「自殺」を扱うサブカル作品ネタバレ感想
『バビロン』
【形式】アニメ
自殺の肯定をテーマにしたアニメだという評判を聞いて観てみました。
これはこれで面白かったですが、自殺云々というのはあくまでエンタメ目的の「ネタ」の一部という印象です。 実際の製作意図は知る由もありませんが、 いわゆる「死にたい気持ち」を抱えている人の心に寄り添うような内容というわけでは全然ないと感じました。
まだ観てない方で、その点が気になって観てみようかとご検討中の方には、 あまりオススメではない、と私からは申し上げておきます。 猟奇系の娯楽作品を求めている人向けなのかなと思われます。
以下、そういう私の視点で書きますので、ついつい不満を漏らしがちなところはありますが、 本作品および制作者を批判する意図のものではありません。
■ あらすじ
本アニメをご存知ない方でも以下の文章が理解できるよう、ざっくりとあらすじを紹介しておきます。 (もちろんネタバレですのでご了承ください)
正義感あふれる検事が、人の精神を操って自殺させる超能力を持つ女性を追って捜査を進める、というのが全体の縦糸。
主人公の名前は正崎 善(せいざき ぜん)。東京地検特捜部の検事をしており、自分の仕事を「正義」だと考えています。 対する悪役は曲世 愛(まがせ あい)。超能力を持っており、人の精神を操って「自殺させる」ことができます。
曲世はその能力を駆使して大勢の人を自殺に見せかけて殺害しつつ、 政治家を操って「自殺法」という "人が自殺をする権利を認める法律" を世界中の国に導入させようと暗躍します。
後半では自殺法の導入について最後まで慎重な態度を見せていたアメリカ大統領が、 自殺しようとする人物を人生相談で思いとどまらせることに成功。 しかしその大統領も曲世に襲われて死んでしまいます。 その直後に曲世と対決した主人公もどうやら曲世に殺されたらしいことが仄めかされて劇終です。
■ 「自殺は悪いことか?」という問いかけ(だけ)は頻繁に出てくるけれど……
作中で「自殺は悪いことか?」といった問いかけが頻繁に出てきます。 それでちょっと何か、自殺に関する常識を問う意欲作?!かのような期待を喚起させられるところなのですが、 観念的な言葉が飛び交うばかりで、自殺そのものを正面から取り扱っているとは言い難い内容です。
何より、全編を通して、肝心の「死にたい気持ち」を抱えた人物がほとんど出てきません。 全12話というシリーズの中でこれだけ頻繁かつ大々的に「自殺」ということを前面に打ち出しているにも拘らずです。
「自殺」や「善悪」といった抽象的な言葉の組み合わせで「自殺=悪」と言えるのか、といった議論が交わされるものの、 ただの言葉遊びになっています。それで実際に死のうと思うのは誰なのか? という点がほとんど描かれない。
自分から「死のう」とする人物も例外的に何度かは登場しますが(後述)、 普段から「ああ、死んでしまいたいなぁ……」という思いを抱えている人がそれらを見て 「そうそう、そういうことなんだよ!」と感情移入できるような描かれ方をしているとは私には思えませんでした。 そもそも本作自体にそういう製作意図があるわけではないのだろうと推測するところです。
とにかく「自殺」という単語だけは派手に踊り、インパクトは強烈ですが、 あくまでも話題性を狙ったエンタメの「ネタ」として「自殺(という単語)」を利用しているに過ぎないという印象を受けます。
もちろん製作意図がどこにあるのかは私にはわかりませんし、 仮にそうなのだとしても、それはそれで需要はあるのでしょうし、批判する気はありません。
ただ、「自殺」という心理的にはデリケートな領域であるはずのものが、 娯楽作品を派手に彩るためのネタとして利用されている、という点に、 私はあまりいい印象を受けなかった、とは言っておきたいと思います。
■ 「曲世愛」の能力による被害は「自殺」ではなく「殺人」
作中では多くの「自殺」が登場します。 が、そのほとんどは超能力者・曲世に精神を操られて自殺させられたものであり、 これは「自殺」ではなく「殺人」です。
非常に衝撃的なシーンが続き、曲世の強烈なキャラクターもあって「エンタメ」としてのインパクトは抜群と言えましょう。 ともすればその派手さに目を奪われてしまいがちであり、それを純粋に「楽しむ」のが本作の嗜み方なのかもしれませんが、 全編をとおして、自分の自発的な気持ちや意志で死を選ぼうとする人物はほぼ登場しないことには注意しておきたいところです。
