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◆◆ TEXT ◆◆

◆ 2021/07/19
    したこと:
        回想シーンを実装
        
        さしあたり1キャラ分ですが、回想シーンを全話実装しました。
        
        2〜3分程度で読める短いお話が7話。
        8話の予定でしたが、実際に作業してみたら7話で収まったらしいですよ。
        いずれにせよ規模的には超小粒。
        予定通り、あっと言う間に実装完了しましたね。まさにお茶の子さいさい。

        ついうっかり作業速度が光速を超えて朝飯前にタイムスリップしそうになりましたが、
        過去を改変するようなことがあっては皆様にご迷惑がかかるでしょうと思い、
        速度はほんの少しだけ抑えて進行いたしました。私は本当に思慮深いですね。

        なのですが、人がこうして下手(したて)に出てみれば、
        もう7月も後半ですって?
        相変わらず地球さんは勝手にくるくる回るのがお好きなようですね。
        こういうところは昔からちっとも変わってませんね。ヤレヤレ。
        
        そんなわけで思いのほか時間がかかってしまったらしいですけども、
        ともかく1キャラ分完了です。
        残り2キャラ分も出来れば揃えてしまいたいのはヤマヤマながら、
        この調子だと地球さんがどこまで飛んでいくかわかりませんので、
        さしあたり1キャラでリリース可能な状態を目指して作業を進めていくですよ。
        
        ところで、文章を書いてた段階では気付かなかったことですが、
        ゲームのデータとして入力する作業をおこなう際、必然的に読み返すことになり、
        色々と思うところが出てきたりはします。
        
        で、何なんですかね、このお話は。めちゃくちゃ面白いじゃないですか!
        私、このお話を考えた人の大ファンになっちゃいましたよ。
        全宇宙で最初にこのお話を読めるだなんて、私は超ラッキーです。
        この超ラッキーを一日でも早く地球の皆さんにもおすそ分けしたいですね。
        
        
        あと、すっかり忘れてましたが、回想シーンの作業に入る前に、
        同じアイテムを個数で表示する機能を実装したのでした。
		
        
        これで実質的にアイテムの所持数は無制限に。
        リソース管理ゲーとしてはガバガバになるわけですが、
        別にリソース管理ゲーではないのでこれでよしなのです。
        適当に冒険してて気が付いたらアイテム富豪というヒャッハー体験を味わっていただければと思います。
        
        
        ちなみに上記の動画についでにストアの仕様が映ってますが、
        ご覧の通り、お金の概念はありません。
        「店」に入荷しているアイテムは全てタダで貰える仕様です。
        ゲーム内で一定の「時間が流れる」ごとに町の「店」にアイテムが「入荷」される仕組みです。
        現在はデバッグ用に操作できるようにしてますが、
        実際は「セッション(戦闘じゃないよ!)」をするごとに「時間が流れる」仕様です。
        
        つまり、従来よくあるのは、
        「戦闘して→お金を貯めて→店で買う」
        という流れですが、
        だったら間に「お金」を挟まなくても、
        「戦闘(に該当する行為)」をすることで「店」にアイテムが「入荷」されるようにすれば、
        タダで貰えるようにしても、ゲームのつじつま上は同じではないか、ということです。
        
        で、それを言い出したら、「店」自体必要なく、
        そもそも「セッション」でのドロップオンリーにすればいいのではないか、とか、
        そもそもゲームをしなければいいのではないか、とか、
        そもそもこの世に生まれて来なければいいのではないか、とか、
        イロイロと省ける要素が見えてきてしまったりはしますね。
        
        ただ、生まれてきてしまったからには「無駄」を承知で、その中で何を表現するか?
        「お金」というのはなかなか野蛮なシステムだなとは常々思っているところですので、
        せっかくこうしてRPGを作るという機会が得られたからには、
        「お金」という概念のない世界の一端を示せればと願う次第であります。
        
        > で、それを言い出したら、「店」自体必要なく、
        
        一応、「店」は冒険に出発する前の準備用、
        ダンジョンで手に入るのは、道中での補給用、
        という棲み分けを想定してはおります。お楽しみに。ワクワク。
        
        
        ところで「ゲーム」という媒体を通して、どのような貨幣制度が表現されているか、というのは
        なかなか注目に値する問題のような気がいたします。
        誰の言葉だったか忘れましたが「ドラクエは通貨発行権のゲーム」と言った人がいました。
        外を出歩いてモンスターを狩るという行為が、とどのつまり「通貨発行」というわけですね。
        
        現実における「賃金労働」は通貨発行ではなく、
        給与とは、雇い主から労働者への、通貨の移転です。
        いくら労働をしても、世の中全体を流通している通貨量が増えるわけではない。
        必然的に「賃金労働」は「イス取りゲーム」になり、
        皆が勤勉に働けば働くほど、奪い合いが加速し、互いに疲弊する。
        技術が発展すればするほど「イス」の数が減り、「食い扶持」が減る。
        
        概して、ゲーム内で「金を稼ぐ」という行為は「労働」のメタファーのようでありながら、
        実のところはゲームシステム内で「金」という「データ」を生成する「通貨発行」であり、
        現実の「労働」とは全く異なるものです。
        
        ……と、このように順序立てて言葉で述べれば、
        誰でも「そりゃそうだ、そんなことは分かってる」とお思いになることでしょう。

        しかし、問題は、もっと感覚的な部分です。
        
        感覚的な部分では、現実の労働も、ゲームでよく表現されているごとく、
        「頑張って労働すれば、ごほうびとして、お金を増やしてもらえる」
        という「感覚」で把握している部分が多分にあったりするのではないでしょうか。
        
        これを便宜的に「ごほうびマネー観」と呼んでおきたいと思います。
        
        MMT界隈でよく「間違った貨幣観」として
        「お金のプール論」や「商品貨幣論」などが槍玉に上げられますね。
        それらを「理屈で説き伏せる」のは可能かもしれないのですが、
        なかなか感覚的に伝わらないものがある、という現実はご承知のところでしょう。
        
        その理由は、やはり「感覚」にあるものと思われます。
        経済学的な理屈で云々、というより、
        ある種の「価値観」を含んだ形で、
        「お金ってのは、がんばったご褒美として貰えるモンだろーが!」
        という「感覚」が先行し、
        「通貨は借金と同時に無から生成される」とか「(インフレ率を上限として)国債をいくらでも発行できる」
        という話に「反感」を感じてしまうのではないか?
        現実の財政や金融のオペレーションとは別の次元での、感覚的・価値判断的な反感です。
        つまり得意のテレパシーを使って内心の声を言語化すれば、
        「ごほうびマネーじゃないマネーが存在するだなんて我慢ならん!」というわけです。
        
        その延長上のこととして、
        たとえば生活保護は相変わらずバッシングの対象であり、
        ベーシックインカムなんて夢のまた夢というわけです。
        「ごほうびマネー」じゃないマネーですからね。
        
        実際は生活保護だろうが何だろうが、
        政府からお金を貰った人が、そのお金で、あなたが販売しているインディーゲームを購入すれば、
        それはあなたの売上になる。
        
        世の中で「お金を入手する」ことのハードルが上がれば上がるほど、
        あなたが販売しているインディーゲームを購入することのハードルも上がり、
        あなたが売上を伸ばすハードルも上がる。
        
        結局、この悪循環でお互いに足を引っ張って首を締め合っているのがここ数十年の流れのように思います。
        MMT云々以前に、「ごほうびマネー観」という「価値観」が我々を苦しめているのではないでしょうか。
        その「価値観」を一旦、脇において、忘れてみれば、
        MMT界隈でよく言う「そもそもお金って、どうやって作られてるのか?」
        という話が、素直に頭に入ってくるでしょうし、
        その先にある、経世済民、人々がハッピーに暮らせる社会を目指しましょう、という、
        お金云々以前の根本に立ち返ることもできるのではないかと思うのですが。
        
        ちなみに、「ごほうびマネー」であることと「通貨を無から発行するな」は、むしろ矛盾しますよね。
        通貨発行量が限られているという現実だからこそ、
        「労働」は通貨という限られたリソースの「奪い合い」になり、
        いずれ「がんばっても、ごほうびがもらえない」という状況に収束していく(=デフレ)。
        
        むしろ、MMT的に「財源問題は存在せず、通貨は政府の裁量次第で発行可能である」ことを認める方が、
        発行した通貨を、各々の「がんばり=供給量」に応じて配布できるようになり、
        供給と需要のバランスがとりやすくなるような気がします。
        ひいては、供給が需要を上回っている場合には、それ以上「がんばる=供給」の必要がない、
        という当然と言えば当然のことが、現実化されていく道が開けるのではないか。
        いや、でも、あくまでも「がんばったご褒美」じゃないとダメ!
        という観念を守り抜く構えである限り、根本は変わらないのかな?
        
        いわゆる「無駄な公共投資」というやつがそれですね。
        実際にどれが無駄でどれが無駄じゃないか、という線引きは不毛な論争になるわけですが、
        たとえ無駄であっても「がんばり」を裏付けとした「ごほうびマネー」という体裁をとらないと
        マネーを配布できない、という、しがらみ。
        
        ただ少なくとも、政府自身の裁量でマネーを発行できることを認める限りは、
        「無駄」というのは「金銭的な無駄」にはなり得ない。
        ただし、その労働に携わる人の労力や時間、地球の資源は「無駄」になり得るのであり、
        やはり「ごほうびマネー」にこだわるのは「滅びの道」だとは思います。
        生産した物が「ごほうび」としてしか分配できず、余ったまま腐っていくのも「無駄」ですよね。
        それで「売れないから」工場が閉鎖されるなどして社会の生産力が落ちるのも「無駄」ですよね。
        すぐに「金になる」事業しかできず、研究開発や人材育成に力を割けないのも「無駄」ですよね。
        
        「がんばり」が「意味のある生産行為」と一致している間は
        「ごほうびマネー制度」も無理なく運用できるのでしょうけれど、
        近年、「労働」がますます「お金をもらうための言い訳行為」として形骸化しているのはご存知の通り。
        
        
        > しかし、「ごほうびマネー」であることと「通貨を無から発行するな」は、むしろ矛盾しますよね。
        
        この点に関しては、いわゆる「政府の財政を家計にたとえる愚」というやつなのかな。
        
        まとめると、
        「ごほうびマネー観」にこだわり続けることは「無駄」を溢れさせる滅びの道であり、
        さらに、政府と家計を混同することで、自分たちで自分たちの首を締めているのが現状、
        という感じでしょうか。
        
        
        話をゲームに戻すと、
        ゲームを通して「ごほうびマネー制度」が再生産され続けている現状があるように見えることもあり、
        やや危惧を感じたり感じなかったりしているという感じです。
        ゲームが先が現実が先かというのはニワトリ卵ではありますが。
        
        「ニワトリ卵」と言いつつ、ゲームと現実の「力関係」はほぼほぼ明白で、
        ゲーム側が原動力になって現実側を変える、というふうには多分ならないのでしょうし、
        個々のゲームを批判しても仕方がなく、
        また、ゲームとは概して「目標に向けてがんばる営み」そのものであり、
        そこで「ごほうびマネー」的なシステムが採用されるのは必然的なことではあります。
        「そういうのが面白い・楽しもう」ということですからね。敢えて。

        なお、今私が準備しているゲームにしても、貨幣制度はさておき、
        「セッションをこなすことでアイテムが手に入る」という「ごほうび構造」ではあり、
        その点では、いわゆる「ゲームらしさ」の伝統は踏襲しております。
        別にこれを「世の貨幣観の過ちを正す銀の弾丸!」などと気概を込めているわけではなく、
        ただ、RPGを作るとなった際、貨幣制度はどうしようか、ということで、
        私としては、少々ヒネっておきたかった、というぐらいの話ではあります。
        
        別にそういうマネー制度を踏襲しているゲーム「が悪い」とは、ほんの少ししか思いませんし、
        ましてや、そういうゲームを作っている人「が悪意を持っている」などとは、1ミリも思わないのですが、
        
        ただ、そういうのが、見えないところで、巡り巡って、
        「頑張ってない奴は許せん」という風潮や、
        その裏返しとしての「可哀想ランキング」のようなものや、
        ひいては生活保護バッシング、デフレの悪化からのスタグフレーション、社会の供給能力の毀損など、
        お互いにお互いの首を締める修羅の世界が現世に具現化することに関連しているようにも思えて、
        ドウシヨウモナサを解きほぐす糸の一端が、どこかにあるようにも思えて、
        「見ないフリ」をするには、あまりに、いたたまれず、
        
        と同時に、何やかんや言っても、話を戻せば「たかがゲームのこと」に過ぎず、
        いたたまれなさとドウシヨウモナサのオシャレなコラボを今日も存分に堪能するばかりです。
        
        
        誰が悪いというわけではないのでしょう。
        この世自体にドウシヨウモナサが根深く織り込まれており、至るところにその端緒を覗かせている。
        ゲームもその一つに過ぎないというだけのことなのでしょう。
        この中でどう動いても、ドウシヨウモナサに搦め捕られる。
        ドウシヨウモナサがドウシヨウモナサを呼ぶドウシヨウモナサのスパイラル。
        
        この世がそのような現場であること自体は、恐らくドウシヨウモナイ。
        政治や経済が良い方向に動いたとしても根源的にはドウシヨウモナイ。
        ベーシックインカムが実現したとしても根源的にはドウシヨウモナイ。
        
        ただ、そこにいるのが「人」であるという事実がある。
        
        だからこそ「人がいること」自体がイコール「この世である」という意味で絶望の根拠であると同時に、
        人が人を想う愛であるとかやさしさであるとか、
        この世が「このよう」であることを通して垣間見ることのできるダジャレというものもある筈です。
        それはそもそも万物が有ではなく最初から無のままであれば良かったという一点を1ミリも動かすものではなく、
        この世が「このよう」である限り、その現場で行われる個別具体的なメソッドは
        必然的に「失敗」の可能性を内包するのではありますが、
        それでも、そこにいるのが「人」である限り、
        その背後にある精神の、根源の根源は、
        無を有に転換したプリムム・モビーレは、
        光をあらしめて「よし」とした、その心は、
        存在への慈しみであったろうとは思うのです。
        だって、その方がいいでしょ?
        「その方がいい」と思うことが、何よりの証拠です。
        「本当はそうじゃないかもしれない」というのは、「この世」という限定された領域での「都合」です。
        それら一切を取っ払って、根源の根源まで遡って、
        真っ白。
        さぁ、どうしようかな? 何がいいかな?
        ほら、「いいかな?」って言うじゃないですか。
        それは「いい」ものなんですよ。
        具体性の領域では「失敗」したり「裏目」に出たりするかもしれませんが、
        抽象性の領域では「いい」と言ったら「いい」んですよ。
        死ぬほどの明白さ。疑問を差し挟む以前の以前の超以前。
        
        それが何の因果か、血で血を洗う娑婆世界が我々の現実となってしまっており、
        その文字通りの意味での「解決」というのは、
        「この世」では不可能か、あるいは、
        この世自体の在り方が根本的に変わらない限りあり得ないことのように思われますが、
        だからこそ、ここにいるあなたや私、その他一切の「人」の精神の根源の「よさ」を、
        忘れないようにしたいものです。
        
        ではまた。
        今日もあなたが幸せでありますように。
               
        
        
        
        
        
        
        
◆ 2021/06/13
    したこと:
        回想シーンに着手
        
        
        ストーリー的な要素はほぼないと常々申し上げておりましたが、
        進行状況に応じて回想シーンが解放されていくというイカしたフィーチャーがございます。
        
        で、今回した作業としては、
        ・そのシステム部分を実装
        ・第一話を入力
        でございます。
		
        もうちょっと正確に言うと、
        ・全話分のネタを出して、
        ・第一話分を実際に書いて、
        ・システム部分を実装して、
        ・データとして入力
        ということであります。
        いつもながら私は本当にがんばり屋さんですね。
        
        ちょっと文字が読みづらいかな〜?
        改行の位置や行間の幅なども調整したいところですが、
        そういうのは後でどうにでもなるので、
        ともかく予定分のデータを用意&埋めてしまうことを優先です。
        
