム好き」とは限らない。少なくともそういうつながり方を求めていると標榜されてはいない。 そして、これが一番根本ですが、 人から上から目線で説教される的なことに対する嫌悪感や警戒感が強いことが予測されます。 そういう感覚、すごくよくわかります。霊能力がビンビンです。 たとえば「自殺」ですが、実際、世間に存在する「自殺モノ」でロクなものがあるかって話。 あるのかなぁ? 私が知らないだけで、イロイロあるのかな。 警戒感が強いというのは私自身がそうで、あんまり積極的にその手のものに触れてないってのは事実ですね。 「イロイロ」はあるのでしょう。「イロイロ」は。 しかし、ハズレを引いて嫌な思いをするリスクを踏んでまで、敢えて探し出そうとは思わないですね。 むしろ「自殺をテーマにした問題作!!」などと言われると、「どーせそんなもん」と思って、見る気が失せます。 そんなもんは「信用ならん」わけです。 私と同じ思いの人は少なくないはず。 その点、「マインドル」は共感してもらえる部分があるのではないかな〜、っと(私は)思っているのですが、 そもそも他人から何かを言えるという性質のものではなく、 結局生きちゃってる私の話など同様に「信用ならん」としても仕方がないとは思います。 それに、なんだかんだ言って、こういう「制作物」としてまとめた形にしてしまっている時点で、 決して「上から目線で説教」しているつもりはないといくら言ったところで、 「私が考えたことを伝えたい」という「尊大なおこがましさ」があるのは事実で、 しかも「あくまでフィクションなんだから」という言い訳を可能にしているという狡猾さのオマケつきなのであり、 その点で、「汚さ」を見抜かれてしまうと申しますか、いくら嫌われても嫌われ足りませんね。 そこまで卑屈にならなくてもいいのかな。どうだろう。 実際何か言われたわけでは今のところないのですが、あんまり歓迎されないであろうことは想像できますし、 センシティブな領域なだけに、下手に「押し付け」て傷つけてしまうことは避けたい。 一方、あくまでも「学園モノのノベルゲームっ!」という「体裁」を選んでいるのであり、 むしろ、普段「その手のこと」をそんなに考えてない人に、「ノベルゲームっ!」として受け取ってもらって、 フェイント的に不意打ちを食らわす、という目論見があったりもします。(じゃああのPVはヤメた方がいいかな……) しかし、特に絵柄がそうですが、 では「ノベルゲーム好きな人」にアピールできるような見栄えになっているのか?といえば、力不足を認めざるを得ません。 これはTwitterで他の皆さんの物を拝見して、改めて実感させられるところです。 SSの見栄えが、もうね。なんであんなにセミプロだらけなんだ……。 さらに上記の理由で、内容に直接共感してもらえそうな人たちにも届けにくい、と。 こういうの何て言うんでしたっけ? 帯に短しタスキに長し? 前門の虎後門の狼? 隣の客はよく柿食う客だ? 早口言葉は専門じゃないのでよく分かりません。 >「ノベルゲーム好きな人」にアピールできるような見栄えになっているか?といえば、力不足を認めざるを得ません。 ちなみに、コミPo!界隈でたまにご注目いただいているみたいっす。恐縮っす。 やはり見た目のインパクトというのは重要と言うところでしょうか。 でもやっぱりゲームをダウンロードしてプレイする、というところまでは行動を起こしてもらえない感じですねぇ。 残念ですが、そこまでの興味を持ってもらえないのは仕方がありません。 仕方がない、のかな? うーん。 あわよくばそれを入り口として……と期待してしまうところではあるのですが、 単にコミPo!の立ち絵を使ってるという以上の意味での関心を持っていただくのは難しい感じではあります。厳しい。 なんだか、どうも、かみ合わないですねー。きまきまみっ(噛んだ)。 > 単にコミPo!の立ち絵を使ってるという以上の意味での関心を持っていただくのは難しい感じではあります。厳しい。 すると、私から見ると「ノベルゲーム的に見栄えのする絵柄」のように見える諸先輩方も、 案外、内実としては、それぞれに困難を抱えてたりするのかな? わかりませんけど。 素朴に霊能力を空に飛ばしてみるに、 分断された孤独な個人が分散している様子が見えるようではあります。 それからもう一つ進めていた(いる)のが、別のゲームの作成です。 以前にも申し上げたように、マインドルだけでは賑わいが足りないので、 このサイトを「ゲームが置いてある場所」として皆の衆に認知してもらえるよう、数を増やそうという話ですね。 で、ちまちまと作業を進めているものがあるにはあるのですが。 正直あまり元気は出ないですね。 理由はイロイロありますが、まず第一に、そもそもの目的である「賑わい」上昇効果への疑義。 現状のマインドルの「惨状」を鑑みるに、 他に公開タイトル数を1つや2つ増やしたところで、大して流れに変化が起きるとは思えません。 残り少ない人生の時間と労力を注ぎ込む意欲としては、あまりわいてこないですね。 あるいは1つや2つと言わず100本や200本増やせば「迫力」が出るのかもしれませんが、 それこそ命がいくつあっても足りない話。 現実的にはせいぜい10本ぐらいが目標というところでしょうか。 で、そうやって件数を増やせば流入効果が実際にあるかどうか? 他の人の事例をいくつか見る限り、これまたあまり「過度な期待」はできそうにないですね。 ミニゲームを大量に制作して公開してらっしゃる方はときどきおられますが、 じゃあ、その理由で「知名度」という観点での有利さが発揮されていると言えるかどうか? パッと見「賑わってる」ようには確かに見えるんですけども、 ダウンロード件数が見えるようになっている場合や、その人のSNSアカウントの状況など、 そうしたものを外部から見る限り、ただ公開タイトル数が多ければいいというものではない、 とは言わざるを得ない感じはいたします。 当然と言えば当然ですが、品質度外視で大量生産すればいいというほど単純なものではなさそうです。 もちろん品質の高いものを大量に作れれば理想ですが、それこそ命がいくつあっても足りないってやつです。 なお、これは「人の流入を増やす」という陰謀の上での話であって、 本人が本人なりの意義に基づいて(≒楽しんで)活動しているものを批判する意図はない、とは申し添えておきますよ。 そうなんですよ、確かに、そういう、ミニゲーム大量型の方って、 すごくご本人自身が楽しそうに活動してらっしゃる様子が伝わってくるのですよ。 そうした雰囲気に触れるにつけ、私はちょっと、少なくとも今は、そういうふうにはできないなー、って思ってしまいます。 いや、人のことは分かりませんけどね。おっと霊能力霊能力。 制作に乗り気になれない理由は他にもイロイロありますが……。 結局、一言で言ってしまうと、 「これを作ったら、絶対 "イイ" !!」 という確信が持てずにいるというのが根本的なところなのかな? 「賑わいを増やす」だとか、そういう「策」はさておき、作ること自体に意義を感じられれば前進はしていくのでしょうけれど。 その点、「マインドル」のときは理屈抜きの前進力がありましたね。 有り体に言えば「疲れた」ってことなのかな。 確かに、もうあんなに制作期間が長期間に及ぶようなものは作りたくないですね。 作るのであれば、うまい具合に小規模にこじんまりと収まるようなものにしたい。 で、今作業中のものも、そういう点を気をつけて計画を「まとめて」あるつもりではあるのですが。 やっぱり今ひとつ元気が出ないですね。今はとにかく死にたい。 進捗のSSや動画などを元気よくお見せできるといいのですが。 どうも、そういう「やってるぜ!」ってな気分ではない。今はとにかく死にたい。 さて、死ぬのはいいんですけど、死んだ後どうなるのかっていうのを、自分なりにハッキリさせたいところではありますね。 この世は一体何なのか? そういえば最近全然トリップしてなかった。 なんだかんだと一年近くやってないのか。 やらねばとは思いつつ、去年の3月のやつが思いの他、強烈なトビで、あれがちょっと尾を引いているというのはあります。 あの後、マインドルの作業が終盤に入って、ともかくそれが終わってから、と思いつつ、今だにヤレずにいます。 「あの先」にイカネバ、とは思うものの。 当時の日誌には書きませんでしたが、 あの後、かなり激しい離人感が一週間ぐらい続いて、日常生活がキツかった。仕事も全然手につかなくなってしばらく無収入でした。 見慣れているはずの周囲の全てのものがガラス一枚隔てた遠い世界のことのようで、 身体感覚や理性はあるものの、 どこか遠い異次元の果てからこの身体を通して間接的に周囲を見ているようなと申しますか、 それでいて解放感のようなものはなく、 見知らぬ世界に連れてこられて、出口もなく閉じ込められているような絶望感と申しますか。 周囲の一切が、冷たく、生気のない、作り物のような、色あせた、よそよそしいものに成り果ててしまった。 むしろそれこそが普段から考えているとおりの「本当」のことなのではないかとも思うものの、 ただの「考え」ではなく、まさに実感としてあの状態に閉じ込められるのは、正直言って、キツイ。 そういう後遺症のこともですが、トリップそのものも、正直言って、恐ろしい。 ヤルとしたら、前回以上の深みを目指すことになるわけですが、 「あの先」に果たして何があるのか? 