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◆◆ TEXT ◆◆

◆ 2017/12/04
    思ったこと:

        拡声器騒音は生活をつまらないものに変えてしまう ~「意志ある個人」の不在~
	    
	        たとえばDVDを観ていて気分が盛り上がっているところで外から拡声器騒音が飛び込んできたら台無しです。
	    
	        でも拡声器騒音というのは「世間的には正しい」ものだから文句を言うことができません。
	        防災無線であれ火の用心であれ救急車であれ、それらは「正しい」ものであり「必要な」ものだから
	        文句を言うことは許されない。「我慢」しなければ「ならない」。
	    
	        それに対して部屋でDVDを観て気分が盛り上がっているというのは「世間的」には「取るに足らない」ことです。
	        せっかく盛り上がっていいところだったのを台無しにされてイヤ〜な気分になったとしても、
	        「そんなものなんか」よりも防災無線や火の用心や救急車やの方が「大事」なのであり、
	        私「なんか」の「個人的な楽しみ」「なんか」のために「ガタガタ言う」ことなど「世間的」には絶対に認められません。
	    
	        さて、このように騒音というのは不愉快なものです。
	        その不愉快さの特質は「つまらない」という点にあります。
	        ただただ有無を言わさず我慢を強いられる。
	        「正解」は決まっており、選択の余地も展開の余地もありません。
	        ドラマ性というものとは無縁です。
	        「私の心」というものが「有無を言わさず」否定される。
	    
	        いわゆる「悪」というものはこの世に様々な形で存在します。
	        一口に「悪」と言っても「面白い悪」と「つまらない悪」があります。
	        騒音は「つまらない悪」です。
	        悪としてつまらないというのではなく、つまらなさのゆえに悪と言うことです。
	        物事をつまらないものに変えてしまうという意味で悪ということです。
	    
	        「面白い悪」というのは例えばアニメや映画の「悪役」になり得るような悪のことです。
	        悪は悪でも、そこにはドラマ性がある。
	        悪は悪でも、観るものを感動させる性質がある。
	        悪は悪でも、心にエネルギーを与える性質がある。
	    
	        「悪 "役"」と言いました。つまり特定のキャラクターという「個人」が悪として魅力的である、ということです。
	        そこには人間がいる。
	        それこそがドラマ性の軸であり、感動の理由であり、心のエネルギーの素になるのです。
	    
	        しかし拡声器騒音のような種類の「悪」にはそれがありません。
	        そこには悪役の「役」たる個人がいません。
	        防災無線にせよ火の用心にせよ救急車にせよ、それを「自分の意志で鳴らしている個人」が存在しません。
	        もちろん、物理的な現象としては誰かが「担当者」として音を出しているに決まっているのですが、
	        それはその人個人の意志ではありません。
	        何らかの「名目」に従って「お役目」を代行する「担当係」がいるのみです。
	        「この俺様がこの俺様の意志で鳴らすのだ! たとえこの命が燃え尽きようとも!」という「意志を持った個人」がいません。
	    
	        そうした騒音を擁護する人々も同じです。
	        「だって必要だろうが!」「それぐらいでガタガタ言うな!」「神経質なやつめ!」という「常識」を「代行する声」があるばかりです。
	        「この俺様がこの俺様の意志でこの音を守り抜く! たとえ世界中を敵に回そうとも!」という「意志を持った個人」が存在しません。
	    
	        単に存在しないというのではなく、そうした個人の存在を許さず、巧妙に消し去ってしまう。
	        人間を分別の中に閉じ込め、人生から生き生きとした光を奪ってしまう。
	        「騒音」とは、そういう種類のおそるべき「悪」です。
	    
	    
	    

	        > 「騒音」とは、そういう種類のおそるべき「悪」です。
	    
	        ここでいう「騒音」というのは単なる「音」そのものというよりは、
	        音を出す名目、その名目に従って動く人々、そして誰かに我慢を強いる、
	        という社会的なプロセス全体を指しています。
	        そうしたプロセス全体が「悪」である、ということです。
	        したがって、たとえば、音そのものを指して
	        「何デシベル以上はダメだがそれ以下なら文句を言う方がおかしい」といった線引きは
	        まったく本質を逸れた議論であるということです。
	        本質を逸れているのみならず、そうした議論自体が悪の一部と言わねばなりません。
	        問題の本質は「個人というものを抹消しようとする精神動向」です。
	        
	        





◆ 2017/12/01
    したこと:
        マインドルの立ち絵作成
        
        
        ブレザーと言えば着衣の乱れです。
        
        
        
        説明しよう。
        ブレザーとは! 着崩すことによって着用者の潜在能力を限界を超えて解き放つのだ!

        
        
        
        うむ。着衣が乱れてるとなんか強そうですよね、ブレザー。
        もちろんコミPo!に着衣を乱れさせる機能があるわけではないのでGIMPでがんばってます。
        あ、乱れてるように見えますよね? 着衣。あんまりジロジロ見てはいけません。2つの意味で。
        
        今まではブレザーを着せるときにビジネススーツのブレザーの輪郭をGIMPで変形させて体型に合わせていたのですが、
        それだと精神的にも肉体的にも非常に疲れる上に仕上がりがどうしても雑になるので、
        今回は夏服の上にブレザーの模様を乗せていく、というレシピでやってみました。
        
        
        
        仕上がりが雑でないかどうかはさておき、この方が省エネで量産できます。
        
        
        
        うむ。完璧です。
        ちなみに左右反転のとき、前ボタンの「合わせ」って言うの? それを手作業で直しているのですよ? 
        ジロジロ見てはいけませんが気付いて欲しい。そして感動して欲しい。
        
        
        それにしても体操服のデフォルトはどうしてここまで体型が変化してしまうのでしょうね。
        
        
        
        「その服装に合わせた体型」になっているともあんまり思えません。
        プロポーションが奇妙じゃないですか? 中がどうなっているのか見てみたいところです。おっとセクハラセクハラ。
        
        こちらも夏服を基準にして模様を書き込んでいくレシピ。
        ブレザーよりは単純なので楽です。ボタンがないので左右反転も気楽です。

        
        
        
        これにて今回のこの人の分は完了です。完了かな? あ、試合シーンの中で追加で必要になるのかもしれない。
        ともかく一応大体完了です。着崩れブレザーは後回しにしようかとも思っていたのですが、そこそこうまくできて何よりです。
        
        さて次はどうしようかな。
        まだデザイン自体が決まってない人もいるのが気になるところなのですが、
        ともかく決まってるところから埋めていこうかな。

        あとどれぐらい作業あるのかな? 立ち絵。
        なんだかんだと半分ぐらいは終わってるのかな? そんなに進んでないかな? どうだろう。細かいのがいろいろあるからなぁ。
        ともかくさっさと進行させるしかありません。
        
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        

◆ 2017/11/12
    したこと:
        マインドルの立ち絵作成
        
        さぁ、どんどんいくよ!
        
        というほどハカドッっているわけでもないのですが、
        ともかく作業は進んでおりますよ。
        
        
        
        なかなかいい感じだと思いませんか? 思いますよね? 思いましょう。
        特に手首を見せないために背中に回した腕が自然な感じで素晴らしいと思いませんか? 思いますよね? 思いましょう。
        
        ところでコミPo!と言えば髪型の選択肢の少なさで有名です。
        ことに女性キャラの長髪タイプの少なさときたら2種類しかないという大胆な仕様。
        あとは色とエクステで変化をつけなさいってことなのかな?
        
        エクステというか、ツインテールのテールの部分ですね。それを別パーツとしてくっつけることができるようになっているのです。
        基礎の髪型は少ないけど、テールと組み合わせるとバリエーションはそれなりに増えます。バリエーション自体は。
        
        ええ、だからネットで「コミPo!で遊んでみました」みたいなページを見ると、
        バスクリンみたいな色の髪に死神の武器みたいな巨大なツインテールがついてたりしますよね。ザ・コミPo!という感じの。
        ああいう感じになりがちなわけですよ結局。

        単発で遊ぶならそれでいいとして、まともに多数のキャラが出てくる中で全員そんな感じにするのはデンジャラス祭りです。
        というわけで上記のSSの人、元の髪側を少しだけGIMPでいじってます。
        
        
        
        前髪のついでにまぶたの近辺もすっきりと。同色の筆で横一直線というお手軽さで、ほらこんなに。

        
        
        かけた手間は少なめですが、思いがけず良い具合になってくれて喜ばしい限りです。
        なんというか、地味な中にも清楚さが漂うというか、
        見つめていると胸が爽やかな高鳴りを奏で始めるようです。思わず交際を申し込まざるを得ない。
        でもこの人のルートはないんですけどね。
        
        というわけで、メインどころの方たちは後回しにして、
        サブどころの方たちから先に埋めていく方針で進めております。
        まだコミPo!の操作に慣れておらずポテンシャルを引き出し切れてない部分もあるだろうから、練習台になってもらいつつ。
        
        ちなみにこんな感じでガンバッているのですよ↓ 感動せざるを得ませんね。
        こうして見るとすごいガンバッてる感じがするなぁ。と見せかけてやっぱり本当にガンバッてるんですけどね。私エライ。
        あ、これはコミPo!じゃなくてGIMP上で表情を加工している様子です。
        
        
        コミPo!単体でも表情は変えられるのですが、個々のパーツを個別には変えられなくて、
        最初から組み合わせが固定されてるのですよ。
        なので例えば「目はこれがいいけど、口はこっちにしたい……」みたいなことが発生する。そりゃ発生しますって。
        なのでコミPo!に入ってる顔を一通り画像出力して、GIMP上でパーツの組み換えをするのです。
        あらゆるソリューションを駆使してゴールを目指せ。
        せめてもの救いとしてコミPo!上の選択肢の中に「ノッペラボー」があるので、こういうときには便利……というか、それってつまり、
        「細かいことをしたければ……わかるでしょ?」ってことなのでしょうか? 聴こえないはずの声が聴こえてくるようです。

        
        
        さて、次は上記のSSの人の体操服バージョンとブレザーバージョンです。
        体操服とブレザーかぁ。どっちもGIMPでがんばらないとイケないやつです。
        ちなみに今回、夏服を先にやったのは基礎ポーズを出揃わせるのが目的です。夏服はコミPo!の出力のままでイケますからね。
        つまり予定通りに作業が進んでいるというわけです。よーし。
        一日も早く完成品をあなたの元へ届けたい。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        

◆ 2017/11/06
    したこと:
        マインドルの立ち絵作成
        
        よーし、快調快調。
        
        
        
        手首の件ですが、案外、腕をまっすぐにして両手をグーにしてしまえば気にならないかもしれない。
        うん。そういうことにしよう。
        
        ともかく、楽をしながら突っ走るのです。
        
        そんなわけで、可能な限り手間を省いて作業を進めていこうと思っているのですが、
        今回も結局GIMPで頑張ってしまいました。
        
        この人、上のSSでは半袖ですが、元は長袖です。
        
        
        
        お話の中では季節は夏です。
        夏でも長袖を着る人はいますが、この人は夏には半袖を着る人です。このままではいけない。
        しかしコミPo!って、半袖のバリエーションが制服系と体操服系しかない。普段着の夏バージョンが見当たらない。
        体操服系の中に普段着っぽいのもあるけれど、
        知っての通り、コミPo!の体操服は着ると体型が伸び縮みしてしまう魔法の体操服なのでNG。
        したがって、制服の夏服から、腕の部分をコピペです。
        
        
        
        腕がまっすぐのポーズはまだしも、腕組みされると結構めんどくさい。
        あれ? 腕はまっすぐで両手をグーなんじゃなかったでしたっけ?
        いやいや、たまには腕組みしたいときだってありますよ。

        ちなみにズボンの色もちょっと変えてるって気付きました? 気付いて〜。
        何のためかと言うと、元の色だとテキスト欄を重ねたとき、裸っぽく見えるような気がしたからです。
        
        
        
        気のせいですか? しかし、なにしろ股間凝視ゲーですからね。油断大敵ってやつです。
        
        
        という感じで、今回も結局なんだかんだと頑張ってしまったわけです。
        それもこれもあなたを愛するがゆえです。
        しかし作業を遅らせるわけにもいきません。それもまたあなたを愛するがゆえ。
        どちらかを取るなんてできません。愛が私を左右に引き裂くのです。ビリビリ。
        
        
        ところであとどれぐらいあるのかな?
        どうしてもコミPo!だけでは実現が難しそうな服装なんかもあるんでしたよね? 浴衣とか。
        いっそ夏祭りには普段着で行ってもらおうかな? いやいや、そこは曲げません。曲げませんとも。
        ブレザーができたんだから、できないことはないはず。
        なんかうまい手がないかなーと考えつつ、ともかく、できるところから埋めていこう。話はそれからだ。
        
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        

◆ 2017/11/04
    したこと:
        マインドルの立ち絵作成
        
        お久しぶりです。
        本格的にお金が無くなってきたので、現金を得るための活動をしていました。たとえば泥棒とか。

        いやー、死ぬかと思いました。実は死んでいるのかもしれません。だといいなぁ。だといいなぁ。
       
        問題は解決したわけではないのですが、
        本来やるべきことをこれ以上放置しておくわけにはいかないのでボチボチ再開です。
        ワラジは何足履いたっていい。ムカデに学ぶ人生の極意。
        と思ったらムカデは裸足。むむ、奥が深い。いや別に深くないですから。
        
        
        
        さて、
        「手首がテキスト欄の裏側に表示されて気になる」
        という大問題が浮上していたのでした。
        
        いろいろ考えてはみたのですけど、そもそもそんなに選択肢が豊富ってわけではないのですよね。
        
        

        後ろ手に組んでると何かを隠し持ってるみたいだ。
        
        
        
        ずっと腕組みしっぱなしってのはどうなのでしょう? それはそれでいいのかな?
        
        
        
        このぐらいが自然っぽい気がする。
        ・奥側の手 → 少し斜めに立った胴体の裏に隠れる
        ・手前の手 → 腰に当ててごまかす
        
        
        
        こんなもんかなぁ。
        気になると言えば気になる。気にならないと言えば気にならない。空を飛べると言えば飛べる。魔法の世界。

        しかし他のキャラはどうしましょう? 
        この人は「なんかこういう感じの人」だからこのポーズでいいとして。
        
        もう全キャラこのポーズで固定にしようかな。
        いや実際、「ともかく全キャラ分の画像が埋まってる状態」に到達することを優先したい気はします。
        
        あるいは、いっそ、手首の問題については開き直るのもアリかもしれません。
        私以外の人はそんなに気にならないかもしれないし、
        気になるなら気になるで、もう「手首が気になるゲーム」ってことでいいじゃん。え? いいの?
        
        しかし実際、プレイ中にもっとも長時間見ているのはテキスト欄のはずなのですよね。
        結局その位置(の裏側)に何が表示されているかというと、キャラクターの股間なわけです。
        いずれにせよ「股間凝視ゲー」となる運命は避けられない。テキストなんて読んでる場合じゃないぜ! 
        
        
        
        根本的にレイアウトを間違えているのかなぁ。
        「大体こんなもんでしょ?」と見せかけて、
        私の知らないところで数多くの「お約束」が取り決められているに違いありません。このやろ〜。
        
        いや、深く考えても正解は出ません。
        最悪、「レイアウトに失敗してる典型例」になったとしても別にいいじゃない。
        どうせ「コミPo!で間に合わせてる」ことに変わりはない。ここはエネルギーを消耗すべき場所ではありません。
        あんまり凝らずに省エネ戦略で突っ走ろう。コミPo!使ってるんだから楽をしなくてどうするんですか。手を抜いてこそ華。

        「ともかく全キャラ分埋める」

        話はそれからだぜ!
        
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        
        
        
        
        

◆ 2017/08/30
    しているはずのこと:
        マインドルの立ち絵作成
        
        
        絶対に……絶対に完成させる!
        
        

◆ 2017/07/25
    したこと:
        マインドルの立ち絵作成
        
        服を替えると体型まで変わってしまうというコミぽ学園のミステリー。
        まるで人が変わったようです。
        
        
        
        
        
        普通に立ってるだけなら目立たないかなー、とも思ったんですけど、
        ちょっと腕組みをしてみるとこの通り。ビームでも出すのかな?
        
        
        
        つまり腕が短いわけですよ。
        体操服を着ると腕が短くなる。コミぽ学園では一体どんな教育をしているというのでしょう?
        親御さんはこの教育方針のことを一体どう思っているのか聞いてみたいところです。
        
        
        ともかく今日もGIMPの出番。張り切って参りましょう。
        
        
        
        制服の「白」を元にして、体操服っぽい模様を描き込むことにします。と言っても袖の先と襟だけですね。
        下半身のプロポーションはほぼ同じなので、そこはコピペする。
        というか今思ったのですけど、この白制服、まさか改造用の下地として入ってるのでしょうか?
        このまま普通に制服として使うのはちょっと無理がある感じですが、改造前提なら汎用性は高そうです。
        しかし制服の改造が前提だなんて、コミぽ学園は不良学園ですね。
        
        
        
        
        
        
        よし。完璧。完璧ったら完璧。
        さぁ、校舎の窓ガラスを割りにいこう!
        ちなみに見ての通り、髪型にも少し改造をほどこしております。
        
        
        
        しかし面倒くさいな。
        コミPo!を使うともっと楽ができる予定だったのですけども。
        
        前回のブレザーのときは、元がビジネススーツだから、
        学園内とは空間の歪み方が違うのも致し方ないかな、と思わないでもなかったですが、
        体育の時間になるたびに腕が伸び縮みするなんて成長期にも程がある。
        
        それと、そもそも制服の選択肢にブレザーがありませんでしたからね。
        だからサイズが合わないのも諦めをつけやすいところではあります。
        しかし体操服はもともとあった。なのに、なぜ体型が変化するという制限があるのでしょう?
        学園シリーズ内の服装なのに、というのも理不尽感に拍車のかかるところです。
        
        なんだろうな。このモヤモヤ感。
        コミPo!に限らず、何らかのツールに依存する以上、そのツールの仕様から制限を受けるのは受け入れざるを得ないとは思うのですよ。
        しかし、納得できる制限と、納得できない制限というものがある。
        
        納得できる制限というのは、たとえば、
        コミPo!を使うと「髪型の選択肢が少ない」とか、「Linuxがサポート対象外」とか、そういうのです。
        しかし、「服を替えると体型が変化する」というのは意味がわかりません。
        そう。意味がわからない。
        なぜそんな校則が必要なのか?
        校則が意味不明というのは昔からの伝統ですが、そんなことまでツールに取り入れなくてもいいのに。
        コミPo!を作った人はよほど愉快な学園生活を送ってきたに違いありません。
        
        そして今夜も「そうそう、校則って理不尽だったよね〜」とか言いながらGIMPと格闘しつつ、
        気がつくと窓の外が明るくなっているのであります。
        
        
        
        
        ところで、表示確認をしていて、ふと思ったのですが……。
        
        
        
        手首、気になりません?
        ちょうどテキスト欄の裏側の位置にキャラクターの手首がある。
        ……気になりません?
        
        実際のプレイ中、もっとも長時間見ているのはテキスト欄だと思うのですよ。
        ちょうどその位置に手首がある。
        ……これはひょっとして、「気が散る」のではないか???

        手首って体のパーツの中でも特に存在感があると思うのですよ。
        それ自体で表情を語ってしまう。何気なく見えているだけでも何かを主張してしまう。
        
        最初は手首の位置なんてまるっきり考えもしませんでしたが、
        一度気になり出すと止まりません。
        
        
        そう思って手元にあるこれ系のソフトを動かして、確認してみたのですよ。
        すると、どのソフトでも、手首が画面の外側にハミ出ているか、
        あるいは背中側に組んでいたり、胸の前で組んでいたりする。

        まさか。
        
        まさか、これ系のソフトの立ち絵って、
        「手首がテキスト欄に重ならないようにする」、というお約束があったりするのでしょうか???
        
        そう思ってネットで検索してみました。
        しかし、そんな話は出てきません。
        エ○ゲの表現技法について熱く語っているブログや掲示板を渡り歩いてみましたが、
        そんな話は一言も見つかりません。
        
        検索しているとSSも出てきます。
        中には手首がテキスト欄に重なっているものもありましたが、
        やはり大抵は何かポーズを取っていて、手首がテキスト欄の外側に位置するようになっている。
        しかしそれが製作上の約束事である、というような話はただの一言も出てきません。
        単なる偶然なのかどうなのか?
        
        不安になってきました。
        
        一言も出てこないということは、そんなお約束はない、ということなのか?
        それとも、敢えて言うまでもないほど当たり前すぎることなのか?
        
        絵にも「文法」があると思うのですよ。
        「こういう場合はこういうふうにするもんだ」みたいな。
        
        しかし、私は絵がまったく描けませんからね。
        絵がまったく描けないということは、そういうお約束事もまったく知らないということです。
        
        コミPo!を使ってそれなりの絵を生成してはいますが、根本的にド素人であることに変わりはありません。
        ド素人の私は何も気付かずに重大なミスを犯しているのではないか???
        たとえて言うなら、Visual Studioのマルチスレッド(/MT)のような、
        誰も教えてくれない「お約束」を踏み外しているのではないか???
        不安で胸が張り裂けそうです。ビリビリ。
        
        
        さしあたり、既に作ってしまった分については放置しつつ、
        今後は手首の位置を意識して基本ポーズを考えていこうと思います。
        全員バンザイじゃダメかな?
        
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        
        


◆ 2017/07/11
    したこと:
        マインドルの立ち絵作成・とっかかり
        
        コミPo!は素晴らしいソリューションですが、
        適当に使うとどうしても「あ、コミぽ学園の方ですね」という感じになってしまいますね。
  
       
  
      
       そこでGIMPの出番。
        
        ↓
        
        
        
        少しは出身をごまかせる感じになったでしょうか。
        いや別にごまかさなくてもいいんですけどね。ただ、せめてメインどころの方たちだけでも変化をつけておきたい。
        
        ちなみに「あ、コミぽ学園の方ですね」ならまだしも、
        「あ、情報商材のセールスの方ですね」と言われてしまったらどうしましょう。私もうお嫁にいけない。
        
        
        出身といえば制服。
        コミPo!学園は女子の制服にブレザーの選択肢がないというのはこの業界では有名な話です。
        
        しかし別売りのビジネススーツシリーズの中にブレザーがある。商売上手ですね。
        
        
        
        服が上下セットでしか選べないのでスカートがもれなくタイトスカートになってしまいますが、
        この程度はGIMPでコピペすれば……、
        
        と思ったのですが、何かがおかしい。服以外は同じはずなのに合わない。
        なぜなのか?
        
        
        
        なんと、体型が違う!
        
        単に縮尺が違うというレベルではなく、プロポーションが違うではありませんか。
        どうやらコミPo!の仕様として、服のシリーズを変更すると素体の形まで変化してしまう模様。
        ちなみに同じことは「体操服」でも起きていました。
        
        
        
        体操服にすると幼児体型になるだなんて。なるだなんて! なるだなんて!!!!!
        では逆にビジネススーツなら「大人っぽく」なっているのかと言えば、そうでもない。
        さきほどの画像をご覧ください。出るところが引っ込んでいるではありませんか。
        一体どういう了見なのでしょう? このようなこと、断じて許すわけにはいきません。
        
        しかしこの程度のこと、GIMPの手にかかれば造作もないことです。
        
        ↓
        ↓ (地道な手作業)
        ↓
        
        
        
        完璧です。
        決してジロジロ見てはいけません。
        
        
        
        
        特定の人だけショールを羽織ってるって聞いてたんですが本当なんですか?
        
        ちなみにこのショール、テクスチャ以外は手描きです。
        たったこれだけなのに、死ぬほど苦労しました。
        しかし本文の方のショールを着てるという設定を消すという発想は1ミリも思い浮かばんのです。ならばやるしかない。
        ちなみに発想の単位ってミリなんですか?
        それはさておき、手元のマンガの中から似たような絵を探して一生懸命マネするのですが、全然それらしくなってくれない。
        絵が描ける人ってすごいですね。
        
        テクスチャがついてるから一応それなりにごまかせたことにしていますが、
        線だけだと、いかにもマジックで書き加えましたという感じです。
        
        
        
        とにかく線が引けない。
        なるほど。絵が描けないというのはそういうことなのですね。
        だからブレザーも後ろ髪の切り口も決してジロジロ見てはいけませんよ?
        
        
        しかし、そうまでしてブレザーにしないといけないのでしょうか?
        いけないのです。なんとしてもブレザーでなければいけないのです。
        
        
        ともかく、制服とお顔が決まったからには、あとは突っ走るのみ。
        
        さしあたり、この緑髪の人の冬服バージョンが一通りできました。
        
		
        
        完璧ですね。
        非の打ち所が1ドットもありません。
        
        ちなみに動画中の背景はお馴染みのきまぐれアフター学園です。いつもありがとうございます。
        こうして絵が入ると一段とそれっぽく見えてきますね。
        それというのもコミPo!やGIMPや素材屋さんのみなさんや私のおかげです。本当にありがたい限りです。
        
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        

◆ 2017/06/01
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第14話が完了。
        
        できたぜ。
        これでスクリプトに関しては一応、全ルート全話が完了。
        いやぁ、感慨深い。
        
        しかし感慨深いような工程になるというのは予定外だったのですよね。
        本文が完了したのっていつでしたっけ? 半年ぐらい前なんじゃないですか? 気が遠くなります。
        スクリプトなんて本文をちょろっとコピペしてエイヤっと気合をかければドロンッとできあがるはずだった。
        ところがいつまでたってもドロンのドの字も起きないまま、
        エイヤエイヤと言い続けて、ついにここまで来てしまった。
        千里の道を一歩ずつ歩いてしまった。
        
        やり始めの頃、こんなペースじゃ半年ぐらいかかってしまうぞ? どうにかしなければ!
        と思ったものですが、結局本当に半年ぐらいかけてここまで来てしまった。
        いやぁ、感慨深い。
        
        あとはどうやって地球を逆回転させて元の位置に戻すか、ですね。
        エイヤっと気合をかければドロンッと元の位置に戻ってくれることでしょう。問題ない。
        言っておきますが、私が半年かけたのではなく、地球が勝手に太陽のまわりを半分回ったんです。
        まったく勝手なことをしてくれるものです。これだから最近の地球ってやつは。
        
        と、いうふうにですね、思うところはですね、なにかとですね、あるのですけどね、
        ともかくできたのですから、まずはそこを感慨深がっておこうではありませんか。
        そうですね。スクリプトのエンジンとして、大きなバグもなく、想定通りに動いてくれました。よいことです。
        それというのも、ひとえにこの私のプログラミングテクニックの優秀さのおかげです。
        ありがたいことです。私は私に足を向けて寝られません。ヨガー。
        
        さて。
        これからどうしようかな? 死のうかな?
        終わったぜ! という感覚と、まだ終わってないぜ! という感覚が同居しています。家賃を折半しています。

        どういうことか?

        終わったぜ! というのは、そりゃあ千里の道を歩いた直後ですからね。
        一酸化炭素を腹一杯吸い込んで一休みしたくもなるというものです。
        まだ終わってないぜ! の中身は何でしょう?
        今までやってきたのは物量的な作業ですからね、その間、ずっと後回しにしてきたものがある。
        ついにそれが終わった今、後回しにしてきた作業に向き合うときがきたということです。血がたぎる。
        ところで今思ったんですけど、「たぎる」って「血」にしか使いませんよね?
        血以外のものをたぎらせてはいけないのでしょうか? 皿とか。
        お風呂をたぎらせる。あ、言いますね。言いますね。「煮えたぎる」ってやつです。
        よし。血以外のものもたぎらせてよいということがわかった。皿だってたぎっていい。

        それで物量的な作業が完了した今、どのような作業に向かうことが可能となったか?
        主に2つです。
        立ち絵。試合の思考処理。
        どっちも楽しそう。じゅるじゅる。うっ、よだれが。
        まとめて食べてしまいたいのはヤマヤマですが、ひとつずつ片付けていきましょう。
        よーし、じゃあ先に立ち絵だ。
        なぜか?
        立ち絵が入ると、ぱっと見の完成度が跳ね上がるであろうから、です。
        このページにスクリーンショットだって載せられるかもしれない。ワクワクさんのお通りだ。

        作業全体の方針として、ともかく「一応できあがり」の状態になるように急ぎたいと思っております。
        細かいことを言い出すとキリがありませんが、最低限、私以外の人が触っても一通り「見れる」状態にしたい。

        思考処理の方は一応、現状でも動いてないわけではなくて、それでどうしてもダメというわけではないですからね。
        大体こんなもん、と言い張れば言い張れないこともない。
        
        それに対して立ち絵の方は現状ハリボテです。縦長の白い楕円形にキャラ名が書いてある。
        このままでは、人に見せる前に催眠術をかけておかねばならない。
        これは美少女だ、これは美少女だ、これは美少女だ……わお! 美少女だ! ドキーン!
        いや、漫画的な絵を見てそれを何らかの人物であると受け取るのも、広い意味で催眠術のようなものなのかもしれません。
        きっと昔のエジプトの人はピラミッドの壁に描いてあるような、あの横向きの人物画を見て萌えていたのでしょう。
        現代の我々の文化では、大変悲しいことですが、白い楕円形にキャラ名が書いてあるだけでは催眠術にかかってくれないのでした。
        しかし我々の文明にはコミPo!とGIMPというイノベーティブなソリューションがあるのだ。皿がたぎるぜ。
        
        それはさておき、まだ一酸化炭素を吸い足りない。
        少なくとも血と皿を正確に使い分けることができてしまう程度には吸い足りない。
        今なら手首を切っても皿が出る心配はない。
        しかし千里の道を歩いた直後だというのに、こんなものではまだまだ全然足りません。
        もっとだ! もっと一酸化炭素を持ってこい!
        一時はカフェインを飲めば飲むほど眠くなるというオシャレな逆転現象が訪れていたというのに、
        さっきお茶を飲んだらバキーンと目が覚めてしまいました。イジワル! てめぇの皿は何色だ!
        