        
        あ、完成を待ち望んでいらっしゃる私の大ファンの皆さんのためにお伝えしておくと、
        この要素は予定になかったのに突然思いついて実装を始めて
        エターナり神の暗黒のお口に前のめりにダイブする例のアレではなく、
        元々予定していた要素です。
        分量的には、マ○ンドルが一杯の丼メシだとすると、米一粒ぐらいです。
        2〜3分で読める程度の短いお話を、各キャラごとに7話前後の予定。
        
        いわゆる「読まなくてもいいんだけど」的な要素ではあるので、
        余力が無ければ実装は見送ってもいいかな〜、と思わないでもありませんでしたが、
        誤字脱字を探す楽しみを入れておくのも製作者としての重要にして崇高な使命。
        であれば、愛する皆さんのため、このようなテキスト系の要素は断じて外すわけには参りません。
        
        ん? さきほど「各キャラ」って言いました?
        言いましたね。
        いかにも香ばしいですが、そのへんどうなんですか?
        はい。
        できれば、ステータスの異なるキャラを3人ぐらい用意しておいて、
        ゲーム開始時に選択できるようにしたいな〜、という野望はあって、
        回想シーン用のネタは一応3キャラ分用意した次第。
        
        ただ、それは一通り完成した後の追加作業という形でも対応できることなので、
        現段階では、ともかく1キャラ分、中身をそろえることが先決です。
        とは言っても、回想シーン以外は数値的なステータスで差をつけるだけなので、
        そんなに重たい作業ではないかな、という気も。
        
        
        それにしても、この手の文章を書くのはマイン○ル以来です。
        単純計算でおよそ数億年ぶりということになりますね。
        月日の経つのは早いもの。
        地球の皆さんも少しは進化なさったことでしょう。
        昔から、地球人三億年会わざれば刮目して見よと申しますからね。
        皆さんがエラ呼吸をしていたのが昨日のことのようです。しみじみ。
        
        正味の話、ブランクが心配でしたが、
        担当の宇宙人さんとの交渉は順調に進んでおります。
        こ存じのように、宇宙方面には顔が広いので多分どうにかなってしまうのでしょう。
        
        システムとネタとフォーマットが定まったので、そんなに何億年もかかることはないハズ。
        で、1キャラ分、回想シーンを揃えれば、
        オープニングとエンディングのフォーマットも定まってくるハズ。
        見えないレールが見えてきつつあります。未来は明るいですね。わくわくがノンストップ。
        早いところ全体的な「体裁」を整えてしまいたい。
        人類がいつまで存続できるかは不明ですが、
        このペースなら、滅亡の日には間に合うんじゃないかな? よかったのぅ皆の衆。
        
        
        
        さて。
        私のように長年にわたって地球の皆さんの歩みを見てきた立場からすると、
        ついアレコレと口出しをしたくなってしまうことというのは多々あるわけですが、
        結局は地球の皆さんにお任せするしかないことだというのもまた、
        長年にわたって地球の皆さんの歩みを見てきた立場として、了解せざるを得ないところですね。
        
        たとえて言えば、
        バレーボールをしている人たちに向かって、
        そんなにボールを落としたくないなら、地面にネットでも広げてみんなで持ったら? とか、
        ラグビーをしている人たちに向かって、
        そんなにボールを持ちたいなら、人数分用意したら? などと、
        本気で言ってしまうとしたら、それこそまさに、
        地球の皆さんのことを分かってない宇宙人のセリフというものでしょう。
        
        その点、私は地球生活がそれなりに長いですからね。
        ボールを落としたり取られたりして、どんなに苦しそうに、悔しそうに見えたとしても、
        それをも込みで本人が選んでそうしていることだというのは、ちゃーんと分かっておりますよ。
        
        それでも、ついうっかり、
        じゃあ私がネットを用意してあげるから、とりあえずこのへんに落としなよ、とか、
        じゃあ私がボールを用意してあげるから、とりあえずこれでも持っときなよ、とか、
        言いたくなってしまったりするわけですが、
        「それじゃあイヤ」なんでしょう?
        だって、「その方がいい」なら、とっくにそういうふうになってるハズです。
        とどのつまり、そこにいる一人一人が、
        ボールの落とし合いや奪い合いをすることを自分で選んでその場にいるのであって、
        そうである以上、口出しをする余地などなく、ただ距離を置いて尊重するしかありません。
        
        > だって、「その方がいい」なら、とっくにそういうふうになってるハズです。
        
        たまにそれに類する話が突発的に盛り上がったりもしますが、
        実際にそれが選ばれることは決してない。
        そういう選択肢もあるということを共有した上で、結局、選ぶ答えは決まっている。
        すべてはそこにいる一人一人の意志であり選択です。
        そうである以上、そこにいる一人一人が、それぞれの意味でハッピーでありますようにと、
        ただ距離を置いて願うほかありません。
        
        
        などと、あまりこういうことを言うのも、
        上から目線で嫌味ったらしい感じになってしまいますね。
        あくまで比喩を用いて話したあたりに持ち前の慈悲深さが滲み出ているのではありますが、
        それでも、ついつい、こういうことを言いたくなってしまうというあたり、
        私の側に一定の「割り切れなさ」があるということでもありますね。

        そりゃあそうでしょうよ。
        
        ぶっちゃけ、キミたちいつまでそんなこと繰り返してんの? と思いますもん。
        何やかんや不満を滲ませつつ、根本的な解決を図るでもなく。
        で、見ていると、いろいろと思うところや言いたいことが出てくるわけですが、
        やはり考えれば考えるほど、結局のところ、そこにいる一人一人の意志および選択なのであって、
        私が何かうまいこと言ったとしても、ドウニモナラナイ。
        
        とは言え、月日の経過とともに、いつの間にか「姿が見えなく」なった人も少なからずおり、
        案外、「気付いて、やめた」人もいないわけではないのかもしれませんね。
        私も「そっち側」になりつつあるところなのかもしれない。
        いずれにせよ「現状のこの世」が「持続不可能」なのは否定しようのないところであり、
        茶番ながらに一定の意味は含んでいることは認めつつも、
        どこかで何らかの「覚悟」を決めざるを得ないのではありますが。
        
        ただ、もうちょっと何というか、こう、
        「あれがダメなら、こっちしかないだろう」ではなく、
        「第三の選択肢」があるのではないか? という気もしていて、
        だからこそ残る「割り切れなさ」を、前向きな意味で大事にしたい。
        
        一応言っておくと、この話は「いわゆる自己責任論」とは微妙かつ根本的に違う話ですね。
        最終的に本人の選択に委ねられる、という点に関しては同じといえば同じですが、
        そこに果たして、本当に自由があるのかという話。
        
        「いわゆる」の方は、たとえばバレーボールの比喩で言えば、
        そもそも「バレーボール自体をしない」という発想自体を巧妙に締め出した上で、
        「ボールを落とすのはオマエが弱いから悪い」という話でありましょう。
        さらに言えば、そういう人を助ける必要もないという他者排斥の思想でありましょう。
        自由も愛もない。
        
        などと、「自己責任論批判」を開陳したところで、やはり、ドウシヨウモナイことです。
        「うまい批判」があろうがなかろうが関係ない。
        人がそれを煽り、人がそれを選ぶ。他人を操ることはできない。
        
        なんでそっち側に行っちゃうのか、というのは
        贔屓目に言えば「一種の謎」ということにはなるでしょうか。
        一つ思うのは、バレーボールであれラグビーであれ何であれ、
        敷衍して言えば「いわゆる人生」に「意味がある」という「錯覚」の「行き着く先・末路」
        なのかなというところです。
        
        「人生は無意味」ですが、それが「悪い」ことだなんて誰に言われたのでしょう?
        いわゆるそういう「この世的なこと」の虚しさを認めた先にこそ、
        根源的な愛と自由が立ち現れる地平があるような気がします。
        
        それにもかかわらず、一体全体なんでまた
        「この世」なるものがドウシヨウモナク存在しちゃっているのか、
        なぜ無ではなく有なのか、
        その全体は相変わらず謎のままではありますが、
        少なくとも「この世」にとらわれてお互いに苦しめ合うことが
        「私」や「あなた」の「根本的な願い事」であるはずがないだろうとは思うのです。
        
        だからこそ、上記「いわゆる自己責任論」をはじめとする、
        人の思考の範囲を巧妙に狭める魔術が横行していることへの警戒を呼びかけたいところではあります。
        他にも大小さまざまなな外的要因というものはあり、
        中にはそれこそ宇宙人のような、人間を超えた何らかの勢力のようなものもないとも限りません。
        しかし仮にそうなのだとしても、やはり最終的には人間自身の意志や願いが問われるところであり、
        また、そこを出発点にするよりほかないというものでもあるでしょう。
        
        なお、いわゆる「自由意志」なるものが
        「ある」とか「ない」とかいうのは本質を逸れた議論でありましょう。
        他人のことについては云々できるとしても、
        自分のことについては議論自体が成立しない。
        「ある・ない」ではなく、「これは私の意志だ」と「引き受ける」か否か、です。
        有無の問題ではなく覚悟の問題だ。
        
        外的要因の影響など、常にあるに決まっており、
        その上で、「願い」をいかに見定め、何を選び取るか。
        
        しかし、こうして見ると「自由」とは「疲れる」ものですね。
        地球の皆さんが何やかんやと魔術的ロジックや外的要因を「祭り上げ」て、
        他人の言動に流されたくなるのも、わからないではありません。
        誰かが「悪い」わけではないのでしょう。
        そういう「人間的現実」をも含めて、
        なぜこの世はこのようなのか? と、お馴染みのダジャレを久々に申し上げたくもなるというもの。
        なぜ人間がいるのか? なぜ意識があるのか?
        なぜ「私」がいるのか? なぜ「あなた」がいるのか?
        
        いつかすべてを明らかにしたいと思いつつ、
        さしあたっては、私から言えるのはこれだけです。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        
        
        
        
        


◆ 2021/06/01
    したこと:
        現時点で埋めれるデータをじゃんじゃん埋めていくの巻
        
        
        【済】・祝福の秘儀の仕様変更:「積み重ね」式に
        【済】・「意図」システムの実装
        【済】・ミニマップを「地図アイテム」で表示可能になるようにする
        【済】・宝箱:ミニマップ を各ダンジョンに配置
        【済】・宝箱:祝福の秘儀 を各ダンジョンに配置
        【済】・宝箱:意図 を各ダンジョンに配置
        【済】・宝箱:カギ を各ダンジョンに配置
        【済】・宝箱:集合点の位置を各小路に配置
        【済】・「いのり」を実装
        【済】・アイテムを実装
        【済】・アイテムの埋蔵地点のシステムを実装
        【済】・アイテム発生場所を各ダンジョンに配置
        【済】・ストアを各地(各街)に配置
        
        
        頑張った感を丸ごとお伝えすべく、作業用のメモからどどーんとコピペです。
        この私の作業用のメモを見れるなんて、私の大ファンの皆さんにとってはヨダレが止まりませんね。
        
        要するに何をしていたのか? かいつまんで申し上げましょう。
        アイテムと装備品を実装して、各地のダンジョンの宝箱や各町のストアに配置した、ということです。
        いやー疲れた。
        私は本当にがんばり屋さんですね。
        かくなる上は私の名にちなんだ賞を設立して、地球の皆さんを表彰するしかありません。
        
        というわけで、完成に向けて突き進むべく、
        現時点で埋めることが可能なデータをじゃんじゃん埋めていくパートなわけですが、
        上記のメモの一行目に「仕様変更」とかいう、
        エターナり神が大好きそうな香ばしいフレーズが登場してますね。
        
        > ・祝福の秘儀の仕様変更:「積み重ね」式に
        
		
        
        この期に及んで仕様変更とは一体どういう了見か。
        申し上げましょう。
        
        装備アイテムの話です。
        いわゆるRPGって、装備を交換してキャラを強化していく的な要素があるじゃないですか。
        で、このゲームでも当初はオーソドックスなシステムを踏襲してそのようにしていたのですけど、
        1つ問題が。
        たとえば「パラメータ+10」の装備アイテムを手に入れたとすると、
        それ以降、「+9」以下のアイテムは無用の長物になってしまう。
        
        進行が一直線なゲームならそれでいいのかもしれないのですが、
        このゲームは各地のダンジョンを、順番を規程せずに探索して、アイテムを集めていく、
        という内容なのでした。
        しかもシンボルエンカウント式にしたことで、順番の自由度はさらに高まることに。
        なので、先に強力なアイテムを入手してしまい、他のダンジョンに入る意味が薄れてしまう、
        ということが起こり得る。
        というより「性能の低い順に入手してもらう」という前提が根本的に成立しない。
        
        というわけで、「装備品として脱着する」のではなく、
        「効力を積み重ねていく」という方式に変更した次第。
        これなら、どの順番で、いくつ入手しても、無駄にはならない。
        
        
        ちなみに、この件は今突発的に思いついたわけではなく、当初から懸念していたというか、
        むしろ、このゲームを作り始める以前から、
        よくある「RPG」のシステム自体の問題点として気になっていたことではあります。
        
        で、そういう面も含めて「従来どおりの分かりやすいシステム」で行こうと思っていたのですが、
        シンボルエンカウント式にしたことで、当初の想定以上に自由度が上がったと言うか、
        自由さの結果として、各地を探索する意味が薄れてしまっては本末転倒かな、ということで、
        迫りくるエターナり神の足音におびえつつ、仕様変更に踏み切った次第。
        
        
        > ・「意図」システムの実装
        
        こちらはいわゆるパッシブスキル。
        「毎ターン自動的に回復」とか、そういうの。
        スキルというより、装備品として脱着する方式なので、アクセサリと言った方がいいのかな。
		

        こちらに関しては、単なる数値的な大小ではなく、個別に機能自体が異なっているので、
        入手する順番に関係なく、「複数入手して脱着して変更」することの意味が無くなることはないハズ。
        これは仕様変更ではなく、当初から予定していたフィーチャーです。
        
        そんなにガチガチに戦略を組まないと進めないような調整にはしないつもりではありますが、
        ゲームを進めるにつれて選択肢が増えていくのはRPG的なワビサビなのではないでしょうか。
        
        特に「ダンジョン探索」なので、
        「戦って経験値を上げてレベルアップ」というより、
        「探索してアイテムを集めてパワーアップ」の方向に傾けたのは正解なような気がしておりますよ。
        
        あ、念のため言っておくと「戦い」ではないですからね。
        「攻撃」して「倒す」とか「倒される」とかいう内容ではないですからね。
        今は一般論の文法で話すために「戦い」という単語を使いましたが、
        このゲームでは、「お相手キャラさん」たちとの「セッション」ですからね。口が酸っぱい。Ph低め。
        
        
        で、実装したアイテムを各地のダンジョンに宝箱などの形で配置した次第。
		
        
        重要なアイテムは分かりやすく宝箱で。
        なんで洞窟内に宝箱が置いてあるんだ? という伝統的なツッコミは承知しておりますが、
        それを言い出すと、なんで月と太陽の見た目の大きさが一緒なんだ? ってなモンで、
        茶番はある程度織り込み済みでありましょう。
        「RPG」という時点で既にある意味二次創作のようなものでもある。
        システム的にこだわらない部分に関しては敢えて自己主張せず、分かりやすさ優先で。
        
        その他の消耗品は、それっぽい地形を調べると落ちてることがあったりなかったりする。
        基本的に、各地のダンジョンを巡って重要なアイテムを集めながら進めていくのがメインの縦糸で、
        そのついでのワビサビ要素として、消耗品的なものを拾えたりもするという構図。
        
        で。
        この設置作業が地味に面倒くさくて死ぬかと思いました。
        ゲームを作る過程で、どうしても避けられない面倒くさいパートというのはあると思うのですが、
        このパートがまさにそれだった気がします。
        