戻ってこれるのか? だからこそ見なければならないとは思うものの。 結局こうして一年近く実行できずにいるということは、無意識レベルで「足がすくんで」いるのかもしれません。 まだまだ修行が足りませんね。 さて、進展はないものの、一区切りつける意味で日誌を書いてみると言いつつ、 これで一体何の区切りがついたのかな? 具体的にこれからのことは見えておりませんが、ちょっと足を止めて考え直したいかなという気はしております。 そういえばそろそろこの世が終わりそうな気配なんでしたっけ。 思ったより早かったかな? ようやくというところかな? 待ちくたびれたのは確かですね。 予想は天変地異か戦争だったので、ウィルスというのは「やられた」って感じです。戦争はこれからかな? いずれにせよ、これで一安心というところではあります。あー、やれやれ、ってなもんです。 思い残すことならいくらでもありますが、これ以上頑張らなくていいというのは肩の荷が降りた感じですね。 「マインドル」は人類滅亡に間に合うようにと頑張って作っていたわけで、 なんとか滑り込みセーフだったということでしょうか。 できればもっと多くの人に普及して欲しかったという思いはあり、そこは正直言って残念ではありますが、 少数の人であっても、届いてくれたことは本当に良かった。 人類滅亡の前にマインドルの存在を知ってプレイできたあなたは本当にラッキーでしたね。 さて、お話は尽きませんが、人類の命運はそろそろ尽きそうです。 またお会いできる日があるかな? ないかな? ドキドキ。 今日もあなたが幸せでありますように。(予告通りだぜ) ◆ 2020/02/16 したこと: LÖVE(Love2D)での動画作成の解説記事を公開 予定外に超大作になってしまい、死ぬかと思いました。 むしろ今度こそ死んだに違いありません。 まだあんまり実感がありませんが、死んだ直後はそういうものだと聞いております。 今後少しずつ新たな存在の形態に馴染んでいくのでしょう。 地球にいる愛する皆さんのことを思いながら、これからはこの場所から私にできることを模索していこうと思います。 しみじみ。 というわけでLÖVE(Love2D)を活用した動画作成の解説記事、予定通り公開にこぎつけましたよ! 最後に残った元気を振り絞ってリンクを載せておこう。ぜぇはぁ。ガクリ。 『LÖVE(Love2D)でシンプルなPVなどの動画を作成する』 予定通り公開と申しますか、当初の見積りではHTML一枚のページにソースコードをペラっと載せてちょこっと解説、 ぐらいの楽勝コースのつもりだったのですけども、 フタを開けてみれば原稿用紙ン百枚の超大作でしたね。よくも騙したな、コノヤロ〜。 手間はかかりましたが、おかげさまでそこそこケレン味のあるコンテンツにはなったかな、とは思っております。 なってますよね? なっていると言ってください。お願いします。 細部については最近ではカリスマと呼ばれることもある天才プログラマーの私の仕業に過ぎませんので、 安心して鵜呑みにしていただければというところではございますが、 ただ何と申しますか、Love2D関連の日本語の情報って少ないんですよね。 検索結果に公式Wikiの中のページが重複して出てくる的なあるある。 なので、このぐらいの内容でも、こうしてまとまった形でネットに置いておけばですね、 カリスマはほんの少しだけ言い過ぎとしてもですね、 「検索すればそこそこ目につく」 ぐらいの存在にはなるのではないかなと、思ってたりはします。今ならお得! ってカンジですね。 え? なんですって? 検索エンジンスパム? なんだとコノヤロ〜! そこはもう検索エンジンの中の人に言ってくださいと開き直る。あっ、通報しないで〜。 しかし、それってそもそも、「Love2D」などで検索する人自体が少ないってことなんじゃないんですか? ギャフン。 仮にあのページがLove2D関連のワードで上位表示されるようになったとしても ご来場くださるお友達はあまりいらっしゃらないという予定が既にフォーカス27らへんで組まれている予感がいたしますよ。 なお、SFMLではすでにそれに近い現象が発生している模様。 むしろ私が首を突っ込むと流行らなくなるジンクスがあるんじゃなかったでしたっけ? ギャフンギャフン。 ちなみに最近巷で流行の「Live2D」と名前が似ているので、 検索時の入力ミスで当サイトのページに迷い込む、なんてこともあるに違いありません。ようこそ! ってカンジですね。 え? なんですって? 検索エンジンスパム? なんだとコノヤロ〜! そこはもう検索エンジンの中の人に言ってくださいと開き直る。あっ、通報しないで〜。 ただ、意図的なスパムではないにしても一般論として、情報発信の際に責任が発生しないわけではないな、とは思います。 内容の正誤についての責任はもちろんのこと、 たとえば何らかのツールの有志のWikiが廃墟になってるのを新規(見込み)のお友達が見たら、 「ああ、このツールは終わってるんだ……」 って思うじゃないですか。 誰が悪いというわけでもありませんが、あまり半端なことをすると世間的に印象を悪くしてしまうことは 現象として発生することではあろうかと思います。 あるいはニワトリが先がタマゴが先かお風呂が先かご飯が先かそれとも……って世界でしょうか。ドキドキ。 いずれにせよそのドキドキのサイクルに「自分」が関わってしまうというドキドキ。 しかし、それを気にして情報発信をためらうご遠慮カルチャーが広まると、これまた廃墟路線が予感されるところではありますね。 体育の時間のバレーボールで真ん中にボールが落ちてきて誰も拾わない現象ですか? 誰か名前つけてください。 そもそも玉石混交こそがネットの活力というものだったのかもしれない、と黎明期を思い出しつつ。 その点、検索して上の方に出てくるのを何も考えずに選んでおけばそれで大体事足りてしまう、 というのは面白みに欠けると言えば欠けるところではありますね。 以前と比較して検索エンジンの性能には感嘆せざるを得ませんが、 かえってネットが狭くなってしまった気がする……などと言うようでは若いお友達にバカにされてしまうかな? ただ、上位表示を狙ってシノギを削る戦場に積極的に参戦したくはないですね。あのギスギス感たるや。 使う立場としても、何を検索しても「いかにも」なコピーライティングを駆使したタイトルがずらりと並んでしまい、 そうしたリストが視界に入るだけで気力を削り取られてしまいます。げっそり。 こういう、検索エンジン市場?っていうの? あんまり健全な状態ではない気はいたします。何がSEOですか。しゃらくさい。 できる限り検索エンジンを使わずにいたいとは思うものの、他にどうしようもないという出口なき悪の循環。 なお、 ・そのときのトレンド的な情報ならばTwitterで検索 ・調べたいことが明確な場合はWikipediaで検索 というふうにすれば、案外検索エンジンを使わずに済んだりはします。 (どうしてもってときは敢えてDuckduckgoを使うんだ!) ただ、検索エンジンに限らず、 自分で選んで行動しているようでいて、何か巨大な存在の言うがまま、みたいな風潮を感じないではありません。 昔がよかった、などと言うつもりはありませんが、どこか不気味な感じはいたします。 ネットって自由への扉みたいな雰囲気だった時代もあったような気がするのですけど、気のせいだったのかな。 もはやダークネットに潜るしかないのか。 さて、本邦でSFMLの普及が進んでいる気配が全然ないあたり、 私がチュートリアルの翻訳ページを出してしまったことで 悪しき呪いをかけてしまったのではないかとは以前から心配しているところであり、 今回 Love2Dの情報を出したことも同様の悪影響があるに違いないという言い知れぬ予感があるわけですが……、 私が口を挟むと呪いがかかって流行らなくなるジンクスがあるのだとすれば、 SFMLやLove2Dはもちろんのこと、 「マインドル」に至っては呪いのド真ん中のグラウンド・ゼロということになっちゃうわけですね。 こればかりは温厚な私も看過できません。呪いめ! 許さんぞ! 呪ってやる! ただ、こういう世間的な「流行る・流行らない」という「空気感」を 意図的に制御することの根源的な難しさというものはあるとは思います。 そもそもそうしたものを個人の恣意で制御しようという発想自体が何かおこがましいものであるような気はしつつ、 しかし、と同時に、 私たちを取り巻く「現実」の「空気感」が、 どこか恣意的に操作されたものであるように感じることもないではありません。 読まない自由さ、ぶつかる不自由さ、乗る快適さ。 空気があるから息苦しい。 「一人一人の意志が大事」というのがその通りであるのと同時に、 「一人一人の意志」ではドウニモナラナイ何かがある。 それでも、どこまで行っても、 そこにいるのは「一人」の私であり、あなたであり、 嫌いなあいつであり、好きなあいつであり、あるいは見知らぬどなたかであるはずで、 少なくとも死の直前までは続くはずの「思い」が確実に「ある」はずなのであり、 ドウニカなる/ならない の問題ではなく、 「ある」ということを忘れなければならないなんてことはないはずだとは思うのです。 今日も人がいる。 何の話でしたっけ。呪いがどうとか。 