        どうしようかな。
        死にたいのはヤマヤマですが、死んだらこの作業ができなくなってしまいますからね。それは困る。
        肉体があるのはなぜかと言えば、この作業をするためにあるのでした。
        つまりどういうことかと言うと、あなたの幸せを願っている、ということです。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        
        
        

◆ 2017/05/24
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第13話が完了。
        
        よっしゃあああああ! できたぁぁぁぁぁ!!!
        長かった。
        しかも特殊な処理を要する箇所が複数あって、エンジン自体の機能を拡張したりもしました。
        久々にプログラミングをしましたよ。
        楽しすぎて耳からエンドルフィンが噴き出すかと思いました。左右にびゅーっとね。
        でも耳栓を常用しているのでそのような厄災は阻止されるのです。すごいぞ耳栓!
        
        ところでですねぇ、お話の内容のことなのですけど、
        何なんですか、これ? 死ぬほど面白いじゃないですか!
        いくら死んでも死に足りないほど面白い。
        もう、耳からエンドルフィンなんて騒ぎじゃないですよ。
        体中の穴という穴から古今東西のありとあらゆる物質が際限なく噴出します。
        森林資源がいくらあっても追いつかない。
        
        作業の工程で言うと、まず最初に本文を読み返す。その段階で大興奮。
        スクリプトを入力し終えて、デバッグのために実際に動かして読む。ここでさらに大興奮!
        私の場合はこうして段階を踏んでいるのでなんとか生き長らえておりますが、
        グラフィックとBGMのついた完成版をイキナリ目にするみなさんは一体どうなってしまうのでしょう?
        あなたの身の安全が懸念されます。
        世界の森林資源に及ぼす影響も懸念されます。
        いっそジャングルの中で読んではどうか?
        でもジャングルの中ではパソコンが使えないのでした。ちくしょ〜!
        
        しかも、これでまだ最終回じゃないっていうんだから気が遠くなります。
        そうです。あと1話。残すところあと1話!
        
        もちろん、スクリプトの後にも作業はたくさん控えているわけで、
        だからこそ、こういった物量的な作業は、さっさと終わらせてしまいたいと思うわけです。
        早く死にたいのはヤマヤマですが、だからこそ、これを早く完成させたいと思うわけです。
        
        つまりどういうことか?
        こういうことです。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        

◆ 2017/05/17
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第12話が完了。
        
        よーし完了したぜ!
        やはり実際に動く状態で読むと感動の度合いが大きいですね。
        あれ? こんなに素晴らしいお話だったのですか? それならそうと早く言ってくださいよぉ、上手な坊主!
        いやもちろん素晴らしいお話であることは百億千万も承知なのですが、
        それをも軽く上回るということです。舌を何度噛んでも噛み切ることができない。隣の柿!
        
        それにしてもペースがよい具合ですね。
        今回も前回同様に大長編コースだったのですが、前回同様に5日で完了。
        前回同様に一週間ぐらいは覚悟していたので、前回同様に2日分タイムスリップしたことになる。
        もはや地球の自転さえこの私の勢いにはついてくることができないようです。
        この勢いで愛するあなたのもとへこのお話を届けたい。
        
        残すところあと2話。
        おお、あと2話。いいですね。あと少しって感じがしますね。沸々としますね。
        それでですね、次のがですね、聞くところによるとですね、かなりの大長編らしいですよ。
        原稿用紙換算で404枚。全ルートの全話の中で一番分量が多い。
        この回だけで、2ndヒロ子氏のルートの前半ぐらいあるじゃないですか。
        わたくしなんだかワクワクせざるを得ません。それもこれも脳内麻薬あってのことです。本当にありがたいことです。
        
        脳内麻薬はさておき、ここ数日、カフェインが効かなくなってきておりましてですね、
        飲めば飲むほど眠くなるという逆転現象に見舞われているのですよ。
        こういうときは市の何課に問い合わせればいいのですか?
        いっそタライ回しも辞さぬ覚悟で。つまりそれほどまでに事態は切迫しているということです。
        何を書いているのかわからなくなってきました。
        インターネットで検索すれば何を書こうとしていたのか表示されるでしょうか?
        全く便利な時代と言う他ありません。
        
        えーっと、えーっと。
        
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        

◆ 2017/05/12
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第11話が完了。
        
        おっ、もう完了なのですか?
        今回は大長編コースだったらしいですが、それにしてはずいぶんお早いではありませんか。
        原稿用紙換算で311枚。紛れもなく大長編コース。
        それがどうですか、5日で完了。これが感動せずにいられますか。
        一週間ぐらいは覚悟していたので2日分タイムスリップしたことになる。
        ついに地球の自転を追い越したというわけです。
        今や地球は私の背後。この調子で宇宙の彼方まで突っ走りたい。
        でも忘れないでください。たとえ宇宙の彼方へ行っても私は常にあなたの幸せを願っています。
        
        残すところあと3話。
        残すところ、とは言いつつ、その後にもまだまだ作業は残っています。
        だからこそ、早くこの工程を終らせて次に進みたい。

        食べ物を買いに行く時間がもったいない。
        しかし買いに行かないと食べ物がなくなる。
        誰か私の代わりに買いに行ってくれないかな。

        食事の時間がもったいない。
        しかし食べないと動けなくなる。
        誰か私の代わりに食べてくれないかな。

        寝る時間がもったいない。
        しかし寝ないと動けなくなる。
        誰か私の代わりに寝てくれないかな。

        先日ついに、この作業をしている夢を見ました。
        よーし作業が進んだぜ! と思ったら夢だった。このやろ〜。
        
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        

◆ 2017/05/07
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第10話が完了。
        
        おっ、完了ですか、まじですか。
        なんと2日で完了。素晴らしい。
        原稿用紙換算で89枚ですから、分量から言えば妥当なペースですね。夢も希望もない。
        あわよくば1日で終わらないかとも思って頑張ってみたのですが、無理でした。
        1日目であらかた完了したことは完了したのですが、
        その時点で疲労困憊してしまって、デバッグを含めた細かい作業まで1日目に詰め込むのは無理がある。
        睡眠を間に挟まないとどうにもならない。
        
        とは言うものの、1日であらかた完了というのは非常に快適でした。
        あれ? もうこんなに進んだの? という感じで。
        擬音で言い表すなら "サクサク" というやつです。
        とは言うものの、分量から計算してみると、結局は妥当なペースなのですね。夢も希望もない。
        
        逆に言うと大長編コースの「全然終わらないぃぃぃ」という絶望感も、一種の錯覚なのであって、
        絶望する必要はないということなのですね。"作業が遅れて" いるというのとは違う。
        うん、あの絶望感。すごーく頑張った感じがするのに、テキストエディタのスクロールバーが全然動いてない。
        特に中盤がキツイ。冷静に言えば目の錯覚ということですが、パッと見、バーの位置が変わってない感じがする。
        
        さて、なんだかんだ言いつつ、3rdヒロ子氏の後編パートもすでに3話分完了したのですね。
        すでに後編の序盤は終わりです。残すところあと4話。
        ここから先は再び大長編コースが続く。脳内麻薬を出して突っ走るしかありません。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        

◆ 2017/05/05
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第9話が完了。
        
        よーし。いいペースだぜ!
        と、思いたいところですが、そうでもないのでしょうか?
        結局5日? 4日? かかってしまっているのですよね。
        それはペースとしてどうなのか?
        
        原稿用紙換算でいうと166枚。
        いつもの大長編に比べると半分ぐらいです。
        それで大長編のがいつも大体8日ぐらいかかってたわけだから……、
        ああ、なるほど。実に計算通りですね。夢も希望もありません。
        
        早く終わったぜ! という実感があんまりない。
        作業の手順がいつもと同じというか。
        
        本文を読み返す → 半日
        背景タグを入れる → 1日
        立ち絵タグを入れる → 1日
        BGMタグを入れる → 1日
        効果音タグを入れる → 半日
        足りない背景画像をGIMPで加工してごまかす → 1日
        デバッグ → 半日
        
        大長編のときも大体同じで、それぞれの工程が割増になって、
        結果的に浦島現象が起きる。ドロン。
        
        今回、せっかく大長編じゃない分量だったので、
        1日で全部終わるに違いないぜ、と思っていたのですが、
        その見積りは計算に合わない、というわけですね。夢も希望もない。
        ちなみに日本語入力に Anthy を使ってるんですが、
        きぼう で変換すると 鬼謀 が第一候補に出てくる。
        なるほど。きぼうとはそういうことでしたか。これだからAnthyはヤメられません。
        
        ところで最近、工程の中で意外と時間がかかってしまっているのが
        > 足りない背景画像をGIMPで加工してごまかす → 1日
        です。
        
        なんだかね、GIMPの使い方に慣れてきたことで、欲張りになっている。
        以前は後で有料のやつを探すことにして、仮埋めで済ませていた。
        以前は、というか、もともとはそのつもりだった。そういう作業方針だった。
        それが近頃では、GIMPで加工すればなんとかなるんじゃなぁい? という気分になってきている。
        たとえば昼バージョンしか存在しない画像を加工して夜バージョンを作るとか。
        画像の中の「ドア」が開いたバージョンを作るとか。建物の外観の画像で上の階を増築するとか。
        意外となんとかなってしまったりもする。GIMP素晴らしい。
        それで、以前だったら諦めてさっさと先に進んでいたところで時間がかかってしまっている。
        これはどうなのでしょうね? 時間の使い方として。
        昼バージョンを夜バージョンにするぐらいだったら時間はかからないんですけど、
        ドアを開けるとかだと結構細かい作業になってしまう。
        うまくいけばいいですが、下手をすると、頑張れば頑張るほど悪くなることもある。
        そもそも絵が描けないですからね。
        
        そんなにこだわらなくてもいいんじゃないの? とも思うのですけど、どうなのでしょうね?
        文章と画像が合わない場合。
        たとえば玄関先で会話をする、というシーン。
        シーンとしては、相手は家の中に上がり込んでいるのではなく、
        ドアを半開きにして、敷居をまたがせずに会話をしている。
        しかし背景画像としては、ドアが閉まった状態の「玄関(家の内側)」しか存在しない。
        この状態で立ち絵を表示すると、家の中に入ってきているみたいに見えません? それでは困る。
        いっそ立ち絵を表示しなければいいのかな?
        下手に視覚情報があるから、文章とのズレが気になってくる。
        うん。だからつまり結局、この点を突き詰めてしまうと、
        そもそも文章だけにしておけばいいんじゃない? ということになってしまう。
        もっと言うと文章も何も表示しなければいいんじゃない? ということになってしまう。
        行き着く先は何も出力しない涅槃アプリです。
        その逆方向を突き詰めてしまうと、アニメにしなければならなくなる。
        生まれてきたことを後悔するのと同じ原理ですね。
        世界王者になることはできない。そもそも生まれてきたことが間違いだった。
        いえいえ、世界王者になったって同じことですよ。死ぬまで動きを止めることができない。
        そもそも生まれてきたことが間違いだった。お馴染みの同じミスです。
        なんの話でしたっけ?
        
        GIMPは素晴らしいソリューションですが、
        そもそも絵が描けない状態で加工だけでごまかすのも限界があります。
        それで、どうしても足りない背景画像は改めてネットで探すことになるわけですが、
        ネットの世界は広いと見せかけて案外そうでもないのですよね。
        背景画像の素材、多いようで多くない。
        画像のバリエーションも多いようで多くない。
        
        誰も気にしてないと思うので少々ネタバレなのですが、
        今回、神社でお祭りがあって、鳥居の前で待ち合わせをする、という場面があるのですよ。
        それで「お祭りをしている神社の鳥居の前の画像」を求めてネットを徘徊することになるのですが、
        こういう画像、ありそうで、ない。
        「お祭りの画像」ならある。「神社の画像」ならある。「鳥居の画像」もある。
        しかし「お祭りをしている神社の鳥居の前の画像」が見つからない。なぜだ!
        諦めて自殺しようかと思いましたが、
        ここで死んでしまったら地球のみなさんにこのお話をお届けできなくなってしまうので、
        地球のみなさんのために思いとどまりました。あなた方は私に愛されている。それを覚えておいてください。
        しかし「お祭りをしている神社の鳥居の前の画像」が見つからない。なぜだ!
        仕方がないので「お祭りをしている境内」の画像を表示した直後に「繁華街」の画像を表示して、
        「お祭りで賑わっている神社の前」ということにしました。
        そうでした。私は天才だったのでした。
        
        それにしても、こういう、「ありそうなのに、ない」画像って、他にも例がちょくちょくある。
        これまた誰も気にしてないと思うのでほんの少しだけネタバレなのですが、
        「線路沿いの道」の場面があるのですよ。
        しかし、画像がみつからない。
        「線路の画像」っていうのはあるのですよ。たくさんあるのですよ。ちょっと検索すると、たーくさん出てくるのですよ。
        でも、なぜか、「線路沿いの道」が見つからない。
        ほとんど全ての画像で、線路そのものが主役になっている。
        よくあるのは、線路の真ん中に立って、画面の奥の方へ線路が伸びていくアングルです。
        きっと線路の中に入って撮影したのでしょうね。
        そういえば、そういうことをしてる人、ときどき見かけますよね。線路の中に入って三脚立ててる人。
        こういうアングルが「線路ぉ!」という写真としては一種の定番ということなのかな。
        あと、駅のホームから撮影したものとか、電車を撮影したものとか。山奥の廃線とか。
        しかし「線路沿いの道」がない。普通の住宅地の中の。
        もしかして普通の住宅地には線路なんて存在しないのが普通なのかな?
        と自分の常識に自信がなくなったりもしたのですが、うちの近所には線路が走ってる住宅地がある。私の妄想ではない。
        つまり場面としては、線路沿いの道で会話する、ということなのですけど、
        そういう場面で「線路の真ん中に立って、画面の奥の方へ線路が伸びていく」アングルの画像を背景にすると、
        まるで線路の中に入り込んで会話してるみたいになってしまう。命がけの会話だ。
        しかしそもそもノベル向けの背景素材として配布されているわけではないので、
        仕方ないといえばそうかもしれません。諦めて命がけの会話をするしかないのかもしれません。
        ちなみに写真の話ばっかりですが、ノベル向けのイラスト素材で、鉄道関係のものはあんまりないのですよね。
        あるとすれば「駅前」でしょうか。
        学園関係のイラストなら豊富なのですけど。有料のを探せばあるのかもしれない、と期待はしています。
        あ、自分で撮影してくればいいのかな。携帯で。
        どうせGIMPで加工して「イラストっぽく」するので画質は適当でよい。
        なるほど、自分で撮影か。その手があった。早く言ってくださいよ。黄巻紙!
        
        今日もよく柿を食べるお隣のお客さんが幸せでありますように。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        

◆ 2017/05/01
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第8話が完了。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        つまり、そういうことです。
        なんだかんだ言いつつ、結局のところはそれだ。
        
        はい、というわけで第8話のスクリプトが完了しましたよ〜。
        思っていた以上に素晴らしかったのでびっくりです。
        こんなに素晴らしいものだったなんて、作業を一通り終えてデバッグをするまで知りませんでした。
        いや、もちろん、最初に本文を読み返した段階で血沸き肉踊ってたわけですが、
        実際にグラフィックや音楽がつくとそれどころじゃない。まさかこれほどとは、ってやつです。
        思わず森林資源まで使ってしまったじゃないですか。
        今回はそういうお話だとは思ってなかったのに。油断大敵とはまさにこのこと。
        
        それにしても。
        どうしてこうも、悪意が世間を席巻しているのでしょうね。
        なにがなんでも人にダジャレを言わせねば気が済まない。
        そのようにしておいて人を笑いものにしようという魂胆です。
        これを悪意と呼ばずに何と呼ぼうか。
        
        しかしどうしてこうなるのかな。
        一人の人間にできることは何もないかのようです。
        そして無力感が無責任を生み、利己主義という迷信に支えられて、さらなる悪意を生む。
        悪意の無限スパイラルです。
        
        一体どこで間違ったのか?
        悪意を持ってこの世に生まれてきたのでしょうか?
        そんなはずはない。悪意は人間の持ち物ではないと思うのですけれども。
        人と人の間に不和を生み、この世を悪意の製造工場にしようとしている何らかの存在がある。
        そのようなものに惑わされてはいけない。
        
        話は少しだけ複雑であるかのようです。
        善悪の逆転現象が起きているからです。
        悪が善の顔をして人を傷つけ、善が悪であるとして糾弾を受ける。
        しかし見分けるのは難しくはありません。
        善のフリをしている悪は、いつだって、人を傷つける言い訳として姿を現すからです。
        人を傷つけていい理由なんてこの宇宙のどこを探しても存在しません。
        騙される必要はない。
        
        一人の人間にできることは何もないかのようです。
        しかし無力感に道を譲る必要はありません。
        願うことができるからです。
        それが何であれ、目に映るもの全てがそれぞれなりによい状態であるように。
        そのとき、あなたの存在は闇を照らす光です。
        あなたの存在は重大です。
        この世にあなたがいるのといないのとでは大違いだ。
        悪意の無限スパイラルは破ることができる。
        ただし、悪意の無限スパイラルは気のせいなんかではない。
        それは確かに実在している。破らねばならない。意志の力で破らねばならない。
        生まれる前のことを思い出す。
        無限の暗闇に地球があった。
        いい星でありますように。
        そこにいる人々が幸せでありますように。
        どうか、あなたが幸せでありますように。
        
        
        
        

◆ 2017/04/27
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第7話が完了。
        
        よーし。できたぜ。
        これにて前編が完了したぜ!
        いやぁ、よく頑張った。
        死ぬかと思いました。
        もしかすると死んでいるのかもしれません。
        ためしにほっぺをつねってみる。イタタ。
        痛いってことは? つまり死んでるってことなのでしょうか? 生きてるってことなのでしょうか?
        せっかく痛い思いをしたのに肝心のことがわからない。踏んだり蹴ったりですよ。
        
        こうなったら、いかに頑張ったのかを振り返ってしみじみと味わおうではありませんか。
        恒例の原稿用紙換算によると、前編は全部で1933枚らしいですよ。
        おお、なんか迫力のある数字。1933っていうと、科学文明華やかなりし頃でしたね。懐かしい。
        と、思ったら第一話の分はルートが分岐する前なので今回の作業には入らないらしいですよ?
        だからちょっと目減りして1790枚ぐらいだ。江戸時代に逆戻りですね。懐かしい。
        目減りしたとは言うものの、1stヒロ子氏のルートが1181枚で、2ndは1004枚だから、
        それらをはるかに上回っている。もう何時代かもわからない。
        いかによく頑張ったかがわかるというものです。これなら死ぬのも已むなしです。
        
        それで、あと作業はどれだけ残っているのですか?
        後編は合計すると1730枚らしいですよ。
        ということは? すでに残りの作業よりもたくさんやってるってことです。
        逆から言うと、残りの作業はすでにやった分よりも少ないってことです。
        希望の予感。下り坂の予感。楽勝の予感。
        たくさんの素敵な予感が出迎えてくれる。
        逆から言ってみるって素晴らしいことですね。
        新聞紙や竹やぶの火事とは違うのですよ、新聞紙や竹やぶの火事とは。
        
        それでですね、さっそくですね、次のパートがですね、たったの175枚。少ない!
        いやいや、充分多いんですけどね。1stおよび2ndのルートではどのパートもこれより少なかった。
        しかしこれまで4回続けて300枚超のパートを通り抜けてきた直後ですから楽勝に見えて仕方がない。
        今なら天下一武道会だって優勝できそうな気分です。懐かしい。
        
        それでですね、実はですね、勢い余って次のパートを読み返してみたのですが、
        何なんですかこれは。死ぬほど面白いじゃないですか!
        これを読めば安らかに死ねそうな気分ですよ。
        
        安らかに死ぬ。
        どうなんでしょうね?
        やっぱり安らかな方がいいですか?
        どうせ死ぬんだし、安らかだろうが壮絶だろうが同じじゃないんですか?
        どうせ胃袋に入るんだし、黄身が崩れてても同じなんじゃないんですか?
        死ぬのは構わないですけども、痛いのは嫌ですよね。
        死ぬのが目的なのであって、その手段として痛い思いをするというのは本懐ではない。
        胃袋に入れるのは構わないですけども、黄身が崩れてるのは……あ、これはどっちでもいいか。
        
        で、その、腹に入れば同じだぜ理論ですけども、
        これってつまり、「食べる」ということの意味を揺るがす理論なのですよね。
        我々が何かを「食べる」とき、一体「何」を「食べ」ているのか?
        物質を体内に摂取しているのではない。たとえば「料理」という「雰囲気」を食べている。
        だからよく言われるように、うつ病になると何を食べてもおいしくない、などいうことになる。
        それまでは何を食べていたのかと言えば、「雰囲気」を食べていた。
        その意味体系のネットワークから断絶されたわけです。夢から覚めた。実にめでたい。赤飯ものです。
        その調子で大気圏脱出だぜ。
        宇宙に浮かんで、全てから無関係になって、地球を眺めて思うこと。
        この星に住む人々が幸せでありますように。
        あ、インドが見えた。カレー食べたいぃぃぃ。
        
        という思いを抱いて私は地球に帰って参りました。
        あなた方が幸せでありますように。
        それはそれとしてカレー食べたい。
        なのですけれども、カレー粉って結構高いんですよね。困ったことです。
        どの政党に投票すればインドを植民地にしてカレー食べ放題になるのですか?
        おっといけない。人から奪えばいいだなんて。邪悪な思念に取り付かれてしまった。カレーは人を狂わせる。
        いいえ違います。カレーを食べても狂わない心を養うこと。それが肝要です。
        
        それでですね、安さを求めてスーパーの店内をBGM攻撃に耐え忍びながら探していて気付いたんですが、
        カレー粉を買うよりもカレールーを買う方が安いんですよね。
        一体どうなっているのでしょう? 何か邪悪な物質が入っているに違いありません。
        そのようなものを食べていては心が狂うのも已むなしです。
        そうです。食事です。食事に気をつけるのです。
        腹に入れば同じ? いいえ、違います。
        その腹に一体何が入っているのか?
        そのことをとっくりと考えてみるのです。
        ものを食べるとは物質を食べるということです。
        物質を食べるとは地球を食べるということです。
        地球にはあなたがいる。あの人がいる。街を歩いている一人一人の人たちがいる。
        すなわち、食べるという行為を通して一人の人間は世界とつながるのです。
        因果の網に参加することになるのです。
        私は確かにここにいる。しかしその手足は因果の網にからめとられている。思い通りにならない。
        私の腹には何が入っているのだろう?
        腹に入れてしまえば同じ? 私はこの物質と同じく、ただの物質の集まりでしかないということなのか?
        いいえ違います。大違いです。なぜなら確かにここに私という意識がある。
        しかしその手足は因果の網にからめとられている。何一つ思い通りにならない。
        だけど同じことです。
        宇宙空間にいたときのことを思い出す。
        無重力の中で、手足に触れるものは何もなく、ただ空間に浮かんでいることしかできない。
        そこで地球を眺めて何を思ったか?
        そこに住む人々が幸せでありますように。
        同じことなのでした。
        地球にいても宇宙にいても思い通りにはならない。しかし意識がある。
        ならば同じことなのでした。
        この意識の使い道は何だろう?
        あなたの幸せを願います。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        

◆ 2017/04/18
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第6話が完了。
        
        やっとできた。やっとできました。やっとできましたよ〜。
        今回は前回よりも少しだけ分量は多いものの、
        前回と違って特殊な作業を伴わないので楽ちん、
        と見せかけて全然楽ちんじゃなかった。嘘つき!
        