        重要系のアイテムよりも、その他の消耗品の配置がキツかったですね。
        一ヶ所一ヶ所に深い意味があるわけではないものの、とにかく数が多い。
        全体で何やかんやと約600件。
        これで死ななかっただなんて、私はどこまで死に見放されているのでしょう。おのれ〜。
        
        こういう「面倒くささ」の正体は何なのでしょうね。
        作業のハードルが高いわけではない。
        が、達成感が低い。しかも量が多く、いくらやっても山が減らず、
        「前進している手応え」を感じにくい。
        しかし、やらなければ終わらない。
        宇宙広しといえども、この私がやらなければ、他にやる人は一人もいない。
        私がやらねば!
        はい。
        
        それにしても、世の中にリリースされている数々のRPG(に限りませんが)のそれぞれに、
        何らかの「面倒くささ」を乗り越えた軌跡があるのだろうと想像すると、
        いかなるゲームといえども涙なしにはプレイできませんね。
        すべてのゲームは泣きゲーである。
        
        
        今回は大体そんな感じです。
        まだ大小さまざま作業は残っておりますが、
        現時点で可能な「とりあえず埋めとけ」な箇所はあらかた埋まったかな?
        数値的な部分はオイオイ調整していくとして……。
        
        あ、モブ系のNPCはまだ手をつけてないのでした。
        セリフを考えるのは「とりあえず埋めとけ」なノリというわけにはいかないかな。
        あと、固有名詞が決まってないのでした。「街その1」とかになってる。
        キャラ名も今は仮の状態。
        前回お話してたアイテム欄のUI変更も未着手だ。
        誰か代わりにやってくれないかな。
        宇宙は広大無辺なのだから私の他にも私がいたってよさそうなものですが、
        しかし不思議なことに、宇宙がいくら広くても「私」は「この私」しかいないのでした。
        ゆえに私がやらねば!
        はい。
        
        
        最近ツイッターへの書き込みは減っておりますが、閲覧はしばしばしております。
        で、エターナり神に関する情報が定期的に流れてくるのが、今まで以上に目に入ってしまいますね。
        実に恐ろしいことです。
        死すら恐れぬこの私ですが、今の私にとってはエターナり神こそが恐ろしい。
        まんじゅうの次に恐ろしい。
        なので、エターナりじゃなく、まんじゅうをいただきたい。
        全ての国民に無条件かつ一律にまんじゅうの給付を。
        政府はベーシックインカムが無理なら
        ベーシックまんじゅうをさっさと配っていただきたいですね。
        
        
        ベーシックインカムか。
        前回の話の続きじゃないですが、これも反出○主義やイ○ディーゲームやフリ○ゲームと同様、
        言葉が一人歩きしている典型例という面はありますね。
        「言葉」が存在することで、概念が普及する一方、
        結局、人によって別々の意味で言葉を使うので、話がややこしくなる。
        
        しかしそんなことは根本的にはドウデモよく、
        一人一人の「私は本当のところ何を願っているか?」という
        自覚や意識こそが重要だとは思うのですが。
        しかしその「内面」からこそ、目を逸らし、
        言葉のぶつけ合いに終始するのだからドウシヨウモナイ。
        
        「願い」は何なのか?
        たとえば「世の中を良くしたい」と思っているのか、「単に議論に勝ちたい」だけなのか。
        他にも「世間体の中でイイカッコしたい」というのもよくあるケースかな?
        いずれにしても、BIにせよ何にせよ、議論なんてとっくの昔に出尽くしており、
        結局、それ以前の、いわば「人生に対する態度」の問題としか言いようがない。
        
        財源があるとかないとか、そんな話はどうだっていい。
        そもそもカネの問題ではないので財源論自体ナンセンスなわけですが、
        問題はそれ以前です。
        別に「財源がない」からBIに反対なのではなく、
        「BIに反対したい」からBIに反対なわけでしょう?
        
        で、それで結局のところ、「何を願って」いるのか?
        問題はBI云々ではなく、経済云々でもなく、
        人間の、自己自身の、心の根本です。
        「生まれて・生きて・死ぬ」無数の人間が通り過ぎるこの地球が、
        どういう世界であって欲しいと願っているのか?
        そういう中で、私は何を願うのか? あなたは何を願うのか?
        
        最近は、私は、いわゆる「世の中を良くする」こと自体は、
        あまり重大なことではないような気がしつつあります。
        
        なにしろ「結局死ぬ」わけです。
        などと言うと、
        「これから生まれてくる未来の子供たちのために」などという言説が登場したりするわけですが、
        そんなことをあと何億年続ければ気が済むのか?
        
        もちろん「世の中が良く」なって欲しいですが、
        どうも、それが「この物質の地球」上で実現するとは思えない。
        というより、「物質の地球」自体が、そもそも、
        「良い世の中」の「実現の場」というわけではない、ような気がしてなりません。
        
        さらに言えば、
        仮に「この物質の地球」上に何らかの「楽園」を実現させることに成功したとして、
        そのこと自体に一体何の意味があるのか?
        
        あるいは何か「うまい作戦」を弄して、「世の中を変え」たとして、
        そんなことに何の意味があるのか?
        
        結局、一人一人の「願い」や「自覚」がともなわなければ意味はなく、
        むしろ、それこそが「意味」なのではないのか?
        
        強いて言うならば、一人一人が心の根本の「願い」や「自覚」に辿り着けるような
        そういう環境が整った世界が「良い世界」ということにはなるのかな?
        ちなみに仏教でいう極楽浄土とは、酒池肉林のパラダイスのことではなく、
        思う存分仏教の修行ができる場所のことだそうですね。
        
        だから目的地はその「心の根本」なのであり、
        「願い」が「物質の地球上に実現するかどうか」は、
        無意味とは言いませんが、それ自体が目的ではないオマケのようなものではないのか。
        オマケだけいくらコレクションしても仕方がない。
        あるいは強権的に「理想」で支配されるディストピアとは、そのことかもしれませんね。
        
        「物質の世界」はそのうち消滅するでしょう。
        そのあと、何が残るのか?
        私たちは何のために「物質の世界」という「島」を用意したのだったか?
        
        「物質化現象」と言えば「オカルト」ですが、
        私たちはまさに今、「この宇宙」という「物質化現象」の真っ只中にいることを忘れてはならない。
        この「オカルト」とは「お化けの話」ではなく「心の根本」の話です。
        
        しかし「物質」の成り立ちを思い起こしてみれば矛盾も感じないではありませんね。
        そもそも、人々が「心の根本」から目をそらし、
        自分(たち)の「外側」に「共有物」を凝固させたことこそが「物質」の成り立ちと言えます。
        
        あるいは「この物質世界」は、
        そのように、「心の現実」から「逃避」した人々が
        必然的に閉じ込められる「地獄」なのかもしれませんね。
        
        であれば、なおのこと、そんな場所が「良く」なる筈もなく、
        「楽園」が「実現」する道理もない。
        
        もしくは、何かが「実現」するときとは、
        すなわち、「この物質世界」が必要なくなり、消滅するときと同一であり、
        いわば精神面で何かを「実現=realize=気づく」ときなのかもしれません。
        
        なぜ「物質」が必要だったのか?
        要は前回の記号の件と話は同じで、
        その特定の概念が「重要だ」と思っている人々の間でのみ、
        その概念が「実体ある看板」として効力を発揮する。
        英単語で物質を表す matter が「問題の重要さ」という意味もあるのは興味深いところです。
        
        そのような外的投影現象としての「物質化されたもの」が不要になるときとは、
        つまり、人々が自己自身の内面の真実に気づいたときなのではないでしょうか。
        
        しかし今はまだ、「物質」が必要な段階ではあるのでしょう。
        「物質」を介し、この土の上で、この「空気」の中で、
        他人同士として、やっていくほか、さしあたり、なさそうではあります。
        
        ただ、「この物質世界」を「如何にこねくり回すか」ではなく、
        ここにいる自己自身の、一人一人の、
        「願い」およびその「自覚」こそが重要なのだとは思います。
        
        というわけで。
        私の好きな人々が幸せでありますように。
        私の嫌いな人々が幸せでありますように。
        私を嫌っている人々が幸せでありますように。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        
        
        
        
        

◆ 2021/05/23
    したこと:
        モブNPCの歩行ドット絵を作成した
		

        完璧ですね。非の打ち所が1ドットもありません。
        
        色がちょっと変かなぁ〜〜。じたばたじたばた。
        あくまでエキストラさんたちなので、種類自体は無理に増やさず、
        色違いでカサ増しする作戦なわけですが、
        色の違いだけでバリエーションを増やすのも限界がありますね。
        言ってしまえば色なんて元来、RGBの3種類しかないわけです。
        秘密の戦隊ヒーローだって5人が精一杯。
        人類の目がもっと細かく光を見分けられるよう進化していれば、
        悪との戦いも、もっと有利に進められたのかもしれませんね。悔やんでも悔やみきれません。
        
        お年を召した方の表現をどうするかで地味に悩みました。
        単に年齢も属性も不詳で人間っぽくするだけなら、目鼻の位置にドットを置いてさえおけば、
        あとは天井のシミさんとコンニチワできる地球人のテレパシーに任せて安心なのですけども、
        意図的に何らかの属性をつけようとすると、ステレオタイプ的・記号的になりがちですね。
        そもそも「モブNPCの歩行グラ」、すなわち「記号」以外の何物でもないのではあるのですが。
        おっと、目鼻と言いつつ、鼻は省略しているのでした。鼻はおろか口さえない。
        それでも人間に見えるのですから地球人のテレパシーは侮れません。
        人間に見えますよね? 見えるハズです。見えましょう。
        
        「お年を召した感じにする」手段があまり思い浮かばない。
        参考にするために往年の有名作をいくつか見てみたんですが、特に男性の場合、
        どれもことごとくハゲ・ヒゲ・杖の三種の神器なのですよ。それこそ判で押したように。
        頭部に関しては帽子って例もあったかな? 
        でもその帽子の下はどうせツルピカハゲ丸くんなんでしょ?
        その程度の小細工でこの私を騙そうったってそうはイカのドラゴンボール。
        
        確かにその3つを装備させれば「お年を召した男性」へとたちまち変貌を遂げるわけですが、
        今は多様性の時代。年の取り方だって人それぞれ。
        というわけで多少は反骨の精神を表現してみた次第。
        ヒゲは使わせていただきましたが、他2つは敢えて外しました。
        これで充分「お年を召した男性」に見えますよね? 見えるハズです。見えましょう。
        
        お年を召した女性についても同様で、
        こんなお団子ヘアーの人をリアルで目撃したことはありません。
        ドット絵に限らずフィクションに登場する、特にモブ的な老女の場合、ことごとくお団子ヘアーなのですよね。
        とは言うものの16x16の盤上で、これ以上に「お年を召した女性」を表現できる打ち回しが思いつきません。
        こちらに関しても反骨の道を模索してはみたのですが、力及ばず、
        地球人のステレオタイプイメージの固定化に加担してしまう形となってしまいました。一生の不覚。
        
        で、それを言い出すと男性がズボン、女性がスカートというのもジェンダーロールの固定化なわけですよ。
        男子がスカートを履いてはイケないって誰が決めたんですか? 
        女子がスカートを履かなきゃダメだって誰が決めたんですか?
        髪型も同様。
        男女平等が叫ばれて久しい昨今、性別で自由を縛るなど断じて許されぬこと。
        かつて極左の鬼と呼ばれた私が、このような安直な表象に甘んじていては後進の皆様に申し訳が立ちません。
        
        とは言うものの、やはり16x16という限られた盤面では表現の選択肢に限界があるのもまた事実。
        「モブNPC」という性質上からしても、
        「記号」という「それ以上多くを語る必要のない」形式の便利さには抗いがたいものはあります。
        
        これがモブではなく、プレイヤー側のキャラだったら話は別で、
        見た目以外の部分で「どういう人物なのか」を語る機会が豊富にあるのでしょうけども。
        このモブたちも一人一人にそれぞれ固有の人生があるのでしょう。
        聞くも涙、語るも涙。こぶしを利かせて熱く哀しく歌い上げたい。
        ただ、ここはそれを表現する場ではない、ということにはなろうかとは思います。
        
        しかし話は実は逆で、
        例えば右上の「スカート&長髪」のグラフィックだとしても男性かもしれないワケです。
        「スカート&長髪」のグラを見て「女性のステレオタイプ!」と思い込む発想こそが、
        逆説的に抑圧的・差別的発想の発露に他ならないのかもしれない。
        
        ただ、それを承知の上で、やはり、
        「女性ってこういう感じでしょ?」「男性ってこういう感じでしょ?」
        という「共有された認識=記号」をこそ、当て込んで、
        ご覧になる皆さんとの「言わずもがなのコミュニケーション」を成り立たせようとしているのではある。
        
        そもそも共同体の歴史の中で「記号」的な表現を発達させてきたことによってこそ、
        プライベート(内面)を問うことなく、パブリック(社会的)なコミュニケーションが
        可能になっているという側面は認めざるを得ません。
        
        トイレの記号しかり。更衣室の記号しかり。
        
        「男はズボン・女はスカート」というのは個人の生き方を規程するものというより、
        一人一人別個の個人が集まって生活を営む「社会」という場にあって、
        外面的な社会通念を固定化することによって、
        逆説的に、一人一人別個の個人の内面の自由を確保する手段と言えはしないか?
        文化の中に一定のアンカーポイントを設定することで、
        その共同体の内部において、個々の成員に選択の自由が可能となる。
        
        本末転倒の何が「本」で何が「末」なのか。
        そうした文化的規程が個人の内面をも縛るものとなっている場合に、
        それを「解放」することの象徴として、敢えて「記号」的な縛りを壊していく意義はあるのかもしれません。
        しかし、それで逆に「話がややこしく」なってしまうとすれば、
        それは果たして本来の願いに近づいているのか遠ざかっているのか、という疑問が浮かぶところではあります。
        
        一人一人別個の個人が集まっている社会の中、
        「一応大体そういうことになっている」という外面的な取り決めを共有しておくことで、
        「本当はあなたは何者なのか?」をそれ以上問われることなく、
        一人一人別個の他人同士、それなりに円滑なコミュニケーションが可能となる。
        そうした「記号」を完全に取り払ってしまうと、端的に「不便」であり、
        極論を言えば「言葉」すらも成立しなくなり、結果的に「自由」を損ねることにもなると思われます。
        
        もちろん、外面的にも内面的にも純粋に自由で、
        それでいて異なる個人同士が互いに尊重し合えるのが理想ではあるのでしょうけれど。
        残念ながら地球人の進化レベルはまだまだ発展途上。
        今はある程度の妥協の精神が必要な段階ではあろうかと思います。
        
        というわけでエキストラのNPCのビジュアルとしては、
        その業を甘んじて受け入れる覚悟とともに、「女性はスカート」等の記号を採用することとした次第。
        かつて極左の鬼と呼ばれた私も随分丸くなったものです。
        
        あと、日本だとあんまり意識することはないですが、
        人種の問題がある地域では、肌の色なんかもセンシティブな部分だったりするのかなと想像したりしなかったり。
        個人の心の自由を求める人類の探求は始まったばかり。
        
        他にも気になる点は何ドットもありますけれども、修正はいつでもできるということで、
        さしあたり作業を進めるためのグラフィックとしては、これを使って突っ走る所存ですよ。
        
        
        さて、今回の具体的な成果としては以上ですが、
        前回まででそこそこゲームっぽい要素が揃ってきたということで、
        今後どのように内容を詰めていくかをまったりと考えたりもしました。
        
        例えばセーブポイント。
        わざわざ制約を増やす必要はないだろうと思って、今のところ、どこででもセーブできる仕様です。
        セーブ以外にも、場所を記憶してワープポイントを作るシステムがあるのですが、こちらも同様。
        
        ただ、これだと、「少し進めて、保存して、気に入らない結果になったらリセットして……」
        というプレイが可能になってしまいますよね。
        それがズルイから許せん禁止してやれ! ということではなくて、
        そういう「面倒くささ」と引き換えにリスクを最小限にできる選択肢を存在させたままで
        プレイヤーにその選択を委ねてしまっては、プレイに際し余計なことを考えさせてしまうのではないか?
        
