「自殺」を扱うサブカル作品ネタバレ感想
『自殺サークル』(漫画版)
【形式】マンガ
「自殺」を看板に掲げたサブカル作品は「地雷率」が高い、というのが私の印象です。
地雷などと言っては失礼とは存じますが、 「自殺」ということに関して何がしか真摯な思いを抱いているお友達が読んだ際、 「読まなきゃよかった」という結果になるリスクや頻度が高いように思われるということです。
だからこそ、この私が率先して発掘し、情報提供を兼ねて紹介していこう……と考えているところでありまして、 今回は表題のものを拝読した次第でございます。
次第でございますが……。 ある程度予想はできてましたので「地雷」と呼ばわるのは気が引けるところではあるのですが、 オススメという意味での紹介にはならない、ということは最初に申し上げておきます。
批判がましいことを言いたいわけではないので、 できる限り言葉を選びつつ、簡潔に特徴を言いますと:
グロネタ+思わせぶりな(哲学的な?)謎かけフレーズで「深そうっぽい」フレーバーを添加
という感じです。 あと、怪談要素もあるかな?
エログロや「怖い話」が好きな方は楽しめるのかもしれません。そうでない方は読む必要はないと思われます。 血肉が飛び散る「派手な死に方」がたくさん出てきます。 真相の不明な呪い(?)のようなものも出てきます。 エロマンガではありませんが、メインキャラが少女売春をしているという設定上、多少そうした絵も出てきます。 リストカットの延長で全身傷だらけの絵なども出てきます。
なお、私自身はそうしたジャンルのエンタメを好む人間ではなく、 本作がそうしたジャンルとして如何ほどのものであるのかの判断はできません。
あ、念のため申し上げておくと、今回読んだのは漫画版です。 映画版もあるそうですが、私は視聴しておりません。 伝え聞くところによると、漫画版以上にグロ路線なのだとか。 漫画版に対する好き嫌いは、映画版にはそれ以上に当てはまる、ということかなと推測しております。
さて、こういうのが好きという方はいらっしゃるでしょうし、 その需要・供給に口を差し挟む気はないのですが……
と、しつこく前置きした上で。
タイトルに「自殺」と銘打たれている上に、随所に何やら意味ありげな雰囲気を漂わせてはおりますが、 「自殺」や、それに関連して「生きること」「死ぬこと」といったテーマに真摯に向き合いたいと思っている人には 特段オススメできる内容ではないと思った、と申し上げておきます。
あるいは逆に、そのように思っている人であればこそ、 この漫画からでも、何かを読み取ろうと努力してしまったりするのかもしれません。 だからこそ、これを真に受けて足踏みするよりは別のことに心身のリソースを割いた方がいいんじゃないかな、 と余計なお世話と知りつつ言いたくなってしまうと申しましょうか。
「自殺」という看板を掲げつつメインはグロ、 ということがすぐに分かればその時点でそれ以上のものを求めたりはしないのですが、 グロオンリーとは断言できないような仄めかしがあるので、念のため最後まで読んでみた次第。 その結果、上記の意味で「特段オススメはできない」というのが私の結論です。
いや、私なんかが心配しなくても、お仲間の皆さん(?)は充分カシコイと申しますか、嗅覚が鋭かったりもしますし、 言われるまでもなく、避けて通るタイプの作品かな、という気もしないではありません。
というか「自殺」と言えば「グロの1ジャンル」、というのは 私が思う以上に「そりゃそうだろ、何言ってんだ?」だったりするんでしょうか……? そう思う人がいらっしゃるのは構わないのですけども、 「自殺」がそういうふうにしか見られてないのだとすると残念だなという思いはあります。
それではいつものように、内容をご存じない方向けに、あらすじ紹介からいきます。もちろんネタバレです。
■ あらすじ
「自殺サークル」と呼ばれるサークルが存在する。 定期的に集団自殺を繰り返すが、なぜか1人だけ必ず生き残るようになっている。 その生き残りが次のリーダーになり、メンバーを集めて再び集団自殺を行う。 そのようにしてサークルは連綿と続いてきた。
小夜と京子は幼い頃からの親友で、同じ学校に通っている。 しかし些細な事をきっかけに気まずくなっている状態。 ある日、小夜が家庭の事情から悩みを抱えるようになり、リストカットや少女売春を繰り返すようになる。 京子は小夜を心配するが、小夜には避けられてしまう。
やがて小夜は「自殺サークル」のメンバーになる。 親友の京子よりもサークルの方が自分の悩みを受け入れてくれると感じたのだ。 そして集団自殺が行われる。 小夜は幸か不幸か生き残って新たなリーダーとなり、メンバーを集めてサークルを大きくしていく。
そんな小夜を止めようと京子は奔走するが、京子の言葉は小夜に届かない。 やがて京子もサークルのメンバーになり、ついに集団自殺が決行されてしまう。 死の直前、二人は友情を取り戻すが小夜は死に、京子は生き残って次のリーダーとなる。
さぁ、次はどんな自殺サークルになるのだろうか? というところで劇終。
……あれ? こうしてあらすじだけ書き出してみると、何かちょっと面白そうじゃないですか。おかしいなぁ。
■ あらすじを書き出したら面白そうに見えてしまったという怪
読んでたときにはこんな感じじゃ全然なかったのにな。一体どんなミステリーなのでしょう。 私の解釈でスジを抜き出したので、私の好みに合った形で抽出されてしまったのかな?