        それにしても分量が多いというのがどうにもなりませんね。
        客観的に見て分量が多い。
        しかし、内容的に見て、そんなに大容量という気はあんまりしないのですよ。
        だって、あれがこうなって、そうなって、ああなって、どーん、ばーん、どどーん、ばばーん、
        っていうことですよね? 実に単純な話です。
        見通しはすっきり。スタート地点に立った時点でゴール地点まで見通せる。
        なーんだ結構近いんじゃないの?
        そのはずなのに、実際に歩いてみると、歩けども歩けどもゴールに近付かない。
        おかしい。空間が歪んでいるのでしょうか? これだから最近の空間ってやつは。
        
        と言いつつ、ゴールにはたどり着いているのですけどね、
        ただ、どういうわけか、信じられないほど時間が流れてしまっている。
        なるほど。
        スタート地点とゴール地点、あの場所とこの場所は時間的に隔絶された空間だったのですね。
        困ったものです。これだから最近の時間ってやつは。
        こうなったら困りながら進んでいくしかありませんね。
        
        さて、このまま突っ走りたいのはヤマヤマですが、
        このページを更新しないままにしておいて私のファンのみなさんに心配をかけてはいけないので、
        今日もカフェインを摂取しながらこうしてキーボードを叩いているわけです。
        そのような素晴らしい私に恵まれて、あなたは本当に幸せ者です。羨ましいぞコノヤロー。
        
        それでですね、実はですね、今回の分はですね、ちょっとですね、心配な点があったのですよ。
        記憶の中の大雑把なイメージでは、今回、ちょっと、
        そのままではマズイ部分があるのではないかなーと思っていたのですよ。
        なにしろ前回が超がいくつあっても足りないぐらい素晴らしかったですからね。
        その続きって如何なるもんなのですか? ってことです。
        なのですけど、読み返してみましたらば、別に全然問題ない。
        実に実にうまい具合にできているではありませんか。私が心配することなんて一個もない。
        いつもながらの南無阿弥陀仏っぷりです。感動するしかありません。
        感動すると森林資源を消費するわけですが、そんなことはお構いなしです。
        これだから最近の仏ってやつは。
        
        分量が多くてなかなか進まないなー、と言い続けておりますが、
        なんだかんだと言いまして、次で3rdヒロ子氏ルートの前編のラストです。
        勢い余って、さっき、ちょろっとだけ本文の冒頭を読み返してみたのですが、
        何なんですかこれ? めちゃくちゃ面白そうじゃないですか!
        そりゃあ、なんだかんだと言いまして前編のラストですからね。盛り上がらないはずがありません。
        
        よーし。このまま手を止めず、進んでいきたい。
        ここを越えて後編に入ると、しばらくは分量の少ないパートが続きますからね。その下り坂も楽しみです。
        なのですけれども頭が痛い。指一本動かせない。
        私が動かそうとしたのは指なのですけど、どうして頭が痛むのですか? 
        おかしいですね。これだから最近の頭ってやつは。
        こういうときはカフェインを飲んで痛いの痛いの飛んでけするんですけど、
        飲めども飲めども痛いのが飛んでいかない。これだから最近の痛いのってやつは。
        頭というか、目の裏側らへんですね。そこがズキーンと痛い。
        いつもは一晩眠ったら大体飛んでいくんですけど、寝て起きても相変わらず目の裏側がズキーンと痛い。
        一つ言っておきますが、ズキンというのは頭にかぶるものなのであって、目の裏側とは何の関係もない。
        いくら似ているからと言って、そこを間違えてもらっては困る。
        でもやっぱり目の裏側がズキーンと痛い。これだから最近のズキンってやつは。
        
        どうしようかな。
        よし。あなたの幸せを願おう。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        


◆ 2017/04/10
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第5話が完了。
        
        できました。
        胸がいっぱいです。腹はいっぱいじゃない。
        あんまり食べてないんです。誰かごはんおごってよ。
        それはさておき、3rdヒロ子氏の第5話のスクリプトが完了です。
        予想を上回る素晴らしさに気絶しそうです。
        これであと立ち絵のグラフィックが入れば完璧です。
        今回はマインドルの対戦シーンがないので、今回に限っていえば足りない要素は立ち絵のみ。
        あまりに素晴らしい内容なので、思わず今回の分だけでも先に立ち絵を入れてしまいたくなりました。
        この素晴らしいエピソードをこの宇宙で最初に見ることができるなんて私は気絶するほどラッキーです。
        どのくらい素晴らしいかと言うと、
        もうこれでエンディングってことにしてもいいんじゃないの? ってぐらい素晴らしい。
        でもまだ続きます。続きますよ〜。お楽しみはこれからだぜ。
        
        それにしても素晴らしいパートです。
        仮に他のエピソードを見逃したとしても、このパートだけでも見たならばこの世に生まれてきた甲斐があると言えるでしょう。
        だからあなたにはぜひ、少なくともこのパートを見るまでは生きていて欲しいと思うのです。
        私と同時代に生まれてこのパートを見ることができる人は気絶するほどラッキーです。
        早くリリースできるように頑張るので、どうかそれまで生きていてくださいね。
        
        うん。早くリリースにたどり着かねばなりません。
        ちょっと日数が多めにかかってしまったみたいで、気になるところです。
        しかし今回は普段とは違う作業がありましたからね。
        立ち絵ではないですが、グラフィック関係の作業が多めにあった。
        なぜかGIMPの使い方にどんどん慣れていく。
        私、絵描けない人っていう設定なのに、一体どういうことですか? 楽しいにもほどがある。 
        おかげで何度気絶したか、もはや数える気力もありません。
        しかしそれを差し引くと、ペースとしては悪くありません。
        
        ところで、ここ最近の悩みのタネなのですが、
        BGMの指定が思いのほか神経を削る。
        土に埋めて水をかけると悩みの芽が出て花が咲く。
        その花粉の威力たるや凄まじく、何度気絶してもし足りないほどです。
        
        他の要素はタグを大量に書く労力という以上にはそんなに神経を削らないのですけどね。
        なぜBGMの指定はこんなに神経を削るのか?
        雰囲気をダイレクトに左右するからではないでしょうか?
        どうでしょうね? 雰囲気を左右する度合いとしては、他の要素が低い、ということはないのではないですか?
        立ち絵の中身を後回しにしているからそんな気がしているだけなのかもしれない。
        
        雰囲気を左右というか、選択肢が多い、とは言える気がします。
        たとえば場面が「教室」であれば、背景画像は「教室」で決まりなのですよ。
        せいぜい時間帯に合わせて 日中/夕方/夜間 で別バージョンを指定するぐらいです。
        ここに悩みのタネが花を咲かせる土壌はない。
        しかしBGMは同じ舞台同じ時間帯でも、シーンの内容に合わせて選ぶ必要がある。
        その場面が「どういう場面なのか」がBGMで左右されるようなところがある。
        それでいて明確な選択基準はない。
        シーンの意味合いをよく考えて、曲の解釈の可能性をよく考えて、組み合わせを考慮する。
        なるほど。神経を削る。
        
        それともう1つ、前後のつながり、という要素も関係してきます。
        今はこの場面だから、というだけではなく、
        さっきまでこの曲だった、次はあの場面になる、では今回はどれを?
        というような流れを考慮する必要がある。
        なるほど。神経を削る。
        
        素材を使わせてもらっているだけではありますが、
        場面に合わせて解釈して選んで決める工程は決して楽ちんというわけではなかった。
        つまり神経を削る。計算外だぜ。こんなにエネルギーを消耗するなんて。
        だから私にもごはんおごってよ。最近カレーしか食べてないんですよ。おかげでバブラシが黄色くって。
        だけどハミガキしないと歯医者さんで神経削られちゃいますからね。
        おっ、うまくつながりましたな。たまには削られてみるもんですね、神経。
        
        しかし神経を削るということは時間もかかるということです。
        時間がかかるということは人が死ぬということです。
        この気絶するほど素晴らしいエピソードを見ることなく死んでしまう人が一人また一人と増えていく。
        これではいけません。
        
        それでですね、今回はちょっと作戦を変えてですね、
        BGMが切り替わる予定の箇所だけを抽出して、別ファイルに一覧を書き出して、
        全体的な流れを俯瞰しながら曲を配分する、というふうにしてみました。
        前回までは愚直にスクリプトを冒頭から読みながら曲の指定を書いていたのですが、
        それだと全体的な流れ、が見えづらかった。
        その点、今回のやり方だと、わかりやすい、ではないですか。
        脳への負担が大きく軽減しました。素晴らしいソリューションだぜ。次からもこれだ!
        
        というようにですね、作業の腕前は着実に上昇しています。素晴らしいことですね。
        
        さて、まだ先は長いです。
        しかしあと2話で3rdヒロ子氏ルートの前編が終了かと思うと、そんなに先が長くもないと気付く。すでに序盤ではない。
        次回は分量だけで言えば今回よりも多い。
        今回が原稿用紙換算で、何枚? 330枚? 次回は? 385枚。
        うふふふ。笑いが止まりません。地球の回転も止まりません。私も作業の手を止めません。
        
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        

◆ 2017/04/02
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第4話が完了。
        
        おかげさまで無事に完了です。
        いや、無事でも完了でもないのですけどね。
        まだまだ「仮」の箇所がある。
        ただ、ともかく量的な要素は着実に完成に近付いております。ありがたいことです。
        無事かと言われれば無事でもない。
        何より、時間がかかってしまっているのが苦しいところです。
        日付の数字をもとに21世紀の人類が誇る64bitのパソコンで計算してみたところ、
        6日かかってしまった? え? マジで? 何かがおかしい。
        なにしろ5年以上前に3万円代で買ったマシンですからね。計算まちがいぐらいはご愛嬌です。
        しかし計算は何度やっても同じ結果になります。そうですか。
        時間がかかるのが苦しい。
        地球が1°回転するたびに心が擦り切れて血が流れる。
        この6日という時間をカップラーメンを作ることに費やしていたら一体何個食べることができていたでしょう?
        そう思うと胸が張り裂けそうです。胸じゃなくて腹か。ゲップ。
        
        しかしどうしたものかな。
        思うところはいろいろあります。
        カップラーメン最近食べてないなーとか、
        カレーおいしいけどハブラシが黄色くなるのが気になるなーとか、
        してみるとインド人のハブラシは何色なのだろう? とか、
        相変わらず毎晩毎晩何度も何度も救急車がやかましいなーとか、
        ネットで日本語で検索すると必ず何か人の負の感情を煽る意図の見出しが出てくるのが切ないなーとか、
        結局のところどうすれば愛を基礎とした社会を作れるのかなーとか、
        社会を「作る」なんてのはもしかして傲慢なのかなーとか、
        いやいや、そんなことはないと思いますよ。
        だって、私はあなたを愛したいと思っていますし、あなただってあの人だって誰だってその人なりに幸せであって欲しい。
        そもそもこの世は無意味なんですから、後はもう愛し合うしかないじゃないですか。
        こうした素朴かつ根源的な願いを曇らせるような社会であってはよくないと思うのです。
        そして社会とはとどのつまり私のことであり、あなたのことであり、あの人のことです。
        そこにいる個人の意志、ということを抜きにして何か外側に自動的に存在しているようなものではない。
        一人一人の自覚と意志が重要です。
        その意味で「作る」と言いました。これは傲慢ではありません。責任感です。自覚です。そしてもちろん愛です。
        
        そんなことよりカレーの話をしましょう。
        ご存知の通り、カレー粉をお湯で溶いてもカレーにはなりません。
        なぜか? 知りません。きっとインドの魔術です。
        ならば我々も日本の魔術で対抗しようではありませんか。
        日本の魔術とは何か? 味噌です。
        結論を言いましょう。
        
        味噌+カレー粉+小麦粉+お湯=カレー
        
        です。
        気絶するほど簡単です。
        味噌の代わりに醤油でもいい。
        
        カレーって本当においしい。
        インドの人には感謝してもしきれません。
        ひょっとしてガンジス川の水ってカレー味なのかな?
        画像で見るといつもなんか茶色っぽく濁ってるし、そうに違いない。いいなぁインド。
        
        だが日本の我々だって上記の方程式があればカレー食べ放題なんですよ。いいなぁ日本。
        
        うふふ。明日もカレーを食べよう。
        
        
        今日もインドの人が幸せでありますように。
        今日も日本の人が幸せでありますように。
        今日も地球全土津々浦々の人々が幸せでありますように。
        今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
        

◆ 2017/03/27
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第3話が完了。
        
        うおおお、4日かかっちまったぁぁぁ。
        でも、これが何を意味するのかは、いつもここを愛読しているあなたにはわかるはずです。
        私が4日かかったのではない。
        地球が勝手に4回転しただけ。
        しただけ?
        いいや、違う。こう言わねばならない。
        4回転しやがった。
        呪いの意志を込めて言ってやらねばならない。コノヤロー。
        
        さて、そういうわけで今回も無事に一話分の作業が完了しました。
        一話分。原稿用紙換算で196枚。
        これまでの基準からすると、二話分以上の分量ですよ。
        しかも次がまたでかい。322枚。笑いが止まりません。
        しかし作業のペース自体は多分上がってる。素晴らしい。
        
        そんなことより大変なんですよ。ちょっと聞いてください。
        今回ですねぇ、いや、前回もだったんですけど、
        なんか、めちゃめちゃ面白いんですよ。
        こんな面白いものが現代の地球に存在していいのかな?
        地球のみなさん、鼻血を吹いて健康を害してしまわないかな?
        思わずそんな懸念が胸をよぎるほどです。
        1つわかって欲しいことがあります。
        私は決して、あなたに鼻血を吹いて健康を害して欲しいと思ってこのお話をお届けするのではないのです。
        私の願いはいつでも1つです。
        あなたが幸せでありますように。
        この活動もその一環です。
        決してあなたの鼻血を望んでいるわけではないのです。それだけは忘れないでください。
        
        で、それはそれとして。
        ちょっと予定外のことが。
        使わせてもらうつもりで以前ダウンロードしておいた素材がですね、
        さっきその素材の配布サイトに行ってみたら、いつのまにか配布が停止されてたのですよ。
        これはつまり、どういう意味なのか?
        使ってはいけない、という意味なのかどうか?
        利用規約の中には「予告なく公開を停止することがあります」という記述がある。
        これはつまり、どういう意味なのか?
        使ってはいけない、という意味なのかどうか?
        規約には「公開を停止することがある」としか書かれていない。
        公開が停止される前にダウンロードしているのですが、それはもう使っちゃいけないのかどうなのか?
        以前、別のサイトで見た規約では、公開中にダウンロードしたものに関しては使っていい、という記述があった。
        このサイトではどうなのか???
        できれば使わせてもらえると助かる、というより、使えないと困るものもすでにいくつかある。
        どうしようかな?
        問い合わせるしかありません。
        しかし、問い合わせた結果、使っちゃダメって言われたらツライなー。
        いや、もちろん、使っちゃダメって言われるものを使うつもりは1ミリもないし、
        ダメと言われる可能性のあるものを黙ってこっそり使うつもりも1ミリもない。
        だから、遅くとも公開前には問い合わせます。ダメと言われたら別のものに差し替えます。
        しかし、すっかりその素材を使うつもりで、イメージが出来上がってる部分がある。
        今、スクリプトの作業をしている間は、イメージを維持して突っ走りたい。
        今は精神的に乱れることは避けたい。
        あとで差し替え作業をする覚悟で、ともかく今はキリのいいところまで突っ走ろう。
        
        素材は一応、全部エイリアスを挟んであって、スクリプトに直書きはしてない。
        つまり、差し替え作業は想定している。
        エイリアスとファイル名の対応表を差し替えれば全編の素材を丸ごと入れ替えることも原理的には可能。
        と言っても「このシーンはこの素材!」というところも多々あるので、見直し作業は楽しいお祭りになりそう。
        うん。素材はあくまで「仮」と割り切って、行けるところまで突っ走ろう。
        
        しかし、こういうことがあるとなると、心配です。
        全部の素材に同じことが言える。
        今日は使えることになってても、作者の意向次第で明日には使えないことになってしまうかもしれない。
        結局、いつでも差し替えられる準備をした上で一通り動く状態にして、
        最終段階で使用可能かどうかの確認をするしかないのかな。
        
        それを思うと、有料のものの方が安心かもしれない。
        今回、使えないかもしれない可能性が出てきたものも、
        仮にお金を払えば使わせてもらえるのであれば、値段次第ではお金を払ってもいいと思ってるぐらいです。
        
        一番避けたいのは、知らないうちにルール違反をしてしまうことです。
        作者の意向に背いて、あわよくばこっそり勝手に使ってやろうだなんて1ミクロンも思ってない。
        知らないうちにそうなってしまうのはとても怖い。
        
        ちなみに軽く調べたところによると、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの場合は、
        一度つけたライセンスは後で変更することができないことになってるそうですね。
        考えてみればそりゃそうですよね。
        そうじゃないと、使う側としては、安心して使えません。
        さっきまで許可されてた使い方が、次の瞬間には違反になるかもしれない。
        そんな状態では使えません。
        使わせてもらってる身分とは言え、自分に対する生殺与奪権を相手に丸投げするに等しい。
        
        ちなみに今回のその素材の配布元サイトでは、特にそうしたなんとかライセンスというのは定めてなかった。
        定めておいてくれるとわかりやすくて助かる?
        
        いや、そういう問題ではない気がします。
        一般的に言って、素材を作る人としても、たくさんの人に使って欲しいと思ってはいるはずなんです。
        しかし、悪意のある使い方はしないで欲しいでしょう。
        一般的に言って、素材を使う側としても、作者の意向を尊重したいとは思っているはずなんです。
        しかし、自分の使い方が本当に問題ないのかどうかが常に心配。
        
        なんで「決まりごと」が必要かと言えば、悪意のある使い方を抑制するためです。
        そもそもは善意で成立している。
        使って欲しい。使わせて欲しい。おたがいにうれしい。
        実にシンプルです。
        そこへ悪意の存在を想定すると、話が途端に複雑になり殺伐とする。
        善意だけで考えれば、話は実にシンプルなのに。

        一つ決まりを作っても、悪意があればいくらでも抜け道を考え出せる。
        結果、ルールがどんどん複雑かつ意味不明になっていく。
       
        問題は悪意だ。
        悪意のおかげで、それを防がなければならなくなる。
        悪意のおかげで、悪意のない者は身の証を立てなければならなくなる。
        
        ルールに対して、悪人は「どうやってルール違反をしてやろうか?」と考える。
        ルールに対して、善人は「自分はルール違反をしてないだろうか?」と考える。
        本当に悪意のある人間を止めることはできない。
        それを追い求めるとルールが複雑化・厳罰化し、善人が苦しむことになる。
        最終的には善人・悪人もろとも地上から全ての人間を一掃するまで止まらない。
        
        ん? この話は今回の件に関係あるのかな?
        以前は使っていいよという気分だったけど、ある日気が変わって使っちゃイヤよになった。
        うんうん。そういうこともあるでしょう。気分とは変わるものです。
        ではさて、私はそれに従う法的な義務があるのかどうか? その気分に反すると死刑になるのかどうか?
        著作権法違反者という汚名を刻まれて犯罪者として一生を過ごさねばならないのか?
        体内にマイクロチップを埋め込まれて当局に行動を監視されて過ごさねばならなくなるのか?
        家族が世間体を気にして引っ越さなければならなくなってしまうのか?
        パスポートを作れなくなってしまうのか? 主要先進諸国に入国できなくなってしまうのか?
        空港で入国管理のスタッフに鼻でせせら笑われながら立ち往生するという恥辱に耐えねばならなくなるのか?
        
        問題はそこです。
        
        わざわざ人がイヤがってることをしてやろうなんて思ってるわけではないので、
        あんまり堅苦しいことは言わずに、ゆるく受け止めてもらえないかな、とは思うところです。
        悪人を排除するためのシステムで切り刻まれるのはつらい。だって私、善人なんだもん。ちなみにあなたも善人でしょ?
        
        
        
        

◆ 2017/03/23
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・3rdヒロ子氏の第2話が完了。
        
        あれ? いつの間にそんな作業してたんですか?
        前回から4日しか経ってないじゃないですか。
        この作業自体は3日で完了しているので、引き算すると1日しか空けてない。
        もっと休む予定だったんじゃないのですか?
        
        ええ、そうなんですけどね。
        ただ結局、なんていうのかな。他に何をしても意味がない。
        あれこれと考えた挙句、結局そういう結論になってしまう。
        
        日々、いろいろと思うところがあります。
        言いたいことがあります。やりたいことがあります。
        言わねばならぬと思うことがあります。やらねばならぬと思うことがあります。
        
        しかし、
        「こんなことを言ったってどうにもならない」
        「こんなことをしたってどうにもならない」
        で、結局、今はマインドルの作業を進めるしかない、という結論になる。
        
        ともかくこれを終わらせないことには何もできない。
        これが完了した上でなければ何事も意味をなさない。
        
        ただ一つ言えるのは、
        なんだかんだ言いつつ、こうしてこの作業をすることができている、という
        この巡り合わせには奇跡的なものを感じずにはいられない、ということです。
        ともかくやるしかない。話はそれからだ。
        今はこれをやるために生きているわけで、今までの全てはこれをやるためにあったわけで、
        してみると、これが終わった後はもうこの世にいる意味はないのかもしれないわけで、
        実際、終わった後の「それから」なんてことが成立するのかどうかは不明ですが、
        ともかく、この作業が終わっていない今は、この作業を進める以外にない。
        何をしても何を言っても意味がないことはほぼ確実で、
        これが唯一の「意味があるかもしれないこと」です。
        これを差し置いて別の何をしても無限に虚しい。実を結ぶ道理がない。
        
        
        さて、そういうわけで前回の勢いのままに3rdヒロ子氏編の作業に突入したわけですが、
        今回の具合はいかがでしたか?
        勢い。うん。わりとそうですね、調子良く作業がはかどった感じでした。
        冒頭で言ってましたけど、3日ですか? 作業に要した日数。
        これはどうなんですか? 早い方ということですか?
        そうですねぇ、今までのペースから言えば、わりと早い方かなという感じです。
        
        ちなみに今回、一話分の分量としては、今までの中で一番多かったのですよ。
        原稿用紙換算で163枚。
        だから、もうちょっと時間がかかってもおかしくないと思ってました。
        
        ちなみに他のルートも含めて、各話の枚数はこうなってるらしいですよ。
        
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        これを見ると、あれですね、今回の163枚っていうのは、
        今までのどの話をも分量で上回ると同時に、3rdルートの中では少ない方から3番目なのですね。
        今後、さらにデカいのが大量に待ち受けている。ぎゃふんと言わざるを得ない。
        うんうん。いいじゃないですか。ぎゃふんと言いながら作業しましょうよ。ぎゃふんぎゃふん。
        
        
        ただ、これまでずっと作業を繰り返してきて、要領というか手順は慣れてきましたよね?
        大体、次のような流れです。
        
        1、本文を読み返す。誤字修正など。
        2、自動化したツールで全体に大雑把にタグの雛形を挿入
        3、背景タグの中身を入れる
        4、立ち絵タグの中身を入れる
        5、効果音タグの中身を入れる
        6、BGMタグの中身を入れる
        7、デバッグ
        
        この中で、2は一瞬です。
        5もわりとすぐです。あんまり神経を使わない。
        
        作業として質量があるのは
        
        1、本文を読み返す
        3、背景タグの中身を入れる
        4、立ち絵タグの中身を入れる
        6、BGMタグの中身を入れる
        7、デバッグ
        
        この中で1と7は比較的気楽です。できてるものを見直すだけですからね。
        
        3、背景タグの中身を入れる
        4、立ち絵タグの中身を入れる
        6、BGMタグの中身を入れる
        
        この3つが「めんどくさい」。
        地味に時間がかかる。地味に集中力を要求する。
        
        今回、3日で完了したというのは、上記の3つをほぼ1日ずつで完了させた、ということです。
        
        つまり、作業に要する日数としては、早くても3日が限界、ということになってしまうのかな、と思っているところです。
        間に睡眠を挟まないと、どうにもならない。
        1日でちょろっと片付けられないものかな?
        スクリプトの作業に入る前は、それぐらいで片付くと思ってたような気がします。夢見るって素晴らしい。
        
        一話ごとに3日ですかー。
        あと残り12話だから、単純計算で……。ぶるぶるぶる。
        こういうですね、単純計算っていうのがですね、今風に言えばですね、従業員を苦しめるブラック企業的な発想なわけですよ。
        「人月」とかね。
        人間は機械ではない。そんな均一に計算通りに動けるわけがない。
        
        しかも、この先はもっとデカいのばっかりなわけで、
        この3日っていうのも、調子良く作業を進めることができた場合、なわけで、
        いつもそんなに元気ハツラツではないわけで、
        しかも、この作業だけに集中できる日ばかりではないわけで、
        間に一日も隙間を入れない、というのも苦しいわけで、
        そういった諸条件を勘案すると、やはり地球を滅ぼすしかないなー、って。思うんです。思いますよね?
        だってこの私の意志に反して勝手にくるくる回るんですもん。こんなの壊すしかありません。
        
        ちなみに今これ書いてて、ちょいとばかり頭が痛い。
        3日続けて突っ走るとこうなる。もはやカフェインも効かない。しばらく抜いて耐性を落とさないと。
        
        それにしても、つくづく思うんですが、
        一体どうすれば時間を止めることができるんでしょう?
        何かうまい手があるに違いないんです。本当はみんなそれを知ってて、私だけ仲間外れにしてるんでしょ? イジワル!
        とかなんとか考えてる間にも私を置いて地球は回ってしまう。もう我慢ならん!
        
        
        それはそれとして、つくづく思うんですが、
        どうしてこの星にはこんなにも悪意が蔓延しているのでしょう?
        悪人が尊敬を集め、善人が侮蔑される。
        
        ちなみに言っておきますが、これは神さまのせいではありません。
        人間が自己意識を持つようになった時点で、神さまは人間の世界を人間の手に委ねたからです。
        
        この世の惨状はひとえにわたしのせいです。
        この世の惨状はひとえにあなたのせいです。
        この世の惨状はひとえにあの人のせいです。
        
        だから、言わねばならないことがあり、やらねばならないことがある。
        
        神さまに期待してはいけない。
        「悪いやつはいずれ損をすることになってるのさ」とかなんとか、
        そんな自然な自浄作用に丸投げできる時代は終わっているのです。
        自己意識を持つ存在がその自由意志において愛の力を発揮しなければならない。
        だって、それが私の願いであり、あなたの願いであり、あの人の願いでしょう?
        この星が、誰もが愛し愛される場所であるように。
        
        
        > 人間は機械ではない。そんな均一に計算通りに動けるわけがない。
        
        え? 何ですって? だから人間よりも機械の方が便利、ですって?
        確かにその通り。
        ただし、それを利己的な欲望で使うからおかしなことになる。
        機械を使って楽ができたら、余った時間で何をするか?
        決まってます。愛し合うんですよ!
        何かが「便利」というのは何が「便利」であるというのかと言えば、
        愛し合うための役に立つから、それが「役に立つ」ということであり「便利」ということです。
        その目的を抜きにしては、いかに便利であろうとも、そんなものには何の意味もない。
        
        何のために生きているのか?
        

        
        

◆ 2017/03/19
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・1stヒロ子氏の第3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、13話が完了。
        
        なかなかうまくいきました。
        最初はですね、全部に「話」をつけて「第3話、第4話、第5話(中略)が完了」
        って書こうと思ったのですけど、それだと横幅が長くなってしまうじゃないですか。
        あれですよね? ブラウザで横スクロールバーが出ると? アクセシビリティ? どうのこうの?
        だから私、考えたんです。どうすればいいのかな、って。
        一番いいのは死ぬことです。
        そうすれば、何もしなくて済みます。
        ここに長いタイトルを書いて、ユーザビリティ? を低下させなくてすむ。
        死はいつだって最善手です。
        でも私はそれを選ばなかった。なぜか? 生きることを選んだからです。
        あなた方とともに、この地上で生きることを選んだからです。
        そのゆえに、私は考えました。
        いかにして長いタイトルを長くならないように書くか?
        まず、第一に私に啓示されたのは「~」記号を使用することです。
        つまりこうです。
        「第3~第13話」
        でも私はそれを選ばなかった。なぜか? 
        各話の存在を「~」一文字に圧縮することをよしとしなかったということです。
        私は立ち会いました。
        それぞれの話がスクリプトとしてこの世界にその像を出現させる現場に立ち会いました。
        その私が、それを「~」一文字に圧縮することは、嘘をつくことに他なりません。
        私自身および、私自身にその姿を啓示した各話に対する嘘を記述することに他なりません。
        それは死ぬより悪いことです。つまり定義により、それは生きるよりも悪いことです。
        悪いことをしてはいけない。
        ではどうするか?
        それが、あなた方がすでにご覧になったであろうタイトルです。
        「話」を省く。
        それぞれの話についての言及を省かず、同時に長さを切り詰める。
        霊的真実と物質的制約とのおしゃれなコラボです。
        あなた方はここに宇宙的霊存在が地上存在として受肉した形姿を見ることでしょう。
        まさに大成功と言わざるを得ない。
        その証拠に、見てご覧なさい、横スクロールバー、出てないでしょ?
        え? 出てる? 知らんがな。でかいモニター買え。
        
        と言いつつ、ここに某ネット通販大手のアフィリエイトのリンクを載せないのはなぜか?
        そうすることもできたはずなのに、そうはしなかった。
        それは意志の為せる技です。意志とは愛をその根源として地上を照らす力です。
        つまり私からあなた方への愛のゆえです。
        いいですか? 覚えておいてください。
        あなたは愛されているのです。やったね!
        
        
        つまり何のことかと言うと、タイトルをうまく書けたよ! やったね! という話がしたかったのですか? 
        それはさておき、1stヒロ子氏ルートのスクリプト作業が完了したよ! ってことです。やったね!
        あれ? じゃあタイトルにそういうふうに書けば簡潔だったんじゃないの?
        でも私はそれを選ばなかった。なぜか?(中略)あなたは愛されているのです。イヤッホゥ!
        