        そもそも、そこまでシビアな内容にはしないつもりではありますが、
        セーブできる場所が限定されている方が、
        余計なことを考えずに本来的なプレイ行為に集中しやすくなるのではないか?
        というわけで、セーブポイントは限定した方がいいかな〜、という思想に傾きつつあるところです。
        
        
        一方これとは逆に、アイテムの所持数制限は無い方がいいかなという気がしてきております。
        現状、わざと制限しているというよりUIの都合で、画面に収まるだけの個数に制限している状態です。
        
        所持できる個数を制限しておくことで、その範囲内で何を持ち歩くかを吟味する……
        という「ゲーム性」が生じるわけですが、
        このゲームにその要素を入れたとして、それで「面白く」なるのか?
        面倒くさいだけになってしまうのではないか?
        
        特に終盤になるにつれ、ダンジョン内などで何かを入手するたびに
        手持ちの何かを捨てねばならない状況になってくると予想されます。
        これは果たして「面白い」ことなのか?
        
        いちいちそんなことを考えながらダンジョン探索するのってイヤじゃないです?
        適当にうろうろして、手当たり次第に「調べ」て、役立つかどうかはさておき、アイテムを集めていく……、
        という感じのプレイ体験で充分なのではないか?
        終盤になるにつれ、いわゆる「ハイポーション99個」のような状態になってくると予想され、
        「ゲーム」としては崩壊する可能性がありますが……それで別にいいんじゃないですかね???
        ロジックとしての「ゲームとして成立」するかどうかではなく、
        プレイ体験として何ら問題ないのではないか。
        これはセーブポイントとは逆に、制限を設けない方が「プレイ行為に集中」できる件のような気がします。
        
        というわけでアイテム所持数は実質無制限になるように
        UIを修正しようかなという思想に傾きつつあるところです。
        
        「ゲームらしく」せんがためにワザワザ制限をつけてプレイを窮屈にする、
        というのは基本的に避けたい気はしつつ、
        問題の本質は制限がある/ないということではなく、
        素直にプレイ行為に集中できるかどうか、なのであって、
        何なら「ゲームとして崩壊」していたとしても、それ自体は大した問題ではないのかもしれません。
        
        などと語るだけでは絵に描いたモチ。
        これらの思想を本物のモチにすべく、まったりと邁進して参る所存ですよ。
        
        
        というわけで今回は記号の話をしたのでした。
        今日もヨイ話が聞けて、このページの存在を知っているあなた方は本当にラッキーですね。
        
        まだ何かお伝えすることがあったようななかったような。
        記号と言えば「イン○ィーゲーム」や「反出○主義」というのも記号ですね。
        記号あるいは一つの言葉=看板として、パブリックな場で共有されている概念。
        界隈は縁遠いですが、看板の使い方を巡ってイザコザが起きがちという意味では、
        「インデ○ーゲーム」と「反○生主義」は似ているようにも思います。
        
        これらの例に限らず、そのように看板を自分の拠り所としている心にとっては、
        同じ看板が自分とは異なる形で使われて、
        自分の拠り所が脅かされることは看過し難いことであろうとは思われます。
        
        この観点で見れば、それぞれ
        「イ○ディーゲームとは何か?」「反出生○義とは何か?」という、
        定義を巡る議論自体は本質的なことではないですね。
        むしろ、そうした議論を続けても何も出てこない。
        言葉にこだわる某砂漠の宗教がいつまでも戦争をしているのは示唆的なことである気がします。
        パブリックな場に「言葉」という形で唯一神を打ち立て、
        自分(たち)の拠り所とする。その拠り所が望まない形で汚されるのを許すわけにはいかなくなる。
        
        言葉以前に、神以前に、願い事があったはずです。
        その願い事を忘れて、看板を巡って争ってしまう。
        某一神教では偶像崇拝はしないそうですが、記号崇拝と偶像崇拝は、どこか似たものがありますね。
        あるいは大仏はあくまで大仏に過ぎないことが目に見えてわかる分、マシというものでしょうか。
        
        看板はあくまでも便宜的な道具として、
        その道具で便益が得られる限りにおいて活用すればいいとは思うのですけども、
        パブリックな場に「唯一神」を建立するという性質上、
        「そういう意味でその看板を使われると困る」という事態は発生しがちであろうかとは思います。
        
        特に「看板」としての威力が強まるにつれ、それを利用(悪用・乱用)しようとする、
        少なくとも「されている」側にはそのように見える事態は起きがちではあり、
        実にいけ好かないことではあるわけですが、公共の場に看板を立てている以上、他人は操れず、
        根源的にドウニモナラナイことではありますね。
        「ドウニカ」シヨウと思えば、それこそ「武力で追い払う」しかないのでしょう。キリがないですね。
        
        とは言うものの「自己」と「他者」に分かれた在り様となった地球人としては、
        言葉でやり取りをする以外にないのが「現実」ではあります。
        ただ、だからこそ、どのような言葉(外的に発せられたもの)であれ、
        言葉そのもの以前に、それを発した「願い事」があるということは忘れないようにしたいものです。
        私は・あなたは、本当のところ何を願って生きている人間だったのか?
        
        ではまた。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        ……と、シメようと思ったのですが、
        この「幸せ」というのも「言葉」であり、「言葉を巡る闘争」を免れ得るものではないのですよね。
        
        「幸せ」と言っても、具体的なあれこれということではなく、
        その人にとっての、その人なりの意味での、望ましい状態、というような、
        具体性を限定しない抽象度の高い代名詞的な言葉として、
        また、自分が「なる」ものというより、そうした抽象的な意味で、
        一切衆生がそう「ある」ことを「願う」ものとして、
        この言葉を使っているつもりではありますが、
        文脈によってはセンシティブになり、使用を避けざるを得ない場合もあったりなかったり。
        
        よく見かける「幸せ・に・なる」や「幸せ・に・する」という慣用表現を観察するに、
        何か、他者との競争を勝ち抜いて奪い取るもの、
        あるいは、特定の価値観に基づく「幸せ像」を押し付けられ、
        それに合わせていくというような抑圧的なもの、
        というイメージが内包されがちというか、
        耳ざわりのいい言葉なだけに、現代社会の歪みが反映されがちな言葉である気はします。
        むしろ、私がここで普段使っているような意味こそ、特殊なのだろうなとも思うところ。
        
        それを承知の上で、だからこそ、願いを込めて、敢えてこの言葉を使っていきたい。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        すべての意識ある存在が、それぞれの意味で、よい在り方でいられますように(意訳大サービス)。
        
        
        
        
        
        
        
        
◆ 2021/05/11
    したこと:
        各ダンジョンにエンカウントのシンボルを配置した
        
        
        前回までで技術的・量的に厳しそうな箇所が片付いた、
        つまり後はそんなに心配しなくても完成は時間の問題。
        世界が私の手中に収まるのも時間の問題。あなたのハートが私の手中に収まるのも時間の問題。
        というわけで少々ペースを落としてまったり進めていこうかなと思いつつ、
        まったりは死語かもしれないので油断なりません。
        仕方がないので何やかんやと突っ走ってしまったわけです。私は本当に頑張り屋さんですね。
        
        ゲームバランス的なことは今の段階で考えても仕方がないので、
        とりあえず適当にシンボルさん各位を各ダンジョン内部に配置してしまおう……
        と軽く考えていたのですが、それなりに精神エネルギーは消耗しますね。
        
        加減がよくわからない。
        多すぎれば鬱陶しいし、少なすぎればゲームにならない。
        で、「こんなんで本当にいいんかな……???」といちいち考え込んで手が止まってしまい、
        気力が消耗されるばかりで作業がハカドラないというわけですね。
        「適当」でいいと言うのが、どうすればいいのか分からなくて一番困るというお馴染みの同じ道。
        暫定であるにせよ、ある程度「思考のコスト」を省くための大雑把な方針は欲しい。
        
        
        > 多すぎれば鬱陶しいし、少なすぎればゲームにならない。
        
        で、これなんですが、冷静に考えてみると、別に「ゲームにならな」くてもいいんですよね。
        というより、「ゲームとして成り立たせ」んがために
        厳密なプレイを要求するような作りにしてしまうのは避けたいところ。
        
        というわけで、「これゲームになってないんじゃね?」というぐらいのスカスカな配置を心がける。
        実際、少数でも画面内に自キャラ以外の動くキャラが存在するだけで、
        一定の「緊張感」が生じ、「退屈しないで済む」感じにはなる感じ。
        それで充分なのではないかなと思うわけです。
        
		
        
        あと狭い通路にはあんまり配置しないこととする。
        場合によってはシンボルが入って来れないように、
        通路の前後にシンボルが通れない領域を設置したりも。私は本当に慈悲深いですね。
        
        別に一回エンカしたら即ゲームオーバーというようなゲームではないですが、
        シンボルエンカなのにシンボルを避けれないシチュエーションが頻発すると
        「理不尽」な印象にもなりかねない気がしないでもないところです。
        シンボルエンカだからと言って
        必ず全てのシンボルを回避可能だとは誰も言ってないわけですが、感覚的な問題として。
        
        それでも「せっかく作ったんだから存分にエンカして欲しい」という欲が私の側に多分あって、
        油断すると多めに配置してしまっている感じ。
        などなど反省を意識しつつ、現段階ではあくまで暫定ということで、
        さしあたりデータは一通り埋めた次第。
        調整はオイオイ考えていきたいところでございます。
        
        
        >「ゲームとして成り立たせ」んがために厳密なプレイを要求するような作りにするのは避けたいところ。
        
        このへんのことって、個人製作のゲームが理不尽な高難度になりがちな理由の一つなような気がします。
        よく言われるのは、単なる「調整不足」や「作者が一番うまいので厳しめになりがち」などですが、
        それ以外にも、作り手としての「不安感」が影響している場合も少なからずあるのではないか?
        「これで本当にゲームになってるのか?」という不安感。
        「これで本当にあなたのハートが私の手中に収まるのか?」という不安感。
        
        そういう不安が、たとえば「特定の操作を成功させなければ先に進めない」
        というような「難所」を(必要以上に)作らせてしまったりもするのではないか?
        好きな子の気を引く為に(必要以上に)意地悪してしまったりするのではないか?
        「不安感」か、あるいは「こだわり」と言うべきか。あるいは初恋と言うべきか。
        
        甘酸っぱいですね。
        
        結局は「バランス」ということで、ゲーム全体の中にいくつかそういうポイントがあるのはいいとしても、
        油断するとガチガチになってしまう罠がこのへんにあるのかなという予感がするところです。
        
        これは単に「うまい/へた」「難しい/かんたん」ということではなく、
        ゲームをするということ自体の「意味」や「目的」に関わってくるところであるように思います。
        「理不尽」とは「難しい」ということではなく、
        「なんでこんなことしなきゃいけないの?」という「納得できなさ」のことなのではないか。
        
        「難しすぎ」たので「救済措置」を用意、というのはよくある流れですが、
        「救済」の対象はプレイヤーではなく作者だったりすることもあるのかもしれません。
        果たしてそこに救いはあるのか。オレ実はオマエのことが私今大学生の人と付き合ってるの。

        「遊び」を持たせつつ、やりこみ甲斐もある、
        みたいなのが一種の理想ではあるのでしょうけれど。
        ままならないものですね。
        
        昔、MSX・FANという雑誌に投稿されていたゲームで、
        作者氏が「ゲームとして成立してないかもしれませんが」と書いておられたものがあったことを思い出します。
        横から見た卓球のようなゲームなのですが、中央にネットがない。
        で、慣れてくると無限にラリーが続いてしまい、
        確かに「ゲームとして成立」してないのかもしれませんが、しかし結構楽しめる。
        「ゲームを作らねば!」と思うとアイディア段階で排除してしまいそうですが、
        そういう「プレイ体験」もあるということですね。
        
        「ゲームとは何か」という定義(こだわり)は人によるのでしょうけれど、
        もしかすると「ゲームである必要」自体がないのかもしれない。
        私本当はあの人にする必要はなかったのかもしれない。
        
        「ゲーム」が「面白いこと」であり「プレイ」することで何らかの「楽しさ」が得られる、
        というのも一種の建前であって、
        実際のところ人類の誰一人、いかなるゲームもプレイする義務がないわけです。
        それでも存在してしまっている「あなた」と、
        その「意識」が向かう先としての、「すること」としての「ゲーム」。
        やっぱり俺オマエのこと忘れるなんてできねぇよゴメン私今そういうのはいいの俺待ってるからな!
        ちょっと何を言ってるのか分からなくなってきました。
        
        
        あと他に何かなかったかな。
        
        素材を加工した話を語って聞かせましょう。
        
        セッション時の止めグラは素材を使わせていただいているのですが、
        都合よく「レトロ風」というものはなかなかないので、
        加工が許可されているものに対し、「ドットを粗く」「色数を少なく」する加工を施しております。
        
        
        『化け猫缶 素材屋』様より
        http://neko.moo.jp/BS/
        
        まず補完なしで2倍に拡大。元のサイズが小さめなのは思いがけず好都合。
        その上で、コントラストを変えたりポスタリゼーション(色減らし)などをかけ、
        最終的には手作業でドットを修正したりもしつつ、
        「ドットのギザギザが見えていて」「少ない色数でベタ塗りしている」感じを目指す。
        
        加工が許可されているとは言え、敢えて画質を落とす申し訳なさを胸に、
        極力「汚く」はならないよう頑張ったつもりでございますが、どどど、どうだろう(ビクビク)。
        
        こうして改めて見るとまだなんか修正の余地があるように見えてきますが、
        そこはまた最終段階で仕上げることにして今はとりあえず作業を進めるですよ。
        
        
        
        さて、これからどうしようかな。
        
        すでにそこそこゲームっぽい感じにはなってきたぞ?
        ダンジョンに入るとシンボルがうろうろしていて、接触するとエンカ。
        はい。
        パラメータは適当ですが、これまたバランス調整はオイオイ進めていくということで。
        もはやタイトル画面をつけて「完成した!」と言い張ってしまえば完成したコトになるのではなかろうか?
        
        おっとラスダンが未実装でした。
        じゃあその手前までは遊べる「体験版」だと言い張ってはどうか?
        言い張りは自由。この世とは、あるいは言い張りで作られているものなのかもしれません。
        世界は私のモノだと言い張る。あなたのハートも私のモノだと言い張る。
        
        さしあたり山は越えたというか、
        (主に技術的な意味で)完成が不可能なのではという不安は遠のいた感があります。
        今までは、まさにその不安感にかられて突っ走っていたようなところがある。
        ここまで来たら完成は時間の問題。
        世界が私の手中に収まるのも時間の問題。あなたのハートが私の手中に収まるのも時間の問題。
        今後は少しペースを落としてまったり進めていきたい気がします。
        ……などと油断して、そのままフェードアウト、というのも人類が幾度となく繰り返してきた過ちでしょうか。
        おのれエターナり神め。どこまでもしぶといヤツよ。
        
        あと大きいパートとしてはNPCの実装か。
        これまたカリスマ神ドット絵師の腕がナルところですね。
        ドット絵に関してはシンボルの実装で宇宙人さんの腕前は証明済みなので、あまり心配はしてません。
        持つべきものは宇宙人とは昔の人はよく言ったものですね。
        
        ストーリー的な要素はほぼないので、NPCの多くはワビサビ要員のエキストラということになりますが、
        本筋とは直接関係ないセリフなどで世界観をホノメカすのもまたRPGならではの仕草と心得ております。
        というわけで張り切ってホノメカして参る所存。
        
        完成は時間の問題といいつつ、人類の滅亡も時間の問題なので油断なりません。
        ん、待てよ? 滅亡するんなら完成させなくてもいいのかな?
        つまり、どっちに転んでもハッピーということですね。うらやましいぞ人類。
        
        ではまた。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        
        
        
        
◆ 2021/05/04
    したこと:
        エンカウントのシンボル用の歩行ドット絵を作成した
        
        
        さて、今日も秘密裏に製作中のゲームの情報を、私の大ファンの皆さんだけにお伝えいたしますよ。
        このページの存在を知ってるあなたは超ラッキー!
        