上記のスジで言った場合、何が面白そうかと言うと、小夜と京子の関係ですね。 悩みを抱えて死を意識している小夜には2つの道があった。京子(=生)か? サークル(=死)か? 京子よりもサークルの方が自分の悩みを理解してくれると感じ、小夜はサークルを選んでしまう。 そんな小夜を止めようとした京子の言葉は小夜に届かない。 しかし小夜と同じサークルに入って共に集団自殺に参加することで、死の直前に友情を取り戻すことができる。
このスジが私的に「あれ? 面白そうじゃない?」と思ってしまった箇所です。
しかし、実際読んでみると、そういう印象は受けないのですよ。おかしいなぁ。
■ 実際読んだときには面白くなかったという怪
「面白くなかった」と言っては失礼ですが、上記のあらすじで感じたような面白さはなかったということです。 読んだときに受けた印象としては、ああ、グロネタだなぁ、という感じです。 それはそれで一種のエンタメとして必ずしも否定するつもりはないものの、 逆に、グロネタという側面に焦点を当ててあらすじを書こうとすると、 「ひたすら人が派手に死ぬ」というだけの身も蓋もないことになってしまう。 あるいはグロに造詣の深い人があらすじを書けばまた別のものになるのでしょうか。
そんなわけで私が「あらすじ」として「すじ」を思い出してみたときには前述のようなものとなったのでありますが、 肉付けとしては、あくまでもグロネタですね、というのが私の印象です。 いくらグロが目的でも集団自殺のイラストだけを脈絡なしに並べたのではマンガにならないでしょうから、 何らかの「すじ」になるようなものは必要になる。 しかしあくまでもグロネタを乗っけて展開させる骨組みとしてそうしたドラマ要素が使われていたということであって、 それ自体が作品の主題だというふうには私には見えませんでした。
また、哲学的(?)っぽい謎かけのようなフレーズが出てきたりもしていましたが、 それもあくまでも雰囲気を出すための飾りとして散りばめられているに過ぎず、 それ自体を掘り下げて表現しようとしている、というものではないと私には見えました。 もちろん読者としてそうした箇所に触発されて考え込む、というのも作品の楽しみ方の1つであり、 考えること自体はそれ自体で意義を持つものと言えますが、 このマンガが「深い」と思って考え込むのであれば、 考えを深めるのにもっと適した本は世の中にいくらでもあるでしょう。
■ 「自殺」の世間でのイメージとは……
作中で描かれている「自殺」のイメージが、どこかステレオタイプ的なものという感じがしました。
「電車への飛び込み」「屋上からの飛び降り」、そして損壊した肉片の描写、等々、とにかく「派手」です。 その事件性に対して警察が動いたりニュースになったりと「人騒がせ」でもある。 「集団で」という点についてはステレオタイプと言えるかどうかは分かりませんが、 単に絵的なインパクトを高めるためにそうしているように見受けられます。
グロの「記号」として「自殺」を採用しているのだと思われますし、 「わかりやすい」形式にするのは制作技法として必然的なことではあるのでしょう。
しかし実際に自殺を考える人の多くは、できるだけ「人の迷惑にならないように」と 人一倍気にしているものであるように思います。 それは普段生きているときからそうであり、 そうであればこそ人よりストレスも多く、「死にたく」もなる。