        さて、前回の2ndヒロ子氏のときと同様、完了したとは言いつつ、未完了の要素は残っております。
        特に立ち絵ですね。
        あ、ちなみにコミPo!の製品版は購入しましたよー。
        Linux上で無事に動きました。いや、無事でもないのですけど、今回の用途には足りる見込み。
        そういうわけで、立ち絵画像を用意できる状態に一応はなっているのですが、
        ツールとして便利であるのは確かながら、ボタン1つで作業終了、というわけにもいかず、結局保留になっている状態です。
        
        スクリプト作業の合間にちょこちょこといじって様子を見ているところですが、
        どうも、これさえあれば立ち絵は心配無用、というわけにはいかない感じです。
        あくまでも、キャラ絵のベースを生成するためのツールの一つ、と割り切って、
        他の画像加工ソフトと併用してやりくりしていく必要がありそうです。
        
        あと、ツール云々以前に、キャラクターのデザイン自体も結構気を遣うところです。
        見た目って強烈ですからね。印象が固定されてしまう。
        私としては見た目はあくまでも「仮」のつもりなのですけども、
        実際に画像として表示されてしまうと、「この人はこの顔」と、印象がそれで固定されてしまう。
        つまり、おろそかにはできないということです。
        いっそ画像なしにしようかな。あるいはシルエットだけとか。ええ、そんな考えが思い浮かぶほどです。
        
        というより私の中で踏ん切りがつかない。
        今後もまだスクリプトの作業が残っているわけで、
        現段階で中途半端に立ち絵を決めてしまって、その印象とともにスクリプトの作業を進めることになるのはつらい。
        いや、それはそれでいいのかな? どうでしょう。
        今はまだ、自分の中にあるイメージの方を保全しておきたい気分です。
        
        なんかねぇ、主要キャラのビジュアルについて、大体のイメージはあるのですけれども、
        どういうわけか、1stヒロ子氏だけは、どんな顔してるのか、イメージが思い浮かばない。
        とは言え、シルエットにしないなら、どこかで具体的に決める必要がある。
        
        そういうわけで、ツールが手に入ったとは言え、片手間にやれる感じではないので、
        立ち絵は立ち絵で作業として残しつつ、ともかくスクリプトの方を先に片付けてしまうつもりです。
        こういう「量的」な要素が残っていると、精神的に焦る。
        最低限「動く」状態にしよう。
        
        さて、スクリプト。今回の分、どうでした?
        わりと、勢いに乗って最後まで突っ走れた感じはします。
        カレンダー的にはしっかり時間が経ってしまっているのですけれども、勢い的に、ということです。
        回が進むにつれ、作業が上手になってきている感じです。素晴らしい。勢いが止まらない。
        ここに進捗を書く暇もなかったほどです。
        エンジンの機能面でも取り立てて問題はなさそう。
        
        エンジンの機能面。1つ心配してたのはですね、スクリプトの容量が増えるとどうなるか? ということです。
        スケーラビリティ? を全然意識してない作りなのですが、今のところ全然問題ない。
        この分なら、このまま最後までいけそうです。
        ちなみにスケーラビリティという単語はブロックチェーン関係で覚えました。ありがとうございます。
        
        あと、ストーリーの内容面はどうでした?
        今回もですねぇ、前回と同じくですねぇ、内容を忘れてる箇所が多々あったので、
        新鮮な気持ちで読み進めながらの作業でしたよー。
        実はちょっと心配な点もあったのですけど、読み返してみると全然問題なかった。
        いつもながらの南無阿弥陀仏っぷり。素晴らしい。
        
        さて、なんだかんだ言いつつ、スクリプトもこれで3分の2が終了したのですね。
        と、思ったら小間違い。キャラ的には3分の2なのですけれども、分量的にはそうでもない。
        次の3rdヒロ子氏のルートがですねぇ、大長編の連続なのでした。そうでした。
        量だけで比較すると、3rdヒロ子氏のルート全体は、1stと2ndのルート全部を合わせたよりも多い。
        1stは原稿用紙換算で約1000枚。2ndも同じぐらい。対し、3rdは約3000枚。
        ということは、つまり、分量的に言うと、まだ半分も終わってないのですね。ぎゃふん。
        どうしようかな。千里の道を一歩ずつ進んでたら命がいくつあっても足りませんね。
        しかしやるしかありません。
        
        もうちょっと何か速度的なスピードを向上的にアップできるようなイノベーティブなソリューションがないかなぁ。
        たとえば地球の回転速度を遅くするとか、何かそういううまい方法がきっとあると思うのですよ。
        ですよねー、そうなのですよねー。時間がかかる。そこがつらい。
        作業そのものが疲れる、ということよりも時間がかかるというのがつらい。
        走れば走るほど遅れていく感じがする。
        確かに進んではいる。それはそうなのですが、私が走る以上の速度で地球が回る。実にけしからんことです。
        ねぇねぇ、私、走るからさぁ、その間、止まっててよ。とか言ってる間にも回ってる。このヤロー。
        
        それからもう1つ大事なことがあります。私は疲れました。休みたい。
        エネルギーの前借りってできないものなのかな。
        これが完成した直後に死んでもいいから、疲れずに突っ走りたい。
        やる意志はあるのに、やれなくなる瞬間がある。
        作業そのものはわりと単純作業で、頭を使う必要はそれほどなくて、何をすればいいかは明白なのに、
        「どうしても無理!」になる瞬間がある。寝るしかない。
        どんなカフェインを飲めばいいのでしょう? 誰か教えてください。
        
        休むというのもそうですけど、この作業をしている間、後回しにしている日常のあれこれがいろいろと溜まっていく。
        そういうのも片付けないといけない。
        日常のあれこれというのは、たとえばあなたの幸せを祈るとか、そういうことです。私は忙しい。
        
        あ、それからですねぇ、大事なことと言えば、もう1つあったのでした。
        それは何かと言うと、あなたを愛しているということです。
        
        よーし。
        どうか地球よ、愛の星であれ。
        
        
        
        
        

◆ 2017/02/09
    したこと:
        マインドルのスクリプト入力・1stヒロ子氏の第2話が完了。
        
        久々です。
        調子はどうでした?
        それがですねぇ、それがですねぇ、ブランクっていうんですか? こういうの。
        ほら、数日ぶりじゃないですか。
        いや、作業の手順は忘れてなかったんですけどね。
        でもその、何て言うんでしょう?
        なんか、うまくいかないんですよね。
        いや、うまくいったんですけどね結局。私、頑張りましたから。私、エライから。
        
        めんどくささとの戦いだな〜、って思いました。
        ブランクのせいか、以前にも増してめんどくささで死にそうになりました。いっそ死ぬべきだったかもしれません。
        作業そのものは、そんな難しいことは何にもないんですよ。
        ほら、私頑張ってイノベーティブなソリューションの数々を用意したじゃないですか?
        テキストエディタの奥の方にある秘密の機能とか。Rubyとか。念力とか。
        そのおかげで、作業そのものは実に淡々としたものなのですけれども、
        その分? とにかく純度の高い「めんどくささ」が濃縮果汁還元ということなのかな? ドロリ。
        いやいや、そんなことはないでしょう。
        だって、まさにその「めんどくささ」を緩和するためにこそ、ソリューションがインベントされたのでしょう?
        ん? インベント? イノベート? 多分似たようなものです。あいまいに発音してごまかそう。
        で、その「めんどくささ」の話なのですけど、
        
        なんでこんなにめんどくさいのか? と考えたのですよ。
        そして一つの啓示を得ました。
        それは、文章の中身を読まずにスクリプト化の作業「だけ」をやろうとするから、
        だと思います。
        
        中身は無視して、スクリプト化の作業「だけ」に注力する方が省エネになるに違いないぜ、
        とエキサイトして鼻息を荒くして二酸化炭素を出しまくってましたし、
        実際、その方が作業量そのものは減るはずなのですけど、
        それをしてしまうと、
        自分が何をしているのか
        が、わからなくなってしまう。
        ストーリーの内容と無関係に記号の操作だけをやる。それはただひたすらめんどくさい作業。
        つまり言い換えると、「なんで勉強しなきゃいけないの?」っていうお馴染みの同じミ、ミミ……、
        今ちょっと頑張って「み」で始まる単語を考えてダジャレを完成させようとしたんですけども、
        思いつかなかったので許してください。ダジャレ未遂です。未遂だから罪が軽い。
        それで、えっと、何でしたっけ? 自分が何をしているのかわからなくなってしまった。めんどくさい。
        そう、まさにそういうことです。
        作業中、言葉にこそしませんでしたが、あえて言語化するならば、
        「何でこんな作業しなきゃいけないんだろう?」
        と、ずーっと感じていた。それが「めんどくささ」の実体だったのだと思います。
        あまりのめんどくささに作業中、一体何度死のうと思ったことでしょう。
        どうしてあなた、私を殺しに来てくれなかったんですか? 私、あなたを一生恨みます!
        
        それで途中から作戦を切り替えてですね、
        中身を読みながら作業を進めることにしたのですよ。
        するとアラ不思議、ススイのスイ〜っと進むじゃありませんか。
        というのは嘘で、やっぱりめんどくさいものはめんどくさい。
        しかし、苦痛の度合いは、相当程度に軽減されました。だからあなたを恨むのはやめておいてあげます。
        
        
        考えてみると、こういうことってよくありますよね?
        一生恨むと思っていた相手のことを、気がついたら好きになっていたとか。
        いや、そっちじゃなくて、意味がわからないからめんどくさい件。
        これはまさに現代社会そのものです。
        高度に分業化が進んで、個人と社会全体のつながりが見えにくくなっている。
        自分がしている仕事に何の意味があるのかがわからない。ゆえにめんどくさい。死にたくなる。
        
        そこで求められるのは桶屋を儲けさせる風を感じることです。
        さてその風はどこから吹いているのかといえば、他ならぬこの私の鼻息だった。あなたのオナラだった。
        何気ない一挙手一投足が世界と有機的につながっている。
        目を閉じると地球の裏側からサンバのリズムが聴こえてくる。もはや踊るしかない。
        
        
        最初にブランクと言いましたが、
        ブランクのせいで作業手順を忘れることはあっても、
        ブランクのせいでめんどくささが増加するというのはどう理解したらいいのか?
        だからつまり、作業手順というよりも、態度の問題ということですね。
        今思うと、以前の作業のときは、なんだかんだ言って文章の中身を読みながらやってた気がします。
        気がしますじゃなくて、忘れていたストーリーを新鮮な気持ちで読み進めながら作業していたのでした。
        そうですよ。これですよ。
        回り道なように見えて、実際その通りなのでしょうけど、
        その時点その時点での、自分が今していること、しようとしていること、の、意味を感じながら作業する、
        というのは意味のあることなのだと思います。
        意味を感じながら作業するのは意味のあることなのだと思います。
        頭が痛いというのは頭痛なのだと思います。うん、正しい。我、正覚を得たり。
        
        ただし、それだけでイッキにヤルキがニョキーンと飛び出してビヨーンと作業がハカドるかと言えば、
        そういうわけではない。その点を誤解してはならない。
        やっぱり、めんどくさいものはめんどくさい。
        根源的な「めんどくささ」というものは観念や思想で思い通りに操作できるものではない。
        その点を誤解するとうつ病の人を殺してしまう。
        
        あとですねぇ、めんどくささの原因について、もう一つ思い当たるフシがあるのですよ。
        それは何かというと、カレーです。
        先日、みそ汁にカレー粉を入れたらカレーになるという錬金術を発見しましてですね、
        それ以来カレー食べまくってたんですよ。
        そしたら何か、頭がボーッとするのですよ。
        カレー粉って香辛料じゃないですか。きっと何かヤバイものが入ってるんですよ。
        そう思ってパッケージの内容説明を見てみたら、ナツメグが入ってらっしゃるんですね。
        ナツメグっていうとあなた、あれじゃないですか。たくさん食べるとオモシロイことになるってネットで評判の。
        つまり、オモシロイことになりかけていたのかもしれません。今はもう完璧に治ってますけどね。
        
        
        > 「何でこんな作業しなきゃいけないんだろう?」
        
        あなたを愛しているからです。
        あなたの幸せを願うがゆえに、私はこの作業を続けるのです。
        ストーリーの内容に触れながら作業することで、それを思い出すことができる。パワァがみなぎってくる。
        ただしカレーを食べすぎてはいけない。カレーは危険です。
        でも危険とわかっているからこそ食べる。それもまたカレーです。
        
        あ、あとコショウも結構危険ですね。
        以前、粗挽きのやつを缶で買ってきて、スプーンですくって食べてたら、
        なんか徐々に指先が冷たくなってきて、手が震え始めるんですよ。
        そして鼻水が止まらなくなる。ちなみに夏の出来事でした。
        冬にそうなったらツラそうなので、コショウを食べるのは暖かい季節にしようと思います。
        
        
        
        で、どうなんですか?
        なんか気がついたらこうして1stヒロ子氏のスクリプトの作業に着手してしまっているのですけども、
        このまま走り続ける予定なのですか?
        思うところはいろいろある。
        
        ただね、「もしかして他の作業を先にやった方がいいのかな〜」というのも、
        「本当はこんな作業してる場合じゃないんじゃないかな〜」
        という代謝経路を経て「めんどくさい」に変化しますからね。
        何も考えずに突っ走るのが最強かもしれません。
        でも私は考えます。さまざまなことを同時に考えながら作業します。
        なぜならそれが人間だからです。
        あなたが幸せでありますように〜、って思いながら作業します。
        
        あ、なんかうまくまとまったみたいな感じになってきましたね。
        じゃあ今日はこのへんで。
        
        
        
        

◆ 2017/02/06
    思ったこと:
        自分と世界との結びつきは客観的な事実である。
        
        
        たとえば何か社会問題や地球規模の問題について云々して、
        いやー、深刻だねー、大変だねー、という話になっても、
        じゃあ結局、俺らや私らのような一般庶民には何ができるのか?
        というところで話が行き止まりになってしまう。
        それで結局、うちらみたいなしがない庶民が何言ってもしょうがないよねー、よねー、YONE〜
        と、酒を飲んでテレビを見てギャハハと笑って翌日頭いてーとか言いながら出勤して何もかも忘れてしまう。
        
        だから、課題はこの点です。
        「いかにして自分と世界との結びつきを認識するか?」
        
        この認識を獲得しない限り、一歩も前に進めない。
        世界との結びつきのない「しがない庶民」にできるのは
        酒を飲んでギャハハと笑って出勤することだけだからです。
        
        いかにして認識するか? と言いましたが、
        わざわざ認識するまでもなく、すでに個人と世界とはつながっています。客観的な事実です。
        そもそも「個人と世界」という分け方自体が表面的な形式に過ぎません。
        
        
        自分のいかなる些細な行動も世の中全体の動きとつながっている。
        
        何度でも言いますが、これは事実です。
        
        別に何かカッコつけて言ってるわけでもなんでもなく、
        端的な事実です。客観的な事実です。
        
        たとえば何気なく呼吸をしているだけで、風向きに影響を与えて、
        地球の裏側で暴風雨を引き起こして、大勢の人に大迷惑を与えているかもしれない。
        
        どんなに些細な行動でも、風が吹いて桶屋が儲かりまくって、
        グローバル桶屋企業になって、私設の軍隊を創設して、
        核兵器を開発して、核戦争をおっぱじめて地球が滅ぶかもしれない。
        
        繰り返しますが、これは事実です。
        常にそういう可能性がある。
        自分のいかなる些細な行動も、世の中全体の動きとつながっている。
        
        後はそれをどれだけ意識するか、しないか、
        私の心がけ次第です。あなたの心がけ次第です。
        
        この意識を放棄したとき、
        とある一人の人間は酒を飲んでギャハハと笑って出勤するしかない「しがない庶民」になる。
        
        このことを意識するとき、
        一人の人間は世界とのつながりを回復する。
        酒を飲んでギャハハと笑うとき、その酒がそこに存在することの意味を認識できるようになる。
        ギャハハと笑うことの意味を認識できるようになる。
        
        たとえば何か社会問題や地球規模の問題について云々して、
        いやー、深刻だねー、大変だねー、という話になって、
        じゃあ結局、俺らや私らのような一般庶民には何ができるのか?
        というところで話が行き止まりになることはない。
        
        いかなる社会問題や地球規模の問題であれ、
        自分と無関係ではあり得ないということがわかるからです。
        
        あなたがさっきタンスのカドに足の小指をぶつけて今も痛みが残っていることが、
        私と無関係ではあり得ないということがわかるからです。
        いたいのいたいのとんでけー。
        
        どうか今日もあなたが幸せでありますように。
        
        
        
    
    
◆ 2017/02/05
    したこと:
        コミPo!がLinuxで動いた!
        
        
        道のりは平坦ではありませんでしたが、艱難辛苦の果てに起動に成功しました。
        武勇伝を語りたいのはやまやまですが、まずは「実際にしたこと」を列挙します。
        
        ・sudo apt-get install libp11-kit-gnome-keyring:i386
        ・sudo apt-get install p11-kit-modules:i386
        ・Wineのプレフィックスを32bit用に作り直す($HOME/.wine をリネーム(退避)して、WINEARCH=win32 wine wineboot)
        ・winetricks dotnet20
        ・winetricks dotnet30
        ・Wineのバージョンを1.6 から 1.8 にアップデート
        
        以上の作業をした上で wine ComiPo.exe でコミPo!が起動したぜ! ヒャッハー!
        なお、結果的に動作はしたものの、上記の作業の因果関係はあんまりよくわかってません。でも起動したぜ! ヒャッハー!
        
        申し遅れましたがディストリビューションは Linux Mint17.2 です。Wineのバージョンは1.6でした。
        
        では武勇伝。ついでに解説も。
        
        まず、コミPo!のインストーラーは普通にダブルクリックで動きました。Wineエライ。
        適当なフォルダを指定してファイルを展開。
        出てきた ComiPo.exe を喜び勇んでダブルクリック! しかしエラー!
        だがエラーが出てからが本番だ。それがWine道。
        