■ 「自殺法」を巡る議論でも自殺は他人事
作中で、国民が自殺する権利を認める「自殺法」という法律を巡る展開があります。 一種の安楽死の延長のようなもののようです。 そこで「自殺は悪いことなのか?」「善とは?」「悪とは?」といった抽象的な議論が交わされるのですが、 ここでも「死にたいと思っている」当事者は全くと言っていいほど登場しません。
「自殺法の賛同者が大勢集まった」などという描写はあります。 しかしセリフのある個別の登場人物として描かれることはほぼありません。 どこまでも当事者不在のまま、政治家や警察関係者たちが「自殺の権利を認めるなんて……!」と うろたえながら観念的な議論を交わす様子が描かれるばかりです。
従って、自殺そのものを正面から取り扱うというより、 悪役・曲世の暗躍で人々が右往左往する様子の一環、ということなのかなという感じがいたします。 「自殺法」に賛成の立場で登場する政治家も、実は曲世に操られていたようなフシがありますし、 理屈はさておき、結局のところ本当に自分から死にたいと思っている人物は登場してないような気がします。 (一部の例外については後述)
「自殺法」自体はいわゆる安楽死の延長といったところで、議論の内容自体はそう突飛なものではありません。 「自殺」という単語をこれ見よがしにビシビシ使うからセンセーショナルになる。 ここでもやはり「自殺」という単語をエンタメ用の看板として利用しているだけなのだな、という印象を受け、 私はあまり好感を持つことはできませんでした。
作中の議論も自殺に関する法的な扱い方、という点に終始しており、 「なぜ死にたいと思うのか」とか「死とは何か」といった領域に踏み込むことはありません。
ただし、「死にたい」当事者が登場しないおかげで、「気楽に楽しめる」内容になっているという面はあるかと思います。 「自殺」というデリケートな題材でありながら、肝心の部分は巧妙かつ大胆に避けている。 重いテーマと見せかけて、実は軽い。 このあたりはむしろ商業娯楽作品としての「気遣い」ということなのかもしれません。
ネットでこのアニメに対する評判を検索して見ていると、 「考えさせられる」「哲学的だ」などといった反応がよくあります。 こうした議論のシーンを面白く感じ、肯定的に評価しているということなのだろうなと思います。 「哲学ネタ」のエンタメとして一定の成功を収めているということなのでしょう。
たとえて言えば格闘マンガに出てくる格闘技を実戦で使ったら強いのか? と談義するのが楽しいのと同様、 本作中で交わされる議論の端々を取り沙汰して意見を述べる、などというのも楽しみ方の一種なのかもしれません。
■ 「死にたい」当事者が登場人物として描かれる数少ない例
本作は「自殺」ということが派手に前面に打ち出されているものの、 実際に自分の意志で死ぬことを考えている人物はほとんど出てないことはすでに何度も申し上げたとおりです。 ここではその数少ない例について触れていきます。
「死にたい」当事者が登場人物として描かれる数少ない例その1:後追い少女
第10話に母親を病気で亡くした少女が後追い自殺をするシーンがあります。 ただ、その少女も母親も本編の主要キャラクターではなく、その回のそのシーンのためだけに唐突に登場する人物です。 あくまで「モブ」としてステレオタイプな事例を出しているに過ぎず、 「当事者が描かれた」とは言っては少々言い過ぎのような気はいたします。 死へ向かおうとする内面を掘り下げる、といった描写は一切なく、ここでもやはり自殺は他人事という扱いです。
で、他人事としての自殺を主人公たちが止めようとするのですが、 自殺法があるので止めることができませんでした、というのがこのシーンです。 なのでこれは、おそらく、自殺法のようなものがあったら簡単に自殺されちゃうかもよ、 ということを描きたいシーンなのかなと思われます。 当事者の立場ではなく、止める側の立場でのエピソードということですね。