自分の死に方についてもそれは同じで、 「人の迷惑にならない死に方は……」と模索するあまり、 ますます精神が追い詰められてしまう。 その結果的に死なずに生きることになるにしても、 抱え込む苦しみは、死を真剣に考えたことのない人の想像をはるかに絶するものであることでしょう。
その一方、世間では自殺に対し「迷惑だ」「死ぬなら一人で死ね」「誰にも迷惑かけるな」といった声が通底しています。 そうした発言は世間の規範には準じているのかもしれませんが、 苦しんでいる人を追い詰める非常に残酷なものだと言わざるをえません。
その意味で、作中で描かれている「派手」で「人騒がせ」な自殺像を見たとき、 「"自殺"と言えば、やっぱこういう感じっしょ?」とでも言うようなプレッシャーを感じてしまいました。 特に電車への飛び込みはバッシングの対象として「定番」ですらある。 もし「自殺をバッシングしたい」という人がいたら、 「電車への飛び込み自殺を『自殺の代表例』のように取り沙汰すればいい」とアドバイスすればよさそうです。 そうすればバッシングの言葉は天から降ってくるように簡単に手に入るでしょう。 「だからあいつらは迷惑なんだ」と言えば拍手喝采間違いなしです。
作者にそういう意図があった、とまでは言いませんが、 フィクションの中でわざわざこの手法を採用したのは一体何のためだったのか……と思わず勘ぐってしまいます。 これ見よがしに死体が飛び散る描写や、ニュースで騒がれる描写までつけている。 描かれているのはあくまでも、「他人から見た自殺のイメージ」と言えます。
もちろん、この作品1つを取って、これが世間での自殺のイメージを代表している、とまで言っては言い過ぎでしょうけれど、 映画版とのメディアミックスもあり、商業的に一定の成功を収めているものであるとは想像できます。 この作品での自殺の描き方が悪い、と言いたいのではありません。 こういうものが「自殺像」として、世間で一定の公約数となっているのだとすれば、それは残念な気がした、ということです。
■ 「なぜ死を選ぶのか?」は結局よくわからない
自殺の外面的な「形式」がステレオタイプをなぞるものであると同時に、 自殺を選ぼうとする人物の内面があまり描かれないというのも特徴的と思われます。
小夜は家庭の事情で悩みを抱えるようになって自殺サークルに入る、という展開ではありますが、 結局それでどうして死を選ぶのかはよくわかりません。
小夜自身が死にたいと思うから自殺する、というより、 「自殺サークル」というヘンテコリンなものに引っかかっちゃったから自殺しちゃうんだ、というふうに見えます。
そもそもお悩みやストレスと「自殺」を結びつけて描くこと自体がステレオタイプ的というか、 読者サービス的にわかりやすい記号を並べただけ、というふうに見えなくはありません。 グロネタを乗せるためのシャリとしてはそのぐらいが丁度いい匙加減ということでしょうか。 「リストカット」や「少女売春」といった目を引く記号がふんだんに登場します。 雰囲気は抜群かな、とは思います。
「サークル」は何か怪奇的な存在であり、リーダーも超能力を持っているかのようで、 小夜やメンバーたちは精神を操られているように見えます。 ではそのサークルの正体とは一体何なのか? と気になるところですが、 その魔力の設定については最後まで謎のままであり、作中で明かされることはありません。
そのようにして「死=何か怖い感じのもの」というイメージで描くのもステレオタイプ的ですね。 サークルのリーダーが「死は幸せなのだ」的なことを言うシーンはありますが、 そうした言動自体が「カルト的な不気味さ」として描かれていて、 「幸せさ」が伝わってこないと言うか、そもそもそんなものを伝える意図があるようにも見えません。