そうだ、私の目的はLove2Dを流行らせることでもSFMLを流行らせることでもなく、 マインドルの知名度を向上させることだったのでした。 呪いを振りまいちゃってたらゴメンね、と世界の片隅で思いつつ、 私は私の使命を全うせねばならないのでした。 というわけで今回のLove2Dのページ、解説記事であるというのは世をしのぶ仮の姿、 その真の目的は「マインドル」の宣伝なのだ! Love2Dで動画を作るゾ〜、と意気込んでご訪問なさった純真なお友達。 記事を読みながら熱心にお勉強していると、 そこかしこにバレないように功名かつ自然に散りばめられたマインドル関連のPV動画や画像を目にすることとなり、 いつのまにかマインドルのことが頭から離れなくなるという恐ろし〜い洗脳計画。 恐ろし〜い、って波ダッシュで伸ばすと自動販売機の温度表記みたいですね。あたたか〜い。 洗脳はさておき、現状「マインドル」につながるアクセス経路自体が不足している事実はあろうかと思うわけです。 親愛なるあなた方が「マインドル」のページに辿り着く「理由」がない。 そればかりか、興味を持つ理由もなければプレイする理由もない。 単に偶然ページに辿り着いた、ってだけでは、いくらそのページをうまく作ってあったとしても 「よし、このゲームをプレイしよう!」とまでは思わないと思うのですよ。 せいぜい初見では「ふーん、こんなのがあるのね」ってなもんじゃないでしょうか。 なんらかの興味を持った上で来ていただく必要があると言えるでしょう。 興味というか、「理由」って必要だと思うのですよ。 「よし、プレイしよう!」という意志を持つための「理由」。 「モチベーション」って言った方がいいのかな? でもそれだと、じゃあそのモチベーションはどこからくるの? と、つかみどころがないままになる気がします。 なので、敢えて「理由」と言いたい。 たとえば「ポケモンの新作が出た」ということであれば、 それを聞いて、脳内の「プレイするぞスイッチ」が入る人が大勢いらっしゃると思うのですよ。 その情報を聞いた瞬間に「よし! プレイするぞ!」というスイッチがピキーンと入る。 予約を入れ、お金を工面し、時間を捻出し、ゲームのプレイ開始に向けて日常生活の構造を調整していく。 さらに実際にプレイを開始した暁にはSNSでその旨を発信する。そうした一連の行動がパリッと形成される。 その人にとっては、そこまでする「理由」があるわけです。「やらねば!」ということになるわけです。 ポケモンの新作に対抗しても仕方がないわけではありますが、 その人なりの何らかの「理由」によって、 「プレイするぞスイッチ」が入るかどうか? という観点は重要ではないかという気がいたします。 一方で、いわゆる「プレイ開始のハードルを下げる」という話もありますが、それとも少し違うのかなと思います。 そもそもの「やる気」の問題です。 たとえば、最近流行りの「ブラウザ対応」というやつは、 プレイ開始のハードルが低いという点が「メリット」の1つとされるところであろうかと思います。 つまり最初の「スイッチ」の入り具合が不足してもプレイされるように、ということですね。 逆に言えば、「スイッチ」が入るのであれば、その程度のことは問題にならない筈ではある。 だって「ハードル」なんて言ったところで、せいぜいクリック数回とほんの少しの端末操作に過ぎないわけですよ。 だからその「ハードル」というのは、作業量のことではない。 「自分は」「このゲームを」「プレイする」「んだ」という意志のスイッチのことと言えるでしょう。 敢えて冒頭に「自分は」と一人称の主語をつけてみました。 ゲームの紹介情報などに触れて「ふーん、おもしろそうねー」と思うことはあっても、 「私は」ではなく、「誰か」が面白がってプレイするんじゃな〜い? あたたか〜い? つめた〜い? というふうに思うに過ぎないことはよくあることのような気がいたします。 あるいはこれもまた真ん中に落ちるバレーボール現象でしょうか。皆さん本当に奥ゆかしい。ちょっと違うかな? その場合、結局「自分は」プレイする「理由」がなくて「スイッチ」が入らないということですよね。 宣伝や紹介に触れて好意的には思っても、その段階にとどまるのはありがちなのかなと想像します。 今日もどこかでスルーの風が吹きすさんでいる。え? このサイトで吹きすさんでいるって? やかましいわ! いや、このサイトまで来ていただけるならまだしもってところではあります。 念のために申し添えておくと、別にブラウザ対応(の流行)を批判するつもりで言っているのではなくて、 結局は「やる気」の問題だよね、という話です。 ただ、それほどまでに他の制作者の皆さんも 「そもそも、やってもらえなくて苦労する」という実状はあるのだろうなとは想像するところです。 「ブラウザ対応」の流行の件について話をすると原稿用紙が何枚あっても足りなくなりそうですが、 なんというのかな。 「プレイの手間を減らす」ことが一番重要なことというわけじゃないよね、とは思うところです。 たとえば脳内シミュレーションですが、 仮に特定のゲームに対し「ブラウザ対応であればプレイするけど、ダウンロードは面倒なのでやらない」 というギリギリの境界線上のプレイヤー候補者さんがいらっしゃったとしてですね、 その人にプレイしてもらう、まさにそのために、ブラウザ対応版を用意してですね、 で、その結果プレイしてもらうことができたとして、果たして真面目にプレイしてもらえるかどうか? なにしろ「ブラウザ版をゼヒやりたかった!」なわけではなくて、 「ブラウザ版なら、まぁやらんでもないけど」なわけですよ、そもそも。 真面目にプレイ、って言い方も変なのかな? ああ、だから「暇つぶし」って言うのか。 とどのつまり「やる気」がないわけですよね。早く電車来ないかな〜、ってなもんです。 「が ない」じゃなくて「を 持ってもらえてない」って言わなきゃいけないのかもですが。 とにかくスルーせずに一度試しにプレイしてもらえれば……という期待はしたいところではありますし、 どんな形であれプレイされてナンボというのはその通りではあり、 プレイする前の入り口で背を向けられてしまうのはとても残念なことではあり、 プレイヤーのことを考えた親切な作りにしておく(プレイヤーフレンドリー)のは大事なことではあるのですが、 作り手・提供側として注力することは他にもあるような気はいたします。 そもそも「やる気」あるいは「理由」を持ってもらえてないという事実をどう受け止めるか? そこで「プレイ開始の手間」だけ減らしても、結局同じなんじゃないかという予感がしないではありません。 手間がかからないからプレイする、というだけのことでしかないのだとすれば、少々さみしい気はします。 たとえて言うなら、会社の「利益」を出すためにスタッフに払う給料を減らす、みたいな先細り感。 「プレイ開始のハードルを下げ」ないとやってもらえないのだとすれば、 それはすでに、別のところに問題があるんじゃないのか。現実にはイロイロ厳しい面はあるのでしょうけれど。 当該のゲーム自体というより、取り巻く状況をも含めて。 でも、いわゆる「暇つぶし」程度の内容のものであればむしろそういう考え方で「マッチ」するのかな? 「やる気」も「理由」もないけど何だか手持ち無沙汰で……というのが「暇つぶし」ということであろうかと思います。 じゃあ、それで誰もがその方向に流れた結果、 片手間でスマホでバスの中で遊び捨てる暇つぶしミニゲームしかこの世に残らない、 などという未来があるのだとすれば、文化の行く末としてどうなんだという気はします。 別にそういうジャンルのものを否定するわけではないのですが、 マーケティング環境の都合上の淘汰圧としてそうならざるを得ないのだとすれば少々面白味に欠ける展開ではある。 別に、実際にそこまで極端なことになるだろうという予測をしているということではなくて、 制作物の有り様(ありよう)として 「プレイに手間がかからない」ことだけを優先的に目指しても仕方がないよね、という話。 何の話でしたっけ。 いろいろ口を滑らせてしまった気がいたします。 今や私もカリスマ。最近はますます多くのお友達にこのページを見ていただいている可能性があるので、 あまり誤解を招いてしまうような発言は控えたいところです。 おかしなこと言っちゃってたら申し訳ないです。 あくまでもカリスマの私が天才的な思いつきで言ってることですのでご注目の上、真に受けていただければ幸いであります。 念のため弁解させていただくと、別に何か特定の種類のゲームの存在を否定しているわけではなくて、 ジャンルや形式を問わず、頑張って作ってもなかなかプレイしてもらいにくい状況があって大変ですよね、って話です。 さて、「マインドル」はジャンル的に言って、残念ながら「手軽」な種類のものではなく、 やるからにはそれなりのコストを覚悟していただかねばなりません。 金銭的には無コストではございますが、 人生の貴重なお時間の一部とあなたのハートの大部分をいただくこととなります。 したがいまして、愛するあなた方にそこまでのコストを惜しみなく出していただけるよう、当方といたしましても、 何らかの「やる気」や「理由」を持っていただけるように取り組んで参りたいところでございます。 で、今回のLove2Dに便乗した洗脳大作戦はその点でどうなのかと言えば……? PVを見て存在を知ってもらう口実にはなるかなとは思うのですけど、 その程度で「プレイする理由」にまでなるかというと……? なんだこのハテナマークは。 