それにしても「エライ人が "いい" って言ってたよ」というだけで簡単に死ねてしまうということには不自然さを感じます。 周囲の人間が止めないにしても、いざ死を目前にした際の恐怖感や躊躇してしまう様子など、 そういったものがあってもよさそうなものですが、本作のこのシーンを見る限りでは、そうした描写はまったくありません。 やはり、自殺するのは誰か他人、という扱いなのであって、 死のうとする側の人間の気持ちというものがキレイさっぱりスルーされているようです。
このシーンの後、自殺法導入を決めたその地区の市長を主人公たちが問い詰めるのですが、 実は曲世が市長を操っていたことが判明します。 つまり、やっぱり曲世が人を操って自殺するように仕向けているのがイカンのだ、おのれ曲世め〜、ということなのであって、 「死にたい」と思う気持ちが云々ということではそもそもなさそうです。
「死にたい」当事者が登場人物として描かれる数少ない例その2:斎開化
これは大きめのネタバレなので一応気をつけて欲しいのですが、
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斎開化(いつき かいか)が実は自殺を考えていた、という設定になってます。
彼は日本の一部の地域に世界で最初に自殺法を導入しようとする政治家です。
序盤からずっと、自殺法の導入に向けて活動していたキャラであり、
その本人が実は自殺を考えていた……という、当たり前といえば当たり前の設定ではあります。
ネタバレを気にするほどでもないか。
で、その理由についての議論や演説のシーンがあるのですが、これ自体は前述の通り、いわゆる安楽死の延長のような話で、 斎本人が自殺を決意するに至った内面については、結局よくわからないままです。 最初は「子供に臓器移植をするため」と言って周囲の同情を集めますが、その後「それは関係ない」と言い出します。 つまり、本人が死を希望するならそれを認めましょうというのが「自殺法」、というわけで、 敢えて内面は語らず、死ぬと言ったら死ぬんだ、というのが骨子なのかな、と思います。
だから、ここでも死ぬのは他人、なのですね。 死を選ぼうとする人間に、生きる側が、とやかく言うな、ということであり、 描かれるのは「とやかく」言いたくなってしまう側のためらいであって、死を選ぶ側のストーリーではない。
この場面で、死を選ぼうとする本人の役を斎という主要キャラクターの1人が務めてはいるものの、 斎自身が自殺を考えている、という設定がなくても、全体の本筋はあまり変わらないような気がします。
また、斎という人物もクールなキャラクターであり、 内面をシャットアウトしたまま流暢に理屈だけ語る様はどこまでも無人格であり、誰でもない他者という印象を受けます。
なお、作中では結局最後まで斎自身が死ぬところまでは描かれない、という点には注意したいところです。 自殺法賛成派として理屈をひととおり語らせた後は、ストーリー的には役割終了ということのようです。 上記の演説も政治家同士の討論会の中で唐突に出てくるものであり、斎自身の人間としての内面が描かれることはなく、 理屈の内容はさておき、見ていて感情移入できるというような類のものではありません。 また、斎の側では曲世が暗躍しており、実は斎の言動も曲世に操られたものなんじゃないの? と思ってしまうところでもあります。
そういうわけで、これもまた、「自殺」と言いつつ、 理屈を楽しむための「ネタ」に過ぎないのだろうなと思うところです。 ただし、死にたい気持ちを人に相談しても一方的に否定されるばかりで日頃から不満を募らせている……という人にとっては、 一連の自殺法の理屈には「スカっとする」部分があったりはするかもしれません。
「死にたい」当事者が登場人物として描かれる数少ない例その3:身投げ人生相談
もう一つの例外は最終回。 自殺法の是非を話し合う首脳会談の最中、ビルの屋上から身投げしようとする女性が出てきて、 自殺を止めるためにアメリカ大統領が説得をする、というシーン。 なんだか無駄にスケールの大きい人生相談ですね。 で、世界中の視聴者が見守る中、無事に説得が成功して拍手喝采、という「心温まるシーン」です。
説得の内容をかいつまんで言うと、 「自殺が悪いことなのかどうかは自分にも分からないから結論が出るまで待ってくれ」と言って自殺を中止させるというものです。 こんな簡単に死にたい気持ちがなくなるんなら今頃世界中から自殺者はいなくなってるはずですね。 死にたい人の気持ちではなく、自殺を止めようとする人の視点で、ご都合主義的に描いていると私は感じます。 ただ、頭ごなしに自殺を否定しないという点では好感は持てます。