小夜以外のメンバーも小夜と同様、それぞれに「悩み」を抱えていて、そのゆえにサークルに魅了されている様子ですが、 個別にストーリーが描かれることはありません。
自殺サークルという存在、メンバーの面々、リーダーである光子、そしてサークルにのめりこんでいく小夜、 すべてが「超常的・怪奇的なもの」という描かれ方です。 つまり「話の通じる他者」ではない、というわけです。
作中に散りばめられる思わせぶりな(哲学的な?)謎かけフレーズも、 こうした「話の通じなさ」をますます演出しているようです。 「彼女ら」には「彼女ら」の独特の論理があるのだろうけれど、「我々まともな側」には理解不能である、と。
その理解不能さに向き合って何らかの形で乗り越えていこう、ということでもなく、 理解不能さを理解不能さとして「面白く」見えるように演出し、娯楽として消費する。 この作品はそういう目的の作品なのだな、という印象を受けました。 翻って世間での「自殺」や「自殺しようとする人」へのイメージも同様に、 「意味不明なキモチワルイ連中」というものだったりするのかな、と、 これに関しても私としては残念な気分になるところです。
しかし下手に分かったつもりでお説教をされるよりはマシというものかもしれません。 その意味で、京子が小夜に拒絶されるという点に関しては共感できるような気はします。 京子は「常識側」の人間です。 小夜を心配し、リストカットをやめさせようとし、サークルを抜けさせようとします。 その言動はどこまでも「常識的・善人的」であり、小夜に届くことはありません。 一方で小夜やサークルの行動はますますエスカレートして手に負えないものになっていく。
「わからなさ」を「わからなさ」のままに恐れ敬いつつ、 相手の輪(サークル)に入って運命を共にしてこそ、精神的な交流が可能となる、 だがそれは自らも同じ道をたどり繰り返すことになるリスクをも意味する……
……というふうに解釈すれば、なかなか意味深いストーリーのように思えてきちゃいますね。 ええ、ですからスジを思い出して書いてみるとそんな気がするわけですが、 このあたりの「怪」については前述の通り。
京子の側にも実は精神的な問題があった……というような描写が直前に少し入ってきますので、 そこを手がかりにしてさらに深読みしたくなってしまうところでもあります。 とは言うものの「自殺」というテーマとはあまり関係なさそうで、 あくまで雰囲気のために出してきただけというふうに私には見えます。
そういえばネットで拝読した他の人の感想の中に「怖かった」というものが散見されました。 「怖さ」とは「常識」の裏側にあるものだ、ということは指摘しておきたいと思います。 その点で言うと、京子が「常識人」の役を務めているのは意味のないことではないのかもしれません。
ちなみに作中で京子がサークルに入るのは小夜を理解しようと歩み寄って……では全然なく、 小夜とケンカになった挙句、サークルのメンバーに捕まって、気絶させられて、拉致されて、 気絶している間にメンバーの証である刺青を入れられて、後は無理やり集団自殺に引きずり込まれて……という展開です。 最後までサークルの「不気味さ・非人間味」が際立つばかりです。
また、サークルのリーダーがカルト的な魅力を利用してメンバーから金を巻き上げている様子も描写されています。 こうなっては崇高さもなく、ただの安っぽい悪党集団のようです。
あと、リストカットについても、もう少し触れた方がいいのかな?