        で、なんですって? シンボル用の歩行ドット絵の作成が完了した、ですって?
        まじですか? なんだか信じられませんね。
        
        作業をしている夢を見て、「よーし作業が進んだぜ!」と思ったら夢だった、このやろ〜、
        という体験でマイ○ドルのときには随分と煮え湯を飲まされましたので、
        今の私をそう簡単にダマすことができると思ったら大間違いです。
        
        で、なんですって? シンボル用の歩行ドット絵の作成が完了した、ですって?
        私の大ファンから伝え聞くところによると、歩行ドット絵、60体以上あったと言うではありませんか。
        それが完了しただとか、これまた最近の明晰夢はよく出来てますね。
        その手には乗らんぞ! ぜーはーぜーはー。
        はい。
        というわけで、シンボル用の歩行ドット絵の作成が完了したらしいですよ。
        まさに夢のような話。
        前回お話したとおり、62種類分のお相手キャラの歩行ドット絵が出揃いました。
        そんなうまい話があっていいんでしょうか?
        どうやら不可能を可能にしてしまったようです。宇宙人おそるべし。
        ひょっとして死亡フラグというやつかな? 楽しみですね。わくわく。
        
        実際のところ、すべてが自信マンマンの出来映え! というわけではなく、
        中には最低限カリスマ神ドット絵師レベルとは言えるかな? というものもありますが、
        気になるものがあれば後で修正すればよいのであって、
        さしあたり作業を進めるための自家製素材としては充分と言えましょう。
        
        ではさて、いつも応援してくれてる私の大ファンの皆さんへのサービスとして、
        特に素晴らしい出来映えのものを厳選してお見せしようではありませんか。
        
        
        
        ヒトデのような姿をした生物がずんずん迫ってくる恐怖に満ちた圧迫感がイキイキと表現されていますね。
        ぶっちゃけ、こんなので本当にいいんかな? と思わないではないですが、
        単独で見るからそう思うのであって、実際の画面と合わせてみれば、
        さほど違和感なく溶け込んで見えるのではないでしょうか?
        どのような生物にも生存に適した環境というものがある。
		
        自キャラをこのグラフィックにして少し歩き回ってみました。
        完璧ですね。
        本番ではこのヒトデさんにシンボルとして洞窟の中に大量発生していただく予定です。
        楽しみですね。わくわく。
        
        「レトロ風」ということを「下手くそでもいいという言い訳」にはしたくありませんが、
        実際、私のような一介のカリスマ神ドット絵師でも一応の体裁が得られるのは
        「表現の様式」としてはありがたいですね。
        
        あんまりオリジナリティのある絵柄とは言えませんが……、
        と、へりくだりたい気持ちもある一方、人型の生物に関してはまだしも、
        上に載せたヒトデのような人外の歩行グラフィックは
        参考にできるものがなく、艱難辛苦のイバラ道だったのでした。聞くも涙、語るも涙。
        とは言え、比較的少ないドット数でそれなりに形になったのは命拾い。
        やはり「表現の様式」を確立してくれた先人の先生方には感謝したいですね。
        
        ハードウェアの性能的に限界があった昔の環境と、
        ハードウェアの性能は比べ物にならないけれど、割けるリソースに限界がある個人での製作は、
        ある意味で共通している部分があるのではないか……
        などと言うと各方面からバチが当たるかもしれませんが、
        「ヤレるようにヤルしかない」ということで辿り着く最善手として、
        こんな感じになっておりますよという感じでございます。
        
        というわけで、なんやかんやと大量生産できてしまった次第。
        全工程の中で最も不可能さを予感していた箇所が一応はクリアできたということで、
        油断して画像のみならず動画まで露出してしまいました。
        これも春の陽気の仕業でしょうか。胸のときめきが止まりません。ドキドキ。
        ちなみにツイッターと違って動画を140秒以内に切り詰めなくていいのは楽ちんですね。
        あ、別に最後まで観なくていいですよ。編集しなくても載せれちゃうぜって話。
        
        
        > 本番ではこのヒトデさんにシンボルとして洞窟の中に大量発生していただく予定です。
        > 楽しみですね。わくわく。  
        
        なお、再三申し上げているとおり、「戦う」わけではありません。
        ましてや「捕まえて飼い慣らす」などという野蛮極まるプレイでもありません。
        まだまだ地球のゲーム界ではそのような非文明的な因習が支配的なようですが、
        もうそろそろ、そういうのは卒業しないとイケませんね。
        
        たとえば「カワイイキャラで女性に人気!」などというフレコミのゲームがあったりしますが、
        その「カワイイキャラ」に対して何をするかと言えば、
        「攻撃」して「殺す」んですよね。もしくは「生け捕り」にして「飼い慣らす」か。
        殺すか殺されるか。支配か服従か。
        萌えキャラを登場させて、それでどうするかと言えば、戦う。あるいは戦わせる。
        闘争か死か。
        戦闘能力の高低こそがそのキャラの存在意義に直結している。
        力無き者には滅びあるのみ。
        そういうのが「楽しいことだ」として当たり前のように我々を取り囲んでいるわけですが、
        そこに違和感を感じないということ自体に、私などは違和感を覚えざるを得ないところです。
        ゲームは「楽しい」ものですし、「戦い」も「楽しさ」の一種になりえるものではありますが、
        必ず「こういう思考回路」じゃなければならないわけではないだろうとは思うわけです。
        
        これに近い現象として、焼肉屋さんの看板によく描かれているブタやウシのマスコットも挙げられますね。
        ブタやウシがコックの服装で描かれていたりする。
        こちらに関しては「共食いキャラ」として一定の問題提起が存在する模様。
        やはりこういうものに対しては違和感を覚えて然るべきだと思うのですが、どうなのでしょうね。
        肉を食べることの善悪の議論はさておくとしても、
        なぜ「共食いキャラ」なのかという話。
        
        現代的な感覚で批判の目を加えるならば「都合のいい戯画化」ということになろうかと思いますが、
        果たして事はそれほど単純なのか?
        上記のようなものが現代に至るまで違和感を持たれることなく
        「当たり前」のように世の中に溶け込んでいる現象を鑑みるに、
        そこには何か、我々の精神の根源に関わる「仕組み」が潜んでいるのではないかという気もいたします。
        
        倒して(食べて)、自分の「モノにする」ことで、
        同一の存在(仲間)として、肉体的な生死を超越した次元で、永続的な「生命体」になる……
        とでもいうような、いわば呪術的な感覚。
        
        その感覚に立脚するならば「殺して食べるなんて残酷だ」などという批判の感覚こそ、
        むしろ「肉体的な生死」という物理的な次元に囚われた(薄っぺらい)発想なのかもしれません。
        
        いやー、どうだろう。
        
        「殺し合って、食い合う」というところに精神の原初的な感覚に根ざしたものがあるのかもしれず、
        その「厚み」の前では、「現代的な批判の言説」は「薄っぺらい」のかもしれない。
        
        しかし、だからと言って、
        その「原初」の方が「正しい」ということにはならないだろう、とも思うわけです。
        地動説だって、最初は理論的な不備が多く、天動説を覆す力がなかったと言うではありませんか。
        
        「原初」の「厚み」には無視できないある種の「真理」が含まれているのは認めざるを得ないところだとしても、
        あくまでもそれは「乗り越えていく」ための課題としてそこにあるのであり、
        「現代的な批判の言説」も今はまだ「薄っぺらく」見えるかもしれませんが、
        その先にこそ、人類の偉大な理想があると言えるのではないか。
        
        現代は史上稀に見る唯物論の時代で、
        「神」や「精神」といった「目に見えない世界」を蔑ろにしてきたわけですが、
        だからこそ物質的な技術の高度な発展を得ることができたという面は無視できず、
        また、「物質」に閉じ込められることで「人間」は「自己」と「他者」とに分断され、
        それは人間を人体=物質のように扱う非人間的な管理社会という弊害を生む一方、
        「内実を知り得ない他者」がそこにいるという体験をもたらすものでもあり、
        だからこそ、冒すことのできない崇高な人間存在(精神)がそこにある筈なのだ、という
        「畏敬の念」を獲得する契機にもなっているのではないのか。
        
        「人間」が「人間」になる前の「精神的」な存在のままでは成し遂げ得なかった崇高な理想というものがあり、
        そのためにこそ「人間」は「地上的存在」になったのであり、
        さきほどの話に戻れば、
        「原初」という「来た道」がそこにある一方、
        その「厚み」に比べれば「現代的な感覚」はまだ「頼りない」ものではあるけれど、
        我々(霊的人間)がなぜ「地上的人間」になったのか、その目的にまで遡って思い返すならば、
        「原初」を顧慮しつつも、地上的感覚の中でこそ、育むことが可能になる、新たな精神性があるのではないか。
        
        何を言ってるのか分からなくなってきました。
        
        他にもイロイロお話したいことがあったんですが、
        長くなってしまったので今日はこのへんで……
        
        と思ったのですが、読み返してみたら、全然短いじゃないですか。
        何が「長くなってしまったので」ですか。私の知ってるキミはそんな軟弱なヤツじゃない筈だ。
        というわけでもっと書く。今夜は寝かさない。
        
        長さと言えば、今、pictSQUAREというところの自作ゲームオンリーイベントというのに混ぜさせてもらってて、
        他の参加者さんたちのお品書きをツラツラと眺めてたんですが、
        その中に「プレイ時間1時間の長編です」という文言を見つけましてですね。
        もうね、カルチャーショックで心臓に悪いですね。
        1時間で長編て。ひょっとして読む速度がめちゃくちゃ速いのかな? 恐るべし令和っ子。
        実際、このイベントに限らずノベル系の製作件数自体は増えてる印象ですが、
        ガチで「長編」なノベルってあんまり多くはない感じですね。
        1時間ぐらいでも長い部類には入るのかもしれません。
        
        確かに、読む人のことを考えると、あんまり長いのはよろしくないような気もします。
        分量が多ければお得感があって良いだろうというのはある種の「甘え」なのかもしれず。
        自分としても、「プレイ時間10分程度です」とかだと「ちょっとやってみようかな」と思う率が高いですが、
        「プレイ時間ン時間の長編です」と書かれてると、プレッシャーを感じるというか、
        「そこまでの時間をかけてまで見たいと思う内容かどうか」を(無意識に)考えて、
        入り口に立つ前の段階で敬遠してしまう率が高いかもしれない。
        
        「一話ごとに10分〜30分程度」みたいな書き方にした方がいいかな?(マイン○ル)
        いやー、でもマ○ンドルは「死ぬ気で読む」ものですからね。
        そんな軟弱なことでは名がすたるというもの。
        
        マ○ンドルの話はさておき、
        こうしていわゆる「創作アカ」というものをいつもより多めに拝見していると、
        やはり何というか、何とも言い難い「疲れる」感じがしますね。
        ああ、そうか、この人たちは「創作」が「好き」なんだな、「価値」を感じているのだな、
        という根源的な溝を感じるところです。
        
        私はどちらかと言えば、ゲームという形式を「拝借」しているに過ぎず、
        作ること自体にある種の「楽しさ」のようなものを感じないわけではありませんが、
        たとえば「今後も作り続けていきたい」とか、「よりよい作品を作れるように頑張りたい」とか、
        そういう感覚はあまりない。
        いつだって「これで最後にしたい」ですし、「目的を果たせればそれでいい」と思う。
        
        ただ、他の人たちがそのようにして「場を盛り上げて」くれているおかげで、
        私はそこに「乗っかる」ことができるのであり、
        申し訳なさを感じるところであると同時に、
        そういう私が「盛り上げ」に協力しようと出しゃばるのもまた、「騙して」いるようで気が引ける。
        
        プレイ報告を書く場合にもそれはあって、
        「作者宛」を意識する側面に関し、私がたとえば「面白かったです」と言う場合、
        「だからまた面白いゲームを作ってくださいね」と言う意図はなく、
        そこにある言外の含意を強いて言語化するならば、
        「だからもうこれ以上作る必要はないですよ」に近い。
        
        「必要」など何も無いのであり、
        それでもこの世に存在し、何かを「して」しまうのだとすれば、
        では何を「選ぶ」のか?
        色は空に還り、空からまた色へ還ってくる。色即是空、空即是色。
        それを単なる揺り戻しの退行で終わらせず、新たな自覚を育んでこの世に向き合うことこそ、
        つまりは「精神」が存在することの意義であり、敢えて言えば「生きる意味」なのではないか。
        
        私のプレイ報告が何かのお役に立てているのだとすれば光栄なことではありますが、
        「モチベーション」と言えば聞こえはいいですが、
        「この世への執着」を強めることにつながってしまっているのだとすれば、
        「私の願うところというわけではない」という事実はある。
        もちろん、あくまでも私は勝手にプレイして勝手につぶやくだけなのであり、
        作者様方も同様の筈ではあるのですが。
        ただ、概して、総じて、「向いている方角」のズレは感じざるを得ない感じがする感じはします。
        
        それに加えて、以前書いた「場の価値」という観点でも、
        無闇に「感想」を書くのは「価値を下げる」ことになる、という「言外の共通認識」があるようにも感じます。
        で、それについても、私などはむしろ「場の価値」なんて下げてやりたい、という気持ちがあるわけです。
        だって、大事なのは「場」ではなく、「あなた」でしょう?
        
        ……と、私は思ってしまうのですが、
        上から目線な言い方になるのを恐れずに言うと、
        そもそも「自分の価値(?)」を信じていない人にとっては、「自分」よりも「場」の方が重要であり、
        自分が身を置く「場」の価値を守ることでこそ、「自分」の身を守れる(意味を確保できる)、
        という感覚があったりするのではないか。
        だから、人を搾取するような「場」にこそ、進んで身を捧げてしまうのではないか。
        であればこそ、私などは「"あなた" こそが大事なのだ」と言いたくなるのですが、
        本人としては、「場」を毀損されるのは「死ぬより困ること」なのかもしれません。
        などと言っても他人のことはドウシヨウモありません。
        願わくば、その「場」が、「あなた」を大切にしてくれるものであってくれればよいのですが。
        
        とかなんとか、いくら言ったところで、
        この世を超えた領域が本当のところどうなっているのか?
        そこのところが明確に意識できているというわけでは今のところなく、
        そうである限りは、確定的なことは何も言えません。
        私こそが誰よりも勘違いをしているという可能性も無きにしもあらず。
        なぜ無ではなく有なのか?
        