ちなみに、このシーンの直後、自殺をやめさせる理屈を思いついた大統領は曲世に襲われて死ぬことになってしまいます。 つまり、ご都合主義な答えに満足している大統領に曲世が罰を下した、というふうにも見えなくはありません。 とは言え、単なる理不尽な猟奇的暴力のようで、見ていて気持ちのいいものだとは私には感じられませんでした。 かと言って大統領の説得で感動できたわけでもなく、どちらの立場にも共感はできませんでした。
■ 正義の主人公 vs 悪の曲世愛 という構図
「自殺」ということを派手に掲げているわりに、正面から自殺を取り扱った内容とは言い難く、 その点で私としてはあまりいい印象を持たなかった、という話をこれまでにして参りました。
それとは別に、興味深いと感じた面もあります。
一つは主人公・正崎と悪役・曲世の対立構造です。 要は「いいもん vs わるもん」という基本的なことではあるのですが、 本作の場合、むしろいわば「綺麗事担当 vs ひねくれ担当」という役割分担が見えます。
主人公の正崎は東京地検特捜部の検事というエリートであり、妻子持ちで、部下にも信頼され、上司からの信任も厚い。 品行方正で世間的には実に非の打ち所がありません。 さらに自分の仕事は人を守る正義だ、などと抜かすのですからたまりません。 こういう「鼻持ちならない」やつを見ると、ちょっと揚げ足をとってからかってやりたい、 などと思ってしまうのは私だけではないでしょう。
そんな、私たちの誰しも少なからず持っている「ひねくれた」気持ちを代表するのが曲世愛。 そういう見方ができるようにも思います。
第2話の取調べのシーンはまさにそういう場面ですね。 曲世は正崎に「戦争は悪いこと?」「子供を殺すことは悪いこと?」などと基本的な質問を矢継ぎ早に浴びせ、 最初は自信たっぷりに答えていた正崎も徐々に答えにつまるようになり、最後は「何なんだキミは!!」と怒鳴り出してしまいます。
だから全編をとおして正崎および主人公側の人物の言動は、ひたすら中身のない表面的なお題目ばかりであり、 対する曲世の「ツッコミ」も、そのレベルに合わせるかのように表面的なものに終始しています。
たとえば「戦争は悪いこと?」と言いつつ、 実際に戦争が描かれて、そこに生きる人々の喜怒哀楽が描かれる……などということはない。 「自殺」についても同様で、作中で本当に「死にたい気持ち」が描かれることはないというのはすでにお話した通り。 どこまでも観念的なお題目のやりとりが繰り返されるばかりです。
そこが私には「ネタ」くささとして感じられてしまうと申しますか、 何か深い意味のある話であるかのような思わせぶりな様子を見せるばかりで 一向に「中身」へと踏み込んでいかない展開に興醒めしてしまったところではあるのですが、 上記の対立構造を踏まえて考えれば、むしろ中身がないのは当然で、 中身のない観念的な綺麗事を並べる検事や政治家などの「良識人」を、 これまた単に極端に猟奇的なだけで中身のない言動で曲世が揺さぶりをかけ嘲笑っていく…… その様子こそが本作品の見どころ、なのかもしれません。 「あなたたちが自分が正しいと思って頼りにしている常識なんて、所詮この程度のものなのよ」 と曲世の嘲笑が聞こえてくるかのようです。 (こういうセリフがあるわけではないのですが)
曲世愛というキャラクターの設定には曖昧なままの点が多く、実際に画面に登場する頻度もあまり多くはありません。 たまに出てきては主人公に不気味なセリフを残して消えていく、という登場の仕方ばかりです。 超能力で変身することができるため、出てくるたびにビジュアルが違っていて素顔もわかりません。 それにもかかわらず、非常に存在感があるのは、 そもそも等身大のキャラクターではなく、品行方正な善人を見ると思わずいけ好かないと感じてしまう、 視聴者としての心の一面の投影像だからかもしれません。 感情移入というのとは違う、ある種の痛快感を惹起されるキャラクターではあります。
■ 「考えて」というメッセージ
思わせぶりなお題目や観念的な議論が中身を伴わない空回りを続ける一方、 「考えて」というメッセージが繰り返されます。