正味のところ、せいいっぱい好意的に見てもらえるとして「ふーん、おもしろそうね」で10秒後に忘れるパターンかな? 最近の若いお友達は忘れっぽくてイケませんね。 他にも考えている策略はイロイロあります。 あるというか、あったというか。すでに過去形になりつつある。 ツイッターでの予告編の定期ランダム投稿は、「理由」を持ってもらう作戦として結構期待してたんだけどな。 今のところというか、もはや「結果」は見えてるというべきかな。焼け石に水な感が激し過ぎる。 イイネなどをもらうことはあってもリンクのクリックがレアすぎるあたり、 そもそも宣伝として認知されてないのでは、という印象。 あと、すっかり忘れてたのですけど、はてなブログも使ってたのでした。 去年の11月から、制作中の日誌を再掲載してたのですが、そのネタもすでに掲載し尽くしてしまっております。 現在放置状態。 当初の予定では、再掲載シリーズが終わる頃にはもう少しは知名度が高まってて安らかに役割を終えられると思ってたのですけども。 結果的に知名度が向上したかと言えば、お察しです。 なお、日誌自体は何名かの方には読んでいただいていたみたいで、嬉しいコメントをいただいたこともなどもあり、 はてなブログを通して存在を知った方々もおり、 活動自体は意義深いものではありました。 ただ、結果的に知名度は全然向上してないという事実はいかんともしがたいところではありますね。 せっかく暖かいご支援をいただいたのに申し訳ないと申し上げるしかありません。 油断すると申しまくることになってしまう日本語の怪。 闇雲に宣伝をしても、一人一人の国民の皆さまに、 「よーし、ならばこの私がマインドルをやってみるみる!」 という「理由」を持ってもらうのはなかなか難しいようですね。 演説には人が集まっているように見えても選挙をしてみれば投票数は少ない的な。 あまり自分からガンガン前に出ると変なジンクスが発動して世界中からそっぽ向かれる気がしてなりません。 行く末は飛行機のハイジャックか山荘の占拠か。全国のお茶の間が釘付けだ。 それとも、もっともっとなりふり構わず自己主張した方がいいのかな? 駅前で演説するとか。 警察に止められた! とか言ってSNSで騒ぐ作戦。 理想はほったらかしにしておいて、知らない間にそこそこネット上に定着してくれてる、という感じですが、 それは寝てる間に枕元にマツタケが生えててくれないかなってぐらいには可能性が低いことでありましょう。 ぶっちゃけ、生えてきてくれてもいいのにな〜、とは思うのですけど。もう21世紀も5分の1。 ていうかマツタケって最近あんまり流行ってないのかな? バブル期の流行って気はしないでもありません。今は昔。 歳がバレそうなことをアレコレ申し上げてしまいました。 で、そんなわけで、今回アップしたLove2Dの記事みたいな感じで、 「マインドル」自体の宣伝ってわけではないけど、 アクセスが流入してくれる可能性のあるコンテンツ、というようなものを増やしていくと、 短期的には効果は見えにくくても、長期的にはいいのかな、と期待してたりはします。 今回のあの記事が「マインドル」自体の「プレイする理由」に直接なるかと言えば、うーん、という感じではありますけれども。 それともう一つ気になるのが、そもそもあの解説記事に需要があるのかって話。 上記の通り、Love2D自体の情報が不足しているので、その意味でそれなりのレアさはあろうかとは思いますが、 「Love2D」で「動画を作りたい」って思ってる人が宇宙のどこにもいないんですよ。得意の霊能力で確認したので分かります。 検索エンジン経由で引っかかったとしても本来の目的ではないので熱心には見ない。得意の霊能力で予知したので分かります。 Love2Dに興味がある人はゲーム制作に興味があるのであって動画作成には興味がなく、 動画作成に興味がある人は動画作成ソフトやLive2Dに興味があるのであってLove2Dには興味がない。 またもや出口なき悪の循環。この世のどこにも居場所がない。やはり死ぬしかありませんね。 あと何かなかったかな。 あ、そうだ。これはゼヒご報告させていただかねばならないと思っていたのですが、 先日からのPV動画つきの固定ツイート、 「フォロバ100 & RT」の技を使うのをヤメたので、どうせ埋もれてしまうんだろうなと思ってたのですけど、 思いのほか多くの方に見ていただけたようで嬉しい限り。 RTやイイネが2桁に到達するなんて私の身分では夢のようなことです。 拡散していただいた皆さま、本当にありがとうございます。
ただ結局、リンクのクリック数は「8」ということで、 直接的な宣伝の成果という点で見れば、現実はキビシイという感じではありますね。 せっかく拡散に協力していただいたのに、あんまり成果が出ず面目ないと申させていただきたいと申します。 それともこんなアナリティクスのSSなんか載せずに「大好評ですぅ!」と大本営発表した方がいいのかな? そういうのはそういうのが得意なお友達に任せておきましょう。 ちなみに動画のアナリティクスはこんな感じ。 この「完了率」なんですけど、キッチリ最後まで見た場合だけ「完了」にカウントされるってことなんですかね。 動画の最後のロゴが出たあたりで観るのを止めた人もいらっしゃるのではないかなと想像します。 それを含めると、実質的にはもう少しは観てもらえてるのではないかと勝手に思ったらバチが当たるのかな? バチバチ。 しかしどの道リンクのクリックは「8」ですからね。ギャフンと申し上げざるを得ません。 動画の内容はともかく、画質があんまりよくないのは気になるところです。 元の動画の画質はそんなに悪くもないのですけどツイッターに載せると圧縮されてしまう模様。 動画の扱い方に関しては今後さらに考えていきたいところ。素直に外部の動画サイトを使うのが最適解なのかな? せっかく個人ホムペがあるのに、結局お外に出張しないとイケないって件に関しては また今度咳止めでも飲み交わしながらゆっくり語り明かしましょう。ゲホンゲホン。 他の人のゲームのプレイ動画を上げたりもしてみたいのですが、そうなるともう長さ的にツイッターでは無理なのですよね。 Youtuberになっちまうのは抵抗あるので敢えて別のサービスを探そうかな。 というわけで、これからどうしようかな? まずは予定どおり、動画作成の解説記事は出したことですし。 次は…… 公開するゲームの数を増やして、 ゲームにご興味をお持ちの皆様に当サイトのことを「ゲームが置いてあるところ」と認知していただけるようにする。 そして、「マインドル」の存在にも気づいていただけるよう洗脳を施す。 実績を増やした上でゲーム制作講座的な記事を書いて、 個人制作ゲームにご興味をお持ちの方に当サイトに来ていただけるようにする。 そして、記事中で極めて自然な流れで「マインドル」の存在をアピールし、洗脳を施す。 うむ。完璧なプラン。マインドルによる世界征服が成就する日も近い。 しかし遠大ですな。想像しただけで心臓が止まりそうです。ドキドキゼーハー。 一日も早くこの世でやり残したことをやり終えて、安らかに死ねるように努めて参りたいと存じます。 ではまた。 今日もあなたが幸せでありますように。 ◆ 2020/01/25 したこと: マインドルの宣伝活動中 PVを作ったよ! なんだかネタバレ気味かな? でもそれを言い出したら仮面ライダーのOPでも変身前の普通の人間が日常生活を送ってる映像しか出せないじゃないですか。 というわけでゲーム本体の中で使ってる画像をフンダンに使い回して手抜き進行で雰囲気をお伝えしております。 ド素人の仕業にしては上出来だと思い込むことを弊社はこのたび決定いたしました。弊社って誰だ。 さぁ、これで今までよりもさらに多くの衆生の皆様がマインドルへの興味を掻き立てられて、 思わず知らず夢遊病のように無意識にダウンロード行動を起こしてしまうに違いない。これぞPV流秘技・態度変容! ウヒヒのヒ。 正直ちょっとテキストのチョイスがどうなんだという気はしなくもないのですが、 なんかこういう思わせぶりな感じが令和の時代のトレンドなのだと耳元の生々しい声に教わったので逆らわず言う通りにしました。 いやね、PV作成とか、ここまでする予定はなかったわけですよ。 シンプルな紹介文とホムペのリンクと、あとせいぜいSSの一枚でも載せておけば、 別にそんな一夜にして大人気! とまでは言わなくても、2、3日に1回ぐらいは誰かがダウンロードしにきてくれるんじゃない? ぐらいの期待はしてたのですが、それすらも大それた期待だったようで、 もう完膚なきまでに無視されている状態です。 確かに個人制作のゲームなんてガンジス川の砂粒の数ほどもありますから、 そんな中にさりげなくリンクを混ぜ込むぐらいでは無視されてしまうのもヤムナシというものかもしれません。 で、前回の宣伝用ツイートから文章をちょっと変えて、 「どんな内容なのか」を簡潔に伝えるようなテキストに変更してみたのですよ。 左が旧。右が新。
で、結果。