        ただ、いずれにせよ、
        あなたが幸せでありますようにとは思うわけです。
        
        
        
        
        
        
        
        	
◆ 2021/04/28
    したこと:
        登場するお相手キャラを決めて素材画像を割り当てた
        
        
        「敵」ではなく「お相手キャラ」です。
        その意味は、ここをお読みになっている私の大ファンの皆さんには説明不要のことと存じます。
        戦いなんて「現実」だけで充分だわ。そう思いませんか? 思いますよね? 思いましょう(強要)。
        
        ただ、こういう何というか、思想的なこだわりはさておき、
        「戦闘のないRPG」とだけ言えば、案としては珍しくはない気がします。
        特にRPGというジャンルを取り巻く社会情勢を鑑みるに、
        ツ●ー○などを用いた「ネタ的・パロディ的」な短篇として、
        今日もどこかで誰かがツクっているであろうことは想像に難くありません。

        別にそういうのはそれはそれでいいと思うのですけど、
        今作っているものが「単なる一発ネタ」として片付けられてしまったら残念だなと懸念するところではあり、
        そういうのとは違うのだよ、そういうのとはっ、と、
        地球の皆さんにご理解いただくためにも、
        その「ネタ」以外の部分も、「真面目」に作り込んでおく必要があるだろうなと考えている次第。
        それもこれも現在の地球の皆さんの進化レベルを慮(おもんぱか)ってのこと。
        いつもながら私の慈悲深さには感動せざるを得ませんね。
        それにしても「おもんぱか」ってフリガナだけ見ると、ユルイ打撃音みたいですね。
        なんでやねんっ、おもんぱかっ。
        
        ただ、パロディか否かと言えば、パロディには違いないですね。
        RPGという「様式」が固定化されているジャンルを「利用」するという意味で。
        その意味で、●○ール等のおかげで様式の固定化が進んだことは、
        そのおかげで、そこに「乗っかる」ことができるのであり、ありがたいことではあります。
        
        などとエラそうに野望を語っても、エターナり神に捕まってしまっては全ては獲らぬタヌキ。
        愛するあなた方のために不屈の意志で邁進して参りますよ。
        
        というわけで進捗まとめ。
        各ダンジョンごとに登場するお相手キャラを決めて(考えて)、
        その各キャラに対し、セッション中の固定グラとして、どの画像(素材)を使うかを決めました。
        あ、「セッション」というのは「戦闘」じゃなくてというのは私の大ファンの皆さん以下略。
        
        素材の使用に関して話を整理すると、
        セッション中の固定画像は、素材を使わせていただいております。
        シンボルとしての歩行画像は、カリスマ神ドット絵師の私が愛する皆さんのために手作りします。
        この私のドット絵を拝めるだなんて、あなた方は本当にラッキーですね。
        
        今回の進捗の話に戻すと、
        各ダンジョンごとに3種類前後ぐらいご登場いただくことにしたわけですが、
        そうすると単純計算で50種類ぐらいは考える必要がある。
        50種類!
        一般的なRPGとしては少なめな数字ではありますが、
        たとえて言うなら、ダジャレを50個考えろと言われてもそうそう思いつかないのと同じで(同じか?)、
        なかなか思いつかず布団がガス爆発するやら猫がすっとぶやらで死ぬかと思いました。
        
        というか、この作業って必ず必要だと思うんですが、
        実際、RPGをお作りになってる先達の皆さんはどうやって決めてるんでしょうね?
        
        どういうお相手キャラを登場させるかで、
        さりげなく世界観をほのめかすのがRPG仕草と言えましょう。
        なので、ある程度は方針がある。元々決まっていたキャラもある。
        そうかと言ってダジャレを50個考えろと言われても教会がガス爆発するばかり。
        
        どうしても「埋まらない」部分に関しては、適当にネットで神話などを検索して、
        世界観的に違和感のなさそうなダジャレさんに来ていただくなどして、
        どうにか全席埋めることには成功しましたよ。素敵!(ステッキ)
        
        で、改めまして、素朴かつ深淵に疑問に思うところなのですが、
        先達の皆さんは、この工程をどうやってクリアしてるのでしょうね?
        
        システムやストーリーなどのゲームの本質とは少し違う「枝葉」の部分ながら、
        通過しないと作業自体を進められないわけで、地味にエターナり神の罠なのではないか。
        しかし、この段階で苦労して作業が停滞、という話はあんまり聞いたことがない。
        いくら「RPGを作るぞ!」と夢を膨らませても、
        必ずある程度「空席」ができて頭を悩ませざるを得ないと思うわけです。
        皆さん本当にどうやってるんでしょう?
        あまりに地味すぎて話題として表に出てきにくいだけで、
        この地点でエタ神に食べられてるケースも水面下には相当数あるのではないか?
        いわゆる「アイディアがまとまらない」的な発言の一部がコレなのかな?
        
        もしくは、素材画像に元々ついてるモンスター名や、
        ランタイムに含まれてるデフォルトデータをそのまま使ってるケースも多いのかな?
        
        素材に頼る以上、素材との相談にはなりますね。
        というか私自身、当初はあまりこだわらず、素材を適当に配置しようと思ってました。
        が、そうすると問題が2つ。
        一つは、検索すると同じ画像を同じ名前で使っている既存のゲームが見つかってしまうこと。
        これは素材を使わせていただく以上仕方ないことですが、名前ぐらいは変えておきたい。
        というか素材画像の名前がたとえば「猫の根っこ」だからと言って
        「猫の根っこ」として使わなければならないワケではない(規約上問題ない)のであって、
        どのように「解釈」するかは、こちらで決定したい。
        それからもう一つの問題として、素材画像やそれらについている名前だけを見ていると、
        頭がそれに引きずられてダジャレの幅が狭くなってしまう。
        そもそも私は何を作ろうとしていたのか? 教会に行くのは昨日だったのに!
        
        そんなわけで、
        1、規約的に問題がなく、絵柄的にもイメージに合う素材サイト様を見つけて
        2、どのような画像が入っているかを全体的に把握した上で、
        3、一旦、素材からは離れて、「何を」登場させるかを一通り決めて
        4、それに合う(こじつけ可能な)画像を、素材の中から見繕って当てはめていく
        
        という手順で進めた次第。
        4のこじつけの度合いは様々ですが、ある程度は開き直るしかないですね。
        そもそも想像上の存在ばかりで、実物を見た人はいないわけで、言ったモン勝ちではありましょう。
        猫っぽいユルキャラの画像を巨神兵007ということにするのも自由だ。
        
        というわけで何やかんやと60種類+αぐらいになりました。
        画像が決まったら、次は、それに合わせて歩行ドット絵を用意だ。
        ここでいよいよ宇宙人さんの出番ですね。
        え? 60種類+α? いくら宇宙人さんに丸投げとは言え、
        それはちょっと正気の沙汰じゃないんじゃないんですか?
        もし企画会議みたいなのがあったら、ここで落とされるところじゃないの?
        はい。
        数字だけ見ると気を失いそうになりますが、必ずしも1体ずつまともに作る必要はないハズ。
        色違いやパーツ流用などでごまかしつつ、適度に手を抜いて進めていきますよ。
        どうしても無理なら「陸系・水系・飛ぶ系・人型」程度に
        シンボルをざっくり共通化するという最終手段も。
        ううむ、そこまで言うならやってみたまえ。会議風。
        
        宇宙人さんには来ていただいたばかりで、本当にできるのかどうか半信半疑でしたが、
        試しに少しやってみたところ、そこそこできてしまったので多分大丈夫なのでしょう。
        さすがはダテに宇宙人じゃないってことですね。今後の作業が楽しみであります。
        脳内で麻薬的な物質が分泌される音が聴こえるでありますよ。びちびち。
        
        正味の話、そんなにメチャクチャうまい必要はないんですよ。
        最低限、カリスマ神ドット絵師の名に恥じない程度で充分。
        それを思えば、さほどハードルは高くないはずです。未来は明るい。
        
        ちなみに、上記の「試しに少し」を含めて、すでに9体出来上がってるので、
        割とすぐ出来ちゃうんじゃないの? という気はしている気はしております。
        本当かな〜? ドキドキ。
        
        
        ではさて、ツイッターの話をしましょう。
        前回申し上げたとおり、最近はあんまり使ってない状態です。
        たまに覗いてはいるんですが、皆さんそれぞれにご活躍のようで、なんだか浦島太郎の気分に。
        RTしたいなと思う投稿もあったんですが、出遅れた感があり、ボタンを押せず。
        かくなる上はカメさんにキビ団子を与えて竜宮城へ柴刈りに旅立つしかないのか。混ざった。
        
        ブランクが空くと、書き込むハードルも上がってしまいますね。
        というより、何か思いついたとしても
        「別に投稿する必要はないんだよな」と気づいてしまう、という面が大きいのかもしれない。
        一時期は生活の一部と言っても過言ではないような感覚もありましたが、
        離れてみればどうと言うことはないものですね。
        
        アカウントを作ってから一年半ほど。
        その間、いつの間にかいなくなってしまった人も少なからずいましたが、
        案外こんなふうにして遠ざかってしまうものなのかもしれませんね。
        
        以前、某咳止めを多めにいただいたときの感覚にも通じるものがあるようにも思います。
        自分の日常の記憶が、どこか他人事のような、数ある作り話の一種のようになっていく感覚。
        「これが "私" なのだ」と、疑うことさえなかった記憶が「遠ざかって」いく。
        
        死んだ後の感覚もその延長線上なのではないかという気もします。
        生きている間は「私の人生」として「私」の中で「私」に紐付けられていた一連の事象が、
        その紐付けが解消され、「離れて」いく。
        読み終えた本のように、あるいは憑き物が落ちるように。
        それでも「私(と呼ぶより他ない何か)」の中に積み重なっていくものはあり、
        そのためにこそ、さしあたりこの人生を送っているのではないか。
        しがみつくほどのものではないと同時に、あながち無意味というわけでもないのでしょう。多分。
        何よりここには「あなた」がいた。
        それだけでも、この世界に来た甲斐があったというものです。
        
        さて、もうしばらくはこの世にいることになるようですので、
        今しばらくお付き合いいただければハッピーであります。
        ツイッターのアカウントも使っていく意志がないわけではないので、
        そちらも今しばらくお付き合いいただければハッピーであります。
        
        ていうかドット絵描くんだ? あと51体とか? マジで?
        それ以外の未来が見えないので多分マジなんでしょう。宇宙人め!
        何とか要領良く進めなければ命がいくつあっても足りませんね。くわばらくわばら。
        私の命がエターなるのが先か? 
        それとも私の命がエターなるのが先か?
        はたまた私の命が以下略か?
        目が離せない展開はまだ始まったばかり。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        
        


◆ 2021/04/22
    したこと:
        最初のダンジョンにエンカウントのシンボルを配置した
        
        
        やる気が出ないときに無理して「ヨシやるぞっ!!」と意気込んでも、
        なかなか動けなかったりしますが、
        「とりあえず試しに少しだけ」というつもりで動いてみると、
        いつの間にかうまくいったりするものです。
        
        とりあえず外に出てみる。とりあえず紐を売ってそうな店に入ってみる。
        とりあえず買ってみる。とりあえずどこかにぶら下げてみる。
        とりあえず輪っかを作ってみる。とりあえず首を通してみる。
        とりあえず体重をかけメキメキバキドスーン!!!!
        
        というわけで、なんやかんや作業しているうちに、
        いつの間にか最初のダンジョンにエンカウントのシンボルを配置できておりました。
        不思議なこともあるものです。
        何事も着実に行動を積み重ねていくことが大事ということですね。しみじみ。
        
        
        ていうかシンボルエンカウントなんだ?
        どうやらそうらしいですよ奥さん。誰が奥さんだ。
        
        ランダムエンカウントにするか? シンボルエンカウントにするか?
        当初はどっちでもいいかなと思ってたというか、
        より「伝統的」という気がする&実装の楽そうなランダムエンカにするつもりだったのですけど、
        ダンジョンを実装している間に、
        「このマップでシンボルさんと追いかけっこしたい!」
        という欲望がムクムクとワキ起こってしまった次第。
        
        というわけで急遽、システムの増設を行い、
        お試しの意味を込めつつ、最初のダンジョンの分、シンボルを配置いたしました。
        予定通り、マップ上でシンボルさんと追いかけっこして、
        接触するとエンカするようになりましたよ。
        
        システムの方は知ってのとおり私は天才プログラマなので
        お茶の子さいさいの朝飯前だったのですが、
        問題はドット絵ですね。
        ランダエンカならエンカ後の止めグラ(素材)だけで済んだハズが、
        シンボルとしての歩行ドット絵を自前で用意することになってしまった。
        
        というか、いつの間に私はドット絵を描く人になったんですか?
        絵が描けなくてもドット絵なら……エヘヘ、
        などと鼻の下を伸ばしているのはどこのどいつだ! 成敗してくれる!
        とは百も承知しつつ、なぜか今までもずっと
        マップチップを当たり前のように自前作成していたのでした。
        不思議なこともあるものです。
        
        自分が生まれてから今まで一貫して同じ「自分」であることを示す証拠は何もなく、
        ただ「記憶」という実体のない虚像があるばかり。
        どこかの時点で宇宙人と入れ替わったのかもしれませんね。よくあることです。
        ともかく、ラッキーなことにいつの間にかカリスマ神ドット絵師になっていたので、
        このまま邁進する所存ですよ。
        
        ちなみに正味の話をすると、
        世の中に出回っている素材のほとんどは
        ツ○ー●などの有名ツールを想定した作りになっており、
        利用規約的な懸念に加え、それらを使うとどうしても「そういう雰囲気」になってしまうので、
        それはちょっと避けたいというか、差別化を図りたい思いがあり、
        となると、自前作成を避けていては選択肢が限定される一方なので、
        やむにやまれず宇宙人さんに降臨していただいた次第。
        こういうときのためにも普段から宇宙人さんとは仲良くしておくべきってことですね。しみじみ。
        
        急遽、シンボルエンカウント制にすることにしたということで、
        こういう行き当たりばったりな仕様変更で工数を増やしてしまうのは
        エターナり神に捧げる絶好の供物になってしまうわけですが、
        実のところ、「ダンジョンをさっさか踏破していく」というゲーム内容からすると、
        ランダムエンカだと「理不尽に足止めをくらう」ストレスフルなプレイ感になってしまうのでは?
        と懸念を抱いてもいたので、シンボルエンカにして正解だったとは思います。
        いつもながら、予想を越えたキッカケをくれる宇宙人さんには感謝してもしきれませんね。しみじみ。
        
        
        今後の予定。
        さしあたりエンカウントまわりの機能がそろったということで、
        他のダンジョンにも同じ要領でお相手キャラのデータを埋めていく。
        
        1つのダンジョンごとにお相手キャラ3種類前後ぐらいが物量として妥当なところかな?
        あんまり増やしすぎない方針で。グラフィックの使い回しを積極的に視野に入れつつ。
        まずは残りの全ダンジョンについて、出現するお相手キャラを先に決めておこうかな(設計)。
        パラメータとかは後回しで、ともかく形だけ整えてしまいたい。
        
        ちなみにグラフィックの使い回しは必ずしも手抜きということではなく、
        同じ系統のキャラであることを直感的に伝えるために積極的に活用すべき秘術と言えるでしょう。多分。
        シンボルに関しては、どうしても無理そうなら、
        ヒトダマみたいな共通の絵にしてしまうという選択肢も視野に入れつつ。
        
        
        
        あと何か書くことありましたっけ。
        たとえばTwitterの話とか。なるほど。
        
        せっかくアカウントがあるのだから、
        進捗にせよ、その他のお話にせよ、
        我ここにあり! と威勢よくアピールすればよさそうな気もしつつ、
        ゲ製アカの方では少々発言を控えている状態です。
        
        根本のところで私は「純粋に」ゲームやゲーム製作が「好き」というわけでも、
        「意味や価値がある」と信じているわけでもない。
        それはただ、この世のあらゆることが額面通りの意味や価値があるわけではないと思っているのと同様、
        ゲームやゲームを作ることもその例外ではないというだけのことではあるのですけども、
        
        ゲームやゲーム製作が好きな人同士で盛り上がりましょうという場の性質を考慮すると、
        そんな皆さんの「TLを汚し」てしまうのは、空気を読めてない感じになると申しますか、
        せっかくのお楽しみに水を差してしまうことになる気がすると申しますか。
        「だましている」ような申し訳なさを感じると申しますか。申しって4回申した(5回め)。
        
        場の性質と言っても、一人一人の「動機」や「強度」は様々でしょうけれど、
        一応の「合意事項」として「そういうこと」になっているだろうとは思うところ。
        
        「純粋」などと言い出せば、人によって「ゲーム」との関わりはそれぞれでしょうし、
        「不純な子はいねーがー!」と鬼の着ぐるみで家々を巡れば、
        誰しも恐怖におののくことだろうとは思いつつ。
        
        ただ、私の場合、特定の価値観を過度に信奉し過ぎることを警戒したいという考えになってくるので、
        その点で、「ゲーム」界隈(であれ何であれ)を
        「盛り上げて」いこうという動きには逆行してしまうような感は否めない気はします。
        私としては特段、何かを批判するというつもりはなくても、
        「ゲーム(製作)」関連で盛り上がっていこう!というつもりの人が私の発言を見ると、
        何か「冷水を浴びせられた」ような「あまりいい気がしない」思いになることが
        少なからずあるのではないか、と得意のテレパシーで感知したりしなかったり。
        