主人公の正崎は「正義とは何だ?」などと観念的な言葉遊びを繰り返すキャラですが、 そんな中で「正義とは何かを永遠に問い続けること、正義とはきっとそういうものなんだ」と語る場面があります。
物語の後編に出てくるアメリカ大統領は、考え続けることで人生の難局をクリアしてきたという設定の人物で、 自殺法の是非を巡っては各国の首脳をリードして考えることを促します。
そして曲世に至っては、人間を生きたまま斧で切り刻んで 「悪って何かしら?! ほらっ! 考えて! 考えて!」などと主人公に迫るキャラです。
最終回、自殺を止める人生相談のシーンでは、 自殺が悪いかどうかは分からないから答えが出るまで待ってくれ、と 「考え続ける」ことを確約することで説得に成功するのでした。
しかしその直後、説得にあたった大統領は「答え」を思いついてしまいます。 その「答え」を教えようとした瞬間、曲世に襲われて殺されてしまいます。
どんなに正しそうな答えに辿り着いたのであれ、考えるのをやめた人間には生きる価値がない…… それが異能者・曲世が世界の人々に下す審判であるかのようです。
……というのは、全編を見終えた後に思い出してみれば、そういう見方もできるような気がする、という話。 観ている最中には観念的な議論や曲世の起こす猟奇的な事件の印象ばかりが強く、 衆目を集めるためのエンタメ的なネタとしてやっているだけなのだろうな、と醒めた気持ちで眺めていました。 さらに言えば、いかにも「考えさせられました」「哲学的!」「深い」などと視聴者に言わせようとしているかのようで 少々わざとらしい、という印象を私は受けてしまいました。
特に上述の曲世が斧で人間を切り刻むシーンなどは、単に猟奇ネタに走ってるだけなんじゃないかというのが率直な印象です。 ストーリー上、そういうシーンが必要だったのかどうか、私には疑問に思えます。 セリフの上で「考えて!」などと言っておけば「考えさせられました」と言ってもらえると思って作ったのだとすれば、 それは少々安易な作り方だなと思わざるを得ません。
■ おわりに:「自殺」ということに対する世間的なイメージ
娯楽作品である本作に娯楽以外の何かを求めるのはそもそもお門違いというものではあるでしょう。
とは言うものの、ただ衆目を集めるために「自殺」というデリケートなテーマを掲げて 面白半分に弄んでいるようにも見え、あまりいい印象を持てないというのが私の正直な気持ちではあります。
もちろん製作の真意がどこにあるのか、私には知る由もないことです。見る人次第で印象も異なるでしょう。 しかし「自殺について常識にとらわれずに向き合って欲しい・考えて欲しい」という切実な願い、 といったものが本作品から伝わってくるようには私には感じられませんでした。
「考えさせる」かのような要素もあくまでも「哲学風の娯楽ネタ」に過ぎないのだろうし、 その内容自体についてとやかく言うのも格闘マンガの格闘シーンを真に受けるような野暮なことのように思われます。
本作は世間では娯楽作品として一定の評価を得ているようではあり、 それに関して何か物申すことのできる立場に私はおりませんが、 「自殺」ということに対する世間でのイメージが間接的にある程度うかがい知れるような気はいたします。
作中でも触れられているとおり、日本だけでも毎年何万人もの自殺者がいる…… というのはニュース等でもたびたび話題となることです。 それでも大多数の人々にとっては「自殺」は他人事であり、 何かおどろおどろしい気配を帯びた、日常に刺激を提供してくれる猟奇的なネタの一種、 というぐらいの感覚を持っていたとしても、仕方がないと言えば仕方がないことかもしれませんね。 商業作品である本作が、そうした「多数側」の人たちを対象とすることとなるのは自然なことではあろうかと思います。
確かに、自分の意志で死を選ぶということについて真剣に考えたことがある、 という人が本当に多数派になってしまうようでは世も末でありましょう。 こんな「娯楽作品」が世間に受け入れられるぐらいで、世相としてはちょうどいいのかもしれません。
などと言えば、嫌なら見なきゃいいだろ、という声がどこかからか聞こえてきそうではあります。 その通り。 「自殺」ということを娯楽のネタとして消費したいという人はさておき、 そうではなく、正面から向き合いたい、と考えている人には、本作はオススメできないと私は考えます。