小夜を始めとして、サークルのメンバーがことごとくリストカットをしているのも本作で目を引く点です。 心の傷は目に見えないから体に傷をつけて痛みを表現するのだ的なことを言って サークルのメンバーが集まって一斉にリストカットをするシーンなどがあったりします。
リストカットについては私自身はやったこともやりたいと思ったこともないので、 コメントは差し控えた方がいいかなとは思いつつ、 作中での描かれ方はやはりどこかステレオタイプ的・記号的という気はしないではありません。 自殺とリストカットを当然のように結びつける発想もさることながら、 「心の傷は見えないから体に傷をつけて云々」という解釈が既に、 当事者自身の心理というより、周りの人間が思う「もっともらしい "説"」を単になぞっているように私には見えます。 ちょうどグロ路線という本作のスタンスとも相性の良い記号であることでしょう。
ただ、ネットで他の人の感想を見た限りでは、リストカットの箇所に共感できるという声も少し見られましたので、 リストカット当事者の方にはリアリティが感じられる表現なのかもしれません。
■ お説教くささはない
自殺ネタにありがちな変なお説教くささがないのは「安心して読める」点かもしれません。 悪く言えばひたすら意味不明ということではあります。 「わからなさ」は「わからなさ」のまま、そこにある。
ネットで他の人たちの感想を見ていると、この作品の雰囲気に安堵を感じる、といった声も散見されます。 「生」の側の理解を突っぱねて、一貫して「死」がすべてを蹂躙し尽くし勝利を収める。 本作が放つそんな空気感が、「死」に親和性を感じる人には心地よく感じられる、というのは分かるような気もします。
ただ、それを踏まえた上で敢えて言いたいのですが、 その点が、私には逆の意味で「予定調和」と思われるところです。 最初から「自殺は止めるべき」との訓戒を旨として自殺をヤメさせてハッピーエンドとする、 といった筋書きが「生の予定調和」なら、 ただひたすら「死」ばかりを見せつけるのも「死の予定調和」と言えるでしょう。 それがインパクトを持ち得るのも一方に「生の予定調和」という文脈が世間の側に地盤としてあればこそであり、 そうである限りは結局のところ、この「死」一辺倒の雰囲気を覗き込めば覗き込むほど、 背後から「"生" の常識」に搦め捕られていることを意識せざるを得なくなってくるように思われます。
ただ生きればいいってもんじゃないのは百も承知ながら、 ただ死ねばいいってもんじゃないのも同様と言えましょう。 などと言い出すと、私こそ説教くさくなってしまいそうですね。このぐらいにしておいた方がいいかな。
■ 「自殺」を看板に掲げて「何を」描くのか?
あるいは立場を変えてこう言うべきでしょうか。 タイトルに「自殺」が入っている作品に読者は何を期待するのか?
「自殺」といえば表現の題材として普遍的なテーマの1つです。 あくまでサブカル商業作品なのだから過度な期待は禁物……と言う人がいたら、その人には反論しないでおきますが、 他ならぬ「自殺」を看板に掲げているからにはそれなりの期待はしたくなってしまいます。
「作品」として何を描くかという以前に、 日常の中で「自殺」ということに対して私たちはどういう反応を示すかを思い返す方が先かもしれません。
その「反応」をこの場で具体的に列挙するのは「言わずもがな」の繰り返しになりそうですので避けるとして、 ここで考えたいのは「作品」がそうした世間感覚に対してどういう位置を取るのか、です。 単に世間感覚をなぞるものなのか、あるいは「逆手に取った」ようなものとなるのか。 それともまったく別の価値観を提示するものとなるのか。
同じことは「自殺」に限らず、どのようなテーマでも問えることではあります。 ただ「自殺」の場合は特に、自由な態度が取りにくいという性質があるように思われます。
1つには「死」が絡んでいること。そしてそれを自分の意志で選ぶという特殊性。 人は自からの「生」を希求しているものだという前提で構築されている我々の社会の根底を突き崩す危うさがそこにある。 同時にそれはそのような中で築き上げられている人間関係の根拠をも危うくする。 そのゆえにこそ、「自殺」を前にして、未だこの世を生きる生者としての我々は身を硬くせざるを得ないのでしょう。
硬化した口から雄弁に漏れ出るのは果たして誰の言葉でしょうか。 語られたどのような言葉も否応なくまたこの世を形作る要素の1つとして還流し、我々の在り方を規程するものとなる。 そうしてこの世が変わらず続いていく。 硬化した口から語られたのは誰の言葉だったのか。 あるいはそれは、この世の持続力たる得体の知れない「何か」の声ではなかったか? 続くこの世の空の下で、やはり「自殺」は手の届く場所に存在し続け、変わることのないその特異性で今日も我々を照らし出す。
「生=この世」に溶解してもなお底に沈む澱のような意識が、容器の外へ飛び出すこともできず、白々しい光の影で煌々と佇み続けている。 生きることも死ぬこともできない意識のリアリティ。
自殺という、この、大きな口を開けた深淵を前にして、我々にはごく限られた言葉しか語ることを許されていないかのようです。 だからこそ、この世と手を組んで溶け込みつつ我々を規程する言葉とは別種の表現としての創作物に、 溶け切らず底に沈む澱のような意識の持ち得る言葉としての役割を期待するのは間違っているのでしょうか?