インプレッション数が大体同じぐらいになった時点で打ち切っております。 単純に比較して、リンクのクリック数、下がっているではありませんか(24→16)。ただでさえスズメの涙なのに。ちゅんちゅん。 画像とテキストを変えてみたわけですが、結果だけ見ると逆効果ってことになっちまいますね。ギャフン。 一応、変更の狙いとしては、 ・テキスト → 大まかにどんな傾向のストーリーなのかが伝わるようにする ・画像 → キャラ絵を出して「ノベルゲームっ!」ということをわかってもらうようにする ということだったんですけども、実際どんなふうに伝わるものなのでしょうね? 画像の印象の伝わり方はさておき、テキスト部分に関しては、 「情報を伝える」という意味での正確さは向上しているハズ。ハズ。ハズ。 で、それで数字的に下がったということは、 つまり「そんなものは見たくないよ」という人が多かった、 ということなのかな。 率直に結果を受け止めればそういうことになろうかと思います。 騙してリンクをクリックさせても仕方がありませんからね。 情報が伝わった上で「見ない」という選択をしていただいたのであれば、むしろ良いことと言えるでしょう。 それにしても。 それにしても、もうちょっとどうにかならないものなのかな。 すべての人のお口に合う内容だとは思わないですけども、ニーズがないってことはないハズ。 いいや絶対にある。 この私の霊能力がそう感じ取っているのだから間違いありません。持つべきものは霊能力。 正味の話、「なんかオモシロいゲームないかな〜」と思ってネットを彷徨っているお友達はいらっしゃるハズで、 そういうお友達がふと目をトメてポチポチしてみる、というケース。 そんなにレアなケースってことはないと思うのですが。 そういう場合に「ふと目をトメて」もらえる確率を高めるには…… というわけで、動きのあるものがあるといいのかな〜と思ったので、 このたびPVを作成してみたというわけです。聞くも涙、語るも涙。 しかし期待度は低いですね。 PVを作成したからと言ってダウンロード数がギュピーンと月までウナギ昇り! 最近地球でウナギ見かけないと思ったらそんなトコロにいたのね。 みたいなことになるとはあまり思えません。一体ウナギさんたちはどこへ行ったのか…。 ウナギさんはさておき、現にこの時点で再生数だってたったの8回ですからね。 そもそもPV自体を見る人がウズラの涙なわけですよ。ちゅんちゅん。ウズラの鳴き声ってどんなんだ?むしろスズメより大きいのです? 見てくれたとしても、最後まで観る人はいない。 このMedia Studioのアナリティクスによると、ほとんどの人が冒頭でイキナリ止めてるってことらしいですね。もう笑うしかない。 そりゃあ、どんな出だしにするかってのは動画として重要なところだとは思いますし、ド素人なりにそれなりに気は遣いましたけども。 この出だしがそんなに出来がイイというわけでも、皆さんに愛されるものってワケではないにしても、 なんというのかな、ぶっちゃけ、こう、もうちょっと「話を聞いて」くれたっていいじゃないの、って思ってしまうのが正直なところ。 実際、一般的に言って、 こういうものをまともに観てもらえる率はそう高くはないものであるらしく、そりゃそうだよなという感じではあります。 ↓ ・視聴完了率が高いのは短尺or長尺? 動画広告尺の比較実験 https://www.movie-times.tv/feature/8844/ そりゃあそうだろうなというところではあります。 PVの作りとして、マズイ点・改善の余地は多々あるのでしょう。 もっと何か「魅せるノウハウ」のようなものはあるのでしょう。 しかし、そこにこだわっても仕方がないと言うか、本末転倒というか、 この1分半足らずの動画さえ観てもらえないのに、その人を「うまくそそのかして」サイトに誘導してダウンロードさせても、 この大長編のゲームを最後までプレイしてくれるわけがないって気はします。 しかしそれを言い出すとPVの存在意義って何なんだ。 いや? ひょっとして、プレイするつもりだからこそ、ネタバレを気にして、動画は早めに切り上げたのかもしれないゾ? なるほど! そうだったのか〜。おヌシなかなかカワイイやつよのぅ。ガハハのハ。 などというのは楽しすぎる妄想だとしても、 実際、そもそもプレイする気マンマンだったら、PVの類のものは敢えて観ないということはある気はします。 しかし今回のこれに関して言えば、 ダウンロードが増えてる気配もないですし、単に拒絶されてるだけなのだろうな。ギャフンギャフン。 PVに関しては上げたばかりなので、一応まだ様子見ということではありますが、 何をやってもうまくいく気はしないな〜。 砂漠に水をまいている気分とはこのことかな。 他にも考えてる「策」はイロイロありますけども、徒労以上のものになる気がまったくしないですよ。 徒労を取ろう、とか思わず言いそうになりましたがその手には乗らんわっ! ぜーはーぜーはー。 あとフォロ・ワー・スーに関しては現時点で大体700ぐらいで、当初の目安だった1000には到達してないのですが、 「フォロバ100 & 固定RT」のキャンペーンはさしあたり停止しました。 理由としては大きく2つ。 ・あまりにも「話を聞いてない」人が多すぎる ・ちゃんと絡んでくれるFFの方たちが増えてきた >・あまりにも「話を聞いてない」人が多すぎる そもそも割り切ったお付き合いであることは承知の上です。対応が適当なのも想定の内です。 で、「お願い:フォロー & 固定RT お礼:フォローバック & 固定RT」という形でやっている(いた)わけで、 それはこれに応じてくれる皆さんも基本的に同じなわけですけど、 フォローだけはしてくれるけど固定RTはしてくれないケースがものすごく多い。あまりに多い。 相互フォローだけだとそれこそただの数字上昇ゲームになってしまうわけで、 だからこそ固定RTで「伝えたい情報」を拡散、ということのハズだと私は思っているのですが、 結局、こういう「輪」に参加してる人のほとんどが、まさにその「数字上昇ゲーム」にしか興味ないってことなのかもしれません。 もちろん、どう対応するかは皆さん各自の自由ですから、とやかく言うつもりはほんのちょっとしかないのですけども、 それにしても「目に余る」。 あと、RTはしてくれても、なぜか固定ツイートのRTではなく、特に内容のない単なる日常のさえずりをRTしてくれることもしばしば。 いや別にどれを選んでくれてもいいし、確かに新しめのやつだったわけですが、それにしても「なぜそれを???」と。 多分ですけど、多分ですけど、なんらかのツールがあって、 「その時点での最新のさえずり」を自動でRT、みたいな設定になってるんじゃないでしょうか。多分ですけど。 だってですよ? こういう「フォロバ & 固定RT」というキャンペーンをお互いにやっているわけですよ。お互いに。 気持ちは同じ、であるはずですよね? 人間の目で見れば、どれが「拡散希望のツイート」か? というのはそこそこ判断できないはずがないと思うのですよ。 いくらフォローやRTされても、そこに人間がいないのであれば単なる数字でしかなく、 ツールの使用が常態化すれば廃墟化していく。トラフィックエクスチェンジの二の舞です。 「単にフォロワー数という数字だけ増やしても意味がない」とはさんざん言われてるハズで、 だからこそ、多少とも「伝えたい情報が拡散するように」という試みが重要のハズなのですが、 結局、こういう「策」に参加している大半の人が、まさにその「数字増やし」にしか興味がないと見える。 そもそも効果の薄い手法だということは承知の上ではあります。 が、効果を薄くしちゃってるのは誰なんですか? という話。 敢えて言ってしまえば、手法の問題ではなく、そこに参加する人間の問題です。 しかしそれもまた「だから無意味だって言っただろwww.cooom!」 というよくある言説の中に回収される要因の一部ということにはなってしまうのでしょう。 寒々しい話。 ただねぇ、「お互いに宣伝し合いましょう」ということでやってるわけですから、 もうちょっと協力的な姿勢があってもいいと思うのですけど、 結局ね、そこがね、結局ね、「成り立たない」んですよね、こういうのってね。 そして世の中が「不便な」もので在り続けていく。 以前にも同じ道を通ったような気がいたします。まさにお馴染みの同じ道……ってその手には乗らんわ! ぜーはーぜーはー。 >・ちゃんと絡んでくれるFFの方たちが増えてきた これは当初の予定としては計算外のことだったのですが、 そこそこ絡んでくれたり、継続的にイイネやRTなどをしてくださる方が数名現れてくださってですね。 そういう人たちに対してこれ以上、誰にでもできる副収入のご案内RTを繰り返すのは申し訳ない。 知っての通り私は善人ですので、今後はそういう方たちとの関係を大切にしていきたいなというところです。 これもあるいは無差別にフォロー&RTしていたことの結果の一部なのかもしれず、 アカウント開設当初の闇雲作戦としては、まったくの無駄ではなかったのかもしれません。 が、いつまでこればかりを続けるというものではないのでしょう。 ただ、それで実際にダウンロード数が増えるなど、宣伝効果に直接つながっているかと言えば、 そこは正直ちょっと微妙なところではあります。 しかしこの点に関しては、あまり不満のようなことは言いたくないですね。 もしここをご覧になってたらごめんなさい。あなたに対して不満を言っているつもりはないんすよ。感謝しかありません。 実際、肝に銘じなければならないのは、 この世の誰もこのゲームをプレイする義務はないし、 この世の誰もこのゲームの普及に協力する義務もない。 