        ちなみにもう一つのアカウントでお世話になっている界隈でも、
        最近流行りの「反○○主義」で盛り上がり方が過激になっている面もあり、
        少々危うさを感じていたりします。
        
        特定の誰がということではなく、一部の傾向としてですが、
        「ゲーム(製作)そのもの」や「反○○主義そのもの」というより、
        どこか、自分の身を(心を)守るために、
        それを「砦」にしているようなところが感じられる場合がしばしばあり、
        であればその点についてはそっとしておけばよく、口を出す必要もないのではありますが、
        かと言って、その「砦」が本当にあなたを守ってくれていますか? 
        と、得意の余計なお世話マインドが顔を出したり出さなかったり。
        もちろん、このことと「そのもの」の「正しさ」とはまた別の話ではあるのですが……
        と、これに関して語ると脱線を通り越して次元スリップで帰って来れなくなりそうなので今回はこのへんで。
        
        
        「プレイ報告」に関して言うと、
        ゲームを作ること自体の大変さは身をもって知っているつもりなので、
        そこに関して、作った人へ尊敬を示したいという思いはある。
        というより、「ゲーム(製作)というもの」自体の意味や価値自体には、あまりこだわらないからこそ、
        作った人がそこに注いだであろう「何か」をこそ(それこそ純粋に)大事にしたいと思うわけです。
        
        ちなみに、これが例えば「成果主義」的な考え方であれば、
        出来上がったものの「出来栄え」や「世間での評価」が全てであり、
        作った人間がどれだけ頑張ったかなどどうでもいい、
        という南極も真っ青の氷の砂漠が展開することになるわけですね。恐ろしいことです。ぶるぶる。
        
        もしくは、「俺より強い奴に会いにいく!」的な思いで製作してらっしゃる方にとっては、
        私のような態度でプレイ報告を書かれるのは逆に心外かなと思ったりも。
        決して「お世辞を言っている」つもりは1ミリもなく、
        作り手が込めた「面白さ」へ、こちらから「波長を合わせていく」心がけ、
        というつもりではあるのですが、
        変に気を遣われてるみたいで困るという人もいるかもとは思います。

        もちろん、あくまで「プレイした件を勝手につぶやいてるだけ」という体裁ではあるものの、
        実質的に「作者宛て」になっている面は少なからずあるわけで。
        私自身が作る側でもあるからこそ
        「人に言及される」という体験における
        「言う側」と「言われる側」の想像以上に非対称な重みも分かるつもりではある。
        
        
        また、私としてはそういう思いが主たるものなので、
        すでに有名なゲームだったり、
        すでに盛り上がっているコミュニティに参加しているゲームなどに対しては、
        敢えて私が口を出すこともないだろうということで、
        あまり言及しようという考えは起きなかったりします。
        
        で、ここがまた「逆行」の元になっている点でもあるのかなと思うところでして、
        つまり、有名なゲームや、盛り上がっているコミュニティの話題に自分も参加するという方が、
        「界隈」の盛り上げにはつながるわけですね。
        これは合理的に考えてそうする、というより、
        感覚的な反応として、ということだと思われますが、
        つまりそうした行動こそが、目の前の流れに対して「YES」と言うことなのであり、
        自分が身を置いている「場」の価値を「認める(appreciate)」ことでもあるのではないか。
        
        比喩で言うなら為替相場のようなもので、
        たとえば日本円で資産を保有している人としては、
        自分の資産価値が相対的に下がってしまうので、日本円が無闇に発行されることを嫌がる。
        
        これは一人一人の「好み」というよりも、
        言うなれば「場」自体が自身の価値を維持しようとする作用を有しており、
        全体として、そういう流れが生じる、と申しましょうか。
        
        自分が身を置いている「場」が価値あるものであって欲しいというのは
        人として当然の思いだとは思いつつ、
        こう言うと「エラそう」になってしまいそうですが、私としては、
        あなたが守ろうとしている場が、あなたの心の安寧を守ってくれるとは限りませんよ、
        などと言いたくなってしまうときがあったりもする場合もあったりもする場合がある。
        
        さきほどの為替相場の比喩で言えば、
        本当に大量の資産を保有している人にとっては、
        そういう考えも短期的には合理性があるかもしれませんが、
        実際には、お金に困っているような人ほど、
        政府の財政出動が悪いことだと思っていたり、競争社会や自己責任論を肯定していたりするわけです。
        社会的に弱い立場の人ほど右傾化する風潮も一部にあったりするようですね。
        
        ただ、仮にそういう面があるとしても、それを言うのは余計なお世話と言いますか、
        直接的に誰かに宛てて明確にそのように発言したわけではなくても、
        そうした意図を言外に含んだ発言で「TLを汚し」てしまうと、
        何か「水を差された」「批判された」ように感じさせてしまい、
        結果的にブロックされたりすることにもつながるのかなと思ったりするところです(されたのかよ)。
        
        などという発言自体、「上から目線」な雰囲気を醸し出しているのは否めず、
        もし件の人がこの文章をお読みになったら、さらに嫌な気分にさせてしまうだろうなとも思うところ。
        それを言い出すと、こうして「気を遣う」こと自体が「上から目線」のような面はあり、
        他人のことは放っておくしかないのではありますけれども。
        
        おっと、気がついたら大長編になってしまっているではありませんか。
        まだまだ話は尽きませんが、
        愛する皆さんの貴重なお時間を削ってしまっては申し訳ない。
        というか私の時間だって貴重なのだよコノヤロ〜、と忍法勝手に長文を書いておいて投げるの術。
        なんかまた余計なこと言ってしまったような気もしつつ、
        ここをお読みになるのは全宇宙に100億人しかいない私の大ファンだけなので問題ないだろうとも思いつつ、
        案外見られてたりもする油断ならないネットの恐ろしさに打ち震えたりもしつつ。がくがくぶるぶる。
        
        それもこれも全て、あなた方を愛すればこそ。
        いつもながら私の慈悲深さには感動するばかりですね。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        


◆ 2021/04/13
    したこと:
        屋内マップを実装した
        
        
        前回の日誌はダンジョンのマップの実装が完了したことを記念したものだった、
        という話はしましたっけ?
        進捗報告的なことをすっかり書き忘れていた気がしますが、
        何を隠そう、そういうことだったのですよ。
        で、今回は屋内マップの実装が完了したことを記念してのカキコとなりはべりにそうろう。
        カキコと言うからにはそれに相応しく、古文っぽく言ってみました。
        
        これにて一応、マップに関しては一通りデータが埋まったことになります。やったね!
        これで人類がまた一歩救済に近づいたというわけです。
        愛するあなた方と、この福音を共有せずにはいられません。
        
        具体的に言うと、一通りのマップとは、
        ダンジョンの内部マップ、フィールド、街の中、そして今回の屋内マップです。
        「屋内」と言うのはつまり、街マップの中の「家の扉」から、中に入ったマップということです。
        
        実際のゲーム内容には直接関係ないだろうな〜、と思われる家も多々あり、
        さらに内装は大体どこも似たようなものなので、
        作業量を軽減するためにも、必要な箇所だけに絞り込んで、
        内装はデータを共通化して、あれして、これして……
        
        ……とか考えてたら身動きができなくなって死ぬかと思ったので、
        もう、街マップを作った時点で見た目的に扉をつけてしまった家は全部、
        対応する屋内マップを1件ずつ作って中に入れることにしました。無為無策の力技。
        想像以上の作業負荷に死ぬかと思いましたが、またしても死ななかったようです。コンチキショー。
        
        思うに、一般論として、入れる家が多ければいいというわけでは多分なく、
        実際、市販のRPGを見てみると、入れる家は一部で、ほとんどは見た目だけだったりするのですよね。
        こういうところでスマートにやれず作業負荷が無駄に大きくなったりするのも、
        個人製作のRPGが頓挫しがちな要因の1つだったりするのではないかな、などと想像しました。
        実際に手を動かしてみることで、衆生の苦しみが理解できる。
        これもまた地球に生を受けた私の使命ということなのでありましょう。
        私がこの世に生まれて、あなた方は本当にラッキーでしたね。
        
        
        さて今後のロードマップ。
        と、書いて唐突に思ったのですが、「ロードマップ」って「労働マップ」みたいでイヤな響きだ。
        類まれなダジャレの才能がこんなところで牙を剥くとは。天才も楽じゃありませんね、ヤレヤレ。
        
        では、えーっと、なんて言えばいいんだ。
        完成に向けての作業の見通し。うむ、名訳。
        
        大きな柱は2本。
        NPCの配置とモンスターの配置。
        
        NPCはストーリー的な要素を語ってもらう役回りのものですが、
        今回のゲーム内容的には、ゲームの本質要素ではないというか、あくまでワビサビ要素というか、
        基本的に、誰とも話さなくてもゲーム自体は進行させられる内容になる予定。
        
        「ゲームっぽく」するにはモンスターの配置が先ですかね。
        「モンスター」と言っては語弊があるかな。
        プレイヤーの遊び相手になってくれる大切な存在者さんたちです。
        
        なお、私の大ファンの皆さんはご存知の通り、私はもう戦うゲームは作らないので、
        今回も「戦う」わけではありません。
        伝統的なRPGの様式は踏襲しつつ、あれが「戦い」である必要はない。
        さしあたり「セッション」とでも呼んでおこうかな。
        
        で、そのセッションのシステム自体はすでにできているので、
        あとは「お相手存在者さんたち」を設定して、全国各所にて待機していただくようにするのみです。
        「のみです」などと勢いよく簡単に言いつつ、
        全然「のみです」じゃないんだろうなとは容易に想像できますけども。
        
        ともあれ、そんな感じで、まずは、
        ざっくりと「ゲームっぽく一通り動かせる状態」を目指して進めていくですよ。
        
        
        で、今回のゲームを作る目的というか、
        まだ死なずにこの世にいるのであれば、やっておかずばなるまいと思っていたこととして、
        上記の通り、「戦わないゲーム」を明確な形で具現化しておきたいというのがあります。
        
        結局、マイ○ドル以降、2つしか作ってませんからね(なお、マイン○ル自体は戦うゲーム)。
        しかもその2つとも、「戦いの要素がない」ことは私が言わなければ誰も気付かないであろう隠し味レベル。
        
        現在の地球人の進化レベルでもハッキリと理解できるよう、
        もっと明確に「戦いではない」ことを前面に打ち出したものが必要だろうなと、
        あなた方を愛する慈悲深い私は常々思っているわけです。
        
        案としてはRPGの他に格闘ゲームがありました。
        むしろ、そちらの方が「格闘」と「戦わない」の
        ギャップのインパクトが強くてよろしいのではないかなとは思っていて、
        先にそちらに着手しようかなと、当初は思っていたのですよ。
        
        で、さしあたり今後に備えて、いつでも動き出せるよう、
        システムの基本部分だけ、(両方とも)作っておこうかな、
        ということで作業に取りかかったところ、RPGの方が先に形になり、
        その後は「ついでにデータをちょっと入れてみよう」からの空中コンボで現在に至るというのは前回お話した通り。
        
        ちなみに以前、コミPo!のキャラにアニメーションをつける技術を実験していたのは、
        この格闘(?)ゲームの準備という意味合いもあったりしました。
        
        それにしても、やはり「戦わない」を地球の皆さんにお伝えするには、
        格闘ゲーム案の方が分かりやすいだろうと思うのですけども、
        なんでこうなってしまったんでしょうね?
        どうも何か、地球人としての私はイマイチ思い出せませんが、宇宙意志のハカライがあったっぽいですね。
        いつもながら報告・連絡・相談の精神が欠如した連中ですが、こうなったからには仕方がありません。
        
        さっさとRPG案を片付けて、その後も生きてるようなら、格闘ゲーム案に取りかかりたいですね。
        なお、RPG案が片付く前に気分転換などと称して別のものに着手しちゃったりすると
        エターナり神の王国に真っ逆さまであることは数々の定跡研究で明らかになっていることですので、
        それだけは断固禁止で邁進して参りますよ。
        
        
        なにもかも虚しい。
        なんでこの宇宙が存在しちゃってるのかは相変わらず意味不明のコンコンチキですが、
        せめて、無意味な争いで人々が苦しむことがなくなって欲しいものです。
        
        「無意味な争い」なんて言うと、じゃあ「有意味な争い」だったらいいのか、って話になってしまいますが、
        結局、なんやかんやと「意味づけ」をして争いをヤメない、というのが根源という気がいたします。
        「あいつらがやってる争いは無意味だが、俺様がやってる争いは意義深いのだ」という問題ではない。
        
        誰もが「意義深い争い」に自分を位置づけたがっているかのようです。
        「争い」を言い訳にすることは、「無意味さ」からの逃避にちょうどいい。
        「自分は意義深い人生を送っている」という感覚を維持するためのドラッグです。
        
        結局、その背景には「何のために生きているのか分からない」という存在不安があるような気がします。
        なんやかんやと「意味」を語って、競争的な世の中に「Yes」と言い続けるのは、
        そうでもしなければ「自分の意味」を見失うという、ニヒリズムの裏返しのように見えます。
        「勝ち負け」の問題ではない。
        「無意味な自分」を直視できず「負けた私の物語」に魅了されてしまう。
        自覚なき空虚さが無批判な穴埋めに駆り立てられ、暴走が止められなくなる。
        などと「斜に構えて批判する」のもツマラナイ話ですね。
        こういうのは、「ただそういう現実がある」ということであって、
        「批判」してどうなるというものではない。
        これは全体的な風潮のことであって、特に誰のことを言っているというわけでもないのですけども、
        下手に力説してもかえって反社会的な印象になり、人に嫌な思いをさせるばかりでしょう。
        
        ゲームは「すること」であることを踏まえ、
        「戦い」とは異なる形での、安らぎや充足の体験を示唆できれば、と思います。
        
        
        念のため誤解のないように何度でも言っておきますが、
        上記の話は世間の風潮のことであって、
        「戦い」を内容とするゲームが「悪い」という話ではないですよ?
        一種の反映という側面がないとは言いませんが、それはまた別の話です。
        
        
        > ゲームは「すること」であることを踏まえ、
        
        話は飛びますが、マ○ンドルは、ひたすら「読んで」もらわないといけないというのが、
        キビシイところだったかなとは思うところだったりします。
        あれはあれで、あれが最適の形だったとは思うのですけど、
        間口を狭めてしまった事実はあるかなとは思います。
        如何にこの私の文章が優美華麗であるとは言え、
        他人が書いた文章を読むのって、かなり気力を要求することだったりするわけで。
        この文章だって、ここまで読んでくれるのは宇宙全土に100億人しかいない私の大ファンだけでしょう。
        (などと随所に無駄な冗長フレーズを仕込むファンサービス)
        
        なので今回は「読んで内容を理解する」というより、
        「すること」を通して体験する、という側面を意識して構築していきたいと考えております。
        それもこれもあなた方を愛すればこそ。
        いつもながら私の慈悲深さには感動するばかりですね。
        
        
        さて、すでに大量に書いてしまいましたね。
        他にもお話したいことはあったのですけど、次回にまわした方がいいかな?
        この私があなた方をいかに愛しているかについてとか。
        ツイッターでの今後の活動についてとか。
        
        活動と言うほど大層なことをしているわけでもないですが、
        既にマイン○ルの宣伝という当初の目的がほぼ失われている中で、
        漠然とアカウントを維持していることに関し、思うところがあったりなかったり。
        これについて話し始めると第2部に突入してしまうので見送ろうと思いますが、
        明日死なないとも限りませんので、ぜひ私の大ファンの皆さんとシェアしておきたい重要なことを一つだけ。
        
        他の人の作ったゲームをプレイしてプレイ報告を書くということをしばしばしているわけですが、
        その際のコメントの書き方について。
        
        あくまでも「プレイした上での独り言」なのではありますが、
        作者に捕捉される確率が高いことは分かった上で書くわけですので、
        それを念頭に置かずにいるのは不可能です。
        