        エラーメッセージを見るために、コマンドラインで実行します。
        
        $ wine ComiPo.exe
        
        すると何だかわらわらと文言が出てくる。
        目を皿のようにして、その中からエラーっぽい文言を探す。
        
> p11-kit: couldn't load module: /usr/lib/i386-linux-gnu/pkcs11/p11-kit-trust.so: /usr/lib/i386-linux-gnu/pkcs11/p11-kit-trust.so: 共有オブジェクトファイルを開けません: そのようなファイルやディレクトリはありません > p11-kit: couldn't load module: /usr/lib/i386-linux-gnu/pkcs11/gnome-keyring-pkcs11.so: /usr/lib/i386-linux-gnu/pkcs11/gnome-keyring-pkcs11.so: 共有オブジェクトファイルを開けません: そのようなファイルやディレクトリはありません
これだ! というわけで「ない」と言われているファイル名をネットで検索。 次のコマンドで入手できるんですって。 $ sudo apt-get install libp11-kit-gnome-keyring:i386 $ sudo apt-get install p11-kit-modules:i386 早速実行。そして再び wine ComiPo.exe しかしまだ起動しない。 次のエラーっぽい文言はこれ↓
> fixme:msvcm:CrtImplementationDetails_DoDllLanguageSupportValidation stub > wine: Unhandled page fault on write access to 0xe74db234 at address 0x1190426 (thread 0009), starting debugger... > Unhandled exception: page fault on write access to 0xe74db234 in 32-bit code (0x01190426).
fixme (私を直して) と言われたからには見過ごせません。 さて msvcm というのは一体どんな悪者なのだろう? stub とか言ってるからきっと刃物を持ってる危険なやつに違いない。 と思って今辞書で調べたら、それは stub じゃなくて stab だった。辞書め! で、いろいろ調べて、結局 msvcm の何たるかはよくわからなかったのですが、 結果的には.NETをインストールしたら解決しました。因果関係は不明です。 ちなみにこの msvcm の件で100回ぐらい諦めかけました。.NETにたどり着いたのは仏の導きです。 仏のお告げによると、winetricks で.NETをインストールするにはこうすればいいらしいですよ。 ↓ $ winetricks dotnet20 $ winetricks dotnet30 ところが、なんか64bit環境では.NETはインストールできない、みたいなエラーが出るので、 先にWineの環境を32bitに変更です。 $HOME/.wineをリネーム(つまり退避)して、 $ WINEARCH=win32 wine wineboot を実行。 32bit設定でプレフィックスが生成される。 何をしているのかと言うと、 Wineの環境変数 WINEARCH に「アーキテクチャはwin32ですよ」と設定した上で、プレフィックスを再生成しています。 生成後の.wineフォルダを見てみると、 Program Files(x86)フォルダがなくなってる。windows/syswow64 もない。つまり無事に32bit設定になったってことだぜ。 その上で改めて.NETのインストールを実行。 ちなみにコミPo!用に必要なのは.NET3.0なのですが、 先に2.0を入れておかないと3.0がインストールできないみたいなので上の手順です。 今度は無事にインストール成功。 そして再び wine ComiPo.exe。 するとついに……起動した! 起動したぁーーー!! ビックリマーク2つでいいの? 許されるなら世界中のディスプレイをビックリマークで埋めたい。 このときの感動をあなたにお届けするには上記の msvcm の件での長く虚しい戦いを語らなければならないのですが、 それをすると原稿用紙ン百枚の大長編になってしまうので割愛します。想像してね! さて、この時点で一応そこそこ動きました。 キャラクターを作成したりできる。 しかし異様に重い。しかも、ちょっと操作するたびに落ちる。 いやぁ〜、でも一応起動はしたし、もともと動作対象外の環境だし、贅沢は言えないよな〜、このへんが限界かな〜、 と思ったんですが、 この時点で使っていたWineはディストロのリポジトリに入っていたものであり、最新版ではないことに気づく。 もうできることは他になさそうだし、ダメ元で上位バージョンを試してみる。 リポジトリを追加してWineを更新。 $ sudo add-apt-repository ppa:ubuntu-wine/ppa $ sudo apt-get update $ sudo apt-get install wine1.8 Wine自体の公式での最新バージョンはもうちょっと先を行っているようですが、 Ubuntu系ディストロ用に公開されている中ではこの時点では1.8が最新のようでした。 あ、ちなみにLinuxMintなので、リポジトリはUbuntuさんのを間借りしているのです。 さて、無事にアップデート完了。 ひょっとするとバージョンを変えた影響で起動しなくなってるかな〜、それもご愛嬌、 などと、あんまり期待せずに再び wine ComiPo.exe。 すると無事に起動。 しかも動作が如実に軽くなってるぞ。すごい。バージョンアップはダテじゃない。Wineの中の人エライ! しかし編集画面に何も表示されない。 ただ、オブジェクトを追加して「画像出力」をしてみると、それっぽい画像が生成される。 つまり、見えないけれど、内部的には動作はしている様子。 多分何か3Dの描画の関係でつまづいてるんだろうな〜、予想通り予想通り。 やっぱWindows上で動かさないと、そういうややこしいのは無理かな〜、 と諦めぎみに、コミPo!の上部メニューから関連しそうな設定項目を探す。 「ツール>環境設定」の中に「画面表示」という設定画面を発見。 「編集画面の描画にハードウェア支援(Direct2D)を使用して高速化する」 という贅沢っぽいチョイスにチェックが入っていたので外す。 するとパチっと編集画面が表示された。 え? マジで? と思ったんですが、本当に表示された。 あとはもうパラダイスです。 別にテクスチャが真っ黒になるでもなく、Zバッファがぐちゃぐちゃになるでもなく、 期待してたような派手な3D乱れ祭りは起きてない様子。 あんまりアッサリと動いてくれてるものだから拍子抜けするぐらいです。 仮に起動しても、どうせモッサリ&不安定で使い物にはならないだろうな〜、と思っていたのですが、そんなことも全然ない。 充分これでイケそうですよ。 ただし、うまくいかない機能もありました。 ・フキダシを表示させると、フキダシの周囲の背景が真っ黒になる。 ・フキダシ内のセリフを縦書きにすると表示されなくなる(横書きなら表示された) ・集中線を表示させても真っ黒にしかならない。 真っ黒になるのは背景の透過処理に問題があるのかな? どこかに元画像が入ってるなら、それをイジればあるいは…… と思ってインストールフォルダ以下を探してみたのですが、見当たらない。内部で生成してるのかな? ならばお手上げだぜ。 でも私の場合はマインドルのストーリーパート用の立ち絵を作るのが目的なので、フキダシも集中線も必要ない。 どうしても必要になったら画像を出力した後、GIMPか何かで加工すればいいじゃない。 最も肝心な「3Dでキャラをエディットして表示」という部分は問題なく使える感じです。素晴らしいの一言。 まだ何か解決策はあるのかもしれませんが、私的にはこれで満足です。ゆえに実験は終了。 フキダシや集中線が必要な使い方をする予定の人は頑張ってみてね。 それにしても、ここまで動いてくれるとは期待以上です。 普段Linuxしか使ってないので、このソフトのためだけにWindowsマシンに電源入れて2台のワラジで作業するのは面倒くさいな〜、 しかもライセンス上、インストールできる台数が限定されてるみたいだし、そこもちょっと神経削る問題だな〜、 と思ってたので、Linuxだけでなんとかなりそうというのはとても嬉しいことです。 よし、Linuxにインストールして使い続ける心づもりで製品版を購入するぞ! あ、ちなみに大事なことを言い忘れてたのですが、上述のように、今回の実験は体験版でのものです。 つまり製品版でも同じように動いてくれるとは限らない? いやいや、体験版が動いたんなら製品版も動くでしょう? そのための「体験」版でしょう? と思いたいところではありますが、そもそも動作保証対象外の動作環境ですからね。 何が起きても受け入れざるを得ない。変なニオイとか出ても受け入れざるを得ない。 仮に今は動いても今後のコミPo!のアップデートで動かなくならないとも限らない。 いや、でも、手元にWindowsマシンがないわけじゃないし、 そうなったらそうなったで、おとなしくWindows使えばいいじゃない。パンがなければWindowsを食べればいいじゃない。 そもそも、もともとはそのつもりでしたからね。 今回の実験結果はあくまでラッキーということで、あんまりはしゃぎすぎないことにしよう。 ヒャッハーじゃなくてヒャハ、ぐらいで。メラゾーマじゃなくてメラミ、ぐらいで。 Windows7のサポートが切れた後なら、Windows10を買えばいいじゃない。イヤですけど。 汎用的な画像編集ソフトとかオフィススイートとかならLinux用のソフトで大体何でもそろって何も困らないんですけど、 こういう特殊な用途のソフトはWindows版しか存在しなかったりしますよね。 まさにこういうときのためのWineです。 今回、見事に活躍してくれたWineさんには大感謝です。あ、もちろんコミPo!さんにも大感謝です。 さて、製品版も同じように動いてくれるでしょうか? ドキドキしながら金を使うぜ。 ところで今思ったんですが、 Wineのバージョンアップを最後にやってますが、 もしかすると、これを最初にやっていれば、それ以前の作業は必要なかったんじゃないでしょうか? なんか私的には「いろいろガンバッテ起動にこぎつけたぜ!」みたいな達成感に浸っているのですけれども、 バージョンアップが全てを解決しているなら、実際にガンバッタのは私ではなく、Wineの中の人ですよね。 しかし実際どうなのでしょう? 喜び勇んでこうして手順をネットに書いた身分としては、確認しておくべきであろう、デマを拡散してはイカン。 と、持ち前の義侠心に突き動かされて環境を巻き戻しかけたりもしたのですが、 私には前に進まなければならない使命があるので、そんな面倒な検証作業は断腸の思いで諦めました。 もしよかったら、あなた、いろいろ試してみると楽しいと思うですよ。 ところで断腸って痛そうですよね。どんな思いなのかな? できれば知りたくないですね。 ◆ 2017/01/31 思ったこと: 「他人だからしょうがない」というドン詰まり:そして私へ帰ってくる たとえば何か、いわゆる「マナー違反的なこと」をしている人を見かけたとします。 その人が若い人だった場合は 「まぁ若いんだししょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人が老人であった場合は 「まぁ年寄りなんだししょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人が両手に荷物を抱えた買い帰りの主婦だった場合は 「まぁ両手に荷物を抱えた買い物帰りの主婦なんだししょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人がスーツを着込んだビジネスマン風の人物だった場合は 「まぁスーツを着込んだビジネスマンなんだししょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人がホームレス風の人物だった場合は 「まぁホームレスなんだししょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人が外国人だった場合は 「まぁ外国人なんだししょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人がサルだった場合は 「まぁサルなんだからしょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人が猫型ロボットだった場合は 「まぁ猫型ロボットなんだからしょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人がプレアデス星人だった場合は 「まぁプレアデス星人なんだからしょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人がヘビー級チャンピオンだった場合は 「まぁヘビー級チャンピオンなんだからしょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 その人が内閣総理大臣だった場合は 「まぁ内閣総理大臣なんだからしょうがないか」という諦め方が成立するかもしれない。 つまりどういうことか? 一言でまとめると、こういうことです。 「まぁ他人なんだからしょうがないか」 では、この諦めメソッドは万能なのか? いいえ、万能ではありません。 このメソッドが使えるのは対象が他人である場合のみです。 すなわち、自分には使えない。 「他人だからしょうがないか」とは言えても、同じように「自分だからしょうがないか」とは言えない。 他人の行動を制御することはできないけれど、自分の行動はそうではないからです。 もしも自分の行動さえも制御できないというならば、それはもはや自分ではありません。 自分が自分であるならば、自分で行動を制御せねばならない。 それを放棄したとき自分は自分ではなくなる。生きている意味がなくなる。 ◆ 2017/01/30 思ったこと: 騒音界のトレンドは廃品回収車から救急車へ 「こちらわぁ〜、廃品回収車でぇぇす。こわれていてもぉぅ、かまいませぇぇぇん」 というスピーカー騒音で一斉を風靡した廃品回収車ですが、 最近めっきり見かけなくなりました。見かけないというか、聞かないというか。 少なくとも私が住んでいる地域には、この業者は来なくなりました。うむ。よいことです。 もちろん他にも似たような業者はいくらでもいます。 しかし、この業者は一味違っていた。 ・一日に何度も来る ・一度来ると近所をぐるぐる回って、なかなか去っていかない 音そのもののやかましさだけでなく、こういう「しつこさ」を兼ね備えることで、 廃品回収車は他の騒音車両の追随を許さないものがありました。 さて、ともかくこの業者はいなくなった。よろこばしいことです。 しかし、最近別の騒音車両が上記のような「しつこさ」を伴って猛威をふるうようになってきた。 その騒音車両とは、救急車です。 ・一日に何度も来る ・一度来ると近所をぐるぐる回って、なかなか去っていかない 最近の救急車はこの二つの特性を見事に備えています。 > 一日に何度も来る そりゃあ、急患がいつ発生するかはわからないのだから、 一日に何度だって出動するでしょう。そりゃそうです。 しかし、それにしたって、数が多過ぎる。 正確に数えてるわけじゃないですが、ここ最近、明らかに増えています。 しかも廃品回収車と違って、夜中でも出現する。 「静けさが一応なりとも保証されている時間帯」というものが消滅してしまった! 廃品回収車よりもタチが悪い。本当に最悪です。 もちろん、たまにだったら話は別ですよ? たまに急病や怪我で救急車を呼ぶ。致し方ないところです。私だってお世話になる可能性がある。 でも、全然「たまに」じゃないんです。 毎日。毎晩。何度も。 別に私、大通り沿いに住んでるわけじゃないんです。病院の近くでもない。それでも聴こえてくる。 大通り沿いや病院の近くに住んでる人はきっともっと大変でしょう。この街はもう人が住める街じゃない。 以前はこんなんじゃなかった。どうなってんの??? > 一度来ると近所をぐるぐる回って、なかなか去っていかない 昔は救急車といえば「ドップラー効果」でした。 近づいてくるときと離れていくときとで音の調子が変化する例の現象です。 よく、子供向けの科学雑誌なんかに、図解入りで原理が解説されてたりしましたね。 しかし、最近の救急車のサイレンって、ドップラー効果、発生してませんよね? いつまでも同じような調子で、つかず離れず、サイレンを鳴り響かせている。 これは実に不可解なことです。 急患を一刻も早く搬送するのが救急車ですよね? そのためにこそ、大音量でサイレンを鳴らしてるんですよね? だったら、さっさと通り過ぎてくれればいいのに。 しかし、なかなか去っていかない。 一体何なのでしょう? 本当に不思議です。 と、いうようにですね、 かつて騒音車両として一斉を風靡した廃品回収車に負けず劣らず、 いや、それをも凌ぐ悪質さを引っさげて、救急車が騒音界を席巻している。 しかも「救急車」というところが恐ろしい。 文句を言えない。批判のしようがない。 救急車様には誰も逆らえない。 「救急車」は最高権力者です。 その最高権力者である救急車様がご乱心している。 廃品回収車は中の人がヤ○ザまがいだったりもする、という悪評がありました。 だからこそ、批判がしやすかった。 悪人が悪人の顔をしていた。 「おいらは悪人ですよ」と自分から言っていた。実のところ、そんな悪人は恐るるに足らない。 真に恐るべきは「善」の顔をした「悪」です。 救急車が「悪」だって? そんなバカな。ああ、そうだな。バカに決まってるさ。 救急車様を悪人呼ばわりするだなんて、そいつこそキチガイに決まってるさ。 あっはははー。ピーポー。あっはははー。ピーポー。 救急車の騒音を擁護する理屈なら存じ上げております。 救急車を騒音呼ばわりする輩をキチガイ認定する理屈も存じ上げております。 ええ。よーーーーーっっく存じ上げております。みなまで言うな。 言わなくてもわかってます。それらは「成立」します。反論は無駄な抵抗だ。 人の命がかかってるのに騒音だなんてケシカラン! ついに救急車にまで文句を言うようになったか! キチガイここに極まれり! ええ、はいはい。そうですね。 あなた方の言ってることは「成立」してますよ。 なぜなら、救急車は最高権力者だからです。 だからこそ言わねばならない。 ¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡ その最高権力者が乱心しているから大変なんです !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 思ったこと: 「あんたより苦労してる人だっているんだ!」というイカサマ たとえば学校騒音について文句を言うと、 「学校の近くに住んでるのが悪い」と言われる。 救急車騒音について文句を言うと、 「病院の近くに住んでるのが悪い」と言われる。 学校の近くに住んでるわけじゃなくても、チャイムや通学路の関係で騒音被害を受けることはある。 しかしそれについて文句を言うと、 「学校の近くに住んでる人はあんたよりもっと苦労してるんだ! キサマは我慢が足りない!」と言われる。 病院の近くに住んでるわけじゃなくても、救急車のサイレンは街中に騒音をまき散らす。 しかしそれについて文句を言うと、 「病院の近くに住んでる人はあんたよりもっと苦労してるんだ! キサマは我慢が足りない!」と言われる。 結局、どういう状況でも「文句を言うな!」と言われる。 どんなことであれ、 人によって受ける被害の度合いは異なるでしょう。 上には上がいる、じゃないですが、常に「自分よりも大きな被害を受けている人」がいる。 だから、いつだって、 「あんたより苦労してる人だっているんだ!」というお説教が成立してしまう。 つまり、こういうお説教はイカサマ、ということです。 いつだって無条件で成立してるということは、何も言ってないのと同じだからです。 怖い顔して言うのでしょうけれど、騙されるな! 本当は、我慢なんかせず、どんどん声を上げていけばいいはず。 それで、少しずつ、世の中を、人間にとって住みやすい場所にしていけばいい。 「自分よりももっと苦しんでいる人がいる」からこそ、率先して自分が声を上げる。 「自分よりももっと苦しんでいる人がいる」という理由で「じゃあ自分も我慢」していたら、 「自分よりは苦しんでない人」全員に我慢を強要することになってしまいます。 だって「俺様は我慢してるのに、キサマらはその程度で文句を言うのか!」ってなるでしょう? 逆に、自分が声を上げていけば、 「自分よりも苦しんでる人」の「我慢しなきゃいけない理由」も成立しなくなる。 お互いに得をする。 まとめると、こういうことです。 自分が我慢すると、他の人にも我慢を押し付けることになる。 ¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡¡ 我慢は悪徳です !!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ◆ 2017/01/29 思ったこと: 自殺に理由なんていらない 生きるのに理由がないのと同じように、死ぬのにも理由なんてない。 たとえば、生きていて嫌なことがあって、それで死のうと思う、とする。 しかしそれは死ぬ理由ではない。 自殺を考えるキッカケに過ぎないのであって、死ぬ理由そのものではない。 死は常に目の前にある。 それを忘れていただけ。 生きていて嫌なことがある。 そうまでして生きる理由はあるのか? と、思いを巡らせる。 なるほど、生きるのに理由なんてなかったのだと気付く。 ならば理由なく続けていることをやめるのにも理由は必要ないと気付く。 そのように気付いた事実、 と、 そのキッカケとなった「嫌なこと」 は別のことです。 いつ死を選んでも何の不思議もない。 「理由」のように見えるものをいくら探っても何も出てこない。 「理由」のように見えたものをいくら潰しても「死」は常にそこにある。 思ったこと: 「簡単に死ぬとか言うな」の「簡単に」とは「何が」簡単なのか? 何か「もう死ぬぅぅぅ」と言いたくなるような心情があるとする。 しかし「死ぬ」という単語を使わなくてもその心情を表現できたりもする、とする。 ならば、むやみに「死ぬ」という単語を使う必要はないのではないか? 「簡単に死ぬとか言うな」というお馴染みのお説教が、 "そういう意味" であるのなら、 それなりに一理あるような気はします。一般論として。 先日、とある「自殺志願者が語り合う」という主旨の掲示板を見ました。 自殺大好きっ子の私としては、かなり期待してたんですよ。 どんなことが語られてるのかな〜ワクワク、って。 が、そこで語られている「お悩み」の大半は、 あれ? これって別に「死ぬ」という単語を使わなくても語れる内容なんじゃない? と、少なくとも私には思えるものばかりでした。 それぞれの「お悩み」の内容は、それぞれに深刻なものには違いないんです。 そのことは行間から痛いほど伝わってくるんです。 しかしながら、そこで使われている「死にたい」というフレーズは、 「とても困っています」ということの言い換えでしかない。 どれこもこれも「理由がある」んです。 なぜ「死にたい」と言っているのか? という「理由」がある。 たとえばイジメであったり、金銭的なことであったり、その他もろもろの人間関係のトラブルであったり、 ともかく、何らかの理由・事情がある。 そのことで「とても困って」いる。 それを言い表して「死にたい」と言っている。 「自殺志願者が語り合う」とは言うものの、 つまり、「死」そのものについて語っているのではないんです。 個々の理由・事情、について語り合っている。 またはそうした理由・事情のゆえに精神的にとても疲れた、ということを語り合っている。 「死」そのものではない。 「死」そのものと表裏一体であるところの「生」そのものでもない。 直接的に「死」について語っているわけではない。 「死ぬ」とはどういうことか? 「生きる」とはどういうことか? 人間はどうしてこの世に生まれてくるのか? この世とは一体何なのか? この宇宙に一体何の意味があるのか? 人間とは何か? 「私」とは何か? 「あなた」とは何か? 意識とは何なのか? そういった、生き死にに直接的に関わる根本問題について、一切合切、まったく、語られていない。 とても頻繁に「死にたい」という言葉が飛び交っているけれど、 それは単に「トラブルに遭って非常に困っている」ということの言い換えでしかない。 「単に……しかない」などと言っては失礼かもしれません。 それぞれに深刻であることに違いはない。 後ろ向きな気持ちにならざるを得ないぐらい深刻、とは言えるでしょう。追い詰められているのは事実でしょう。 しかしながら、それと「死」ということとは、やっぱり、別次元の話です。 平たく言えば「世間のゴタゴタ」の一部です。「死」の話ではない。 将棋で言えば「もう投了したい……」ということなのであって、 将棋そのものの存在価値を問うているわけではない。人はなぜ将棋をするのか? と問うているわけでもない。 「飛車も角も取られちゃったよ〜、うわ〜ん」と言っているだけです。あくまでも将棋板の内側でしか思考していない。 繰り返しになりますが、 問題解決の難易度が高い、ということには違いないんです。 しかし、それは「死」そのものとは別次元の話です。 あるいはもっと単純に「分野が違う」と言った方がいいかもしれません。 だって、言葉の上では「もう死にたい……」などと言いまくってますけど、 その困ってる理由や事情が解決したら、 「死」のことなんてすっかり忘れちゃうんでしょう? そうでもないですか? その掲示板では、定期的に「簡単に死ぬとか言うな」系のお説教野郎が降臨していて、 当然ながら、非常に嫌われている。 もちろん掲示板の「利用規約」の中でも、そうしたお説教は慎むように提言されている。 そりゃそうです。わかります。 しかしながら、しかしながら、 言いたくはないのですけれども、あれでは、 「簡単に死ぬとか言うな」などと外野から野次られてしまっても仕方がない気がしないでもありません。 もしろん、私は言いませんけどね。そんな野暮なこと。 あと、留意したいのは「簡単に死ぬとか言うな」的なセリフを、どういう意図で言っているのか? です。 その掲示板にときどき出現しているお説教野郎の書き込みを見る限り、 私が上で書いたような理由で言っているようには見えない。 聞こえのいいお説教の言葉を振りかざしてカッコつけたいだけです。多分。 何にせよ、困っている当事者の問題に向き合っているとは言えない。 的外れなお説教をしてはいけない。 ただ、なぜそういうお説教野郎が出現するかと言えば、 無闇に「死にたい」という単語を使っているから、です。 本当は「死にたい」という単語を使わなくても「すごく困っている」ということを表現できるはず。 そのことが、余計なお説教野郎を呼び寄せる「隙」になっているという点は否めないとは思います。 たとえば金銭的な理由で「死にたい……」と言っているのに、 「死にたい……」というセリフにお説教野郎が群がってきて「簡単に死ぬとか言うなんてケシカラン! ラララのラン!」 とかなんとか騒ぎ出して、肝心の金銭面での問題に向き合う話ができなくなったら困りますよね? その意味で「うっかり "死にたい" とか言わない方がいいんじゃないですか?」 とは言いたくなるところです。言いませんけど。 そして的外れなお説教と言えば、 私がここで言っていることも彼ら彼女らにとっては的外れでしょう。 その掲示板に書き込みをしている人たちは、別に「死」に興味があるのではない。 私は「死」に興味がある。 私 と 彼ら彼女ら とでは、興味の対象が違う。 だから私が「そんなの "死" の話じゃないじゃん!」などと言うのも、 お説教野郎の「ラララのラン!」と同じぐらい「的外れ」と言わねばならない。 > だって、その困ってる理由や事情が解決したら、 >「死」のことなんてすっかり忘れちゃうんでしょう? そうでもないですか? もしかすると、逆かもしれない。 本当は「死」そのものに関心があるのだけれど、 それを語る言葉を持っておらず、 そうした個々具体的な「理由・事情」を持ち出す以外に術を知らない、ということなのかもしれない。 生まれ変わり、ということがもしも存在しないならば、ですが、 今この時点で生きている人の数よりも、すでに死んだ人の数の方が圧倒的に多い。 つまり、ほとんどの人は死んでいるんです。 この宇宙は死者であふれている。 その中で、生きている人間はほんの一握りの例外的な存在です。 本当は誰もが死のことを知っているのかもしれない。 しかしそれを語る言葉がない。 何か特殊な理由や事情に託して、ズレた角度ながら、死の側が、死を思い出すように語りかけてきているのかもしれない。 思ったこと: 理由のある自殺はそれほど深刻ではない なぜかと言うと、理由がなくなれば自殺しなくていいということだからです。 あ、その前に一つ言い忘れていました。 タイトルの中に「深刻」という単語を入れてしまいましたが、 自殺そのものは深刻でもなんでもないですよね。至って日常的な普通のことだと思います。 わざわざ深刻がるようなことではない。 自殺だから深刻だ、というのは一種の錯覚です。 なぜかと言うと、自殺を考えるキッカケというのは、往々にして(世間的な意味で)深刻なものだからです。 自殺が深刻なのではなく、理由の側が「深刻」なんです。 たとえば酷い虐待を受けているとか、社会的に立ち直れないような状態に陥ってしまったとか、 そうした状況を称して「深刻」という単語を私は上で使いました。使ってしまいました。 だからそれを、自殺を考えるほどである「から」深刻であるとか、 あるいは、自殺とはすべからく深刻なものであるから、それを考慮せしめているその理由たるや言うに及ばず、であるとか、 そうした意味で「深刻」という単語を使ったつもりは、ない、のですけれども、 仮にそういう意味で「深刻」というならば、自殺を語る際に陥りがちな、言葉の用法上の誤りと言えるでしょう。 正確を期すためにもう一度言っておきます。 理由のある自殺(志願)の場合は、自殺(志願)が深刻なのではなく、理由の方こそが深刻というべきです。 ちなみに括弧書きで志願と書いたのはなぜかというと、本当に自殺を実行してしまった場合には、 本当は死ぬことは本望ではなかったはずだという意味で、やはり深刻だからです。 「あんなこと(理由のこと)がなければ死ななくて済んだだろうに……」と、後に残った人が言う。 なるほど。深刻だ。 以下、「自殺」という単語をどちらかと言えば「自殺志願」の意味で使います。適宜読み替えてください。 さて、最初の話に戻ります。 理由があって自殺したいということなのであれば、その理由がなければ自殺したくはならない、ということです。 したがって、それはどこまでも「理由」の側の問題です。 その場合の「自殺云々」というのは、理由の深刻さの結果として、生じるかもしれないこと、です。 または、その「理由」の深刻さを表す「しるし」の一つに過ぎません。 「自殺とか言ってるんだから、きっと深刻に違いないぞ」とかなんとか。 つまり自殺そのものが深刻なのではない、ということです。 深刻なのは、あくまでも、その「理由」の側です。間違えてはいけない。 たとえば「いじめが酷くて死にたい」ということであれば、 いじめが解決すれば死にたいとは思わないということです。 問題は「いじめ」なのであって、「死にたい」ということではない。 だから、繰り返しになるのですが、 理由があって「もう自殺するしかない!」という状態になっていて、「さぁ大変だ!」というのであれば、 そのことの何が「さぁ大変」なのかといえば、取りも直さず、その元々の「理由」が「大変」なのです。 「自殺」というのは、そこでは、問題の本質ではない。 だからそこで「自殺だなんてとんでもない!」などと「お説教」してしまうと、 そもそもの理由の側を置き去りにしてしまうことになる。 自殺志願者と自殺を止めようとする自称善人の間では往々にして話が噛み合わないものです。 それは、もしかすると、問題の本質をお互いに取り違えているせいかもしれません。お互いに、です。 自殺を止めるのが大好きな自称善人は、「すわ自殺か!」と張り切って、 「自殺はイカン! 自殺はイカンぞ!」と眉間にシワを寄せて得意気にお説教をするわけですが、 遺憾ながら、そのお説教は的を外しているのです。イカンだけに。 なぜなら、そこでは自殺が問題なのではなく、自殺を志願させるに至った理由の方こそが問題だからです。 たとえば虐待であるとか、社会的な生活基盤が崩れたことであるとか、そうした「理由」の側を無視して 「自殺」の方だけをターゲットにして「イカンぞイカンぞ!」と呪文を繰り返しても遺憾なだけです。イカンだけに。 もちろん話の流れ上、善人氏も「理由」の方に言及しないわけではないでしょうけれど、 「そんなことで自殺なんてイカン!」と言うばかりで、結局は「理由」の方を軽視した発言をしがちではないでしょうか? つまり善人氏は「自殺」という単語に反応して磁石のように引き寄せられてきたのであって、「理由」には興味がない。 これが例えば「いじめ」や「多重債務」などと具体的な理由にフォーカスした相談事ということであれば、 イカンおじさんが無意味に入り込んでくる余地はかなり減るはず。 しかしイカンおじさんの手にかかると、まるで「自殺」そのものが主たる問題であるかのような見た目になってしまう。 あるいはその「お悩み」を吐露しいる本人も自分が口にしている「死にたいてんてんてん」というセリフの魔力に振り回されて、 自分のお悩みの本質を見失ってしまっているかもしれない。 そして繰り返される「死にたいてんてんてん」に、夜の街灯に集まってくる蛾のようにイカンおじさんが群がってしまう。 