現時点での結果に不満があるかないかと言えば、あります。 正確なアクセス解析はしてないので分からないのですが、 現時点でマインドルを一度でもプレイしたことのある人は、おそらく、10人に満たない。 この現状に満足しているようでは逆におかしい。 誰のせいにするわけでもないですが、いくらなんでも、もうちょっとどうにかしないわけにはいかないだろうというところではあります。 予告編の宣伝ツイートも定期的に続けているのですが、 そのツイート自体に「いいね」などをいただくことはあって、それはそれで非常に嬉しいことではあるのですが、 クリックして公式ホムペに来てもらえるケースは(ツイッター付属のアナリティクスによれば)限りなく皆無です。 そもそも宣伝として成立してないんじゃないのか??? 総じての印象としては、ツイッター上での出来事は、あくまでもツイッター内で完結してしまっていて、 ホムペにお招きする手段としてはあまり功を奏していないのかなという感じです。 これは一般的にそういうものなのか、私のやり方に何か問題があるのか。現時点では判断はつきかねるところではあります。 しかし「やり方」と言っても、これ以上何をしても下手な小細工にしかならないような気はしないでもありません。 ツイッターに何か「うまい使い方」が存在するという発想自体が相当程度にある種の幻想なのではないのか。 それこそ情報商材のネタになってしまうようなドリームランドと言いますか。 あと、これは結構重要というか致命的なところかなという点として、 ツイッターってなんか、スマートフォン使いの人がメインだったりするんです? 残念ながらマインドルはWindows専用なのだ! あ、Linux(Wine)でも動いたりはするかも。頑張ってくれ! なんか根本的に世間と「マッチ」してないなぁ、という気はしないではありません。 さて、何かと先行き多難ではありますが、さしあたり今後やってみようかなと考えていること。 まずは自殺。 それはもちろんそうなんですけど、マインドルの普及具合が今のままでは安らかに旅立てません。 それにしてもこういうことを躊躇なく書けるのは個人ホムペのイイトコロですね。 というわけで、今考えているのは、 ・LÖVEでのPV作成の手順解説記事を書く ・ミニゲーム大量生産 ・ゲーム制作の講座的な記事を書く >・LÖVEでのPV作成の手順解説記事を書く 今回マインドルのPVを作ったわけですが、動画作成ツールの使い方がさっぱりわからなかったので、 『LÖVE』という日本語キーボードでは名前すら入力できない謎の環境を使ったのですよ。 ここを読んでくれてるゲーム制作界隈のお友達はご存知かもしれませんが、 Lua言語を使って2Dゲームを作ろうぜ、というフレームワークというか実行環境です。 PVと言っても、もともとそんなに複雑なエフェクトを使う予定もなく、 画像やテキストを動かしながら順番に表示していく程度の処理だけでよかったので、 じゃあ得意のSFMLでガリガリと実装して最終的に画面をキャプチャしたらいいんじゃない? でも、いちいちC++をビルドするのは面倒だし、テキストファイルにソースコードを書いてスグに実行できるやつがいいなー、 というわけで、LÖVEを使うことにしたのでした。 一応ゲーム作成が主たる用途ということのようですが、別にゲーム以外のものを作ったってよい。PVだって作ってよい。 LÖVEはほぼ初めてでしたがLuaはマインドルの中でも使ってて 既に永世名人のタイトルを欲しいままにする腕前に達しておりましたので楽勝でした。私は本当に天才ですね。ウフフのフ。 したがいまして天才としてこの世に生まれた義務を果たすべく、 LÖVEでのPV作成のスキルを愛する皆様とシェアしましょうという慈悲深い企画です。 その解説の中で当然の流れ的に今回作ったマインドルのPVをご覧いただいて、マインドルにご興味を持っていただいて 思わず夢遊病のようにダウンロードしていただこうという完璧な作戦です。私は本当に天才ですね。ウフフのフ。 >・ミニゲーム大量生産 ツイッターをやっていて強く感じたこととして、 大作や長編より、ミニゲームや短篇の方が圧倒的に言及されやすいということです。 そりゃ確かに、やる側の立場に立てば、手軽に最後までやれた方が、感想などを言いやすいですよね。 Youtubeの実況界隈はあまり存じ上げてはいないのですが、大体同じような傾向はあるのではないかな。 実際、私が感想を書こうとする場合も、短篇やミニゲームであれば、その場のイキオイでさっとプレイして書く、ということがある。 一方、時間のかかるものの場合、「今は忙しいから今度」になったり、プレイはしていても言及はしにくいということがある。 大長編を作ってしまった身としては、苦労して作ったデカいものが無視される一方、 短期間でちょろっとツクツクしたようなものがイイネイイネされてる状況を横目で見るのは 正直言って「なんだよ〜。チェッ」という思いはある。あるさ! しかし、繰り返しになりますが、やる側の立場に立てば、 少なくとも「言及しやすさ」という点では実際そうだなと言うのは認めざるを得ませんね。 もちろん、話題にしてもらうこと自体を目的として陰謀を企てるのは本末転倒というものでしょうけれど、 それを承知の上で、知名度上昇のために敢えて小規模なものを多めに出しておくのは作戦としてはアリかなとは思います。 あと、現時点で、うちのサイトでマインドル単体しか公開してないというのも不利な点かなと思います。 つまり「わざわざこのサイトに来る」理由が他にないわけですよ。 私の大ファン以外、この世の誰もこのページにこのゲームが置いてあることを知らないし、知る機会もない。 閑古鳥の悪循環。ちゅんちゅん。 ツイッターにせよ、はてなブログにせよ、いくら「ゲーム界隈」のアカウントとして内容を作っているつもりでも、 アクセスする人の心づもりが「よーし、ゲームをするぞ〜。ダウンロードするぞ〜」というものであることは期待しにくい気はします。 だから結局、たとえばPVや予告編を見て、仮にそれ自体に興味を持ったとしても、 それが「公式ホムペに移動してダウンロードしてプレイ開始する」という行動には結びついていかないのではないのかな。 「それとこれとは話が別」と言いますか。 結局「ゲームをするつもり」でいる人がご訪問してくださるような場所であるかどうか? そうでないならば、「そういう場所」として作り込まれている「ゲーム投稿サイト」等に依存せざるを得ないということにもなるのでしょう。 (実際、良し悪しは別として、その点に「ゲーム投稿サイト」の役割・意義があるとは言える気はいたします) 昨今のネット空間に関する気の滅入る議論はさておき、 要は、如何にして「ここに来ればゲームがあるぞ」という認識を持っていただけるようにするか? という話。 というわけで、上記の「言及されやすさ」とも合わせて、ミニゲームをたくさん置いておくとよいのではないか?ということです。 こう言っては何ですが、もうクソゲーでも何でもいいから、とにかく、 「大量に置いておく」ということに意味があるのではないかなという気がしております。 もちろん「精魂込めて作ったこだわりの一品」が多くの人に認められて……というのが理想ではありますが、 そこに下手にこだわって手をこまねいて待ってても仕方がないのかなというところです。 とは言え、注目を集めるためだけに、世間に垂れ流して害になるようなものを無闇に出すことは避けたいですが。 え? マインドルこそ害になるって? やかましいわ! ちょうどLÖVE名人にもなったところですし、なんか適当に軽いノリで多めにツクってみようかな〜と考えております。 問題は元気がないことです。地球のみんな、オラにセロトニンを分けてくれ! >・ゲーム制作の講座的な記事を書く 上記のミニゲーム大量生産の副産物として。 この手の情報ってネット上にあふれてるようでいて、実際には偏ってるようなところがある。 有名なツールの情報は多いけれど、どれも断片的だったり、逆に詳しすぎてとっつきにくかったり、 有名じゃない制作環境の情報は数えるほどしか出てこなかったり、 「ゲーム制作講座」と言いつつ、目次だけ作ってあって大半のページが工事中だったり、 有名なツールを列挙して紹介してるだけだったりするのも「あるある」ですね。 それでいて検索すれば上位に出てきてたりする。需要はあるのでしょう。 別にそんな高度な内容じゃなくても、そこそこ実践的で体系的な記事であれば需要に対してお役に立てるものにはなるのではないか? で、その流れ的に当然のように「マインドル」に誘導して洗脳を施すという完璧な計画です。私は本当に天才ですね。 というわけで頑張って行こうと思うわけですが、 問題は元気がないことです。地球のみんな、オラにセロトニンを分けてくれ! あまり風呂敷を広げると命がいくつあっても足りませんね。 さしあたり、PVの作成手順をまとめた記事ぐらいは作成に取りかかろうかなと思いますよ。近日公開予定。生きてれば。 追伸: これを書いている間にどなたかRTしてくださったようで、PVの再生回数が増えてましたよ! ありがとう! やはり大半のお友達は冒頭で止めてらっしゃるみたいですけどね。 RTしてくれた善人さんだけはご覧になってくれた感じかな? しかし完了率3.6%ってどういう数字なんでしょうね。 