        で、ゲームのプレイ報告を高頻度で書いているのは私だけではないわけで、
        一人、興味深いムーブをしていらっしゃる方が。
        
        黙ってSSなどを淡々と上げていくスタイルというわけではなく、
        毎回何かしらのコメントを書いている、
        ……と見せかけて、ほぼ無言でSSを貼るだけのこともしばしばある。
        
        あまり批評めいたことは言わず、あくまでも「いかに楽しんだ」かに記述を絞る、
        ……と見せかけて、たまに批評的なことも書いてらっしゃる。
        
        このムラは何か? 単なる気まぐれか?
        どうも、相手(作者)によってスタイルを使い分けているような気がする気がするのです。
        
        基本的には「いかに楽しんだ」かに焦点を絞った書き方が多いようですが、
        「これからゲーム製作の腕を磨いて良いゲームを作っていくぞ」的な作者の場合には、
        多少の改善案などを、あくまで愛を込めた建設的な物言いで伝えている模様。

        一方、人からの評価を過剰に受け止めてしまいそうな相手の場合には、
        ただ言葉少なにSSなどで「あなたの作ったゲームをプレイした」という事実を伝えるにとどめている模様。
        
        あくまで私の推測に過ぎませんが……と思ったのですが、
        そういえば私はテレパシーの使い手なのでした。
        なので多分絶対私の思った通りで間違いありません。
        
        これはなかなか真似できることではないですね。
        ゲームにあまり詳しくなければ善意ではあっても社交辞令に傾いた内容になったり、
        ゲームに詳しい場合には(悪い意味で)評論家じみた方向に傾きがち、
        というのが大抵のところだと思うのですが、
        人一倍ゲームに関する見識の深さを持ち合わせているようでありながら、
        作り手に対するリスペクトを常に保ちつつ、
        良い意味で相手に合わせる懐の広さと、
        必要に応じて相手のために自分の見識を活用する愛情を両立させておられる。
        人格者だ。
        こういう人に日本の大統領選挙に出馬して欲しいですね。ぜひとも投票したい。
        
        というわけで日本の将来は安泰ですよという心温まるお話を皆様とシェアいたしました。
        
        ではまた次回、生きてたらお会いしましょう。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        
        
        
        


◆ 2021/04/06
    したこと:
        RPGを作り始めてしまった
        
        
        この地球は人間の魂が本来いるべき場所ではないという確信がますます強まっていく今日この頃、
        皆様いかがおすごしでしょうか。
        
        皆様と言っても、ここを見に来るのは全宇宙に100億人ほどしかいない私の大ファンに限られるわけですが、
        だからこそ、大切なあなたの貴重なお時間を長々とした前置きを読むために費やさせるわけには参りません。
        
        というわけで早速本題の、RPGを作り始めてしまった件に入ります。
        私の大ファンの皆さんなら、すでにご存知かもしれませんが……
        と思いましたが、そういえば明確に「RPG」を作っている、とはツイッターでも一言も言ってなかったのでした。
        だって、それを言うと、いかにもエターナりフラグが立ちそうじゃないですか。
        
        加えて、SSや動画などの視覚情報も今まで一度も載せたことがありませんでした。
        これまた、それをすると、いかにもエターナりフラグが立ちそうじゃないですか。
        「ツイッター」「RPG製作中宣言」「開発中のSS」
        三種の神器が揃った。これよりエターナり神召喚の儀を執り行う。執り行わないで!
        
        特に「RPG」というキーワードが、いかにも呪われてる感じがして、
        不用意に「RPG開発中どぇす☆にぱ」などと口走るのは憚られるところ。くわばらくわばら。
        
        ただ実際、情報を表に出すのも、それ自体で手間のかかることですし、
        エネルギーの配分として、セーブしておきたいという気はしております。
        また、SSなどを載せればツイッターの皆さんはとても優しい方ばかりなので、
        それなりにイイネや拡散などで歓迎の意を表してくれるのではないかなと思われますが、
        それはそれで、それ自体が目的になってしまいそうなので、
        あまりそちら側に自分の身を寄せ過ぎないよう気をつけるのが賢明かなとも思うところです。
        
        情報を出していく方がいわゆる「モチなんとか」というやつが保てるという話も聞きますが、
        そこは人によるところですかね。
        私の場合は「モチなんとか」に困っているというわけではないので、それに関する配慮は不要なのでした。
        
        実際のところ、エターナり率の統計情報のようなものは見たことはなく、
        私のイメージ(偏見)でしかないのではありますが、
        上記の要因が完成を阻むケースは多々あるのではないかという気はします。
        「開発中どぇす☆」でSNSること自体が目的化し、そこにエネルギーを取られ、本末が転倒する。
        
        ただ、「そういうケースが多いように見える」のは、
        仮に誰にも言わずに作っていて、誰にも言わずに中止した場合、誰にも知られず、
        結果として「統計」には反映されないからかもしれませんね。
        そもそも製作中である旨をSNS等で公言していなければ、製作が頓挫したことも外からは知りようがない。
        そうした構造的な事実も関係して、認識にバイアスがかかっているのではないかとも思います。
        
        逆に言うと、誰にも言わずに密かに製作を続けて完成に至り、彗星の如く公表されたものもあるハズですが、
        それはそれで、誰にも顧みられることなく埋もれてしまいやすいのではないか?
        (フォー○アイルは注目度バツグンですが、登場は彗星的でしたね。あれは少々特殊事例という気がする気がする)
        (というか、人の製作物に対して注目「される」とかいう言い方はあまりしたくないかな)
        (私が注目「する」かどうかです)
        (脱線)
        
        で、だからこそ、製作中の段階から周知を続けて知名度を確保しておく必要があるのではないかな、
        というのがマイン○ルで得た教訓の1つでもあります。
        「誰もそれを待ち望んでない」中に突然公開して「見向きもされない」のはある種の必然ではあろうかと思います。
        
        いや、マ○ンドルは、事前にそう予測していたというのもあり、
        公開前からこのページで進捗をほぼ週一で書き続けていたのですけどもね、
        なにしろ「このページ」ですからね、一部のラッキーな人しか存在を知ることができない。
        上記の「教訓」というのは、やはり事前に周知されてないと無視の海のど真ん中に公開することになるぞってことと、
        それから「このページ」は限りなくダークネットだぞってことです。
        
        しかし、こうしてアレコレと「戦略を練る」こと自体が「焼け石に水」という気はしないではなかったりもします。
        個人ホムペでも140文字の世界でも同じこと。
        私が何かすごい有名人であるならともかく、小細工を弄しても大した影響があるとは思えません。
        貧乏で元手の無い人間が株やFXなどの「資産運用」に頭を悩ませるかのような虚しさがある。
        そのために今から有名になるぞ!などと言うのも、
        株をやるために借金するぞ!というような非現実の王国感が満載です。
        
        そのことも、自分から情報を出していくことにあまり積極的になれない根本的な理由かもしれません。
        作ると決めたからには、黙って粛々と作業を進めていくしかございません。
        
        それと、「作ってます」と言っちゃったら、後に退けなくなるじゃないですか。
        何しろ今や全世界が私の活動に注目してますからね。
        私が「作ってます」と言うかどうかで、株価だって大変動。
        陛下、もう少しご自身の影響力を鑑み、発言には慎重になっていただきませんと。
        
        株価はさておき、最初は、ちょっと試しにシステムだけLÖVEで組んでおこうかな?
        というノリだったので、敢えて全世界に向けて宣言することもないかなとは思ってた次第。
        それが、ちょっとデータを入れて動かしてみようかな? になり、
        いつの間にか引き返せない地獄のど真ん中に踏み込んでしまったことに気付いて今に至ります。
        もうすでに後に退けなくなっている。ホワイトアウトならぬRPGアウト。
        やはりRPGは恐ろしいですね。くわばらくわばら。
        
        
        
        そんなわけで、RPGを作り始めてしまいましたよ、という非常に面白いお話でした。
        ではさて、そもそもなぜ作ることにしたのか、という大変興味深いお話を……、
        と思いましたが、すでにそこそこの長文になってますね。
        この程度の文章、マ○ンドルを書き上げた私に言わせればスズメの涙を通り越してミジンコの涙の如きものであり、
        長文などと呼ぶのは片腹痛いわけですが、140文字の投稿が文庫本だとすれば、この時点ですでに資本論級ですね。
        如何に重大な情報が書かれているとは言え、大切なあなたに読破せよと鞭打てるでしょうか? いや打てない。
        
        というわけで、お話したいことはたくさんありますが、
        また日を改めて(生きてれば)カキコしたいと思います。
        ゲームがエターナるのが先か? 私の命がエターナるのが先か? 今後の展開に目が離せなくなって参りましたよ。
        140文字の世界では多分カキコしないと思われる内容満載でお届けしますのでお楽しみに〜。
        ん?「カキコ」は掲示板が対象の場合の単語でしたっけ? 「掲示板」ともども、もはや古文。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        



◆ 2021/02/07
    したこと:
        動画を作ってみた
        
        
        これまで、ゲームを作って宣伝するなどしてきたわけですが、
        当初思い浮かべていた類のことは大体一通りやり尽くしたかな、という感じです。
        
        さて、これからどうしようかな。死のうかな。
        何か思い残したことはないかな?
        死ぬ前に一度でいいから自殺したいものですね〜。
        とかなんとか。
        
        というわけで動画を作るということにチャレンジなどしておりました。
        
        動画と言っても、コミPo!で作成したキャラに、口パクなどのアニメーションをつけて、
        合成音声でテキストを読み上げたものを被せるなどした簡素なものです。
        
        目的としては、何かを伝えようと思った場合に、
        
        ・大長編のノベルゲームを作っても、なかなか読んでもらえない
        ・Twitterで140文字の文章をちまちま投稿してても埒があかない
        ・個人ホムペに文章を載せても、これまた、読んでもらいにくい
        
        で、
        
        動画の形式にすれば見てもらいやすさがアップするのでは?
        
        という天才の私ならではの超画期的な思いつきです。
        これなら140文字の壁を越えることも赤子の手をひねるようなもの。虐待はダメ。
        
        作りたいゲームの案はあり、それはそれで進めていきたい心づもりはあるものの、
        表現手段としては、必ずしもゲームにこだわる必要はなく、
        また、何をするにせよ、現状、人々にリーチする手段が弱すぎるという状況は否めず、
        漠然と同じことを繰り返しててもドウニモナラナイ感がある。
        
        そんなわけでさっそく得意のITスキルに物を言わせていくつか動画を作ってみた次第(↓など)。
     
ただ、今のところ、思ったよりは評判というか手応えというかは、芳しくないかな〜、という感じですね。 やはり、単にキャラクターが喋ってる風な動画形式にしさえすれば注目度が月まで急上昇! というのはほんの少しだけスイートな見通しだったと言わざるを得ないかなというところではあります。 反省点というか、気がかりな点はいくつかあります。 ・音声が聞きづらくないか?(速度、鼓膜へのキンキンぶり) ・字幕が見づらくないか?(フォントの見た目、音声とのタイミング) あと、初めて作ってみたやつがですね、たまたまそのときプレイしていたゲームがあったので、 それのプレイ動画として作ってみたんですが、 動画スキルが下手くそな段階でプレイ動画にしてしまうのは、作品に対して失礼だったかなと反省。 当面は、あくまで「私」関連の範囲内にとどめておこうと思います。 (あっ、でもマインドルはどんなふうに動画作ってくれても特大歓迎ですよ〜) 字幕は、そもそも合成音声を使う時点で必須だろうとは思い、持ち前の慈悲深さを発揮してフルで付けてます。 ただ、実際自分で作ってみると、字幕の付け方1つとっても、単純ではないですね。 読み上げている音声のうち、どれぐらいの分量を表示するか? 音声に対して、どういうタイミングで表示するか?(消すか? 切り替えるか?) 何気なくYouTubeなど見てると、みなさん、いい感じに字幕つけてらっしゃいますけど、 なにかノウハウがあるんでしょうね。 「この動画の字幕は見づれぇな〜」って思うことがあんまりない(たまにはある)。 翻って自分で作ったものを見直すと、何度字幕を付け直しても、どうも所々、ひっかりを感じる箇所を潰し切れない。 音声に対する、タイミング、と、分量。 実はそのへんをうまくやってくれるソフトがあったりするのかな? つまり、そういう初歩以前のことをも含めて、動画作成に関する知識不足を痛感する次第。 出来上がったモノを自分で見る限りでは、 そう出来が悪いってこともないんじゃないの? 我天才! と思わざるを得ないわけですが、 自分ではそこそこイケてるんじゃね? と思ってても何かトンデモナイ勘違いをしているのでは……?! そう思うと心臓のドキドキが止まりません。いや止まったら死にますけど。とかなんとか。 実際、見る人にどういう印象を与えちゃってるのかというのは気がかりなところです。 それを言い出すとゲームでも何でも同じなのではありますが。 あと、そもそもツイッターに投稿しているという時点で、何か根本的に間違えている気がしないでもない。 動画にすれば140文字を限界突破できるぜ! ヒャッハー! と油断してたら、 動画の長さ制限(140秒)も超えてしまう長文になるというお馴染みの同じ道を辿りつつ。 で、せっかくそれなりに手間をかけて動画にしたのに、 普通に文字で投稿するよりリアクションが芳しくないというのでは、一体何をやってるのか分かりません。 そもそもプラットフォームの性質面から考察するに、 ツイッターの場合、「140文字で構成された文字の塊」という視覚情報が、見た瞬間に認識されるのに対し、 動画にしてしまうと、一定時間、動画を視聴しなければならないという「縛り」が生じる。 ツイッターを見ている人の「心づもり」としては、 TLに流れてくる特定の動画の前で足を止めて視聴する……というのは、あまり、「らしからぬ」ことで、 そうこうするうちに次々に流れてくる別のツイートに目移りしてしまうのではないか……? そもそも「動画を視聴するプラットフォーム」ではない、という現実はあろうかと思います。 普段から絡みのある人は見てくれないこともない感じですが、 それ以外の人たちにとっては、わざわざ時間をかけてまで見る気にはなれないかな、という予感はします。 YouTubeの場合、難しい内容を、動画で(音声で)表現してくれてるから価値があるのであって、 Twitterという、元々読みやすい短文が溢れている中に、中途半端な動画があっても、お呼びじゃない、 というのはあるかもしれず。 動画でやろう、というのであれば、やはり動画専用のプラットフォームを利用するのがベターですかね。 なにより、そこにアクセスしている人が「動画を視聴する心づもり」になっている、というのは大きいと思われます。 しかし、YouTubeはTwitterよりも他のどこよりも修羅の国という感じがするので、 あんまり積極的に参戦したいという気にはなりづらくもあり。 今、「参戦」という言葉を使いました。 別にこちらにそのつもりがなくても、「戦場」のような様相を呈していて、 その場所に参加する=他の人との競争に加わることとになってしまう感がある。 そういうのは嫌だなぁ。 それはどのプラットフォームでも同じで、「見てもらう」という目的に沿っていくなら、 利用者が一番多いであろう場所を選ぶのが最善と言えそうではあります。 別に他の人に「勝つ」必要なんて全くないんですけどね。 ツイッターに投稿するよりは確実に見てもらえる率が上がるだろうとは思われる。 YouTuberとして有名になってウハウハ!みたいなことが目的なわけでは全くないのですが、 ちょっと、YouTube自体にそういう射幸心を煽るイメージが付き過ぎてる感があり、混ざりづらさは否めません。 そもそも、現段階であんまり手応えが芳しくない事も、 公開の場を拡大することに躊躇いを覚える理由としては大きいですね。 Twitterが動画に適したプラットフォームじゃない可能性はあるにせよ、 そこでうまくいってないものを、別の場所へ持っていけばうまくいくだろう……、 などと言うのも、これまたスイートなドリームなわけでありまして。 と同時に、思い切ってやってしまいたいという願望もあったりなかったり。 ただ実際、技術的なことに加え、 今後も継続して動画を作っていくのかどうか、ということも含めて、 見通しが固まってないところはありますので、 迂闊に突っ走らず、もうちょっと様子を見ながら動いていこうかなという感じです。 今日もあなたが幸せでありますように〜。