こう言うと傷口に塩を塗るようで心苦しいのですが、 「志願者」の方も、苦しみを訴える方法が適切とは言えなかったのかもしれません。 本当は自殺が問題なのではなく、そう思うにいたった理由の方こそが問題であるのに、 「自殺」ということを「ウッカリと」強調してしまったのではないか? そして、もしかすると自分自身も、問題の本質を見誤っていたのではないか? あくまでも理由の側が問題なのであって、自殺そのものが本懐というわけではなかったのではないか? 「志願者」も「善人」も互いに「自殺」という単語に踊らされて、 もともとの「理由」を見失っているのかもしれない。 などと他人事のように涼しげに観察してしまいましたが、 当事者にとってはそれどころではないですよね。 「善人」の方は実際に他人事ですから、飽きたらいつでもお帰りいただいて結構ですが、 そうしている間にも「志願者」の方はどんどん傷を深めていく。 もともとの「理由」だけで、たとえウッカリであるにせよ自殺を考えてしまうほど深刻だったのに、 それを自称善人な常識おじさんに引っ掻き回されて余計な傷を増やされてしまった。 挙句に本当に自殺してしまっては目も当てられません。 だからこれは悲劇なんです。 一刻を争う、のっぴきならない悲劇なんです。 タイトルでは敢えて挑発的に「深刻じゃない」なんて書いてしまいましたが、 理由があるということは、やはり、その理由で苦しんでいるということに他なりません。 それなのに、その理由を解決するという建設的な方向へは向かうことができず、 「自殺」という隘路に陥って遭難してしまっているのです。 そこへさらにイカンおじさんの魔の手も迫ってくる。大変に危機的な状況です。 ではなぜ「自殺」という隘路に陥ってしまうかと言えば、 そもそもの「理由」が、それほどまでに深刻であるということでしょう。 正面から向き合うことができないぐらい深刻であるということでしょう。 その結果、「もうイヤだ。疲れた。死にたい」などのような言葉が出てくることになるのではないか? だから、また繰り返しになるのですが、これは理由の深刻さを語っているに過ぎないはずです。 死について語っているのではなく。 たとえば理由が「いじめ」であるならば、「いじめですごーーーーく困っている!」というのが問題の実相なのであって、 自殺云々というのはその結果として思い浮かんでいること(の1つ)に過ぎない。 だからこれは、とどのつまり、例えば「いじめ問題」なのであって「自殺問題」ではない。そこを間違えてはいけない。 以上のようなことを思ったのはなぜかと言うと、 とある「自殺願望について語り合う」という主旨を標榜する掲示板を見たからです。 自殺についての掲示板だということで、私自身も一応は希死念慮オーナーの端くれですので、 勉強させてもらおうと思って目を通してみたのですが、死そのものについての話が全然出てこない。 たとえば、「死ぬとどうなるのか?」とか 「生きているとはどういうことか?」とか「命とは何か?」とか、 「意識とは?」とか「存在とは?」とか「無とは?」とか、「自己とは?」とか「他者とは?」などなど、 そういった、死にまつわる形而上学的な話が全くと言っていいほど出てこない。 ここに書き込みをしている人たちの関心は「死」そのものではないということでしょう。 そして、掲示板の利用上の注意事項の中に決定的な文言がありました。 (引用)------------------------------------------------------------------------------------------- 「死にたい」って事を大っぴらに言ってもいい掲示板。でも理由を隠したり、理由がない自殺願望者は歓迎しません。 ------------------------------------------------------------------------------------------------- > 理由がない自殺願望者は歓迎しません。 揚げ足を取るようで心苦しいですが、 ここでいう「自殺」というのは、そもそも、「理由」のあるものを指しているのでした。 私に言わせるとそれは自殺願望ではない。 自殺願望と言うよりは、個々の困難な「理由」があり、それらが非常に深刻、ということです。 死そのものを希求する想念とは根本的に違います。 念のために申し添えて置きますが、だからと言って、 この掲示板に書き込みをしている人たちが直面している苦悩が軽微なものであるなどと言うつもりは全くありません。 この掲示板に限らず、「理由」があるからと言って、その苦悩を軽視するつもりは全くありません。 ただ、そうした場合、問題の本質はやはりその「理由」の方にこそあるのであって、 「自殺」ということをキーワードにしてしまうと、問題の解決から遠のいてしまうことになるのではないかと心配になるのです。 とは言え、そう簡単に元の問題が解決しないからこそ苦労しているわけで、 せめて自分が否定されない空間として、精神的なダメージを回復することができるといいのかな? そうあってくれればいいなと思います。 > 「自殺」ということをキーワードにしてしまうと、問題の解決から遠のいてしまうことになるのではないかと心配になるのです。 おっと、これはちょっと、おためごかしかもしれないゾ! 私の本音は、そこで「死そのものにまつわる形而上学的な根本問題」が語られていないことが残念だった、ということです。 しかし、これはどこまで行っても私の個人的なお好みの話であって、 件の掲示板がそれを主旨としていないこととは何の関係もない。 ごめんね。てへ。 とは言うものの、「自殺」と「苦労話」が混同されている風潮は面白くないとは思う。 なぜなら、自殺の意味を限定しすぎているからです。それじゃあ面白くない。 自殺は自殺として、苦労話とは関係なく語れるような風潮が到来してもよいのではないかと思うわけです。 それはきっと、とってもエキサイティングな風潮です。血沸き肉踊る風潮です。 思ったこと: 「自殺」を語る言葉。その貧困さについて 「死にたい」という言葉を、単に「とても苦しい」という言葉の同義語にしてしまっているのではないか? そうであればこそ、周囲から「ただ単に弱音を吐いているだけ」との誹りを招きもするのではないか? 「とても苦しい」の同義語で「死にたい」と言う場合、 そこで語られているのは「死」そのものではありません。 その意味で、タイトルの「自殺」にはカギカッコをつけました。 それにしても言葉が足りない。 もちろん、「とても苦しい」という意味で「死にたい」と言っているのであれば、 きっと「とても苦しい」のでしょうし、その点を無視することはできません。 「死にたい」というのが実は嘘なのだから、罰ゲームとして放置! あなた、いい趣味してますね。 まず言わなければならないことが1つ。 「生きていて感じる苦労」と「死を望む」ことは別のことです。 毎日安楽でも死にたいときは死にたい。 しかし毎日安楽なのに「死にたい」と言うと、多分、多くの人の反発を招く。 「世の中にはおまえより苦労してる人がたくさんいるのに、安楽なおまえが死にたいとは何事!」とかなんとか。 じゃあ、苦労を理由にして「死にたい」と言えば反発は招かないのかと言えば、別に全然そんなことはない。 「世の中にはおまえより苦労してる人がたくさんいるのに、その程度で死にたいとは何事!」とかなんとか。 じゃあ「どの程度」だったら死について語ることを許してもらえるのか? そこのところは果てしなく不透明ながら、 ともかく、どうやら希死念慮を語るには、苦労話を盾にする必要があるらしいと見える。 希死念慮を語りたければ、苦労話をどんどん持って来〜い! というわけです。 苦労話バトル選手権を勝ち抜いて希死念慮について語る権利を手に入れろ! というわけです。 いずれにせよ、この時点ですでに道を踏み外している。踏み外されている、と言うべきか。 苦労体験が希死念慮の必要条件であるかのような錯角を植え付けられてしまっている。 いや、道を踏み外してはいないのかもしれない。 その苦労話は、希死念慮を語るために持ち出した盾なのか? それとも本当に苦労しているから言っているのか? その点もまた、希死念慮を巡るお説教スクランブルであやふやになってしまう。 だからやっぱり、言葉が足りない。 「死」は「死」として語られるべきであり、 「苦労」は「苦労」として語られるべきであるはず。 もちろん、重なる場合もあるでしょう。 「こりゃあ死にたくなるのもしょうがないよなぁ」と納得せざるをえないような苦労、というものもあるでしょう。 しかし何度でも言いますが、苦労と死は別です。 苦労があって希死念慮もある場合もある。 苦労があって希死念慮がない場合もある。 苦労がなくて希死念慮がある場合もある。 苦労がなくて希死念慮がない場合もある。 えーっと、網羅できたかな? 部分的にコピペしながら書いたので間違ってるところがあるかも。きしねんりょとか変換しても出てこないんだもん。 目が痛くなるので確認はしてませんが言いたいことはわかってもらえると信じます。 さて。 ここでお説教大好きっ子さんは 「苦労の有無」と「希死念慮の有無」を都合よくピックアップして、 「希死念慮がないこと」を「苦労に耐える精神的強さ」と言い換えるわけです。 そういう因果関係をでっち上げる。 でっち上げて、希死念慮を語る人にお説教をする。 「この弱虫毛虫が! ベロベロバーのピー!」とかなんとか、ここぞとばかりにまくしたてる。牛乳拭いた雑巾を投げつける。 しかし、何度も言っているように、 「苦労の有無」と「希死念慮の有無」は別のことです。 この両者に因果関係があるように見えるのは目の錯覚です。 じゃあ、たとえば、こうしましょう。 「希死念慮の有無」と「スマトラオオコンニャクに花が咲くかどうか」の因果関係を考えてみましょう。 スマトラオオコンニャクに花が咲いて希死念慮がある場合もある。 スマトラオオコンニャクに花が咲いて希死念慮がない場合もある。 スマトラオオコンニャクに花が咲かなくて希死念慮がある場合もある。 スマトラオオコンニャクに花が咲かなくて希死念慮がない場合もある。 つまりスマトラオオコンニャクの花と希死念慮は無関係、ということです。 しかし、すわ希死念慮と見るや、 「世の中にはスマトラオオコンニャクに花が咲かなくても生きてる人が大勢いるのにその程度で死にたいなんてブヒーブヒー!」 と鼻を鳴らして走り回る人物が世の中にたくさんいらっしゃる場合、どうなるでしょう? スマトラオオコンニャクの花と希死念慮は無関係、という明白すぎる事実を、いつの間にか見失ってしまうのではないでしょうか? え? 見失うわけないって? でもあなた、苦労の有無と希死念慮の有無が関係ないって事実を見失ってるじゃないですか。ブヒー。 もちろん、スマトラオオコンニャクの花ゆえに死を選ぶ場合もあるでしょう。そんな生き様があったっていい。 当人にとっては意味のあることなんです。何一つ恥じることはない。 と同時に、たとえ死を選ばないとしても、当人のスマトラオオコンニャクの花にかける思いが否定されることはない。 だって死とか関係ないんだもん。 さて、えーっと、何の話でしたっけ? 苦労話と死ぬ死ぬ話のオシャレな関係がどうのこうの。 そうでした。 死ぬ死ぬ話をする前に苦労話ワールドカップで優勝しろ! というのが昔ながらの伝統ですが、 そんなもので優勝しなくても死ぬ死ぬ話をしていい。 死ぬ死ぬ話の本質は苦労体験とは関係ない。 じゃあ、死ぬ死ぬ話の本質は何なのか? そこで「うーん、言葉が足りないなぁ〜」となる。 言葉が足りないから、思わず苦労話に頼りたくなってしまうかもしれない。悪しき誘惑。 しかしそんなことをしていると、いつまでたっても死ぬ死ぬ話の本質に近づくことはできないんだゾ! ちなみに、きしねんりょが変換できないので死ぬ死ぬ話と言い換えてます。貴殿の脳内変換に期待します。 言葉が足りない。 両方の意味で、言葉が足りない。 死ぬ死ぬ話のための言葉が足りないだけではなく、苦労話をするにしても、多分、言葉が足りてないんです。 だから「いかに苦労が大きいか」の表現として「死ぬ死ぬ話」を持ち出してもしまうのではないか? そして、おそらくそこにもまた、お説教野郎の邪悪な影が忍び寄る。 「いかに苦労が大きいか」をいくら語っても「そんなことで苦労話ワールドカップで優勝できると思ってるのか! 腑抜け野郎!」 とかなんとか面白いことを言われてしまう。 そんな面白いこと言われたら、言われた方だってノリにノッて口が滑って死ぬ死ぬ話を口にしてしまうじゃないですか。 「これでどうだー!」ってなもんです。 だがそれこそお説教野郎の思うツボだ。 「ククク。飛んで火に入る夏の虫……喰らえ、"その程度で死ぬ死ぬ話を持ち出すなどブヒブヒ" アタッーク!」 以上は、苦労話が本懐なのに死ぬ死ぬ話になってしまうシナリオです。 言葉が足りないゆえにそうなるのであり、同時に、お説教野郎の邪念のゆえにそうなる。 それとは逆に、死ぬ死ぬ話が本懐なのに、苦労話バトルになってしまうシナリオもある。 それもまた言葉が足りないゆえであり、同時に、お説教野郎の邪念のゆえです。 さてどうしましょう? お説教野郎はどこにでもいらっしゃるから、もう、放っておこう。相手にしてはいけない。 ちなみに、言葉が足りないからお説教野郎が群がって来るんだゾ! と思わず言いかけたのですが、言うのをやめました。 なぜなら、いくら言葉を尽くしても、お説教野郎は群がって来るであろうから。だってあいつら、耳がないんだもん。 というわけで、問題はやはり言葉が足りない件です。話を進めるために。お説教野郎云々はもうどうでもいい。 言葉、と言いました。 自分が感じていること、思っていること、考えていること。 それを言語化する。 つまり、自覚する、ということです。 何を自覚するか? まずは自分の本懐が何であるのかを自覚しなければ話にならない。 特に苦労話と死ぬ死ぬ話がごっちゃになっている場合はそうです。 場合は、というか、今、大抵、ごっちゃになってますよね? 自分の本懐は死ぬ死ぬ話であるのか? それとも苦労話であるのか? そこのところを冷静に判断する必要がある。 その上で、苦労話が本懐なら、苦労話として話を進めればいい。 死ぬ死ぬ話が本懐なら、死ぬ死ぬ話として話を進めればいい。 あと、お説教野郎の邪念に惑わされないことも大切ですね。 「言語化」と言いましたが、お説教野郎に聞かせてやるための言葉なんてビタ1単語も必要ない。 そもそも、他人に聞かせる必要がない。 言葉は他人に聞かせるためだけにあるわけではない。 自分で自分の考えを整理して自覚するためのものでもある。 たとえば、あなたが「自殺志願者」であるとする。 ではさて、あなたの本懐は何だろう? 死ぬ死ぬ話が本懐かもしれない。そうじゃないかもしれない。 もしもあなたの話の中に苦労話が含まれているなら、苦労話こそが本懐なのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。 苦労話が本懐なら、苦労話として話が前進して欲しいと思います。 死ぬ死ぬ話が本懐なら、死ぬ死ぬ話として話が前進して欲しいと思います。 私は「自殺志願者」に死ぬことを思いとどまらせようなどとは全く思いません。 自殺が悪いことだとは思っていません。 死を希望する人がもっと自由に死ねる世の中になって欲しいと思っています。 とは言うものの、本当は死が本懐ではない人が、言葉不足ゆえに「自分は死を望んでいる」と思い違いをして、 そのゆえに何かの間違いで死んでしまうのは、あんまりいいことだとは思いません。 ん? それはそれでいいのかな? だって地球から人間が減るんだもん。いいことじゃん。 いやいや、ダメですって。本人の意志を尊重せよ。騙し討ちいけないアルよ。 もしもあなたが「自殺を考えている」のだとして…… 私からあなたに何かを言う機会があるのだとしたら…… 私はあなたに自殺をするなとは言いません。自殺が悪いことだとも言いません。 だって自殺が悪いなんて思ってませんからね。自殺上等! 私はあなたに、言葉を持って欲しい、と言うでしょう。 あなたの言う「死にたい」とはどういうことなのか? それをあなた自身の言葉で語って欲しい。 あなた自身の心を掘り下げて、それを語る言葉を探って欲しい。 人に聞かせる必要はない。あなたがあなた自身に聞かせる言葉です。 ◆ 2017/01/28 思ったこと: 人間が機械以下になっちゃってる メールで「問い合わせ」をすると、すぐに自動で返信メールがくる。 「お問い合わせを受け付けました」とかなんとか。 とても迅速。サーバーは今日も正常に稼働しているようです。 その後、いくばくかの時間を経て人間からの返事がくる。 しかしその内容はテンプレを組み合わせてのピントのズレた内容。 電話で「問い合わせ」をすると、自動音声のガイダンスが始まる。 「○○のご用件の方は、1、を……」とかなんとか。 少々まどろっこしいですが、よくできたシステムです。お見事。 で、長〜いガイダンスの果てに「オペレーターにおつなぎします」と言って、 呼び出し音が鳴り始める。いつまででも鳴り続けている。人間は出てこない。 不具合やトラブルがあって、それを報告すると、中の方々がとても迅速かつ丁寧に対応してくれる。 しかし、「原因は何だったのか?」「今後はどうすればいいのか?」 といった質問をすると、これまたテンプレを組み合わせたような、ピントのズレた返事しか返ってこない。 壊れたロボット以下だ。 そこには確かに人間がいる。人間がいるんです。 しかし人間はベルトコンベアからこぼれ落ちた製品を拾ってベルトコンベアに乗せなおすことしかできない。 しない。する気もない。 もしかすると、しちゃいけないことにさえなっているのかもしれない。 自動化されたシステムありき。 人間はシステムを補助する付属物以下の存在に成り下がってしまっている。 そういう中で、こちらの意志を伝えるべく何度も問い合せを繰り返していると、 ひょっとして私は世間的には「クレーマー」ということになるのではないか? と不安になってきます。 しかし、なぜそんなことで私が不安を感じなければならないのか? 巨大な自動システムの前で、私の「人間である」ということ自体が否定されているかのようです。 この「クレーマー」という言葉。 問い合せや要求を「する人間」を揶揄するお馴染みの言葉です。 しかし、揶揄する対象を取り違えているのではないでしょうか? 問い合せや要求を「する人間」がキ○ガイなのではなく、 むしろ話は全くの逆で、 組織やシステムの中にいる側の「人間」が、 マニュアル外のことに対応する能力(というより「意欲」)を失っているのではないか? それは窓口担当の人間だけのことではありません。 世の中にいる私たち「人間」の側が全体的に、 「人間であること」を放棄しようとしつつあるのではないか? 何もかもが「組織的」「システム的」にスムーズに処理されることが目指されていて、 そこからこぼれ落ちる「不確定要因」が排除される。 何かちょっとマニュアル外のことを求めようとすると「クレーマー」と揶揄し、そうした行動を抑圧する。 システム通りに動いているうちは誰もがとても礼儀正しく親切だけれど、 そこから一歩外へ出て「人間として」姿を表すと、途端に排除されてしまう。 何もかもマニュアル(機械・コンピューター)に任せて、 人間をそこから排除しようとする精神衝動が世の中を貫いているような気がします。 人間はワガママで自分勝手でモンスター。 それにひきかえコンピューターのなんと従順なこと。 便利になりましたね〜。 しかし間違えるな。それは人間ではない。 思ったこと: 「正確さ」「いつも同じ対応」を求める衝動が「コンピューター的なもの」を生み出しているのか? 人間とは、予測不可能なものです。 何をするかわからない。 約束だって破る。 ある日 Yes と言ったことに、別の日には No と言う。 コンピューターはそうじゃない。 もしそんなことがあったらそれは「バグ」です。 壊れているのであり、直さなければならない。 しかし、それは人間ではない。 人間は何を考えているのかわからない。 そこにどんな心があるのか外部からはわからない。そもそも心があるのかどうかさえわからない。 コンピューターには心はない。ただ、プログラムがあるだけ。 プログラムは分析できる。 デバッガーで分析して、エラーの原因を特定できる。気に入らなければ好きなように直すこともできる。 しかし、それは人間ではない。 人間はわからない。どこまで行ってもわからない。 筋道の通った説明が成立するかに見えても、 常にそのロジックからこぼれ落ちようとする。 人間は理解できない。 人間は思い通りにならない。 そして私は人間であり、あなたは人間であり、あの人は人間です。 この世界は人間の世界だ。 思ったこと: 「間違いが許されない」のはむしろゲームの世界の方だったりもする よく、「現実」と「ゲーム(仮想)」を比較して、 現実の方がゲームと違って厳しいノダ! のようなことが言われます。 しかし実際は現実の方が厳しいとは限りません。 現実では、多少のミスがあっても、適当に融通を利かせて目的を達することができる場合がある。 しかし、ゲームであれば、ミスはあくまでもミスとして厳しく数値化が行われる。 例えば外国語でコミュニケーションをする場面を考えてみる。 現実の場面では、多少の言い間違いがあっても通じることが少なくない。 しかしそれをゲーム化するとなると、ほんの少しの言い間違いも全てミスとしてカウントすることになるでしょう。 他のプレイヤーと点数を比較して勝ち負けを判定する、というようなことが行われるでしょう。 こういう場合、現実よりもゲームの方が厳しいと言えます。 現実では間違いが許されるけれど、ゲームでは間違いが許されない。 例えば「テスト」の如きものは現実をゲーム化している典型例と言えます。 作文をする場合、現実ならばいくらでも辞書を使って単語の綴りや用法を確認しながら書けばいい。 しかしゲームだと辞書の使用が禁止だったりする。 現実ならばいくらでも「カンニング」ができる。人に教えてもらってもいい。 それを敢えて禁止するというのはゲーム的な「縛りプレイ」そのものです。 私が思うに、現実は案外やさしい。 そこには人がいて、人が人のために、手を差し伸べることができる。 少なくとも、そのはず、だと思う。 本来そうであるはずのところに、しかし、無意味に「厳しさ」を持ち込み、「ゲーム化」が行われる。 人間が現実をゲーム化して無意味に厳しくしている。 これではいけない。 人間が人間の世界を人間にとって不幸な世界にしてはいけない。 人間は人間の世界を人間にとって幸せな世界にしよう。カンニング上等! 「キサマは能力が足りない! ゆえに減点してやる!」とか言ってる場合じゃない。 能力が足りないと思うなら、手伝ってあげればいいじゃない。 思ったこと: 人間やめますか? バイキンやめますか? 人間の「自分自身の行動原理」を語る言葉が貧困すぎるのではないか? 性能がいいから使う、悪いから使わない。 便利だから使う、便利じゃないから使わない。 お得だから買う、お得じゃないから買わない。 近くにある店だから入る、遠いから入らない。 儲かるからやる、儲からないからやらない。 これじゃあバイキンやゴキブリと同じです。 栄養さえあればどこででも繁殖する。 ここで繁殖してもいいものか? どこで繁殖するべきであるか? 私はなにゆえにここで繁殖するのか? あるいはしないのか? 私はいかに生きるのか? いかに死するのか? バイキンやゴキブリにそのような理性や分別を求めても詮無いことです。 なにしろバイキンやゴキブリなのですから。 彼ら彼女らには彼ら彼女らなりの生き様や役割があるのかもしれませんけれど、 それは私たち人間のそれとは異なるものでありましょう。 人間であるならば、人間として、いかに生きるのか? 性能が悪いけど、好きだから使う。 不便だけど、正しいから使う。 お得だけど、間違ってるから買わない。 遠くの店だけど、いい店だと思うから行く。 儲かるかもしれないけど、私の信念に反するからやらない。 > 自分自身の行動原理を語る言葉が貧困すぎるのではないか? 言葉、と言いました。言葉です。 つまり認識です。あるいは自覚です。と同時に表現です。 「私は このゆえ に こう する のである」 思ったこと: 「幸せを願う相手としての人間」という人間観 <自分の代わりにロボットを会社に行かせてはいけないのか?> 「AI技術が発展すれば人間は働かなくて済むからベーシックインカムが実現する」 というような言説をしばしば目にします。 しかし、現状ではそれは難しいような気がします。 AIの技術は発展を続けています。 しかし、人間の側が相変わらず「人間に求めているもの」がある。 ■========================================================= ■ 自分の代わりにロボットを会社に出勤させてもよいか? ■========================================================= 理論上は「いい」はずです。 しかし、現状の日本の文化風土からすると、許されないような気がします。 そうでもないですか? 私の気のせいですか? それならいいんですけどね。それなら。 ■========================================================= ■ なぜ人間じゃないといけないのか? ■========================================================= 一般論としての「人間の方がいい理由」はいろいろあるでしょう。 人間の方が柔軟性があるだとか、不測の事態への応用がどうのこうのとか。 そういう「人間の方が優秀な面があるから」というのも、 「じゃあロボットがもっと優秀になったら人間は不要ってことなの?」 というイタチごっこ(?)なのですが、 「自分の代わりにロボットに会社にいかせるなんてケシカラン!」という文脈に限って言えば、 そういうイタチごっことも違う、別の理由があるような気がします。 つまり、 「ロボットに任せて楽をするなんてケシカラン!」というわけです。 「人間が苦しめ!」というわけです。 それこそ、攻撃衝動を発散したいならロボットを相手にしていて欲しいところですが、 「やっぱモノホンの人間が苦しむ顔を見たいよなぁ。ククク」というわけです。鬼畜ですね。 「人間の価値」は「苦しめ甲斐があるから」ということです。 これでは人類の将来は暗いと言わざるを得ません。 ■========================================================= ■ ロボットと競い合ったら負ける ■========================================================= 上で触れた「一般論としての「人間の方がいい理由」」についてです。 上でも書いたように、これはイタチごっこですよね。 いえ、イタチごっこでさえない。 だって、ロボットは発展を遂げる一方ですが、人間は全然進化しないからです。最初から負けてる。 ロボットの腕を三本に増やすのは簡単ですが、 人間が進化して腕の数が増えるには一体何億年待たないといけないでしょう? 例えばロボットは「文脈が読めない」だとか「応用が利かない」だとか、 そういう理由を持ち出して「やっぱ人間の方が優秀!」などと言っていられるうちはそれでいいのかもしれません。 しかしロボットを開発する側だってそんなことは百も承知です。 いかにして文脈を読むか? いかにして応用を利かせるか? といった研究が日々進められている。 AIを作るAIなんてものさえ研究されている。 いずれ「文脈が読めて応用の利く」ロボットが出現したとき「ごめんなさい。負けました……」と言うしかないのか? ■========================================================= ■ 戦え! 負けろ! 苦しめ! ■========================================================= > いずれ「文脈が読めて応用の利く」ロボットが出現したとき「ごめんなさい。負けました……」と言うしかないのか? 競い合うと、いずれこうなる。 今のところは、総合的な意味で「人間以上の」AIは出現していないはずです。 しかし、そういう理由で「やっぱり人間の方がすごい」と言い続けることには限界がある。 もちろん、本当にこのままずっとAI技術が発展を続けていくのかどうか? それはわかりません。 もしかすると、どこかで越えられない壁にぶつかって、発展が停滞するのかもしれません。 でも、そういう問題ではない。 「何かと比べて優秀だから」という理由で価値を認める、という発想を、 人間に対して当てはめている、そのこと自体の限界が見えてきた、ということです。 結局のところ、それは、人間を何かの道具として利用する、という発想です。 役に立つか立たないか? そういう基準で人間を裁く。 役に立つやつは「いい子いい子、頭ナデナデ」ですし、 役に立たないやつは牛乳拭いた雑巾を机の中に入れておく。 そういう発想です。 だから、AIが優秀になっても、相変わらず「人間が会社に来い」であり、 じゃあ、わざわざ会社に来てくれた人にどう報いるかと言えば、 牛乳拭いた雑巾でお出迎え、です。 だってそいつは「役立たず」だから。 せいぜい苦しめてやるのが礼儀ってもんです。 それが、人間を値踏みする社会の行き着く先です。 「値踏みする対象として」人間を見ている限り、そういうことになってしまう。 しかし考えていただきたい。 人間は「値踏みする対象」ではない。 ■========================================================= ■ 愛せ! ■========================================================= > 役に立つか立たないか? そういう基準で人間を裁く。 言い換えると、これは、 「してもらう」ことしか考えてない、ということです。 だから、その相手が自分の求めることを実行するだけの「能力があるか・ないか?」 が常に問題になる。 逆の発想が必要です。 たとえば、今あなたの目の前に人間がいる。 さぁどうしよう? そいつの能力を計測して値札を付けてやろうか? さぁて、こいつは「いくら」かな? ククク。 違うでしょ! じゃあどうするのか? 目の前に人間がいる。 さぁどうしよう? 決まってるじゃないですか。 その人を愛するんですよ! それが「目の前に人間がいる」ということの意味です。 それが地球に人類がいるということの意味です。 愛し合え! 相手の幸せを願え! これは相手が人間だからこそ成立することです。 ロボットには心がありません。 心のない存在が幸せを感ずるということもありません。 相手が心のある人間だからこそ、その相手が幸せでありますように、と愛を振り向けることができる。 もちろん逆も可能です。 心のある存在だからこそ、苦しみを感じる。 相手が心のある人間だからこそ、牛乳拭いた雑巾で苦しめることができる。 ロボットだったら「苦しんでいるような動作」をするだけですが、心ある人間は本当に苦しむ。 「やっぱモノホンの人間が苦しむ顔を見るのは最高だぜヒャッハー!」 「相手に心があること」の意味がそこに落ち込んでしまうならば、それは人類が滅びる道です。 ロボットではない、心のある人間に対して、どのように向き合うか? 私たち一人一人の態度が問われています。 私の態度が問われています。あなたの態度が問われています。 一応、念のために言っておきますが、 これは「愛する能力を競い合う」ということではないですよ? そういう発想では、 「あいつは愛するのが上手で、あいつは愛するのが下手クソだ。ゆえに牛乳雑巾でおしおきだべぇ〜!」 ということになってしまう。 今日もあなたが幸せでありますように。 今日も私の嫌いな人が幸せでありますように。 今日も私を嫌っている人が幸せでありますように。 ◆ 2017/01/27 思ったこと: 騒音は「ガッカリ」する:我慢×歳時記×風流×バーチャル 私は普段、自宅にいるときには耳栓やホワイトノイズのイヤホンで厳重に聴覚をガードしています。 耳栓単体ではあまり遮音性能は高くないので、その上からイヤホンを押し当ててのホワイトノイズが欠かせません。 ホワイトノイズとしてよく使うのは雨の音や波の音です。 聴き続けていて飽きの来ない音であり、かつ、周囲からの音をごまかす効果があります。 この「耳栓+ホワイトノイズ」の組み合わせはかなり強力です。 ほとんどの騒音を防ぐことができます。 とは言うものの、耳栓をずっとつけていると物理的に耳が痛くなってきます。 ホワイトノイズもずっと聴き続けていると精神的に疲れてきます。 だけど、「この状態がデフォルトなのだ」と自分に言い聞かせて、その状態を厳重に継続するように心がける。 油断して外からの拡声器音やドアバンなどを聴かされてしまうと、「精神がかき乱され」ます。 「うあーーっ!!!」って感じになります。もちろん声には出しませんけど。 とにかく、その「精神がかき乱される」ことを避ける。なんとしても避ける。 一度その「うあーーーっ!!!」になってしまうと、もちろん精神的に苦痛ですが、 もっと実質的に、時間がもったいない。 そのときにしていた作業はしばらくお預けになってしまうし、もちろん眠ることもできなくなります。 一瞬の油断で数時間のロスです。 これは何としても避けなければならない。 だから「耳栓+ホワイトノイズ」を続ける。 物理的に耳が痛くなるし、精神的にも微妙に疲れ続けるけれど、続ける。厳重に続ける。 実際、これでかなり安らかな生活を送ることができます。 騒音のことを忘れて生活することができてしまいます。 しかし、たまには耳栓を外してすっきりしたい。 たまにはホワイトノイズを消して本当の静寂を味わいたい。 この状態をデフォルトにして一ヶ月、二ヶ月と過ごす。 その間、一度も外からの騒音に苦しめられずに過ごしてきた。 すると、ある期待が頭をもたげてくる。 「ひょっとすると、世の中はもう静かになったのではないか?」 そう思ってイヤホンと耳栓を耳から外してみる。 静かだ。 しかも耳はすっきり。 ああ、これが本当の静寂! やった! 苦難の日々は過ぎ去った! 忍耐の勝利だ! これからは静穏な生活ができるんだ! という喜びも束の間、ものの30分もしないうちにドアバンや左へ曲がりますが外から壁を突き抜けて室内に飛び込んでくる。 