仮に21回のうち1回だけ最後までご覧いただいたのだとして、 1 ÷ 21 × 100 = 4,7619048 3.6という数字はどうすれば出てくるんだ??? もうこのアナリティクスの数字自体デタラメという説が濃厚になって参りましたよ。 これだからツイッターはヤメられませんね。 ではまた。 今日もあなたが幸せでありますように〜。 ◆ 2020/01/05 したこと: マインドルの宣伝活動中 かねてより練り上げていた綿密な計画をついに実行に移し、ツイッターに宣伝用のアカウントを作成いたしましたよ。 アカウントを作成したのは1月1日だったんですけど、 「2019年12月からTwitterを利用しています」って書かれてますね。 これが噂の時差というやつでしょうか。地球は丸いことが証明されました。ゴロゴロ。 顔アイコンは新たに作る元気も探す元気もなかったので、以前作ったアカウントのものを元気よく使い回しております。 と言っても誰も気付かないでしょうから、いつもながらの慈悲深さを発揮し、 この場を借りて申し上げて差し上げた次第です。よかったのぅ皆の衆。 こうして見ると、ちょうど背景の先輩のアンニュイな頭部がニョキっとナナメに生えてるみたいで絶妙ですね。まさに奇跡のミラクル。 で、綿密な計画の通り、↓こんな感じの固定ツイートに目当ての宣伝を書きつつ、フォロバ100%宣言と相互フォロー&RT募集。 同じような告知を出しているお友達を検索し、さしあたり50件ほどこちらから営業してみました。 すると次々とお返しのフォローが来たり、RTされたものをご覧になったと思われる方々からの暖かい営業のお声がけが殺到し、 数日の間にフォロワー数にして200件ほど上昇。うむ。計画どおり。 固定ツイートのアナリティクスはこのようになっております。 こういう形で宣伝する以上、フォロワー数の数字が増えること自体にはあまり実質的な意味はないと思われます。 宣伝につきあってくれてる親切な皆さんということではありますが、 別に私という人物に「ついてきて(follow)」くれてるってわけではないですからね。 そういった額面どおりの「本当の」フォローの場合は 「発言を信頼して見てくれる可能性の高い人たち」を表していると言うことになろうかと思いますが、 こうした無差別な相互フォローの場合、そういった「中身」はない。 が、「これだけ宣伝活動をがんばったぞ」という活動記録の目安にはなるかな、とは思います。 なので、その意味で、さしあたり1000フォロワーを目指して頑張ろうと思います。セロトニン不足ですけど。ヘナヘナ。 その後は予告編のBOTだけで放置とする予定。だからそれまでは頑張るのですよ。ヘナヘナ。 宣伝効果としては、フォロワー数よりもRTでの拡散を重視した方がいいのかな、という気がしております。 もちろんそれだって、応じてくださるお相手の方もこちらと同じように大量の相手に作業的にやっている可能性が高い。 つまり、RTされたものが表示される先で、別の人の固定ツイートがRTされたものが大量に並んでいて、 私のものも「有象無象の宣伝ツイートの1つ」ということになるわけです。実際そういうのをよく見かけます。 しかし、最低限、ご本人がRTをするときだけは自分で手を動かすので、 その瞬間は書き込みを「目にする」……筈ッッ。自動化ツール的なものを使っているのでなければ。 いや別に、自動化ツールなんて使うなよぉ、と言いたいわけではなくて、 その確率はゼロではなくても、そう高くはないハズなので、誤差扱いでよいのではないかな、という慈悲深い判断です。 自動化ツールと言えばかつてのトラフィックエクスチェンジは オートサーフなどというアホなものが業界標準になったおかげで自滅したのでしたっけね。 「お客様のご要望にお応え」した結果、まともなサービスを続けてたところも含めて、業界ごと巻き込んで自滅した。 あれは本当にアホ以外の何物でもないと今でも思うのですけど、一体何だったんだろうなぁ。 参加者みんなが自動ツール使ったら結局誰も画面を見なくなるという分かりきったことがなぜ分からなかったのか? 実は分かってやってたのか? だとしたら目的は何だったのか? 今だに謎というか、もはや永遠の謎か。 人間は理性的に行動するというわけでもない存在なのかもしれないなぁ、と思い知らされた一件ではあります。 別件ですが、今だって例えば、どうせJ民党が勝つ、とか言って誰も選挙に行かないから、本当にその通りになってるわけで、 「自分たちで自分たちの首を絞める」という、似たようなことは相変わらず継続中なのかな、と思うところではあります。 さて、アナリティクスを見るに、インプレッション自体はさすがに大量ですが、これはほぼ素通りでしかなく、 エンゲージメント数から察するに、多少とも関心を示してもらえる頻度は20分の1ぐらいという感じですね。 RTしてくれる頻度はフォローしてくれる件数の半分弱のようですね。 一応、「フォロバ & RT」という形で依頼しているわけではありますが、フォローだけよりも一手間かかりますからね。 RTしてくれないものを「してくれ」とは言いづらい。 あるいはご本人のこだわりで、余計な発信をしたくない、という場合もあることでしょう。 そこはもうお任せするしかないですね。 ただし、こちらからは当然のごとくRTをしてさりげなくプレッシャーをかけておくんだぜ。イヒヒのヒ。 あと、こちらの固定Tに「いいね」だけ押してくださる初見さんの方がちょくちょくおられるんですけど、どういう意図なのかな? 本当に純粋に「いいね」だけのつもりという場合もあるのかもしれませんが、 「自分からフォローしても返してくれるかどうか分からないから、いいね通知で存在だけ先に知らせておく」 という意味なのかな? と勝手に解釈して、私の方からフォロー&RTさせてもらってます。 こちとら宣伝用と割り切ってるのでFF数のバランスは気にしないんだぜ。 で、肝心の「リンクのクリック数」ですが、やはりスズメの涙ですね。ちゅんちゅん。 綿密な計画のとおりではありますが、インプレッションとの圧倒的な差と言いますか、 現実を見せつけられると思わずさえずりがこぼれてしまうところではあります。ぴぃぴぃ。 しかし逆に言えば、ご本人は当方のコンテンツにまったく興味ないのに宣伝には協力してくれてるわけです。 実にありがたいことではありませんか。おっと目から鼻水がたれやがるぜ。コンチキショー。 正直、RTのついでに「ちょっと見てみるか」ぐらい思ってくれないかな〜、と期待してしまうところではあるのですけど、 私だって相互RTでRTしまくる際、相手の宣伝リンクほとんど見てないですからね。 別に「見ないぞ!」と不退転の決意で無視しているわけではなくて、 興味があれば見る場合もなくはないのですが、何しろジャンルを選ばずに営業活動をしてますので、興味のないものの方が多い。 相手もそれは同じで、つまり「ゲームに興味のある人」というのは、相当せまい範囲になってしまうのが実際なのでしょう。 人の興味自体を操作することはできませんので、こればかりは仕方のないところではあります。 というわけで数でカバー大作戦なんですよねっお兄ちゃん。誰がお兄ちゃんだ。 しかし、もうちょっと興味を持ってもらえるように工夫した方がいいのかな? キャッチフレーズ的なものをつけてみるとか?「忘れられない夏が始まる……」みたいなの。 下手に小細工をしても、結局は受け手次第なので、徒手空拳のノーガードが最善かなと思ってはいるのですけど、 単に「ノベルゲーム作りました」ってだけじゃなく、もうちょっと何か伝えるものがあってもいいのかな。 いや、しかし何を書いても「伝わるという予感」がまったくしない。「宣伝がんばってまーす」以上のことは言えないのではないのか。 興味を持つ人の範囲と言えば、#ノベルゲーム のハッシュタグがついた投稿って、意外と少ないんですね。 しかも大体いつ見ても顔ぶれが固定されてるではありませんか。私も今ではその仲間入りというわけです。はっはっは。何がはっはっはだ。 少ないと困ることがあるのかと言えば、あるのですよ奥さん。 がんばって大量に作った予告編をBOTで3時間間隔でランダム投稿するように設定してたんですけど、 3時間間隔だと私の投稿ばっかりになってしまう。これではまるでスパ、スパ……すっぱい! ぜーはーぜーはー。 というわけで慎み深い私は5時間間隔に変更しましたよ。まだ短いかな? 一日一回ぐらいで充分かな? ドキドキ。 しかしそれだと全部で110本ある予告編が一巡するのに3ヶ月以上かかってしまう。そんなに長生きする自信ありません。 いや、BOTなんだから私が死んでもいいのか。むしろそのためのBOT。うむ。そうであった。 しかし投稿が少ないということは人気(ひとけ)が少ないということであり、 #ノベルゲーム のタグをつける意味があんまりないってことなのではありませんか? そのタグで検索すると、かなり「狭い世界」になってしまうわけですが、 一方、ツイッターワールド全体では、3時間置きだろうが3分置きだろうが、光速を上回る速さで流れてますよね多分。 おっと、光速を上回ったら過去にタイムスリップしてしまう。 投稿したと思ったら投稿する前に戻っていたぜ。ありのままのツイッター・ザ・ワールド。 タグをつけることで遠慮しなきゃイケなくなるのなら、そもそもタグをつけない方がいいのではないか? あるいはもっと人口密度の多いタグにするとか。何にしたらいいのでしょう? ん? 密度って多い少ないじゃなくて高い低いかな? 今年からは前者もOK。私が許可します。で、何にしたらいいのでしょう? タグで思い出しましたが、予告編の内容に合わせて #ノベルゲーム 以外にもタグをつけてるものがあるのですが、 #自殺 というタグをつけたやつだけ、インプレッションが桁違いに多くて死ぬかと思いました。 さらにリツイートまでされてしまったらしい。大丈夫なのかな。 気に入っていただけたのなら何よりですが「ゲームの予告編」という主旨は伝わったのかな? それにしても、皆さんがこんなにも自殺好きとはちっとも知りませんでしたよ。 さては私だけ仲間ハズレにして盛り上がってたというわけですね? イジワル! そのタグをつけるのとつけないとで、こんなにも差が出るなら、他の予告編にもつけてはどうか? そんな誘惑がムクムクと湧き上がってくる。ムクムク。 そもそもこのゲームのストーリー自体、自殺に関連があると言えばある。ないと言ってもある。 すなわち、すべての予告編につけたからと言って嘘になるわけではまったくない。 というかむしろ、インプレッション狙いなわけでもなんでもなく、最初からつけたいとは思ってました。 しかし、あまり自殺を前面に出すとツイッター的にマズイかな、という気はしないでもない。 さらに言うと、ここまで大幅に反応に差が出るとなると、逆に、つけることを躊躇してしまいます。 だって、「自殺」に興味のあるお友達は別に「ゲーム」に興味があるわけではないですよね。 問題がセンシティブなだけに、空気を乱すのは申し訳ない気がしてしまいます。 ん? 空気? むしろ自殺に興味があるならなおのこと、 そんな空気を吸ってる暇があったら息止めてマインドルをやるべき! と盛大にオススメしたいところではある。 しかし私の得意の霊能力によると、世間のお友達はそういうふうには受け止めてくださらないと予知できてしまいます。 ゲームのネタにしてスパム行為しやがって! とか思うんでしょ? 隠したって私にはお見通しなんですからねっ! それほどでもないかな? 意外とみなさんお優しいですもんね。 ただ、「自殺と言ったら流行るから自殺と言う」みたいなのは、なんかヤだなぁ。こういうのは秘め事でなければならない。ドキドキ。 ドキドキはさておき、なんていうのかな? 「自殺防止支援」みたいものだと思われてしまったら残念かなとも思います。 防止どころか、どちらかといえば促進ですからね。え? 促進なんだ? いや別に促進はしませんけども。ドキドキ。 本質として大事なのは出来事としての「死ぬ/死なない」ではない、とは言いたいところです。 上っ面の「死ぬな」も「じゃあ死ね」も、どちらも、そうした本質からは離れてしまう。 世間の声に惑わされずに虚心坦懐に考えていっていただきたいなと願うばかりです。 いずれにせよ、こちらから伸ばせる手の長さには限りがある。度を越すと押し付けがましくなってしまう。 向こうからこちらを見つけていただけるよう、手はずだけは整えて、お待ちするしかありません。 ただ、宣伝効果として、キーワードは意識した方がいいのかな、とは思うところ。 とは言うものの、嘘ついてもしょうがないからなぁ。いや別に嘘じゃないんですけども。 変にヒネっても裏面に出る予感しかしません。 結局、ニーズは「向こう側」にある。 私が「こっち側」でどんなに小細工をしてもしなくても、「向こう側」次第で反応が変化する。 私は「こっち側」で私にできることを愚直にやるしかないのでしょう。何しろ、受け取るのは「向こう側が」なのでした。 ちなみに、これを書いている前日、トレンドに「第三次世界大戦」というワードが流れてきましてですね、 なんか、2020年1月4日が第三次世界大戦の日だとかいう、iPhoneの音声ガイドソフトの予言があったんですって? で、便乗して「第三次世界大戦」というお題で一つ投稿してみました。 するとあれよあれよという間にインプレッションが伸びる伸びる。アレヨーアレヨー! さぁ皆さんご一緒に! もうアナリティクスの画面を見てる間に数字がどんどん更新されて、1000弱ぐらいまでいきましたよ。 でも別にフォロ・ワー・スーが増えるでもなく、ただ単にそれだけでございました。アレヨー! 別に戦争関連のアカウントというわけでもないですからね。突発的に露出が増えても仕方がないというわけでしょう。 ちなみに返信1件はすでにフォローしてくれてた方です。結局、絡んでくださるのは内側ということのようです。 それにしても、こう、「人が集まる場所」と「全然いない場所」の差が激しいですね。 発言や活動自体の中身よりも、そうした流れに「乗る」かどうかの方が結果には影響が大きい…… などと言うとお叱りを受けるのかもしれませんが、ぶっちゃけ、そういう現実はあろうかと思います。 うまく「乗る」ことができれば、それこそ「一晩で燃え上がって大人気」のツイッター・ドリームという感じでしょうか。 何かうまいやり方がないかな〜、と夢を膨らませて考えたくなってしまいそうですが、 そういうのにのめり込むとダークサイドに堕ちていきそうな予感がいたします。ノウハウを限定販売! みたいな世界。 元気が有り余っていたら楽しそうですが、元気がないので無理であります。 なぜかああいうことしてらっしゃるお方って元気っぽいお方が多いですよね。楽しいお薬でもお注射してらっしゃるのかな? 私にも分けて! あと何かあったかな。 ジャンルを選ばずに相互フォローしてると申し上げましたが、 一度ちょっと出来心で、ゲーム作ってる系のアカウントさんたちを選んで数名フォローしてみてしまったんですよ。 すると、やっぱり、なんか、こう、「ちゃんとお相手してくれる」度が高いんですよ。 申し訳ない。 何が申し訳ないかと言えば、今後、宣伝のRTでその人たちのTLを汚してしまうのが申し訳ない。 宣伝目的のアカウントであることはプロフィールに書いてはありますが、ゲーム関連のお仲間だと思ってフォロー返ししたら、 副収入! とかFX自動売買! とかのRTがバンバン流れてくるわけです。 申し訳ない。 どうせ宣伝RTをするにしても、ゲーム関連のRTなら違和感ないかなとは思うのですけど。 やっぱりゲーム関連のアカウントだけ選んで営業した方がいいのかな。 しかしそれだと、「宣伝として割り切る」のが難しくなってしまう。 ジャンル不問だと反応が乏しくて虚しくもありますが、 「お互い宣伝目的なんだからいいっすよね」という殺伐とした気安さは救いでもある。 「どうせ興味なんて持ってもらえない」という前提で、 「見たかったら見てね。興味なかったら無視してね」という身軽さ。 見たくない人に見せつけたいわけではないので、その方が動きやすくはある。 ゲーム関連のアカウントで、なおかつ宣伝目的で割り切っている、というのが(都合上)理想的なお相手ではありますが、 そういうアカウントはあんまりというか、ほぼお見かけしません。 心置きなく「ゲームの宣伝ができる場所!」というのがあるといいんだけどな。 いや、それを突き詰めると結局、ゲーム投稿サイトってことになってしまうのかな? しかしそれだと胴元のプラットフォーマーがすべてを牛耳ってて、受け身で利用されてしまうことになるのが面白くないのでした。 投稿したら、あとはもう「審査員様にお任せ」みたいなのがね、なんだかね。 最終的には受け手が決めることだとは言いますが、その受け手ってのはプラットフォーム事業者様のことなのかコノヤロ〜、ってな話。 自分の裁量で活動できるという点ではツイッターに利点があるのかなとは思います。 フォロワー数の目標1000ということでやり始めているわけですが、 900ぐらいまではこのまま続けて、残りの100はゲーム制作関連のアカウントさんを中心にお声がけさせていただこうかな、と なんとなく完璧に計画調整しているところです。 後回しにすればゲーム関連のアカウントさんにビジネス自動化のご案内RTをしなくて済むはず。冴え渡るアイディア。 あ、そうだ、あと、ここを読んでくれてる慈悲深いあなたに、これは言っておかねばならぬと思っていたのですが、 マインドルのリリース後のわりと早い時期から存在に気付いてネットで言及などしてくれた方がいらっしゃったようで、 最近の若いお友達の言葉で言うと、感謝感激雨あられっす! マジ感激っす! 名指しはしませんが、多分あなたです。 思わずオンライン的に突撃して熱い口付けを捧げたくなったりもしたのですが、 こちらから絡んでいくというのも少々ウザいかなと思ったので敢えて反応はせずにいた次第です。 ここを読んでくれてるかどうかはわかりませんが、改めまして、この場を借りてマジ感激っす! さて。 さしあたり、現時点ではまだ第三次世界大戦は始まっていないようではありますね。実は始まってるのかな? ドキドキ。 いつ人類が滅んでもおかしくはありません。いつ私が死んでもおかしくはありません。 考えるだけでワクワクしてきますね。エヘヘ。何がエヘヘだ。 世の中は相変わらずなようでもあり、悪化しているようでもあり、改善の兆しがあるようでもあります。 全宇宙の誰もが、それぞれの意味で幸せであってくれればいいのですけど。 願うことしかできません。 今日もあなたが幸せでありますように。



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