あぁ〜〜………。ガッカリです。 いや、わかってましたけどね。 私が我慢したからと言って、「私の我慢に免じて」世の中が静かになってくれるだなんて、そんなことがあるわけがない。 「耳栓+ホワイトノイズ」で厳重に聴覚をガードしていた数ヶ月の間に ドアバン野郎が反省して静かにドアを閉めるようになったとか、 火の用心野郎が反省して拍子木騒音をやめたとか、 ちり紙交換がいよいよ廃業になったとか、 トラックのボイスアラームが違法化されたとか、 防災無線が廃止になったとか、 救急車が有料になって無闇に呼ぶ人が減ったとか、 ほんの少ぉ〜〜〜〜しだけ、淡い淡い淡ぁ〜〜〜い期待を抱いてたりもしたんですけれど、 そんな期待が叶うはずがない。 ええ、わかってました。わかってましたとも。 でもですね、もう一回言いますよ? 「ガッカリ!」です。 ■========================================================= ■ 我慢しても問題は解決しない ■========================================================= これは騒音に限ったことではなく、「一般論」と言っていいと思うのですが、 我慢しても問題は解決しません。 ところが、不満を口にすると、周囲からは「我慢」を推奨される。 とかく「我慢が足りない」と言われる。 じゃあ、我慢すれば問題が解決するのか? しない。 騒音の場合で言えば、我慢すれば我慢に免じて、 「よく我慢してくれましたね〜。たくさん我慢してくれたから静かにしてあげますよ〜」 ということになるか? ならない。 では我慢することの意味は何か? それはズバリ、こうです。 「問題が "ない" ということにする」 ■========================================================= ■ 「~ということにする」という文化 ■========================================================= あまり詳細緻密な文化論を語れるほどの見識は持っていないのですが、 どうも、この社会には、「~ということにする」という文化というか習慣というか、が、ある気がします。 たとえば人形浄瑠璃の黒衣(くろこ)。 明らかに見えているのに、「見えていない」ということにする、ということになっている。 明らかにそこにいるのに、「いない」ということにする、ということになっている。 部屋を襖や障子や屏風で仕切って、向こう側の様子はほとんど筒抜けなのに、 一応の間仕切を挟んだことで、向こう側のことは「見えていない」ということにする、ということになっている。 俳句の季語。お菓子の練り切り。商店街の街灯に飾ってあるプラスチックの造花。 実物の自然ではなく、「春といえば、これ」「夏と言えば、これ」ということにする、ということになっている。 「日本には四季があって日本人は自然に敏感だ」などという言説がまことしやかに流れていたりもしますが、 私の印象では、それは嘘です。嘘というよりフィクションとでも言いましょうか。 そこで言っている「四季」なり「自然」なりは実物の自然ではない。 実物ではなく「そういうことにする」というバーチャルな世界です。 型が決まっている。 「自分自身が本心から感じたこと」よりも、そうした型の方が優先される。 いや、優先されるなどという生易しいものではないかもしれません。 型の方こそが「実物」であり、「自分自身の本心」などというものは「存在しない」ということにする、ということになっている。 たとえば Wikipedia の「練り切り」のページには下記の画像が載っています。 夏の菓子(なでしことつばめ) アジサイ が、私にはどう見ても「なでしこ」にも「つばめ」にも見えません。 「アジサイ」にも見えません。「え? どこが?」という感じです。 さらに、私の感覚では「なでしこ」や「つばめ」と言われても「夏っぽい」というイメージはあまり喚起されません。 新暦と旧暦で季節がズレている、ということを差し引いたとしても、 やはり私の感覚では「なでしこ」や「つばめ」にそれほど季節感を感じません。 アジサイは梅雨かな? と思って検索してみたら夏ですか? ふーん。どう違うの? そもそもこんなこと検索しなきゃいけないってのがおかしい。「私の感覚」でいいじゃん。ダメなの? ふーん。 しかし、これが「型」というものなのでしょう。 これが「なでしこ」であり「つばめ」であり「夏」なのだ、ということになっている。 これを見て「ほほぅ、なでしこですか〜。おっ、こちらはつばめですな? いよいよ夏まっさかりですなぁ〜」 と「ごく自然」に語って見せることが「風流なこと」なのでしょう。 「私個人はどう感じるか?」「あなた個人は本当のところどう感じているのか?」ということは無視されている。 「~ということになっていること」について語り合うことのみが許されている。 上記の「なでしこ」や「アジサイ」は、個人の感性を表現したものではなく、「型」を表現したものです。 たとえば何某というアーティストが「芸術は爆発だ!」とかなんとか言いながら 「なでしこしこ! アジサイサイ!」と言って作った、というものであれば、 私個人にはそのように見えなくても、 「なるほど、そういう感性もあり得るものなのだなぁ」というふうな興味で眺めることは可能でしょう。 しかし、練り切りのそれらを、そうした興味で眺めることはできない。 なぜなら、そこにあるのは「個人の感性」ではないからです。あくまでも「型」です。 「なんでこれでアジサイ?」と言っても「そういうことになっている」というFAQの回答集が出てくるばかりです。 表現が向かっている方向が真逆です。一方は個人へ。一方は集団へ。 (念のため言っておくと、今は「どちらがいい・悪い」という話をしているのではありません) あ、もう一つ。空を切り刻むように走っている電線も同じですね。 あれも「見えていない」ということにする、ということになっている。 騒音に関してもこれと同じなのかもしれません。 明らかに音が鳴り響いているのに「聞こえていない」ということにする、ということになっている。 で、「聞こえている!」と「自分自身の本心」を言うと、 「我慢せよ!」との教育を施される。 すなわち「聞こえていないことにせよ!」との教育です。 あれを「聞こえている!」などと言うのは、 人形浄瑠璃の黒衣を「見えている!」と言うが如く「野暮」なわけでありま〜す。やかましいわ。 ■========================================================= ■ 「騒音」も「型」で語られる ■========================================================= > 騒音に関してもこれと同じなのかもしれません。 > 明らかに音が鳴り響いているのに「聞こえていない」ということにする、ということになっている。 もう少し正確に言うと、「騒音」ということも「型」が決まっている、というべきでしょう。 「騒音とはこういうものである」という「型」が最初から決まっていて、 それに当てはまるものは「騒音」だが、当てはまらないものは「騒音」ではない、ということになっている。 たとえば「マンションの部屋で大音量で音楽を鳴らす」とか「工事現場」とか「自衛隊のヘリコプター」とか、 そうしたものは「騒音」ということになっていて、「騒音」という言葉で語ることが一応は許されている。 しかし、そうではない「音」について「騒音」という言葉を使うことは認められていない。 たとえば「除夜の鐘」や「保育園の喧騒」は、そうした「騒音のカタログ」には載っていない。 したがって、それを「騒音」として問題提起すると厳しく怒られる。 「そんなものまで騒音呼ばわりだなんて!」という例のアレです。 そして、インターネットの質問掲示板では「○○は騒音ですか?」などといったトンチンカンな質問が飛び交うことになる。 何がトンチンカンかと言えば、 実際にその音が他人を不快にしているかどうかという現実を無視して「型」を訊ねているからです。 いわば「歳時記」を参照しようとしている。 「歳時記には○○は騒音であると書かれていますか?」と質問している。 実際にその音が他人を不快にしているという現実。 そうした現実よりも「歳時記」の方こそが「現実」ということにされており、 「歳時記」に載っていない事柄を「騒音」と呼ぶと「○○を騒音だなんて風流じゃない!」ということにされる。 そういえば「ちり紙交換は風物詩!」なんて台詞もありましたっけ。まさに歳時記そのものですね。 上で私は「トンチンカン」と言いましたが、世間的には逆というべきでしょう。 「歳時記」に則った言動こそが「常識的」で「正しい」のであり、 そうではない言動は「非常識」で「間違って」おり「野暮」ということになる。 ■========================================================= ■ 「我慢せよ」の実相 ■========================================================= 「我慢せよ」は「歳時記の世界を実現させよ」です。 ある音がいかに不快であろうとも我慢しなければならないのはなぜかと言えば、 それは「歳時記」によると「騒音」ということになはっていないからです。 「それは騒音ではない」というバーチャル世界を「みんなで協力し合って」作っている。 そんな中で「騒音だ!」などと本当のことを言うやつは輪を乱す無法者です。 ■========================================================= ■ そして越えられない壁が姿を現す。 ■========================================================= >「それは騒音ではない」というバーチャル世界を「みんなで協力し合って」作っている。 じゃあ、実はみんな不満を心にためこんでいるのか? 仮にそうなのだとすれば、それを解放することで問題(ここでは騒音問題)を解決に導く、 という方策を考えることができそうです。 「みんな、本当はイヤなんだろう? ぶっちゃけちまいなYO!」というわけです。 しかし、どうも、そうでもないらしい。 いわば「型に染まる」ことに、むしろ何らかの喜びを感じる、という感性があり得るらしい。 だから「みんな、本当はイヤなんだろう? ぶっちゃけちまいなYO!」という話は、 どうも、いま一つ、うまく行く気配がない。 越えられない壁がある。 たとえば、とある「騒音」があったとして、 「どうしてもイヤだ!」という一定数の人々がいる。 条件次第では我慢する意志はあるにしても、根本的に「不快だ!」という感覚そのものは心の中から消えない。 その一方、「むしろイヤではない。心地よい」と感じる人々が、どうやらいるらしい。 ひょっとすると多数派でさえあるかもしれない。 「それぐらいいいじゃない。誰だって我慢してるんだから」と言いながら、 実は自分自身は「我慢」ではなく「型に合わせる喜び」に浸っている。そういう人々も、どうやらいる。 もしかすると多数派かもしれない。 もちろん感性は人によって異なります。それはそれでいい。 しかし問題なのは、この言わば「歳時記ファンクラブ」の会員たちは 「歳時記」通りの感覚こそが「当然」と信じて疑わない、ということです。 人それぞれの感性というものを認めない。 とある宗教の頑強な原理主義者のようなものです。 信教の自由、と言いたいところですが、頑強な原理主義者は自分たち以外の思想を排除しようとする。そこに問題がある。 上で「越えられない壁」と言いましたが、 越えられないはずなのに、「歳時記教」の側からは情け容赦なくミサイルが飛んでくる。静かにしてくれない。 互いに尊重し合う、ということができない。 そういえば「日本は多神教だから寛容」なんじゃなかったでしたっけ? それで、もしかすると「我々は寛容なのだ!」と思い込んでいる人は多いのかもしれないですが、 こう考えてみると、それはずいぶんと怪しいですね。 おっと、「寛容」という単語が出たので、これ、言わないといけないのかな? 「音を出さないでくれ」っていうと、そう言ってる人の方が「寛容じゃない」ふうに見えるかもしれませんが、 それ、まったくの逆です。 音を鳴らすということは、その音を聴きたくないと思ってる人を無視するということです。 それって「寛容」ですか? 静かにするということこそ、その場にいる人たちそれぞれの生活や感性を尊重するということです。 音を鳴らしまくって放置することが「寛容」だなんて、とんでもない。 静かにすることこそが「寛容」です。 ▽ こちらも読んで欲しい:騒音被害者応援テキスト集です ----------------------------------------------------------- 騒音問題テキスト保管庫 思ったこと: 「~~なので注意しましょう」を連発しないための代替表現を模索せよ 「注意しましょう」とか「ご注意ください」とか。 拡声器のお節介放送の定番表現ですね。 もはや、これを聞かされるたびに神経がビリビリするのでご注意ください。イラッ! 拡声器騒音の注意喚起お節介放送に限ったことではありません。 文章を読んでいても「~~なので注意しましょう」という表現を頻繁に見かけます。 こんな日本語はもうイヤだ。 そういう表現を見かけるたび、 頭の中で、単に「~~です」に置換して読み替えてみる。 意味がほとんど変わらないと気付く。 じゃあなんでわざわざ「注意しましょう」という「余計な」一言を付け加えるのか? なんでなのでしょうね? そもそも「注意」って何なのよ? 「注意」って。 「~~なので "金を払え"」というのではなく、 「~~なので "スクワットを100回やれ"」というのでもなく、 「~~なので "注意しろ"」という。 だから「注意」って何なのよ? 「注意」って。 結局、何も言ってないのと同じだ。 実際のところ、単に「~~です」で文を終わらせても同じなのですよ。 それだと語尾が落ち着かない、ということでしょうか? その気持ちはわからなくもないです。 「~~です」と言い切ったあと、お尻がムズムズして、その場でダンスしたくなってしまいますもんね? だから、うっかりすると文章の語尾が「注意しましょう」だらけになるので注意しましょうよ。 今のフレーズも「うっかりすると文章の語尾が「注意しましょう」だらけになります」でも意味は同じなので注意しましょう。 > 「注意」って何なのよ? 「注意」って。 > 結局、何も言ってないのと同じだ。 実質的には間違いなくそうなのですが、 「注意しましょう」をくっつけておけば、何か意味のあることを言ったという味付けにはなるのではないでしょうか? たとえば「qあwせdrftgyふじこなので注意しましょう」という場合、 単に「qあwせdrftgyふじこです」でも意味としては同じなのですが、 果たしてその「意味」とは何ぞや? 重大な意味があるからこそ言ったのでしょう? もちろんです。だから「注意」すべきなんだぜ? 「注意」しろよ? わかったな? そういうことではないでしょうか? つまり、「注意しましょう」が無意味な語尾であるのと同じぐらい、 そもそも「qあwせdrftgyふじこ」も無意味な文章であった、ということです。 もともと無意味だから、その無意味さをごまかすために「注意に値することなんだぜ? へへへ」と言っている。 だから、語尾に「注意しましょう」とくっつける以前に、 そもそも、その文章に「注意」するほどの意味があるのかどうかを反省する必要があるのではないか? 書き手が。 あるいは、何のために書くことであるのかを反省して自覚する必要があるのではないか? どのような目的で書くことなのかを自覚しないままであるからこそ、 「とりあえず注意してね」と、無反省な「価値づけ」に頼ってしまうのではないか? 「注意しましょう」は単に「~~です」で事足りるだけでなく、 その他、もっといろいろなバリエーションがあって然るべきです。 それこそ「~~なので金を払え」とか「~~なので腕立て伏せ100回せよ」とか、 つまり「何のためにその記述をしたのか?」を明示するような語尾がついて然るべきです。 「有料なので注意しましょう」じゃなくて「有料なので金を払いましょう」であり、 「カロリーが高いので注意しましょう」じゃなくて「カロリーが高いので腕立て伏せ100回しましょう」であるはずです。 そのような具体的な目的が書けないのであれば、 そもそも、その発言自体も無意味ということではないか? 無意味な発言の無意味さをごまかして「注意してください」と言い、 無意味さを指摘されれば「注意しないよりは注意した方がいいに決まってる」と形而上学的安全論に逃げ込む。 なるほど。「注意しましょう」を脱構築していく試みは、 無意味な拡声器騒音をなくしていくことにつながるかもしれませんね。 ところで先日、興味深い表現を見かけました。 ・東京外国語大学言語モジュール・スペイン語 http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/es/gmod/courses/c01/lesson12/step2/card/034.html 動詞の不規則変化に関する箇所です。 (引用) > これらの不規則動詞はどのグループにも当てはまらないものです. > 1つ1つ覚えるより仕方がありません.しかも,よく使う動詞ほど不規則な形が多いので頑張りましょう. 「頑張りましょう」と来た! いいですね。この沸き立つほどの汎用性。 ここは、うっかりすると「注意しましょう」と書いてしまいがちな典型的な場面だと思いますし、 実際、別の語学の解説サイトの同じような場面で何度となく「注意しましょう」に遭遇した記憶があります。 日本語って表現が貧困な言語なのでしょうか? 愛国心が萎えてしまいます。 いや、引用元のページはスペイン語を頑張って覚えましょうという主旨のページですので、必然的に「頑張りましょう」なわけですよ。 内容に目的があり、また、目的が自覚されていればこそです。 そこがユルイままだと、「注意しましょう」などと意味不明な言い回しの連発に陥ってしまう。 それにしてもこの汎用性の高さには魅了されます。使わざるを得ない。 しかもスペイン語の解説ページで日本語を教わった。なんというお得感。 「頑張りましょう」。うむ。おいら頑張るよ! いろいろな場面で使えそうです。 今度から「注意しましょう」の代わりに「頑張りましょう」と言ってみてもいいのかもしれませんので頑張りましょう。 ちなみに、うつ病の人に「がんばれ」と言ってはいけないので頑張りましょう。 「頑張りましょう」は汎用性が高そうですが、それでいて「注意しましょう」ほど曖昧ではない。   文章の無意味さをごまかす作用はあまりなさそうです。   それどころか、無意味さをあぶり出す作用が期待できる気がします。     > なるほど。「注意しましょう」を脱構築していく試みは、 > 無意味な拡声器騒音をなくしていくことにつながるかもしれませんね。 たとえば、 「左へ曲がります。ご注意ください」を 「左へ曲がります。頑張りましょう」と言い換えてみる。 バカバカしい響きになります。 一体何をどう頑張れというのか? 語尾を言い換えることで、そもそも「左へ曲がります」と言うことの無意味さが浮き彫りになった。どうだ参ったか。   「注意しましょう」は何にでもくっつけることができる。できてしまう。だから無意味さをごまかす呪文になってしまう。   その点、「頑張りましょう」は本当に無意味な文にはくっつけることができない。   だから、「頑張りましょう」をくっつけてみれば、その文の無意味さが際立つ。     世の中に存在する「ご注意ください」系の注意喚起お節介放送の「ご注意ください」を、 頭の中で「頑張りましょう」に置き換えて想像してみる。 「お忘れ物のないように頑張りましょう」 「車が出庫します。頑張りましょう」 「置き引きが多発しています。頑張りましょう」 お節介放送のバカバカしさが、百の言葉で語るよりも、はるかにストレートに腑に落ちてくる気がします。 ただし、理性での理解とは別の種類の理解なので注意しましょう。じゃない。頑張りましょう。スクワットもやってみようか。 ▽ こちらも読んで欲しい:騒音被害者応援テキスト集です ----------------------------------------------------------- 騒音問題テキスト保管庫 思ったこと: 店内のBGMに歌詞がついてると鬱陶しさが倍増 何の話かと言うと拡声器騒音の話です。 スーパーやドラッグストアなどの店内はどこも必ずBGMやコマーシャルが途切れなく流れていて 私のように音を「聞いてしまう」人間にとっては非常にツラい空間です。 え? なんですって? 聞いてしまう私が悪い? ですよね〜。人を殴っても相手に痛覚があるのがいけないんですモンね! さて、コマーシャルの方はと言えば、商売の都合で放送しているのだろう、ということで、 鬱陶しいことに変わりはないものの、一応、「ご理解」できなくはないです。流すのをやめられない理由はあるのでしょう。 しかし BGM なんて必要ないと思うんですが、どうなんでしょうね? やめようと思えば今日からでもやめられるのでは? 音楽なんて人によって好き嫌いが違うわけですから、 店に来た客全員に一律に「これを聴け!」と同じ曲を強要するのはとても乱暴なことだと思うのです。 それとも店としてターゲットにしている客層に合わせた選曲をしていたりするのでしょうか? どうなのでしょう? 一部のマニアックな店ならそういうこともありそうですが、 (たとえばアニメグッズの店でアニメソングを流すとか?) 単なる日用品や食品を扱っている店でそこまで考えて曲を選んでいるとはあまり思えません。 というより、単なる日用品や食品といった誰でも買いに行く店であるのだからこそ、 「音楽」などという人によって好き嫌いのあるようなものを無闇に流さないで欲しいわけです。 たとえば「アニメソングを聴きたくないならアニメグッズの店になんか行くな!」というのはそれなりに同意できますが、 「J-POPを聴きたくないならスーパーマーケットに行くな!」と言われても困る。 それともJ-POPを聴きたくないなどと言う人間は食料品を買う資格さえない非国民なのでしょうか? そうですか。 しかし「音」を擁護する人だって別にJ-POPを聴くためにスーパーに行くわけじゃないですよね? 鳴ってなくてもいいですよね? そこなんですよ。「音」を擁護する人が一体「何」を擁護しているのかが私にはよくわからない。 もちろん、曲を流しているのは店です。 「店が勝手に流している」。大多数の人にとっては、おそらく単にそれだけのことでしかないのでしょう。 では店は一体何が目的なのか? どうしても何か音を流してないとお客様が寂しくて寂しくて死んでしまう! お客様を死なせるわけにはいかない! というのならば、 せめて歌詞の入っていない曲を使って欲しい。 買い物に行くたびに「おまえを愛してる〜」だとか「夢をあきらめないで〜」だとかの 薄ら寒いメッセージを聴かされるのではたまりません。 レコード会社と何らかの提携でもしているのでしょうか? 案外そうなのかも。困ったな。 > コマーシャルは商売の都合で放送しているのだろう、ということで、 > 鬱陶しいことに変わりはないものの、一応、「ご理解」できなくはないです。流すのをやめられない理由はあるのでしょう。 > しかし BGM なんて必要ないと思うんですが、どうなんでしょうね? やめようと思えば今日からでもやめられるのでは? それで仮にBGMをやめたら、今度はコマーシャルばかり延々と流すことになるのでしょうか? それはもっとキツそうですね。ヤマダ電機がそういう状態だ。あれはたまらん。やっぱり Amazon 使うしかないのかな。 さて、こんなところで文句ばかり言っていても実りがないわけでして、 気がついたことはできる限りその場でフィードバックするようにしています。 つまり、店員に伝えるということです。 と言っても店に出ている人はみんなアルバイトでしょうから、あまり意味はないかもしれませんが、 何もしないよりはマシです。というよりたとえ無駄でも何かした方が私の精神衛生によい。 そう、世界は私の精神衛生を中心に回っているのです。ぐるぐる。 先日行ったドラッグストアでは珍しく歌詞のないBGMが流れていましたので、 レジでの清算時に店員に「この店はいつも歌詞のないBGMを使ってるんですか? 落ち着いて買い物できて助かります」 と伝えました。すると「は? カシノナイ……? え、ええ、そう、だと思います。ありがとうございます」 という感じの返事が返ってきました。 あの顔は「生まれてこの方、買い物時にBGMのことなんか考えたこともない」という顔です。 聴こえてない人には丸っきり聴こえてないんだろうなぁ。 そしてそういう人が大多数なんだろうなぁ。 どうせ聴いてないんだから流すのをやめても気がつかないんじゃないでしょうか? 私のような人間が多数派とは思いませんが、しかしながら、 曲がないと寂しくて死んでしまう! という人よりも、 曲があると鬱陶しくて苦しい! と感じる人の方が確実に多い気はします。 少なくともここに一人います。一人だけですか? そうですか。 歌詞がなければそれでいいというわけではありませんが、 BGMに歌詞が入っていると、かなりキツイと思うのです。キツくないですか? そうですか。 「おまえを愛してる〜」とか「夢をあきらめないで〜」とか頭の上から言われながら 気持ちよく買い物するなんて私には無理です。 そういう店が一部だけならば、金輪際その店には行かない、ということで解決ですが、 ほとんどの店がそういう有様だから困る。え? 自給自足しろって? なるほど、これは自給自足できないことに対する罰ゲームだったのですね。 それは知りませんでした。教えてくれてありがとう! 言葉には当然ですが意味がともないます。 歌詞が入っているということは、なにがしかの意味を聴く者の意識に想起させるということです。 (あ、どうだろう。自信なくなってきた。だってみんな平然と聞き流してるんだもん……) これがもしも、「この国を愛してる〜」とか「領土をあきらめないで〜」みたいな歌詞だったらどうでしょう? 「妙な洗脳ソングを聴かせるな!」と怒る人が少しは出現するでしょうか? そして、それを言うなら「おまえを愛してる〜」や「夢をあきらめないで〜」も同じなわけですよ。 いや、どうでしょう? 「総理大臣を愛してる〜」や「原発をあきらめないで〜」などといった歌が平然と流されるようになったとしても、 この国の人々は相変わらず黙って聞き流し続けるような気がする。 そのとき、この国は一体どうなっているでしょう? (どうもなってなかったりして。それはそれで、ちょっとどうなんですか?) 【今日のまとめ】 気が付いたことはできるだけその場で店員さんに伝えよう! 苦情だけじゃないよ? 「いいな」と思ったことはドンドン伝えていこう! 「は?」と言われても構うもんか。 お店にアンケート用紙が置かれているときは迷わず記入だ! ▽ こちらも読んで欲しい:騒音被害者応援テキスト集です ----------------------------------------------------------- 騒音問題テキスト保管庫 思ったこと: 騒音主は「強い」 まずは「極端な事例」から紹介します。 参考: http://www.30hikikomori.com/2016/12/blog-post_29.html 概略としては、こうです。 「きちがい兄貴」が家の中でヘビメタを鳴らしまくっていた。 しかし「きちがい親父」はまったく注意せず、騒音は収まらなかった。 明らかな騒音なのに、なぜ家族はそれを放置していたのか? 引用: > きちがい親父はきちがい親父の中の理由というのがある。 > ヘビメタ騒音を注意しなかったのは、(もうその時点では)兄貴がこわかったからだ。 > 是が非でも、兄貴に注意をするのは嫌なのである。 > で、そういうことを認めてないから、「そんなん、なっちゃったらなっちゃってしかたがない」とか > 「ちょっとぐらいしかたがない」とかアホなことを言って、注意しない。 つまり、「きちがい兄貴」が成長して体が大きくなって怖くなったから、注意することができなかった。 それが真相なのに、その事実は自我には上らず、「なっちゃったらなっちゃったで仕方ない」などと言って誤魔化す。 私はこの件に関しては部外者ではありますが、なるほど、と言わざるを得ません。 そして、この事例の中には「騒音問題」というもの全般に通じる要素が顕著に存在しているように思います。 もちろん、この事例そのもの、は極端で特殊なものであることは否定できませんが、 かと言って「私たちにとって無関係」では決してない。 > 「なっちゃったらなっちゃったで仕方ない」 この「仕方ない」の用法が、世間一般における「騒音擁護者」のいう「だって仕方ないだろ」 という言説と非常に似ている、というよりも同じなのではないか、という気がします。 そして「注意できない」本当の理由は「力関係」である、という点。 常々思っていたことなのですが、騒音問題は「力関係」の問題なのではないか? 「力関係」の形は様々です。 上記の引用例では「体の大きさ」です。 防災無線のような官製騒音では「お上の権力」です。 火の用心やボイスアラームといった「余計なお世話」系の騒音の場合は 「世間の目や常識」が「逆らえない力」として苦情を抑圧します。 「我慢する」「受け入れる」などと言った道徳的な言葉で「結論」を出されがちですが、 実際はそんなキレイ事ではない。 「力関係」で現状が固定されている。 騒音の「擁護者」との会話の成立しなさ、を思い出す。 単に騒音主の「力が怖い」から黙って従っているに過ぎないものを道徳的な言葉で塗り固めているから、 一方で苦情を言い続ける人間のことをヒステリックに排除せざるを得なくなるのではないか? キレイ事を言わず、「力関係」であることを認める必要があるのではないか? いつまでたっても世の中の騒音問題が前進しない。 その現状を打破する鍵の一端がそこにあるような気がします。 ではさて、事実として認めてみましょう。 騒音主ってのは、「強い」んですよ。 ちょっと権力云々といったややこしい「力」は抜きにして、 ごく単純素朴な「騒音主」を想像してみてください。 あなたの近くに大音量でヘビメタを鳴らしまくる人間がいるとします。 いくら「やめてくれ」と言ってもやめてくれない。 それもそうです。 だって結局のところ、鳴らすのを「やめるかどうか」を最終的に決定するのは、騒音主本人なのです。 どれだけ「鳴らさないでくれ」「鳴らされると困る」「鳴らすのは悪いことだからやめるべきだ」 と言っても、音を出している本人が「鳴らすのをやめる」という意志決定をしない限り音は止まらない。 仮に言葉の上の論理でそれを認めさせたとしても、 音を出している本人が、本人の手や指を使って、本人の所有物であるスピーカーなり楽器なりを「止める」 ということをしない限り、音は鳴り止まない。 さもなくば殺すしかない。 殺すまではいかなくても、何か物理的な手段で「実力行使」する以外にない。 つまり「暴力」です。 そういう最終手段に訴えるしか選択肢がない。 だけどそれはもちろん悪いことだから、実行するわけにはいかない。 だからやっぱり「音を鳴らさないでくれ」と「お願い」して、本人の意志で止めてもらう以外にない。 本人の意志は本人以外の誰のものでもない。他人を操ることはできない。 つまり、 騒音主は強い のです。 想像してみてください。 ある日突然、あなたの隣に騒音主が引っ越してきて、毎日毎日騒音を発するようになってしまった。 何を言っても止めてくれない。 何を言っても、です。 そういう経験をしたことがない人は、 「誠意を込めてお願いすればわかってくれる」とか何とか甘っチョロイことを思ってるかもしませんが、 そんなのは、もう、本当に、「甘い」としか言いようがありません。 もちろん、わかってくれる人もいますよ? だから、いきなり怒鳴り込むのではなく、まずは低姿勢でお願いすることを私はおすすめします。 実際、それでわかってくれる人もいる。 そういう人はそもそも「騒音主」じゃないんです。 言っても通じないから「騒音主」なんです。 あ、もしかして「そんなにしつこいなら警察でも呼べば?」とか思いました? それも甘いですね。大甘です。そんな甘いことばっかり口にしてたら生活習慣病になりますよ。 警察を呼んでもタイミングよく来てくれるとは限りません。 それに騒音そのもので犯罪者として現行犯逮捕されるということはないはずです。 法律的なことはちょっとよくわからないのですが、確かそのはずです。 運がよくて、せいぜい、ちょっと注意してくれるだけです。 でも、警察を何度も呼んで注意してもらえば、じゃあそれで静かになるんでしょ? って思った? あーあ、甘い甘い。胸焼けを通り越して全身大火傷しそうです。ギャー! さすがに警察に注意されれば一時的には静かになるかもしれません。 でも、すぐに元に戻ります。 いいですか? もう一度言いますよ? すぐに元に戻ります。 私の言ってる意味、わかります? 文字通りの意味です。 元に戻る、んです。 すぐにまた、音を出し始めるんです。 私はただ、単純なことを言ってるだけなんですが、 このへんで私の話について来れなくなっている人が一定数いらっしゃるような気がします。 もう一度言いますよ? 一度注意されて、音を止めたけれど、少し時間が経つと、また音を出し始める。 はい。言葉通りの意味です。タネも仕掛けもありません。 それが騒音主というものなのです。 一回注意されて静かにしたんだったら、 音を出すのが悪いことだということを理解した、ということのはずです。 でも、少し時間が経つと、また音を出し始めるんです。 そんなわけないだろ、って思いました? そりゃあ思いますよね。あなたは正常です。 でも、騒音主という生き物は、正常なあなたとは違うんです。 それが騒音主というものなのです。 どうでしょう? 「騒音主は強い」ということの意味をわかってもらえたでしょうか? 精神的に強いとかそういうご立派な意味じゃなくてですね、 「どうしょうもない」という意味です。 殺すしかない。 つまり「ものすごく強い」ということです。 これって怖いことだと思いませんか? 私は思います。 本人が「音を出すのをやめない」という意志でいる限り、殺す以外に音を止める方法は存在しないんです。 「殺す」じゃなくてもいいですが、ともかく何か暴力的な手段、という意味です。 でも暴力は悪いことだから実行できない。 つまり、音は鳴り止まない。 怖い。ものすごく怖い。 あなたがどんなにいい人でも、 「そういう騒音主がある日突然隣に引っ越してくる可能性」 から逃げることはできません。 それはあなたの意志とは関係のないことだからです。 他人を操ることはできない。 「じゃあ仕方ないじゃん」と言う声が聞こえてきそうです。 その通り、「仕方ない」と言えばそうです。 問題はその「仕方ない」という事実に、どう向き合うか? です。 > この「仕方ない」の用法が、世間一般における「騒音擁護者」のいう「だって仕方ないだろ」 > という言説と非常に似ている、というよりも同じなのではないか、という気がします。 これは「怖いものから逃げようとする態度」なのではないか? 騒音を擁護する言説って、必ず「道徳的」なんですよ。 「我慢してあげよう」とか「誰だって同じ」とか「わがままを言うな」とか。 「道徳的」で、同時に「攻撃的」なんですよ。 騒音の被害を訴えている人に対して攻撃的なんですよ。 騒音主という「強者」と、被害者という「弱者」がいる。 騒音を擁護する態度は「強者」に媚びる態度です。スネ夫です。 確かに騒音主は「強い」です。 しかし、それは不当なことです。 事実上「仕方ない」かもしれないけれど でも、不当なことなんです。 いくら仕方なかろうが、不当なものは不当です。それだけは変わらない。 どうにもならない強くて恐ろしいものの存在を認識しつつ、 同時に、 不当なことを「不当である」と隠さずに言う勇気が必要です。 世の中に存在する騒音全てについて、 「それは不当なことである」と言わねばならない。言える人間であらねばならない。 これは何も、いちいち突っかかっていくとか、苦情の電話をかけまくるとか、 そういうことではなくて、態度として、ということです。 なにしろ相手は「最強」ですから、無闇に戦いを挑んでもこちらが傷つくばかりです。 戦いの挑み方、というテクニカルな面については、慎重になるべきでしょう。 しかし不当であることに何の変わりもありませんので、 その心を曲げてはいけない。 その心を曲げると、他の被害者に「だって仕方ないだろ! 誰だって同じなんだ!」とかなんとか言うような人間になってしまう。 被害者に二次被害を与える加害者になってしまう。 そんなことではこの世に生まれてきた意味がない。 > 問題はその「仕方ない」という事実に、どう向き合うか? です。 「仕方ない」ええ、そうですね。 だからと言って、自分が悪い人間になる必要はどこにもないじゃないですか。 苦しんでいる人に鞭打つような人間になる必要はどこにもないじゃないですか。 私は騒音被害者の味方です! ▽ こちらも読んで欲しい:騒音被害者応援テキスト集です ----------------------------------------------------------- 騒音問題テキスト保管庫 思ったこと: 「○○は騒音か?」という問いの立て方がそもそもおかしい。 たとえば「子供の声は騒音か?」とか、 「某動物の吠え声は騒音か?」とか、 そういう問いの立て方が、そもそもおかしい。 「○○が騒音かどうか?」なんてどうでもいい。 「○○」のために苦しんでいる人がいる限り、どうにかしないといけない。 「騒音かどうか」という観念的な議論をして、 仮に「騒音じゃない」という結論になったとしても、 苦しんでいる人の苦しみが消えてなくなるわけではない。 多分ですけど、そもそも騒音だと思ってて、そのつもりで声を上げている人(被害者)は 「○○は騒音か?」なんてわざわざ問わないんじゃないでしょうか。 なぜなら、被害を受けている側にとっては、騒音であるということは自明のことだからです。 だって被害を受けてるんだもん。定義により、それは騒音だ。 「○○って騒音なんですか?」とか言ってるのは多分ですけど騒音主です。 または騒音問題を揶揄しようとしている第三者です(騒音擁護者)。 こんな形式で問いを立てて、それでどうしようというのか? 何らかの理屈で "○○は騒音ではない" という結論を引き出すことに成功したら、 そのロジックをふりかざして、好き放題に "○○の音" を出しまくろう、という魂胆なのか? それとも、何らかの理屈で "○○は騒音だ" と誰かが言えば、 反省して、その音を出さないようにするのですか? そんなつもりないでしょ? 自分が出している音について "騒音だ" と言われたこと自体が悔しくて悔しくて腹が立って腹が立って仕方がないから、 "騒音じゃない! 騒音じゃない!" と言ってるだけでしょ? "騒音だ" と言われたから "騒音じゃない!" と言い返す。単なる条件反射です。 さて、私が今ここでこういう話をしているのは何のためか? 誰に向けて言っているのか? "騒音じゃない!" とムキになって認めようとしない人には何を言っても無駄だと思っています。 その "騒音" の被害者の方に言いたい。 "○○は騒音か?" などというインチキな問いに騙されないで欲しい。 こういう問いを相手にすること自体が騒音主の思うツボです。 "騒音だから" ダメだとか、"騒音じゃないから" 我慢しなきゃならないだとか、 そういうロジックが、そもそもおかしいんです。 そしてもちろん、こういう議論を吹っかける側は "騒音じゃない!" という結論を押し通そうとしている。 あわよくば「○○は騒音じゃない」と誰かに言ってもらえれば、 「ほら見たことか。騒音じゃないもんね〜。ゆえに鳴らしまくるぅぅぅぅ。テメーは神経質なキチガイ確定!」となるし、 そうじゃなければ議論そのものを無視するだけです。 その場の議論の行く末はあんまり重要ではない。 「○○を騒音とか言ってるやつはキチガイ」というメッセージが少しでも世間に拡散すれば騒音主にとっては願ったり叶ったりです。 そうやって議論を吹っかけること自体が、騒音主にとって都合のいい結果にしかならない。 その騒音主の直接の被害者だけでなく、 同じく「○○」で苦しんでいる世の中の被害者全員に二次被害を広めてしまう。 いや、まてよ? こういう議論が起きるからこそ、"騒音問題" としての認知度が高まるということもあるのかな? そういう面もあるかもしれない。せめて、あって欲しいところです。 痛し痒しですね。 しかし冒頭でも書きましたが、実際に "被害を受けて苦しんでいる" という事実の前では、 その音が "騒音かどうか?" という観念的な議論は単なる空論でしかないと思うのですよ。 議論の結果がどう転んも被害の解決にはならない。 「騒音だ」ということになっても、そうやって口で言ってるだけでは解決にならないし、 「騒音じゃない」 なんてことになったら目も当てられない。 結局こういう議論は、 「この人、勝手に "苦しい苦しい" とか言ってるけど無視してもいいよね? 賛成の人、手ェ挙げて〜」 と言っているに等しい。 > しかし実際に "被害を受けて苦しんでいる" という事実の前では、 そうなんですよ。被害を受けた本人にしかわからないかもしれない。そして被害を受けた本人ならばわかる。 苦しい! 苦しい! 苦しい! その音を止めてくれ! その音を止めてくれ! 止めてくれ!!!!!!!!!!!!!!! この苦痛の前では、その音が "騒音かどうか?" などという "ラベル貼り" なんかどうだっていいんです。 "○○は騒音か?" などという議論は、問題のすり替えでしかない。 音を出してるのはそっちだろ? 止めようと思えば止めれるんだろ? だったら止めてくれよ! こっちがいくら念じても音は消えないんだよ。 その音を無くせるのはそっちなんだよ。こっちからは手出しできないんだよ。 だから止めてくれ! その音を出さないでくれ! 今この瞬間苦しい。 もちろん その音が "騒音だ" という認知が世間に浸透して、味方をしてくれる人が増えて、犯人も反省して音を出さなくなる、 というならば望ましい限りですが、それはあまりに楽観的かつ気の長すぎるシナリオです。 苦しいのは今この瞬間です。 そして "騒音かどうか?" という口先だけの議論に終始してしまうようでは何の解決にもならない。 火がついているから煙が出ている。 そういう議論が生じているということは、 確実に被害者が存在しているということです。苦しみが存在しているということです。 被害者の傷を広げて二次被害を作るようなことだけはしないで欲しい。 > 火がついているから煙が出ている。 ああ、そうです。そうなんです。 "○○は騒音か?" だなんて議論が生じているということは、 少なくとも "○○" という音は出ている(出している)ってことでしょう? そもそも "○○" なんてやってないのに、"○○をヤメロ!" などと言われているのであれば、それは言いがかりですが、 でも、あなた、"○○は騒音か?" なんて言ってるじゃないですか。 ということは、少なくとも、身に覚えがあるってことでしょう? よし。証明終わり。必殺の揚げ足取りが炸裂したぜ、コンチクショー。 私は騒音被害者の味方です! ▽ こちらも読んで欲しい:騒音被害者応援テキスト集です ----------------------------------------------------------- 騒音問題テキスト保管庫 思ったこと: たとえば保育園の騒音の擁護者:キレイ事と生の現実を都合よく使い分けている 保育園、あるいは幼稚園でもいいし、その他の学校施設でもいいです。 騒音源としての定番です。 この件に関して常々「騒音としての批判」と「擁護する理屈」との魔導大戦が繰り広げられているわけですが、 その内容については、双方とも出すものを出し尽くしていると思うので、ここでは触れません。 少し検索すればいくらでも出てくるでしょう。 なお、今回取り上げるのはそうした騒音の「騒音主」ではなく、騒音を「擁護する人々」の方です。 その点にご留意の上、読み進めてください。 さて、 擁護側の言っていることは基本的に(というか根本的に)キレイ事です。 それに対し、被害者側の言い分はのっぴきならない生の現実です。 日常生活が破壊される。その苦しみ。理屈じゃない。 しかし、おそらくですが、擁護者は自分がキレイ事を言っているとは思っていない。 むしろ自分(たち)こそが「現実」を語っていると思っている。 つまり、学校関連施設というものは社会的に必要なのだ、という「現実」です。 さらに、騒音被害を訴える人々こそが空疎なキレイ事を語っている、と思っていることでしょう。 つまり、「なんでもかんでも "騒音" と言って文句を言うのが趣味なだけなんでしょ?」というやつです。 しかしご存知のように(ご存知じゃないかもしれませんが)騒音被害というのは、まさに「生の現実」そのものです。 今この瞬間、日常生活を破壊されている。理屈じゃないんです。暴力なんです。 そして「騒音」という単語は、 それを呪文のように唱えれば世間が味方についてくれるような「権力を持った言葉」ではありません。 権力のある言葉というのは例えば「セクハラ」や「差別」などです。 あくまで「例えば」ですので、そうではない、という意見もあるでしょうけれど、 つまり、「世間的な承認を得やすい言葉」というものがある、という話です。 そのような「味方を得やすい」言葉が存在する一方、 「騒音」というのは現状では(残念ながら)そのような地位を得ていない。 むしろ逆です。否定の対象です。 「騒音」と言えば世間が味方になるどころか敵になってしまう。「おまえこそ神経質だ!」というやつです。 「なんでもかんでも騒音と言えばいいと思ってるんでしょ?」だなんて、とんでもない。 反発を覚悟でおそるおそる言わなければならない。 したがって「騒音被害を訴える」ということは「キレイ事」ではあり得ない。 「本当に苦しいから」という以外に騒音被害を主張する理由はあり得ない。 キレイ事として言っているのではなく、現実に苦しいから苦しいと言っている。 騒音被害というのは「生の現実」です。観念論ではない。 じゃあ、そのことを伝えれば擁護者は意見を変えてくれるか? 変えてくれない。 意見は変えず、否定の方法を変えるのです。 こうです。 「それは自分勝手だ」「我慢が足りない」 騒音被害というものをキレイ事(一般常識・観念論)の次元で否定し、 生の現実の次元でも否定する。 片方で議論が煮詰まるともう片方に足場を移し、被害者への攻撃を継続する。 とにかく、あの手この手で被害者を攻撃しようとする。 どうやら被害者を攻撃すること自体が目的のようです。 学校関連施設の騒音だけでなく、騒音問題全般で、いつもそういうパターンが見られます。 こういう場合、言葉そのものにとらわれていると、議論が堂々巡りになります。 堂々巡りになると、被害者の心は傷つく一方です。 他方、擁護者の心は1ミリも傷つかない。騒音主自身の心も1ミリも傷つかない。 議論に加わっている双方が対等ならば堂々巡りの結果も対等ということになりますが、 騒音問題の場合、対等じゃないんです。 被害者は今この瞬間苦しい。 今日が苦しい。明日が苦しい。今までの毎日が苦しかった。これからも毎日続く未来が苦しい。見渡す限りの絶望! 擁護者は平気です。涼しい顔で気の向くままにキレイ事を言って被害者を攻撃するだけです。 議論が堂々巡りになるというのは、擁護者にとっては、被害者を好きなだけ叩けるお祭りがいつまでも続くということです。 こうして被害者は、騒音そのもので心が疲弊している上に、擁護者からの二次被害でさらに傷ついていく。 議論の言葉そのものをいくら腑分けしても、このサイクルから脱出することはできません。 このサイクルそのものの構造を見据える必要がある。 このサイクルの中にいる限り、被害者が傷つく一方であることに気付く必要がある。 > 被害者が傷つく一方であることに気付く必要がある。 わかりにくい文章で申し訳ない。 「傷つく」の主語は「被害者が」です。 「気付く必要がある」の主語も「被害者が」です。 願わくば擁護者が気付いてくれるとありがたいのですが、そんなことは文字通り "有り難い" ことです。 なぜかといえば、擁護者はそんなことに「気付く必要がない」からです。 お気楽に気ままに、自分は世間の道理を理解している善人のつもりで、存分に被害者を叩いて気持ちよくなれる。 「気付いて」しまったら、その気持ちいい生活をやめなければならなくなる。そんなのイヤでしょ? だから擁護者にそのような変化を期待することはできない。 被害者自身が、突破口を模索する必要がある。 さて、ではその突破口はどこにあるのかというと……。 ごめんなさい。 ここで何か特効薬になるような方法をお披露目できるとよいのですが、 私自身、取り立てて効果的な方法を見つけられずにいるところです。 さしあたり、ここで述べたことを念頭に置いておくことで、 二次被害を深める罠に嵌ることだけは(ある程度)避けられる……と、いいな、と願うばかりです。 被害者自身がそれを警戒しておく、という意味で。 騒音被害の真の恐ろしさは周囲に理解されない二次被害にあると言っても過言ではありません。 どうか、被害を受けているあなたの二次被害が少しでもやわらぎますように。 もちろん一次被害も一日も早くなくなりますように。 私は常に騒音被害者の味方です。 ▽ こちらも読んで欲しい:騒音被害者応援テキスト集です ----------------------------------------------------------- 騒音問題テキスト保管庫 思ったこと: 「気のせい」ということを軽んじてはいけない:世の中は阿鼻叫喚の巷 「気のせい」だとか「気の持ちよう」だとか「気分の問題」だとかいう言い方が、 「その問題の深刻さの度合いが低い」ということの同義語として語られています。 しかし、それは大きな間違いです。 なぜなら人間とはまさにその「気」そのものだからです。 人生の意味とはすなわち「気」の問題そのものだからです。 だから「気のせい」とか「気の持ちよう」とか「気分の問題」とかいうのは、 実のところ、生き死にに関わる重大な問題であると考えなければなりません。 たとえば。 「あの店に行くとなんとなく気分が悪い」という場合。 このとき「気」ということを軽んじているならば、 「なんとなく気分が悪いけど、でも必要なものを買わなきゃいけないし」 という理由でその店に通い続けることになるでしょう。 なぜなら「気」ということを軽んじているからです。 「大した問題ではない」と思っているということです。 しかしですよ? たとえば 「あの場所には放射能がある」とか「あの場所には地雷が埋まっている」とかだったらどうでしょう? その場合、絶対にその場所には近付きませんよね? 「気分の問題」は軽んじているけれど、肉体的な被害は軽んじていない。 しかし気分の問題は人生の重大事なのでした。 肉体の被害に負けず劣らず重大事なのでした。 であるならば、「気分の問題」であっても、 「放射能がある」「地雷が埋まっている」と同じぐらい警戒してしかるべきです。 そういう考え方で日常生活を見直してみる。 すると、身の回りに危険がたくさん潜んでいることに気付くでしょう。 そうです。 我々を取り巻く日常の世の中には危険がたくさん潜んでいるのです。 それでいて、「それが危険である」という共通認識がない。 地雷や放射能がまき散らされて放置されているのと何ら変わらない。 非常に恐ろしい状態です。 こんなことを言うと、誰かが次のように言うことでしょう。 「そんなこと気にしてたら生きていけないよ」 そうです。その通りです。 まさに今この世の中は「生きていけない」ような世の中なんです。 大変なことです。 人の心を傷つけて、それが当たり前とされている。 傷ついて血を流しても「気のせい」とされてしまう。 こんな世の中で「生きていける」はずがありません。 目を開けて見てごらんなさい。 そこらじゅう血みどろです。阿鼻叫喚の地獄絵図です。 そしてそれを「気のせい」として目を塞いでしまう。 この事実をまずは認めなければならない。 ▽ こちらも読んで欲しい:騒音被害者応援テキスト集です ----------------------------------------------------------- 騒音問題テキスト保管庫 ◆ 2017/01/26 思ったこと: 人間原理だけではこの世の森羅万象は説明がつかない、が…… 話をわかりやすくするために 「人間原理」と「心霊原理」とでも分けておきましょう。 さて、そうした「心霊原理」的なものが「あるか/ないか」といえば、 これはもう「ある」としか言いようがありません。 「人間原理」だけではこの世の森羅万象を説明できないからです。 と、言うと、「心霊原理」の方を重視せよ、と言っているように聞こえるかもしれません。 しかし、私の言いたいことはその真逆です。 この世の出来事は「心霊原理」に少なからず影響されている。 だからこそ、「人間原理」を重視したい。 なぜなら、私は人間だからです。あなたも人間だからです。 私やあなたが、日々、触れ合って、関わりを持っている人たちも人間だからです。 「低級霊に憑依されている」だとか、 「悪いことが起きるのは前世のカルマ」だとか、 そうした「心霊原理」は、場合によってはもしかすると事実なのかもしれません。 しかしです。しかしですよ? それが事実だとして、だから何だって言うんですか? 「低級霊に憑依されてる」から「軽犯罪的なことをしてしまった」のだとして、 「じゃあ、お咎めなし」ということになるか? なりません。 「あの人が不幸なのは前世のカルマのせい」だから「本人の自己責任だから放っておけばいい」 ということになるか? なりません。 私たちは人間です。 「心霊原理」に道を譲ってやる必要なんてありません。 悪いことをしてしまわないように、自分の意志を強く持つ。 困っている人を見たら笑いものにするのではなく、できる範囲で手を差し伸べるようにする。 この世界が人間が幸せに生きられる世界であるように。 お化けに人間の世界を占領させてはならない。 私たちは人間なのだから、人間として振る舞う。 この世界を人間が幸せに生きられる世界とするように。 繰り返しますが、私は「心霊原理」の存在を否定しているのではありません。 そうしたものは確実に、いいですか、確実に、です。確実に存在します。 だからこそ、いいですか、だからこそ、です。だからこそ、そうしたものに振り回されず、 人間として、自覚的に生きることが肝要だ、という話です。 ◆ 2017/01/25 したこと: マインドルのスクリプト入力・2ndヒロ子氏の第8話、第9話、第10話、第11話、第12話、第13話、第14話が完了。 タイトルが長いですね。 素直に「2ndヒロ子氏のスクリプトが全話完了」って書けばいいじゃない。 え? 完了? 完了ですって? そんなことを言っていいのですか? いいのかもしれません。よくないのかもしれません。 明日は晴れるかもしれません。雨かもしれません。未来は誰にもわかりません。 完了というと、完了したぜヒャッハー! と小躍り、あるいは大踊りする義務が発生するのですが、 なにぶん集合住宅ですから、あまりドンチャンするわけにも参りません。 それに実際のところ、完了してない箇所が多々あるわけですよ。 たとえば、最終話までスクリプトができたにも関わらず、未だに立ち絵がハリボテの仮絵のまま、とかね。 立ち絵は後回しになるだろうなーとは思っていましたが、まさかここまで後回しになるとはびっくりです。 いや、なにしろお金がかかりますからね。後回しになるのもやむを得ないところです。 これというのもあなたが私にお金をくれないのが全ての原因です。コノヤロー。 ちなみにその件ですが、目処はそこそこ立ちつつある。来月には着手できるかな? ていうか、そのためにPayPalに口座を作ったのですよ。しかし本人確認がいつまでたっても終わらない。 ゆえにアカウントが使えないまま。 そりゃあ申し込む人がたくさんいて大変なんでしょうけど、 画像をちょっと見るだけのはずなのになんでそんな時間かかるんでしょう? あの人たち面白すぎます。 公式サイトを見ると「本人確認の書類審査には2週間から4週間かかる」と書いてある。 その時点で「長すぎ」と思うのですが、きっとみなさんお忙しいのでしょう。 だから私、待ったよ。でも全然返事がこなかったよ。 私の算数の能力が正しければ、1ヶ月って4週間より長いですよね? だから私、問い合せたよ。どうなってるんですか? って。丁寧な言葉で。 そしたら一応返事が来たのですが、 「システムの不具合で暗証番号のハガキが発送できなかったので、手動で設定しました」とか言うの。 で、ログインしてみたら確かに、アカウントが有効になってる。 面白いですね。 あ、その前に本当はどういう手順のはずだったのかを簡単に説明しておきますね。 ・まずアカウントを作って、身分証明書の写真をアップロードする。 ・すると、中の人がそれを見て「本人確認の書類審査」をする。 ・それが完了すると暗証番号が書かれたハガキが送られてくる。 ・ログインして、その暗証番号を入力するとアカウントが有効になる(登録完了)。 それで何が面白いのかと言うと、ほらほら、面白いじゃないですか。 システムの不具合でハガキが発送できなかった、とのことですが、 私がしびれを切らしてメールで問い合せなかったら、そのままほったらかしだったんでしょうか? 「私がメールを送った」「から」「手動で設定しました」って、いかにも適当っぽい。 「現在、復旧につとめておりますのでもうしばらくお待ちください」とかじゃないんですよ。 結局、暗証番号は入力しなくてよくなったみたいです。 ちなみにそのメール、送ったの1通じゃないんですよ。 「24時間以内に返信します」と書かれてるのに全然返事がこないから、 結局4通ぐらい、ちょっとキレ気味の文章を丁寧に書いて、やっと返事が来た。 それでその内容が「手動で設定しました」ですからね。 可能性としては2つ。 1、本当にシステムに不具合があった。 2、実は不具合なんてなかったけど催促のメールが来たから「不具合だったんですよぉ。手動で設定したから勘弁してね」 いや、それとも、 3、本当に不具合があって、てんやわんやしてるところにメールが来たから手動で設定した。 かな? いやこれは1と同じか。大変なところに急かすようなメール送ってごめんね。 そもそも、不具合があって作業が滞ってるなら、その時点でアナウンスしないものなのかな? いずれにせよ、メールで催促されたから手動で設定、っていうのが面白い。 催促しなかったらほったらかしだったかもしれないというのがさらに面白い。 世界をまたにかけるオンライン決済の大企業だと思うんですが、そんな適当でいいんでしょうか。いいのかもしれない。 もしかすると私は何か大切なことを教えてもらったのかもしれません。ありがとうございます。 しかしお金を扱うサービスなのに、システムに不具合って、大丈夫なのでしょうか。 それを思うと「可能性その2」を支持したい。面白さという点でも一番ですからね。 もはやPayPalのファンにならざるをえません。 それにしてもネットでお金をやりとりするのって面倒ですね。 その点で昨今ハヤリの暗号通貨は便利っぽいと思うのですが、 いかんせん、ブロックチェーンが邪悪です。 邪悪が言い過ぎなら未完成と言ってあげます。 ていうか別にもう暗号化とかしなくていいんじゃないんですか? コピーし放題でいいんじゃないんですか? つまり、愛と感謝の気持ちを伝えることができればいいんじゃないんですか? 愛と感謝が通貨なら、人は誰でも通貨発行権の持ち主です。 あなたが好き! 生まれてきてくれてありがとう! > それにしてもネットでお金をやりとりするのって面倒ですね。 テクノロジーは発展してるのに、なんだかんだと未だに面倒。 なぜかといえば、テクノロジーが発展しても人の心から疑いの心が消えていないからです。 そこが相変わらずのまま「いかにして信用のある交換価値を担保するか?」を追求しても終わりがありません。 だってそもそも「信用する気がない」んですもん。その上にいくら proof of work を積み重ねても賽の河原です。 そもそも追求の方向が間違っているのです。テクノロジーの問題ではない。 ブロックチェーンで何十ギガにも膨れ上がったウォレットの容量は、人の心の疑いの量です。 いかに重いものであるか、ダウンロードしてみるがよいです。 圧縮する技術が模索されているようですが、根本的には同じでしょう。 それに、圧縮すれば容量は下がるかもしれませんが、処理には時間がかかるようになってしまうのではないですか? それとも、それもコンピューターの発展が解決するでしょうか? そのうちコンピューターの処理能力が高まって、暗号を解いてしまうのではないですか? そして一切は無駄な努力だったと気づく。 なんと虚しい回り道でしょう。 そのとき人は愛という無限の通貨の存在に気づくことができるでしょうか? つまり、今からコンビニに行っておにぎりを万引きしてくるけど、笑顔で見逃してね。 金もらって「ありあとやしたー」とか言っているうちはまだまだ甘い。 万引きされてこそお礼を言わねばならない。 右のおにぎりを万引きされたら左のウーロン茶も差し出しなさい。それが愛という通貨が描く世界です。 そう。愛とは万引きです。万引きとは愛のテロリズムなのです。 何の話でしたっけ? 完了と言いつつ、完了してない箇所があるとかなんとか。 とりあえず勢いで入力した状態なので、いろいろと「仮」の箇所があります。 特に素材に依存している部分はそうですね。 背景画像とか。 ネットで公開してくださっているありがたい素材の数々がありまして、 その愛の深さには胸を打たれるばかりなのですが、 その範囲だけでは、なかなか「ぴったり」なのは見つからない。 たとえば「学校の屋上」というのはよくある背景素材なのですが、 「学校じゃないビルの屋上」というのが意外とない。愛とはもどかしいものなのですね。 あるいは、文章では「通路がまっすぐ伸びている」と言っているのに、 表示している画像のは途中で曲がってたりね。 自分で作れれば一番いいのですけれど。 いや、もっといい方法があります。 いっそ背景なしで文章だけにしてしまってはどうか? 背景があるから、こだわってしまう。 お金も持ち物も、持てば持つほど、とらわれてしまう。煩悩の元です。 つまり、それを突き詰めていくと「何も表示しない」というのが究極の姿ということになりますね。 アイコンをクリックすると真っ白、または真っ黒なウィンドウが立ち上がる。それだけ。 画像も音声もテキストもない。一切の煩悩を超克した涅槃アプリケーション。 するとこうして日々懸命に中身を作り込んでいるというのは、つまるところ、 懸命に煩悩を作り込んでいるに過ぎないのですね。 そうかもしれません。 しかし、それを「過ぎない」などと軽視してはいけない。 なぜなら、私たちは生きているからです。 ここは涅槃の世界ではない。生きている人間の世界です。 煩悩を承知で地上に立ち、人の間で生きる。 それがこの文化期の地球に生を受けた私たちのつとめでありましょう。 私はあなたが好きです。 今日も元気に南無阿弥陀仏。 あっ、もちろん元気じゃなくてもいいと思いますよー。今日も無気力に南無阿弥陀仏! なので、最終的には背景画像もお金払って買う必要があるのかなー、と思ってるところです。 またどこかでお金盗んでこなきゃ。あなたのハートを盗んでこなきゃ。 それから、試合パートの中身も仮の状態なのでした。 ここはストーリーパートのスクリプトとは別の設定なのです。 つまりAIの設定ということですね。 難易度に直結するところでもあるので、後でまとめてやっつけようかなという計画です。 AI自体、いろいろと直したいところもありますからね。 あっ、今気付いたんですが、AIをローマ字読みすると……ウフフ。AIの設定ファイルかぁ。にやにや。 それから、個々のエピソードは実装して、単体での動作確認もそれなりにしたのですが、 全部つなげて第一話からエンディングまで到達できるかどうかのテストはしてません。 だって、そんなの、全部読むだけで何日かかると思ってるんですか? どうせ、私が頑張って結合テストをしてる間に、 あなたたちは私を置き去りにして地球と一緒にくるくる回ってどこかに行ってしまうのでしょう? そうはさせるものですか。 私に結合テストをして欲しいなら、その間あなたたちは身動きせずに止まっててください。 と、こうして書き出してみると、完了してない箇所が盛りだくさんですが、 テキスト自体はわりとキッチリバッチリできてますよ! ちゃんと選択肢で分岐もします。エライ! あ、今思い出しましたが、エンディングのムービー的なものもできてないのでした。 思い出さなければよかった。記憶力のいい頭を持つと不幸です。3.14! ところでストーリーの内容をすっかり忘れていたので、 新鮮な気持ちで読みながら作業ができましたよ! 超ハッピー! それで、またまた予想通りなのですが、 なんなんですか、この話。めちゃくちゃ面白いじゃないですか。 私、このお話を考えた人の大ファンになってしまいました。 なんだかいつも同じこと言ってますが、面白いのだから仕方がありません。 もはやかれこれ、ファンクラブの会員証を何枚取得したか思い出せないほどです。 さて、ともかく作業が大きな節目を越えました。 次はどうしましょう? 自殺しましょうか? 方向として大まかに2通り。 1・他のルートのスクリプトも先に終わらせてしまう。 2・スクリプトからはひとまず離れて、他の要素を進める。 3・自殺する なんとなく2を思い浮かべてました。 つまり、2ndヒロ子氏のルートだけで先にお披露目できる状態にする、ということです。 しかし今の状態、つまり他のルートのスクリプトが手つかずの状態で、 その他のシステム的な作業をする気になれるか? なんて言うのかな、 「スクリプトができてない」という状態、すごく「気がかり」なのですよ。 最も面倒くさくて分量が多いパートですからね。 「さっさと片付けて身軽になりたい」という気がする。 このままでは自殺もできない。 そういうわけで、進路は1に傾きつつあります。 ただ、時間がかかってしまうのがあんまりうれしくない。お披露目が遠ざかる。 いやいや、時間がかかるのは結局同じではありませんか。それもそうですね。 ともかく、テキストの部分だけでも片付けて、 「一番面倒な作業はすでに終わっている」という状態になりたい。 幸いなことに、スクリプトエンジンとしての機能に特に問題はなさそうですからね。 実際にここまで作業を進めることができたというのが何よりの証拠であります。 このまま作業を進めてしまっても、大幅な仕様変更で作業やりなおし、ということにはならないはず。 ゆえに、このまま他のルートのスクリプトも片付けるぞ! あっ、一つ重大な問題があるのを忘れてました。 それは「面倒くさい」ということです。 数々のイノベェィティヴなソリュゥションのおかげで、かなりマシにはなったのですが、 エイヤッドロンには程遠い。こんなに念じているのになぜだ! なので、 > このまま他のルートのスクリプトも片付けるぞ! とは言ってみたものの、 ぞ! の後に、おー! とは言えなかった。言えなかったんです……! 気力がない。 今こうしてキーボードをパチパチしてるわけですが、キーが重いこと重いこと。 指の重みだけでかろうじて入力しているようなものです。疲労困憊。 だから上記の1~3に取りかかる前に、ほんのちょっと休みたいな、って思っているところです。 したがいまして、私が休んでいる間は、あなた方は動いてはいけませんよ? いつも言ってることですが、私以外のみなさんが私に無断で動き回るから、時間が流れるんです。 時間が流れるとはそういうことです。別に難しい理屈じゃないでしょう? わかりますでしょう? だから私はほんの少し休みますので、 その間、あなた方は動かないこと。いいですね? 動いたらコロす。 おっと、コロすだなんて物騒なことを言ってしまいました。 そんなときのために、素敵な魔法を教えてあげます。 物騒なことは2回言いましょう。するとアラ不思議、物騒じゃなくなるんですよ。 コロす! じゃなくて、コロコロす! 動いたらコロコロす! わーい、コロコロされちゃったぁ。ウフフ。 あと何でしたっけ? 何か大切なことを忘れているような気がします。 そんなときこそ、記憶力のいい頭の出番だ。 3.1415……………………あなたが好き! そうでした。 今日もあなたが幸せでありますように。